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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第8章「水で死ぬ街」

王都ヴァリスは、臭かった。


港町ライン・カラの臭いも酷かったが、ヴァリスはその比ではなかった。10万人都市が排出する糞便と汚水と腐敗物が、街全体に染み付いていた。


──そして俺はまだ、王都の正門にすら到達していなかった。


旅の5日目、午後。


馬車は王都の南郊外、貧民街の脇を通過していた。


街道の両脇に、粗末な木造の長屋が連なっている。屋根は半分崩れ、扉はなく、人々は地面にしゃがみ込んで何かを食べていた。子供たちは裸足で走り回り、目には熱が浮かんでいた。


そして、その貧民街の真ん中を流れていた1本の川が、すべての元凶だった。


川は薄茶色だった。


流れているのか止まっているのか分からないほど粘度が高く、表面に虹色の油膜と、白い泡と、そして何かの動物の死骸が浮かんでいた。


鼠の死体。半分溶けた魚の頭。布切れ。誰かの排泄物。それから何か小さな子供の靴。


風下に立つだけで吐き気のする臭いだった。


けれどその川から、女が水を汲んでいた。


子供を抱えた20代の女が、桶を川に突っ込み、その茶色い液体を持ち帰っていく。


抱えられた赤ん坊は熱で頬が真っ赤だった。母親は何度も赤ん坊の額を触り、自分の手を額に当てて温度を比べていた。


そういう仕草を、俺は知っていた。死にかけている子供の親がする仕草だ。


第八海鵬丸の同僚にも、出航中に乳児を病気で亡くした男がいた。男は浜に戻ってから3日、ただ水平線を眺めて何も話さなかった。あの目を、俺はいま、王都の貧民街の母親の目の中に見ていた。


死は、漁師にも貧民にも同じ顔で訪れる。それを止められるのは、たぶん金や地位ではなくて、ただの当たり前の知識のはずだった。


知識を持つこと。それを共有すること。それが、どんな魔法より早く、人を救うことを、俺は10年で学んでいた。


俺は思わず馬車の窓を叩いた。


「停まってくれ」


「何ですか、リョウ殿」


「停まってくれ。あの川──あれを、飲んでるのか」


書記のクライベルが眼鏡を直しながら振り返った。


「ああ、貧民街の住人たちです。井戸が掘れない区域なので、川の水を使っています」


「煮沸はしてるのか」


「煮沸?」


「火にかけて沸騰させる」


「燃料が足りませんから、ほとんどの家ではしていないでしょうね。地下水のある井戸は中央区まで行かないとありません」


俺は黙った。


黙って、それから低い声で尋ねた。


「ここでは、どのくらいの数の人間が、年に死ぬんだ」


「数?」


「赤ん坊の死亡率は」


クライベルは首をかしげた。


「赤ん坊は大体、半分は2歳までに死にます。けど、それは普通のことではないですか?」


俺はもう一度、川を見た。


──水で死ぬ街だ、と思った。


そう、第八海鵬丸の船員が壊血病で倒れていたのと同じことだ。原因は水と食事だった。けれどここの規模はその比ではない。10万人都市の半数が、毎日、汚染された水を飲んでいる。


馬車が動き出した。


俺は手帳に何かを書きつけた。クライベルが俺の手元を覗き込んだ。


「リョウ殿、何を書いておられるのです?」


「水浄化のメモ」


「メモ?」


「砂と砂利と木炭を層に敷いた濾過器(ろかき)。煮沸の前段階としての浄化装置。これだけでも、たぶん死亡率は3割下がる」


クライベルが息を呑んだ。彼の眼鏡の奥の瞳孔が一瞬広がった。


男は手帳を取り出して、俺の言葉をすべて書き留めようとした。


「……それは、本当ですか」


「本当だ。漁船の上でも似た仕組みは使う。タンクに溜まった水を浄化する小規模なやつだ」


「水浄化……それは、漁師の仕事なのですか?」


俺は答えに困った。クライベルの目は単なる好奇心ではなかった。それは、自分の知らない知識の体系を発見した学者の目だった。


たぶん漁師の仕事ではない。けれど、漁師がそれを知らなければ、長期航海中に船員が死ぬ。だから漁師は知っている。たまたまその知識を、漁業以外の場所でも使えるだけのことだ。


「漁師は水と食料の専門家でもある」


と俺は曖昧に言った。


クライベルは深く何度もうなずいた。


旅の7日目、夕刻。


馬車はついに王都ヴァリスの正門に到着した。


高さ20メートルの石壁、両側には鉄の扉、上には弓兵の姿。映画の中世ヨーロッパそのものの威容だった。


けれど壁の内側に入ると、その威容はあっという間に崩れた。


街の中心部に近い区画でも、街路は糞尿で汚れ、夜泣きする子供の声と酒場の喧騒と物乞いの呻きが入り混じっていた。


アルデロワ王国の王都は、栄光と凋落が同時進行している街だった。


上の方の貴族は豪奢な生活をしている。


下の方の平民は飢えと病気で死んでいる。


そして、両者を繋ぐ階級が、ほとんど存在しない。中産階級の薄さがこの国の弱さだった。


──もしこの国が戦争に巻き込まれたら、と俺は思った。


中産階級が薄い国は、戦時に兵站(へいたん)を支える層がいない。漁師、商人、職人、その上に位置する小さな貴族や役人。彼らが分厚くいて初めて、国は長期戦を戦える。アルデロワはそれが致命的に薄い。だから帝国に押されている。


馬車が王宮に到着したのは日が落ちる頃だった。


王宮ヴァリスドリア。アルデロワ王国の象徴である白亜の城塞。


王国の建国神話によれば、初代国王が海から上がってきた巨大な貝殻を礎にして築いた城塞らしい。実際の建材は白い大理石だが、海からの建国神話を象徴する装飾が至るところに施されている。


城壁は二重に巡らされ、内側には貴族の館、外側には行政府と兵舎が広がっていた。


馬車は外苑の脇門で停められ、俺は徒歩で内苑に案内された。


──そして驚いたことに、俺はその夜のうちに王に謁見しないことになった。


隊長によると、王は政務で忙しく、貴族の中でも重要な顔合わせが優先される。漂流者の漁師は明日以降の予定だ、ということだった。


俺は王宮の外苑にある下級の客人用の宿舎に通された。


案内役は若い従者だった。彼は俺に最低限の説明だけして、すぐ部屋を出ていった。漂流者は王宮の格付けでは最下位らしい。


質素な部屋だが、ライン・カラの宿舎より遥かに快適だった。羽毛のような何かを詰めた寝具と、ろうそくの代わりに魔導灯。ぬるくない茶。


──だが、俺の目はその夜、別のものに釘付けになっていた。


客人宿舎の窓から見える、王宮の北の塔。


その塔の最上階の窓だけが、夜中までずっと明かりを灯していた。


そして時折、その窓のカーテンが揺れて、誰かの影が一瞬だけ映った。


細い、女の影だった。


翌朝、俺は王宮の調理場に呼び出された。


大膳寮の主任料理長、メルガス・タリヴィスという60代の男に紹介された。男は背が低く、太く、頭は完全に禿げ上がっていた。けれど目は若い男のように鋭く、その鋭さの奥には40年王宮の食材を扱ってきた職人の自負があった。


「漂流者か」


と男は言った。


「噂は聞いた。マグロの神経締め、というやつだ。本当にできるなら、私の40年の経験を覆すことになる」


「やってみせる」


と俺は短く答えた。


メルガスはうなずいて、調理場の裏に俺を案内した。


そこには5匹の活きたマダイが、巨大な水槽の中を泳いでいた。


体長60センチ級。よく育ったマダイで、市場価格は1匹で銀貨5枚は下らない。これを5匹も用意するということは、メルガスもこの試演に相当な力を入れているということだった。


「これを処理してみせろ。私と、貴族たちが見ている前で」


俺は親指の付け根を擦った。


そして、メルガスに尋ねた。


「氷はあるか」


「ある。山から切り出した氷を地下蔵に保管している」


「桶は」


「ある」


「塩は」


「ある」


「では、5匹で十分だ」


メルガスはわずかに笑った。


「いい返事だ」


大膳寮の中央広間。


漆喰の白壁に金箔の装飾、シャンデリアの代わりに浮遊する魔導灯。床は黒い大理石で磨き上げられ、長いテーブルの上には銀の食器が整然と並んでいた。


そこに並んだ20人ほどの貴族たちが、興味と侮蔑の入り混じった目で俺を見ていた。


彼らにとって俺は、見世物だった。


──いいだろう。


見世物にしかなれないなら、まずは見世物として勝つ。


鬼塚の前で10年見世物にされてきた人間だ。見世物として勝つ方法は身につけている。


ただ、今度は俺がショーの主役だった。


俺は氷を桶に詰め、塩を加えてシャーベット状にした。塩を加えると氷の融点が下がり、水温がマイナス2度近くまで落ちる。これを「氷塩水」と呼ぶ。マグロやマダイをこの水に泳がせると、低温で気絶し、神経が鈍化する。


俺はマダイを1匹つかみ、即座に氷塩水に放り込んだ。


30秒で動きが止まった。


そこで取り出し、エラを切って血抜き。


続いて延髄を細い針で貫き、神経締め。


そして頭を落とし、内臓を抜いて、塩水でさっと洗う。


全工程3分。


1匹あたり3分で、刺身用の鮮魚が完成した。


5匹を15分で処理した。


貴族たちは身じろぎひとつせず俺の手元を見ていた。誰かの咳払いが響く。誰かが口の中で何か呟いた。シャンデリアの代わりの魔導灯が、白い淡い光を俺の包丁に反射させた。


メルガスが息を呑むのが聞こえた。


男は40年、王宮の調理場でマダイを扱ってきた。けれど男はずっと、市場で死後数時間経過したマダイを買って、調理してきた。


いま目の前にあるマダイは、神経が遮断されて死後硬直の進行が止まっている、本来この国の誰も食べたことのない状態のマダイだった。


メルガスはそれを薄く切って、俺に勧めた。


「リョウ殿が、最初に食べてくれ」


「いや、あんたが食え」


メルガスは少し驚いた顔をした。


普通の漂流者なら、貴族の前で「俺の腕を信じてくれ」と自慢するところだ。けれど俺はその逆をやった。


「私が?」


「あんたが食って、判断してくれ。俺は信用できないかもしれない」


メルガスは笑った。男は薄切りを口に含んだ。


そして数秒、目を閉じた。


開いた目には、涙のような光があった。


「……これが、本物のマダイか」


男は震える声で言った。


貴族たちが、ざわめき出した。


さっきまで侮蔑の目で俺を見ていた彼らが、いまは食い入るように皿を見つめていた。


一人、また一人と薄切りを口に運び、最後に貴族たちは無言で皿を見つめていた。


沈黙には何種類かある。退屈の沈黙、怒りの沈黙、感動の沈黙。この沈黙は明らかに3つ目だった。誰もが自分の口の中に残った余韻を確認するように、ゆっくりと舌を動かしていた。


中の一人、若くて綺麗な女の貴族が、口を押さえて呟いた。


「これを陛下にお出ししなければ、我々は職を辞すべきだわ」


──そしてその日の夜、俺は王に謁見することになった。


急な予定変更だった。


王宮の中央執務室。


そこには国王アルシド四世、宰相ガウル・ベルファード公爵、王太子マルコス、そして……


北の塔の窓に映っていた、あの細い女の影。


彼女が、ベール越しに俺を見つめていた。


第二王女セレネ・ヴェル・アルデロワ。


銀色の長い髪を結い上げ、薄紫のドレスに身を包んだ20歳の女性。けれど彼女の頬は青ざめていて、健康な人間の血色ではなかった。


彼女の唇には、わずかに血の色が滲んでいた。


そしてベールの内側で、彼女は静かに微笑んでいた。


俺は親指の付け根を擦った。


──この人が、たぶん、俺がこの世界に来た本当の理由だ。


そう、なぜか確信した。


鬼塚の声が脳裏で鳴った。「来島ァ、おまえみたいな下っ端が、王女様と何だ?」と。


俺は心の中で答えた。


──下っ端だから、誰よりも先に腐れる。


健気な金属、と俺は思った。


ミラがあのとき呟いた言葉が、ライン・カラから千里離れた王宮の謁見室で、もう一度俺の中で輝いた。


王女セレネは静かに微笑んだまま、まだ何も言わなかった。


けれど彼女の青い瞳の奥に、何か俺と同じものが灯っているのが見えた気がした。


それは、自分が先に腐ることを承知している人間だけが宿す、奇妙に静かな光だった。

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