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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第16章「マルコス王太子の壁」

提督に任命された翌日の朝、俺は王宮の正殿に呼ばれた。


正殿は王宮の中央にある巨大な石造の広間だった。天井は高く、ステンドグラスから落ちる色付きの光が、磨き上げられた大理石の床を(まだら)に染めていた。誰もいない正殿は、声がよく響くせいで、かえって沈黙が重くのしかかった。


マルコス王太子は、玉座の手前の長椅子に、ひとりで座っていた。


護衛の騎士は遠くに下がっていて、神官長アーシェも文官ペルマも入室を許されていなかった。


ふたりきりだった。


そして王太子は、俺に向かって、低くこう言った。


「リョウ・キジマ。提督任命を、私は本心から承認していない」


男の口調は、感情的ではなかった。


怒鳴り声の鬼塚提督とは、まったく対極の声だった。低く、抑制が効いていて、感情が言葉のどこにも漏れていない。けれどその抑制そのものが、男の中に巨大な感情があることを物語っていた。


むしろ、事務的だった。


けれど事務的な口調で本音を言われるほど、相手の本気が伝わるものはない。


「お聞かせください」と俺は答えた。


「私は妹を、500年で初めて、揺らした男だ。揺れたものは、必ず壊れる。私は王家の長男として、妹を、いま壊すことはできない。だから、貴殿を妹に近づけたくない」


俺は黙った。


「閣議で『漁師艦隊』を採用したのは、戦略的に他の選択肢がなかったからだ。貴殿が提督として有能であろうと、無能であろうと、それは私の判断材料ではない。──私が問題にしているのは、貴殿が、妹のために『新しい亜鉛塊を探す』と申し出たことだ」


マルコスの声が、ここで初めて、わずかに低くなった。


「貴殿は、その『新しい亜鉛塊』が、自分自身であってはならないと、妹に誓ったか」


王太子の声は、初めて、わずかに掠れた。


「誓っていません」


俺は正直に答えた。


「探す、と約束はしました。けれど『俺ではない誰か』を探すとは、約束していません」


マルコスは目を閉じた。


王太子の長い指が、椅子の肘掛けを、ゆっくりと撫でた。


「……やはり、そうか」


男は呟いた。


「リョウ・キジマ。貴殿は、まっすぐな男だ。だが、そのまっすぐさは、王家にとって、ときに毒だ」


マルコスは「毒」という言葉を選びながら、ほんの一瞬、自嘲の影を顔に浮かべた。


王家にとって毒だ、と言いつつ、たぶん男はその毒を、自分の中で、ある種の薬のように受け止めようとしていた。妹を救う方法があるかもしれないという話は、500年で初めて出てきた話だったから。


俺はマルコスを見た。


王太子の顔色は、王宮で一番権力を持つ男にしては、悪かった。目の下には濃い隈があり、頬は痩せ、髪にも年齢の割に白いものが交じっていた。


王太子の目には、敵意ではなかった。


むしろ、深い疲労があった。


兄として、妹を500年の契約から救いたい気持ち。けれど王太子として、王家の継承を維持しなければならない責任。両者は両立しない。両立しないものを20年抱え続けてきた男の目だった。


35歳の男が、20年近く、これを抱えてきた。10代の終わりから、ずっと。


セレネが3歳のとき、マルコスはまだ15歳だった。3歳の妹が契約陣に置かれる場面を、男は目撃しているはずだった。


「殿下」


と俺は言った。


「お言葉ですが、ひとつだけ申し上げます」


「申せ」


「妹君を、20年、犠牲陽極として置き続けたのは、王家です」


マルコスの肩が、わずかに動いた。


「王家は、妹君を取り替える方法を、500年探さなかった。なぜなら、500年探さない方が、王家にとって、楽だったからです」


俺は声を抑えていたが、言葉そのものは抑えなかった。


マルコスの拳が、肘掛けの上で、わずかに固められた。


「言葉を選べ、リョウ・キジマ」


「言葉は選んでいます。事実を申し上げています」


マルコスは深く息を吐いた。


それから、低く笑った。


「漁師というのは、爵位の前で言葉を選ばないものらしいな」


「漁師は、海の前で言葉を選ばない人間だけが、生き残ります」


王太子は、長椅子に深く腰を落とした。


男の肩の力が、ふっと抜けたのが見えた。30秒、男はただ天井を見上げていた。


「リョウ・キジマ」


「は」


「貴殿の艦隊提督任命は、変更しない。ライン・カラの迎撃を成功させてもらう。それが王宮の決定だ」


「承知しました」


「ただし、ひとつ条件がある」


「お聞きします」


「妹を、海戦の最中に、決して『新しい亜鉛塊』に取り替えようとするな。貴殿が海戦の最中、何かを思いついても、それを実行する前に、必ず私の許可を取れ」


「殿下」


「答えろ」


俺は親指の付け根を擦った。


強く擦った。指の付け根の皮膚が薄く赤くなった。


──マルコス王太子の言うことは、政治的に正しい。


──王家として、当然の主張だ。


──けれど、漁師として、約束できない種類の約束だ。


──海の上で、上司の許可を待ったやつは、必ず死ぬ。


そして、ゆっくりと答えた。


「実行する前に、許可を取るとは、約束できません」


静かな声だった。けれど、王宮の正殿の沈黙には十分すぎる声だった。


マルコスは目を見開いた。


「……何だと」


「殿下。海の上では、許可を取る時間がない場面があります。漁師として、約束できません」


「お前は王太子の命令を拒否するのか」


「拒否ではありません。約束できないと、正直に申し上げているだけです」


沈黙が落ちた。


マルコスは、長く俺を見つめた。


やがて、王太子は、ほとんど聞き取れない声で、こう呟いた。


「……困った男だ」


そしてすぐに、声を取り戻した。


「リョウ・キジマ。私は貴殿を、提督として任命する。任務に出立せよ」


「は」


「ただし、これだけは、覚えておけ」


「は」


「貴殿が妹を取り替える方法を見つけたとしても、それを実行する権利は、王家にある。貴殿にはない。


王家は、500年、妹のいる場所を見守ってきた家だ。貴殿は道具を作る側だ。道具を使う判断は、王家が下す。これは、王国の根本秩序だ」


マルコスの声は、最後はほとんど祈りに近かった。


俺はうなずいた。


「承知しました」


けれど俺は、心の中で、別の判断を持っていた。


──道具と人間の境界が曖昧な場面が、海の上には必ずある。


──そして俺は、漁師として、その曖昧な場面で、自分の腕で判断する。


王太子はそれを察していたかもしれない。


けれど、もう何も言わなかった。


正殿を出るとき、俺は最後に一度、王太子を振り返った。


マルコスは長椅子に座ったまま、俺を見送っていなかった。


男は天井を見上げていた。


王宮の正殿の天井には、500年前の壁画が描かれていた。


──初代国王が、ひとりの少女に手を差し伸べる場面だった。


少女は王女ではなかった。


アルデロワ王国を救うために、自ら犠牲陽極となることを志願した、名もない巫女だった。


その壁画を、マルコスは20年、ほとんど毎日、見上げてきた。


妹がいま、絵の中の少女と同じ場所に立たされていることを、毎日確認しながら。


兄として、その絵を見続けるのが、どんな気分か。


俺には想像することしかできなかった。


正殿を出ると、外の廊下は静かだった。儀礼用の長い廊下で、両側に歴代王の肖像が並んでいた。


王宮の廊下を歩きながら、ペルマが追いついてきた。


「リョウ先生、王太子殿下とのお話は」


「うまくいかなかった」


「そうですか」


「けれど、決裂もしなかった」


「それなら、十分な成果です」


ペルマは静かにそう言って、廊下の窓の外を一瞥した。


「殿下は、王宮の中で、もっとも理屈の通る方です。けれど、もっとも本心を表に出さない方でもあります。リョウ先生のような正面突破型の方は、殿下にとっては、新鮮な相手だったでしょう」


「迷惑な相手だ、ということだろう」


「迷惑が、ときに必要な相手、という意味です」


ペルマの口調はいつもの淡々としたものだったが、目には微かな笑みがあった。


文官として若いこの男は、半年前まで、王宮の経理部の地味な書記だった。リョウの専属になってから、男は自分の人生のなかで、初めて誰かに「面白い」と思われている、という小さな自尊を持つようになっていた。


ペルマは羽ペンを羽織の中に仕舞った。


「これから、何を」


「ライン・カラに発つ。準備を頼む」


「畏まりました。出立は」


「明日の朝。最速で」


ペルマは深く頷いた。


俺は王宮の廊下を歩きながら、青い水晶を握りしめた。


石はわずかに脈動していた。


セレネが、塔の上から、ずっと俺のことを聞いていた。


俺は石に向かって、ひとこと、低く呟いた。


「行ってきます、王女様」


答えはなかった。


けれど、石の中で、王女が小さく頷いたような、温かな振動が、たしかに伝わった。


鬼塚との再会まで、あと9日。


王宮の自室に戻ると、ペルマが食事の盆を持ってきた。


「先生、今日は王宮の食堂のスープが、温かいうちにお持ちしました」


「ありがとう」


「お話、お聞きしてもよろしいですか」


ペルマは羽ペンと手帳を、わざとらしく傍らに置いた。記録を取らない、という意思表示だった。


「何だ」


「先生は、王女様のために『新しい亜鉛塊』を、本当に探されるのですか」


俺は黙って、スープを飲んだ。


スープは魚の出汁(だし)で、ライン・カラの味付けに近かった。たぶん厨房の誰かが、わざわざ俺のために、王都の宮廷風から南方風に味を変えたのだろう。


「探す」


と俺は答えた。


「探すが、王女様自身の代わりが、人間である必要は、たぶん、ない」


「と、おっしゃると」


「結界の維持装置は、人間でなくてもいい。500年前の人間が、人間の魔力を一番効率的だと思っただけだ。けれど、効率がよくても、人間がやるべき仕事じゃない仕事は、世の中にたくさんある」


「漁師ギルドで、先生がいつも言っていたことですね」


「ああ。誰でもできる仕事は、人間より機械にやらせろ。人間より機械にやらせた方がいい仕事を、人間にやらせるのは、もったいない」


ペルマは、少しだけ目を細めた。


「『誰でもできる仕事』──先生は、王女様の500年の苦痛を、そう呼ばれるのですか」


「呼ぶ」


俺は静かに答えた。


「あれは、誰でも──いや、何でもできる仕事だ。誰かがやらなきゃいけない仕事ではあるが、王女様自身がやり続けるべき仕事じゃない。20年やって、もう、十分だ」


ペルマは羽ペンを、ゆっくりと取り上げた。


「先生、これは記録に残してもよろしいですか」


「好きにしろ」


ペルマは紙の上に、丁寧な字で、俺の言葉を書き取り始めた。


紙の上を走る羽ペンの音だけが、その夜の俺の部屋に響いていた。


出発までの一夜を、俺は王宮の自室で、地図を眺めながら過ごした。


ライン・カラの沖合の岩礁、潮の流れ、季節風の方向、鬼塚艦隊が取りそうな航路。すべての要素を頭の中で組み立て直した。


漁師として20年近く海を見てきた経験が、この夜、初めて、戦術として再編成された。


ふくろうの鳴き声が一度、城壁の外から聞こえた。


朝が来るころ、俺は地図に最後の一筆を入れた。


そこには、亜鉛塊の絵が、小さく描かれていた。


──犠牲陽極を、海の上で、戦術として使う。


そういう発想は、たぶん、この大陸で初めてのものだった。


そして俺は、青い水晶を握って、王女に静かに伝えた。


「明日、ライン・カラに発ちます。鬼塚と海の上で会ってきます。10日以内に、必ず勝ちます」


石の中で、長い沈黙があった。


やがて、王女の声が、薄く返ってきた。


「リョウ殿」


「は」


「私は、戦いの場で、あなたを失いません。なぜなら、私はまだ、あなたを失う権利を、誰からも与えられていないからです」


俺は親指の付け根を擦った。


王女の言葉は、命令でもなく、祈りでもなく、ただの予言のように聞こえた。


「分かりました」


とだけ俺は答えた。


そして、地図を畳んで、寝床に横になった。


鬼塚と再会する海の上で、俺の頭は、もう半分、潮の流れの中に入っていた。

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