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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第14章「セレネ王女との謁見」

王太子の禁を破ったのは、王女の方だった。


──だから俺はある夜、王宮の北の塔に呼ばれた。


神官長アーシェが俺の前に立ち、白い指で唇に「秘」の指印を作った。


そして俺は、500年の契約の最後の鎖と、初めて顔を合わせた。


顔を合わせて、俺は10年のマグロ船での生活で得た知識のすべてが、いまこの場所で、ひとつの像を結ぼうとしているのを感じた。


北の塔の螺旋階段は、登るほどに空気が冷たくなった。


螺旋階段は石造りで、踏み面には何百年も人が登った跡が浅くくぼんでいた。手すりには錆びた鉄の鋲が等間隔に打ち付けられ、その鋲の周りだけ妙に金属が新しい。最近交換されたのだろう。


一段ごとに気温が下がる。これは構造上ありうる現象ではない。建物の中で気温が下に行くほど高く、上に行くほど低くなるのは、何らかの魔法的な処置が施されているということだった。


──冷却室。


王宮の北の塔は、王女の体を冷やすために設計された塔だった。


アーシェが説明した。神官長の声は、登るほど薄くなる空気の中で、わずかに息切れしていた。


「セレネ様は、ご自身の体温が高すぎるのです。けれど熱があるわけではない。むしろ、体内の魔力が常に『何か』を維持するために燃えていて、その熱で内臓が傷んでいくのです」


燃えている、という表現が、俺の頭の中で何かと結びついた。


第八海鵬丸の冷凍機で、コンデンサーが詰まると、装置全体が異常に熱を持つ。本来逃すべき熱が逃せなくて、内部の部品が焼け付く。同じ仕組みのことを、たぶんアーシェは言っている。


「燃料は」


「王国の地脈です」


アーシェは言いにくそうに続けた。


「セレネ様は、王国全土を覆う結界の『陽極』なのです。王国に向かって流れ込む(まが)──呪い、瘴気、外敵の魔法──そういうものを、王女様の体が、すべて先に受け止めて、ご自身の中で腐らせてから、外に流す。それが、500年続いた契約の形です」


俺は塔の壁にもたれて、深く息を吐いた。


──犠牲陽極。


アノード。電気腐食を防ぐために、自分から先に腐る金属。第八海鵬丸でも、ライン・カラのヘラ・ロッタ号でも、誰にも気づかれずに静かに役目を果たしていた、あの灰色の小さな塊。


ライン・カラの船底で、いまも静かに腐っていく、あの小さな金属の塊。


自分から先に腐ることで、肝心な部分を守る、健気な金属。


それと同じ仕組みが、王国の中心で、ひとりの女性によって担われていた。


違いは、たった一つ。


金属には意識がない。


けれど王女には、意識がある。


そして20年間、ずっと、一人で、この役目に耐えてきた。


階段を登り終えると、扉があった。


アーシェが鍵で開けた。


中は淡い水色の魔導灯に照らされた円形の部屋だった。中央に小さな寝台があり、そこに白い夜着の女性が座っていた。


セレネ・ヴェル・アルデロワ第二王女、20歳。


部屋には微かに薬草の香りが漂っていた。鎮静作用のあるハーブを焚き染めた香だった。


想像していたより、ずっと若く見えた。


王女、と聞いて思い浮かべる威厳ある若い女性ではなく、まだどこか少女の輪郭を残した若い女性だった。


金色に近い淡い茶色の髪、淡い灰色の瞳、肌は透けるように白く、唇には血の色がほとんどなかった。


──病人の白さ、と俺は思った。


けれど、目だけは違った。


病人の目ではなかった。


海を見ている人間の目だった。船の甲板から水平線をじっと見つめる男たちの目だった。


10年漁師をやってきた俺には、その目がよく分かった。海の遠くを見ている人間は、まばたきが少ない。瞳孔が小さく、視線がまっすぐで、雑念がない。


セレネ王女は、王宮の中でも、海の遠くを見ているような目をしていた。


「リョウ・キジマ殿」


王女は静かに言った。


「お会いできて、嬉しい」


「光栄です、王女様」


俺は深く頭を下げた。深く下げる動作は、第八海鵬丸で鬼塚に怒鳴られたとき以来、久しぶりだった。けれどこの頭の下げ方は、あれとは別のものだった。


王女は小さく笑った。乾いた、けれど優しい笑いだった。


笑いの後、王女はわずかに咳き込んだ。手のひらで口を覆ったが、白いハンカチに薄い赤がにじんだ。すぐに侍女が静かに別のハンカチに取り替えた。


「頭を上げて。あなたに頭を下げられても、私は何も差し上げられません」


「いえ、そういうことでは」


「いいえ、そういうことなのです。私は、誰かに頭を下げられるたびに、その誰かを、王国の代わりに腐らせる存在に近づけてしまう。だから私は、誰にも頭を下げられたくないのです」


王女の声には、自分を哀れむ響きはなかった。


ただ、事実を言葉にしているだけの響きだった。


俺は親指の付け根を擦った。


強く擦った。指の関節の白さが目立つほど擦った。


そして、いまここで言うべきことを、ゆっくりと考えた。


通信石越しの会話で、断片的に手繰り寄せていた仮説が、いまここで一気に像を結ぼうとしていた。


王国の地脈。


王女の体内魔力。


「王国全土の陽極」。


「先に腐る存在」。


──これは、亜鉛と海水の関係そのものだ。


王女の体は、王国全体に向かう「禍」の電流を、自分の体に集めて先に消費する装置になっている。


そして装置は、消耗する。


痩せていく。腐っていく。


ライン・カラのヘラ・ロッタ号の船底の、あの小さな灰色の金属塊と、まったく同じ構造で。


「王女様」


俺は短く言った。


「ひとつだけ、お聞きしてよろしいですか」


「どうぞ」


「あなたは、いつから、このお役目を負っておられますか」


セレネは目を閉じた。


王女の睫毛は長く、その睫毛が頬に薄い影を落とした。


「3歳、です」


──3歳。


俺は息を呑んだ。


「3歳のとき、王女として宣命を受けて、それと同時に契約陣の中央に身を置きました。500年間、アルデロワ王家の女子のうち、契約に最も適した魔力相性の者が、契約者として選ばれます。私は、その代でした」


セレネは寝台の縁を白い指で撫でた。


「契約陣はこの塔の地下にあります。私はそこで儀式を受けて、王国全土に張られた結界の『陽極』として、地脈に接続されました。それからこれまで、私の体は、王国に向かう瘴気を、毎日少しずつ吸って、自分の中で中和してきました」


「それを断る権利は」


「ありません。断れば、王国全土が、3日のうちに、瘴気で覆われます」


俺は何も言わなかった。


何も言えなかった。


喉の奥に、何か重いものが詰まっていた。


俺がライン・カラの船底にあの亜鉛塊を取り付けるとき、亜鉛にその役目を「断る権利」があると思ったことは、一度もなかった。


──それと、同じことが、ここで起きていた。


ただ、相手が金属ではなく、人間だっただけ。


「リョウ殿」


セレネはやがて、目を開いて、優しく微笑んだ。


「私はこの500年、たぶん、あなたという人を、待っていたような気がします」


王女の声には、20歳の女性のものとは思えない、もっと深い時間の重みがあった。


「俺ですか」


「あなたが、亜鉛塊を、ただの金属塊ではない、健気な存在だと言ったから」


俺は黙った。


「亜鉛塊が、健気である、と言ってくれた人は、500年で、あなたが最初です」


王女の目に、わずかに涙が溜まった。


「私はずっと、自分のことが、よく分かりませんでした。生きているのか、生きていないのか。役目を果たしているのか、ただ消費されているのか。けれどあなたが、亜鉛のことを、健気と呼んでくれた瞬間、私は──私もまた、健気と呼ばれてもいい存在なのかもしれない、と思えたのです」


涙はこぼれなかった。


セレネは目を閉じて、それを抑えた。


──王女として育てられた20年が、涙のこぼれ方さえも訓練していた。


けれど抑えきれなかった一筋が、瞼の縁から、頬の上へとそっと伝った。それは王女の涙ではなく、ただの、20歳の女性の涙だった。


俺は、しばらく言葉を探した。


言葉を探しながら、何度も親指の付け根を擦った。


そして、ようやく、ひとつだけ、見つけた言葉を言った。


漁師流の言葉だった。技術の言葉だった。けれど技術の言葉だからこそ、いまの王女に届くと、俺は信じた。


「王女様」


「はい」


「漁師の世界では、消耗した亜鉛塊は、感謝とともに新しい塊と取り替えます」


「……はい」


「それは、健気な金属が、もう十分にやってくれたからです。これ以上腐らせるのは、流儀じゃない」


セレネの目が、ゆっくりと見開かれた。


「あなたを、新しい塊と取り替える方法を、俺が探してもいいですか」


沈黙が落ちた。


王女の唇が震えた。


「リョウ殿、それは……」


「それが、できるのか、できないのか、まだ分かりません。けれど、漁師として、亜鉛塊を見て『取り替えなくていい』と言うのは、流儀じゃない」


セレネは、長く目を閉じた。


王女の白い指が震えていた。20年、誰にも漏らさなかった希望が、自分の指を震えさせている。それを俺は黙って見ていた。


やがて、目を開いて、俺をまっすぐに見た。


「探してください」


と、王女は言った。


「探してくださって、結構です。けれど、取り替えるのが、私自身の代わりに、あなた、ではないと、約束してくださいませ」


王女の声は、初めて、明確な命令の調子を帯びた。


「俺は」


「あなたが私の代わりに腐ることを、私は、絶対に、許しません」


王女の声には、初めて、はっきりとした感情の起伏があった。


怒り、ではない。


庇護(ひご)に近い、何か。


まるで自分より小さなものを守ろうとする、母親の声に近い響きだった。


俺は答えなかった。


答えなかった、というより、答えられなかった。


親指の付け根を擦り続けた。


王女の白い指が、寝台の縁を、軽く握った。


王女と俺のあいだで、何かが取り決められたのか、取り決められなかったのか、分からないまま、その夜は過ぎた。


けれどひとつ確かなことがあった。


──俺はもう、王女を、ただの「王国の犠牲」と呼ぶことはできなくなった。


王女は人間だった。


20歳の、海の遠くを見る目を持った、ひとりの女性だった。


そして俺は、漁師の流儀で、その女性のために、新しい亜鉛塊の形を考え始めることになる。


その形は、たぶん、人間の形ではない。


人間ではない、もっと地味で、もっと冷たい、もっと長持ちする、何かの形であるはずだった。


アーシェに付き添われて塔を降りるとき、神官長は静かに言った。


「リョウ殿、あなたは、王女様の心を、500年で初めて、揺らした方です」


「悪い意味でないことを、祈ります」


「悪い意味であろうとなかろうと、揺れは、揺れです。長く動かなかったものが動くとき、必ず何かが壊れます」


「壊れた後に、新しい形を作るのが、漁師の仕事です」


アーシェは、ようやく、わずかに笑った。


「漁師というのは、面白い職業ですね」


アーシェの足音が螺旋階段に消えていった。


神官長の声には微かな解放感があった。彼女もまた500年続いた契約の重みを、ひとりで背負ってきた人間のひとりだった。


「地味な職業ですよ」と俺は答えた。


「地味でいいんです。地味なやつが、地味な手で、世界を支える」


その夜、王宮の地下では、リョウの作った冷凍機が、いつも通り静かに稼働していた。


そしてその同じ夜、海を隔てた帝国の軍港では、鬼塚毅、ザール・オニズカ提督が、新型の艦船建造を決裁していた。


二つの世界の歯車が、いま、確実に動き始めていた。


鬼塚は新型艦の図面に荒く赤鉛筆を走らせていた。男は艦の用途を「焼き払うため」と書き加えた。「沿岸部に火を放ち、敵の補給線を断つ」と。


鬼塚は焼くことしか考えていなかった。


鬼塚に「先に腐る金属」のことを話す人間は、この世界にも、現代にも、ひとりもいなかった。


男はそういう人間に出会わない人生を、自分から選び続けてきた。


だから男は、何度生まれ変わっても、同じことを繰り返す。

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