第15章「敵国の新提督」
ヴァルナハト帝国、北海岸の主要軍港ロイクスフェルン。
鋼鉄と煙の街。
港には黒い船腹の重戦艦が碁石のように整列し、その隙間を補給艇と曳航艇が忙しく行き交っていた。岸壁には魔導砲を積んだ移動車両が並び、煙突からは絶えず黒い煙が立ち上っている。空気は鉄錆と石炭の匂いで満たされ、海鳥さえこの港の上空をあまり飛ばない。
海面に浮かぶ重戦艦の数だけで、アルデロワ王国の海軍力を3倍上回るとされる、大陸最強の海軍国家。
そしてその司令部の最上階で、ひとりの男が、また部下を怒鳴りつけていた。
部屋の外まで響く怒鳴り声は、近くを通る兵士たちの足を一瞬止めさせた。けれどすぐに皆、何ごともなかったように歩き始めた。半年前なら全員が振り返っていた声に、いまは誰も振り返らない。それが慣れというものの怖さだった。
「あぁ? てめえ何回同じこと言わせんだよ!」
ザール・オニズカ提督。
表向きは、半年前に北の沿岸に流れ着いた身元不明の流浪戦士、ということになっていた。けれど男が「異邦人」という以上の経歴を語ったことは、一度もなかった。
半年前、東方海域から流れてきた異邦人。
銃という未知の武器と、上位者を屈服させる威圧と、第八海鵬丸で10年磨き抜いた「他人の手柄を自分のものにする話術」。これらを組み合わせて、男はわずか半年で帝国海軍の北方艦隊を実質的に支配下に置いた。
けれど男は、何ひとつ実務を理解していなかった。
男ができるのは、誰かに動いてもらうことと、その手柄を盗むことだけだった。
けれど男は、その「盗む技術」だけは、誰にも負けなかった。10年マグロ船で身につけた、唯一の本物の技術だった。
だから艦の戦術指導は副官に任せ、補給の計算は経理担当に任せ、出撃判断は天候係に任せた。男は最後に決裁印を押すだけで、海戦が起きれば「俺が指揮した」と言い、敗戦が起きれば「部下が間違えた」と言う。
司令部の最上階の執務室は、海に面した大きな窓があった。窓の外には、軍港全体が一望できた。重戦艦15隻、軽戦艦20隻、補給船と砲艦を合わせて50隻以上。鋼鉄の艦影が、朝霧の中で並んでいた。
鬼塚はその窓を背にして、机に座っていた。煙草を歯で噛んだまま。
朝から男はすでに3人の士官を解任していた。
罪状は、それぞれ「報告の口調が悪かった」「目を逸らした」「俺の指示が分かっていない」だった。
解任された3人のうちのひとり、若い軍医が控え室を出るとき、廊下で吐いた。
男は3年かけて軍医の資格を取った。家族は北部の貧しい農家で、息子の出世だけを支えに生きてきた。今朝の解任で、その3年と、家族の希望と、男の人生設計が、まとめて折れた。提督室の窓からは、男が廊下で吐く音は、聞こえなかった。聞こえても、鬼塚は気にしなかっただろう。
若い軍医は震えていた。20代後半の真面目な男で、戦傷者の治療では帝国海軍でも有名な腕前だった。けれど鬼塚にとっては「目を逸らした男」でしかなかった。
軍医を見送った先輩士官は、深い溜息をついて、軍医の背中を黙って叩いた。
──理由のない解任。
──理由のない降格。
──理由のない暴力。
これが半年で、ロイクスフェルンの軍港全体を覆っていた空気だった。
けれど不思議なことに、艦隊そのものは強くなっていた。
提督個人の能力ではなく、提督の恐怖政治の下で部下たちが必死に努力した結果だ。
艦の出撃回数は倍に増え、訓練の頻度は3倍になり、水兵の死亡率も2倍になった。死亡率が高い艦隊が「強い艦隊」と呼ばれる時代があった。鬼塚の艦隊は、その意味で確かに強かった。
その朝、鬼塚の机の上に、新しい報告書が一通届いた。
標題は「アルデロワ王国南端、港町ライン・カラ及び王都ヴァリス、技術顧問リョウ・キジマ。来歴調査続報」。
報告書を読みながら、鬼塚は煙草を歯で噛んだ。
報告書には、リョウ・キジマの容姿、年齢、漁師ギルド準会員としての登録情報、王宮での職務内容、そしてライン・カラに襲撃を仕掛けた特殊工作員からの観察記録が含まれていた。
工作員の文字は几帳面で、細部の観察に長けていた。よくここまで観察したな、と他人事のように鬼塚は思った。けれど工作員の良し悪しなど、男は本気で考えてはいなかった。
「黒髪、黒目、東方系。年齢28前後。寡黙。緊張すると親指の付け根を擦る癖あり。漁の知識、特に鮮度処理および網繕い技術に優れる」
鬼塚は読み上げて、煙草を噛み砕いた。
──来島ァ。
男の頭の中で、ひとつの顔が浮かんだ。
黒髪、黒目、痩せた顔、表情の薄い男。
第八海鵬丸の下っ端。万年甲板員。何を言っても黙って言うことを聞いていた、つまらない男。
海に落ちて死んだはずの、来島カズマ。
──まさか。
鬼塚は煙草を吐き出した。煙草は床に落ちて、靴の踵で踏み躙られた。床には焦げた跡がいくつも残っていて、男のこの癖がもう半年続いていることが分かった。
──まさか、生きて、こっちにいやがるのか。
男の頬が、わずかに引き攣った。
来島が生きている、というのは、男にとって不愉快な情報だった。なぜ不愉快なのか、男は自分でも整理できていなかった。
──たぶん、自分が船から押し出した人間が、別の世界で自分の上に立とうとしているからだ。
そう自覚したわけではない。
けれど無意識のレベルで、男はそれを察していた。
部下を呼んで地図を出させた。
アルデロワ王国の地図に、ライン・カラの位置を確認した。王都ヴァリスとの距離、海路の航行時間、沿岸の防備状況。すべて、鬼塚が今まで「次の侵攻ターゲット」として温めてきたエリアと、奇妙に重なっていた。
鬼塚は地図に赤い印をつけた。
鉛筆の先が紙を強く押して、印は赤というより血の色に近かった。
──まずライン・カラを焼く。
漁港を焼けば、王国南端の食料供給が止まる。
そうすれば王都ヴァリスは、北の小麦地帯に依存するしかなくなる。
そしてヴァルナハト帝国は、その北の小麦地帯への海上輸送路をすでに支配下に置きつつある。
食料を支配する者が、戦争を支配する。
これは鬼塚が10年マグロ船で身につけた、唯一の戦略らしい戦略だった。
鬼塚は戦略家ではなかった。けれど水産業界で生き残る男特有の「相手の生存基盤を直接潰す」という発想は、戦争にもそのまま転用できた。皮肉な話だった。
鬼塚は副官を呼んだ。
副官は背の高い、黒い外套の男だった。
──アルデロワ王都の闇市に出没した、あの黒外套だ。
「ハインツ。ライン・カラを焼く準備をしろ」
「は」
「規模は中隊。火炎魔法弾を満載にして。沿岸部から艦砲射撃で住民を追い払って、上陸後に港の倉庫と漁船を全部燃やせ」
「住民は」
「殺さなくていい。逃げるやつは逃がせ。逃げた住民が王都に流れ込めば、王都の備蓄が早く尽きる」
「畏まりました」
ハインツは深く頭を下げて部屋を出た。
男の頭は完璧な角度で下げられていた。半年前、男はこの角度では頭を下げなかった。当時のハインツはもっと自分の意見を言う種類の士官だった。けれど鬼塚提督の下で、男はその「意見を言う」という習慣を、徐々に手放していった。
男は鬼塚の指示に、完璧に従った。
けれど男の頬には、わずかに震えがあった。男は元はもっと穏やかな性格の士官だった。半年で、自分が変わってしまったことに、男は気づいていた。
──変わらされたのか、自分から変わったのか。
廊下を歩きながら男は考えたが、答えは出なかった。
ハインツが自分の靴音を聞きながら、不意に思い出したのは、半年前、初めて鬼塚提督の指示で部下を殴ったときの、自分の手の感触だった。最初は震えていた手が、3回目には震えなくなっていた。震えなくなったのは、慣れたからではなく、何かを自分の中で諦めたからだった。
同じ夜、王宮の北の塔の青い水晶が、わずかに脈動した。
セレネ王女が眠っているあいだに、塔の中央の魔導測量盤の針が、急に北の方向を向いた。
神官長アーシェがそれを見て、息を呑んだ。
魔導測量盤は王宮の北の塔の中央にある、直径2メートルほどの円盤状の魔法装置だった。針は王国全土の地脈の流れを示し、結界の状態を24時間監視する。針が大きく傾くのは、結界に異常な負荷がかかっているという意味だった。
──結界の異常検知。
ヴァルナハト帝国の北方艦隊が、ライン・カラを目指して動き始めた、という意味だった。
アーシェはすぐに王太子マルコスに連絡を取った。
マルコスはそれを受けて、王宮の閣議を緊急召集した。
閣議には、海軍大将、財務卿、外務卿、陸軍大将、宮廷神官長、そして王太子マルコスの5人が出席した。
けれどマルコスは、その閣議に、リョウ・キジマを呼ばなかった。
──兄として、妹の頼みを断れない場面が、もうすぐ来る。
──だから今のうちに、リョウを王宮の議論から遠ざけておきたい。
王太子の判断は、政治的には正しかった。
けれど、漁師としては、間違っていた。
翌朝、リョウは王宮の食料官の助手として、地下の冷凍機の前で塩水の濃度調整をしていた。
ペルマが羽ペンを片手に、いつものように記録を取っていた。
塩水の冷たさが指を麻痺させ始めていた。10年マグロ船の冷凍庫で鍛えた指は、こういう温度には強い。けれど王宮の地下の塩水の冷たさは、ライン・カラの海の冷たさとは別の種類の冷たさだった。
そのとき、青い水晶がリョウの胸ポケットでわずかに振動した。
リョウは石を取り出して、耳に当てた。
セレネ王女の声ではなかった。
神官長アーシェの声だった。
「リョウ殿、聞こえますか」
「聞こえます」
「ヴァルナハト帝国の北方艦隊が、ライン・カラに向かって動き出しました」
「いつ」
「昨夜未明。到着まで、おそらく10日以内。閣議では迎撃艦隊の編成が議論されていますが、まだ結論は出ていません」
リョウは塩水のかき混ぜ棒を置いた。
木の棒は、塩水の中で半分溶けかけていた。長く使えばこういう棒もまた腐るのだ、ということを、リョウは別の場面で別の形で思い出していた。
「アーシェ様、ひとつだけ」
「はい」
「敵の艦隊を率いている提督の名前は」
アーシェは少し沈黙してから、答えた。
「ザール・オニズカ。半年前に頭角を現した、新任の若手提督です」
リョウは深く息を吐いた。
息は地下室の冷たい空気の中で白く濁った。
──やはり、そうか。
親指の付け根を、強く擦った。
「アーシェ様、王太子殿下に、ひとつだけ伝えてください」
「はい」
「ライン・カラの迎撃は、王国海軍ではなく、ライン・カラの漁師たちにやらせるべきです」
「漁師たちに」
「漁師は、地元の海を一番よく知っています。王国海軍の重戦艦より、地元の浅瀬と岩礁を熟知した小舟が、いちばん強い」
「閣議で、その案を提示します」
「お願いします」
リョウの声には、いつもの寡黙な平坦さに、わずかな鋭さが混ざっていた。
リョウは石を仕舞った。
ペルマがリョウの顔を見て、何かを言いかけたが、結局口を閉じた。文官の本能で「いま話しかけるべきではない」と察したらしかった。
そして、地下の冷凍機の前で、塩水を見つめながら、低く呟いた。
──鬼塚毅。
──やっと、海の上で、再会するのか。
鬼塚に殴られて10年。
鬼塚に怒鳴られて10年。
そして、鬼塚に船の外に押し出されて、海に落ちて、ここに来た。
一度死んだ人間が、もう一度同じ男と会うのは、たぶん偶然じゃない。
──健気な金属が、健気でなくなった金属と、再会する場所は、海の上だった。
海は、あらゆるものを腐らせる場所だ。
けれど海はまた、健気に腐ることを「役目」に変えてくれる場所でもある。
鬼塚毅は、海から何も学ばなかった。
来島カズマは、海から、すべてを学んだ。
その差が、いま、ふたりの再会の場所で、決着をつけられようとしていた。
王宮の閣議では、リョウの提案が、激論の末に、採用された。
漁師たちの艦隊。
ライン・カラの漁師15隻、+王都の中型補給船3隻、+王国海軍の沿岸警備艇10隻。
提督として指名されたのは、リョウ・キジマ。
──漁師ギルド準会員、漂流者カテゴリ、リョウ・キジマ。
異例の人事だった。
王宮始まって以来、漂流者カテゴリの人間が艦隊の指揮を取る事例は、ひとつもなかった。
けれど誰もが、それしか方法がないことを、薄々分かっていた。
マルコス王太子は、最後にひとつだけ呟いた。
「妹の頼みを聞いてやる、いい機会かもしれぬ」
王太子の目には、初めて、兄としての光が宿っていた。
王国海軍の重戦艦は古くて遅い。沿岸警備艇は速いが小さい。両者の中間を埋めて、地元の海を熟知する船団は、漁師たちしかいなかった。
そしてその漁師たちの船団を指揮できるのは、漁師としての実力を持ち、かつ王国の戦略を理解している男──リョウ・キジマしかいなかった。
王宮内では、リョウを「漁師上がりの余所者」と侮る声もあった。けれど閣議のあいだ、その声は不思議と小さくなっていった。
戦争は、爵位ではなく、現場の腕で勝つ。
古い王国の中で、その当たり前のことが、半世紀ぶりに思い出された朝だった。




