第17章「神官長アーシェの告白」
出立の朝、俺は王宮の北の塔の前で、神官長アーシェに呼び止められた。
神官長は普段の白い祭服ではなく、黒い旅装に身を包んでいた。
軽量な革鎧を内側に仕込み、外套の裾には旅塵を防ぐ撥水処理が施されていた。神官の旅装、という珍しい姿だった。
そして男ひとりだけ連れていない、別の馬が一頭、塔の前に繋がれていた。
アーシェは、まっすぐに俺を見た。
「リョウ殿。私もライン・カラまでご同行します」
神官長の声は朝の冷気の中で、いつもより低く響いた。
俺は驚いて、アーシェを見つめ返した。
王宮の北の塔を、神官長が離れる。
これは王宮始まって以来、ほとんど例のない事態のはずだった。
「殿下のお許しは」
「いただいておりません」
アーシェは静かに答えた。
「申し上げてもいません。出てから、文を残します」
神官長の決断は、20年王宮の塔から動かなかった人間のものとは思えないほど、明瞭だった。
「殿下に咎められます」
「咎められます。けれど、それでも、ご同行する必要があると判断しました」
「理由を、聞いてもよろしいですか」
アーシェは深く息を吸った。
「リョウ殿。私は、500年の契約について、王宮で公にされていない事実を、ひとつ、知っています」
俺は黙って、神官長の言葉を待った。
「契約陣の中央には『陽極』が必要です。それは、王女様。ご存知の通りです」
「はい」
「けれど契約陣には、もう一人、別の役を担う者が、必要なのです。陽極を支える、もう一つの極──『陰極』。500年前の儀式では、陽極が王家から、陰極が、神官の血筋から、それぞれ選ばれました」
「陰極」
「陰極は、陽極の負担を、わずかに分担する役目です。けれど陰極は、陽極ほど消耗しません。むしろ、陽極の魔力の流れを管理する『回路の制御者』のような役割です」
「アーシェ様、それは……」
俺の声が、思わず微かに震えた。
「私が、陰極です。500年で17代目の陰極です」
神官長は、少し目を伏せた。
「私の血筋は、500年前、初代の陰極を出した家系です。代々、女子が一人だけ、陰極の役を継ぎます。私が陰極になったのは、25歳のときでした。それから20年、王宮の北の塔に住み、王女様の魔力の流れを管理してきました」
神官長の声は、震えていなかった。
けれど神官長の白い指は、馬の手綱を、強く握っていた。
俺は親指の付け根を擦った。
──陰極。
第八海鵬丸でも、防食回路の話で出てきた言葉だ。アノードが陽極で、カソードが陰極。アノードは消耗するが、カソードは長持ちする。けれど、両方そろわないと、回路は完成しない。
王女セレネは陽極。
神官長アーシェは陰極。
──両者は、500年の契約陣で、対になっていた。
ふたりは、王宮の北の塔の中で、500年の鎖の終端に、共に身を置いていた。
セレネが「最後の鎖」と呼ばれるのなら、アーシェは「最後の鎖を支える、もう一本の鎖」だった。
「アーシェ様」
と俺は言った。
「あなたは、王女様の苦痛を、知っているだけではない。あなた自身も、500年の契約の一部だった、ということですか」
「左様です」
「分担の比率は」
「陽極が9割、陰極が1割。私は王女様の十分の一の苦痛しか、感じていません。けれど、十分の一でも、20年続けば、それなりの量になります」
神官長の声は、決して自分の苦痛を強調するものではなかった。むしろ「王女様に比べれば、私の苦痛は語るほどのものではない」と言いたげな響きだった。
アーシェの右手の袖が、わずかに引き上げられた。
袖の下から覗いた前腕には、薄黒い斑模様が、皮膚の下に浮き上がっていた。
まるで、何かに焼かれたあと、傷跡が黒く残ったかのような模様。けれどそれは焼跡ではなかった。皮下に金属の塩が沈着するような、ゆっくりとした腐食の痕跡だった。
──腐食。
陽極の腐食ほど激しくはない。
けれど確かに、その肌は、ゆっくりと内側から黒ずんでいた。
「アーシェ様」
「はい」
「あなたが、ご同行される理由は」
「リョウ殿が、王女様を救う方法を見つけられた場合、その方法は、必然的に陽極と陰極の両方を、新しい仕組みに置き換えることになります。陽極だけ取り替えても、陰極が古いままでは、回路が成立しません」
「つまり」
「つまり、あなたが王女様を救うとき、私自身も、新しい仕組みの中で、置き換えられる必要があります。私は、その『置き換え』に、500年の最後の陰極として、立ち会う義務があります」
神官長の声には、覚悟があった。
俺は深く息を吐いた。
そして、もうひとつ、聞かなければならないことを、聞いた。
「アーシェ様。これまで、500年のあいだに、王女様を救おうとした人は、いなかったのですか」
神官長は、長く沈黙した。
やがて、ゆっくりと答えた。
「いました」
神官長は静かにそう言った。
「何人」
「2人」
「結末は」
「1人目は、3代目の陰極の若い神官でした。陽極の王女様と恋に落ちて、契約を破ろうとした。儀式で陽極が解放されかけたとき、陽極の代わりに、陰極の若者の体が、引き裂かれました。儀式は、新しい陰極を選んで、続行されました」
「2人目は」
「12代目の王太子でした。妹である陽極を救おうとして、王宮の禁書庫で、契約解除の方法を200年探しました。最後に1つだけ方法を見つけました。けれどその方法を試す前に、王太子は、原因不明の病で亡くなりました」
アーシェの声には、その王太子に対する、500年越しの哀悼の響きがあった。
「200年というのは、王太子1人の生涯ではありません。歴代の神官と研究者が、12代目王太子の遺志を継いで、200年研究を続けたという意味です」
「原因不明の病」
「契約を解こうとした者の周辺で、何度も繰り返し起きている現象です。神官たちは『契約陣の自衛機構』と呼んでいます。契約を解こうとする者を、陣そのものが排除する仕組みです」
俺は静かに、長く息を吐いた。
──仕組みは、それを破壊しようとする者を排除するように、設計されている。
これは魔法の話のようで、実は、すべての制度の話だった。船の上の組織でも、王宮でも、大手企業の冷凍機メーカーでも、たぶん同じだった。
古い制度は、必ず、自己保存のために、改革者を排除する仕組みを内包する。
第八海鵬丸の鬼塚体制も、まったく同じだった。
「アーシェ様」
「はい」
「あなたが、いま、俺と同行することは、その『自衛機構』の標的になることを意味しますか」
「はい」
「ご無事でいられる保証は」
「ありません。けれど、もう、保証を求めて生きることは、500年で十分でした」
神官長の声は、500年の重みを背負っていた。それは個人の決意というより、500年続いた制度の側からの決意のようにも聞こえた。
神官長は、馬上に身を乗せた。
俺はその姿を、しばらく見つめてから、自分も馬に跨った。
王宮の正門を出るとき、ペルマと、レオと、近衛騎士たちが見送りに並んでいた。
ペルマは深く頭を下げた。
「先生、ご無事のお戻りを」
「ああ」
「王宮には、私とレオが残ります。冷凍機の改良を続けながら、王太子殿下に、神官長殿のご同行について、誠実にご説明します」
レオは口元を引き締めて、敬礼した。
俺はうなずいて、馬の腹を蹴った。
王都ヴァリスを出て、街道を南へ。
ライン・カラまで、最速で4日。
鬼塚艦隊の上陸まで、あと8日。
俺と、神官長と、護衛の騎士3名と、ペルマが手配した補給馬車が2台。
こぢんまりとした隊列で、俺たちは秋風の中を走った。
街道沿いの木々はすでに葉の3分の1を落とし、馬の蹄が落ち葉を踏み砕く音が、絶え間なく続いた。神官長アーシェは、白い顔のまま、馬上で背筋を伸ばし続けていた。20年王宮の北の塔から外に出ていない女性が、馬で長距離を移動する。それがどれほどの負担なのか、俺は途中で気づいた。
「アーシェ様、無理はしないでください」
「ご心配なく。私は、いまの自分が、思った以上に強い気がしています」
神官長の声は、わずかに笑っていた。
20年塔に閉じ込められた人間が、外の空気を初めてまっすぐ吸ったときの、独特の解放感が、その声に滲んでいた。
道中の野営の夜、神官長は、もうひとつ、俺に告白した。
焚き火の前で、神官長は、青い水晶のような小さな石を、手のひらの上で転がしていた。
火の光が石の中で淡く屈折して、夜の闇の中に、青い小さな星座のような光を散らしていた。
「リョウ殿」
「は」
「実は、契約解除の方法を見つけた、12代目の王太子の遺した禁書を、私は読みました」
俺は驚いた。
「禁書?」
「王宮の禁書庫の最奥にある、開かずの間に、その本はあります。代々の神官長だけが、ひとり、開けることを許される。私も、ある夜、衝動的に開けました」
「内容は」
「『犠牲陽極を再定義せよ。電位差を逆転させれば、契約陣はその役目を終える』──と、あります」
アーシェの声は、夜の焚き火の周りで、ほとんど祈りのように響いた。
「禁書には続きがあります。『電位差を逆転させるためには、より大きな陽極となる存在を、契約陣の外に用意せねばならぬ。その存在は、王国全土の規模に匹敵する魔力の流れを、外部から作り出す装置でなければならぬ』」
「外部から作り出す装置」
「禁書では、それは『地脈に対抗する別の地脈』『陣に対抗する別の陣』と書かれていました。けれど12代目王太子も、200年の研究者も、その『別の地脈』をどう作るかは、見つけられませんでした」
俺の心臓が、跳ねた。
──電位差。
──逆転。
これは、漁師の言葉ではない。
けれど、漁師にとっても、馴染みの深い概念だった。
アノードとカソードのあいだに流れる電流の方向を、逆にする。
そうすれば、アノードはもう、消耗しない。
──それが、亜鉛塊を腐らせない方法だ。
俺は、焚き火を見つめた。
火の粉が、夜空に向かって、いくつも舞い上がっていった。
漁師が、海の上で、犠牲陽極の電位差を逆転させる方法。
──たぶん、ある。
仮説は、俺の頭の中で、すでに芽生え始めていた。
けれどその仮説を、海の上で、鬼塚艦隊との戦闘の中で、検証することになる。
これは、人類史上、たぶん最も奇妙な海戦になる。
鬼塚艦隊との海戦は、表向きは、王国の沿岸防衛戦。
けれど実質は、500年続いた契約陣の電位差を、海の上で逆転させるための、巨大な実験装置の起動式。
──そう考えていたとき、神官長が、焚き火越しに、ぽつりと呟いた。
「リョウ殿は、12代目王太子の生まれ変わりかもしれません」
「と、おっしゃると」
「いえ。比喩です。けれど、200年研究して見つけられなかったものを、漁師の流儀で、半年で形にしようとされている。──それは、生まれ変わりという言葉でしか、説明できない種類の符合です」
俺は答えなかった。
ただ、焚き火に薪をひとつ、追加した。
火が、また、強く立ち上った。
焚き火の向こう側、遠くの樹影の中で、夜行性の獣の目が一瞬光った。けれどすぐに闇に消えた。
神官長は、青い水晶を、もう一度、手のひらの上に転がした。
「リョウ殿、私は、あなたに失礼を申し上げました。生まれ変わり、などと」
「失礼ではありません」
「あなたは、12代目王太子の生まれ変わりではありません。あなたは、ライン・カラの一漁師として、自分の頭で、自分の手で、ここまで来た方です。それを誰かの転生と呼ぶのは、あなたへの侮辱です」
神官長は、深く頭を下げた。
俺は親指の付け根を擦って、答えた。
「気にしていません。漁師は、誰かの転生と呼ばれても、誰かの先祖と呼ばれても、結局やることは、同じです」
「同じとは」
「その日の海を、その日の腕で、生き延びる」
アーシェは長く目を閉じた。
やがて、目を開いて、ゆっくりとうなずいた。
「その流儀で、王女様を、ぜひ、お救いください」




