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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第7章「ギルドの古い壁」

馬車の振動は、海の揺れより人間に向いていなかった。


6時間で尻が痛くなり、12時間で背骨が軋み始めた。(わだち)の段差を踏むたびに、上下に体が跳ねる。船の揺れは大きくても規則的だ。馬車の揺れは小さいが不規則で、しかも横揺れが少ない代わりに垂直方向の衝撃がすべて尻骨に直撃する。船の上では何日でも平気だった俺の体が、陸の道では半日でガタが来た。


──陸の人間が船に弱いように、海の人間は陸に弱い。


王都ヴァリスへの旅程は7日。


最初の3日は海岸沿いの街道を北上する。風と潮の匂いがまだ届く道だ。だがその先は内陸の街道に入り、馬車は森と農地と川を縫うように進む。


同行は使者の3人と、御者ひとり、そして俺。


俺は後部の革張りの椅子に座って、流れていく窓の外をぼんやり眺めていた。書記の眼鏡の男が、ときどき手帳に何か書きつけては、俺をちらりと見る。


「リョウ殿」


と書記が言った。


「失礼ながら、貴殿の出身地について、もう少し詳しく伺いたい」


「漂流者だ」


「それは登録上の話で。本来の出身地です」


俺は答えなかった。答えようがなかった。


太平洋遠洋マグロ漁船の甲板員、と言って通じる相手ではない。


書記は俺の沈黙を別の意味に取ったらしく、申し訳なさそうに眼鏡を直した。


「失礼。漂流者は、過去を語らないものですね。失念しておりました」


アルデロワ王国には漂流者というカテゴリが正式にあるらしい、ということを俺は道中で学んだ。海の事故で身元を失った人間。ギルド制度の下では、どこにも所属しない流民は人間扱いされない。だから「漂流者」という曖昧なカテゴリが用意されている。


俺はその制度のおかげで、いまここに座っている。


ライン・カラの夜空の星と同じくらい、奇妙でありがたい仕組みだった。


旅の2日目。


海沿いの小さな宿場町で休憩した。


厩舎(きゅうしゃ)で馬を休ませている間、俺は港まで足を伸ばした。


そして、衝撃を受けた。


ライン・カラ以上に、ここの漁業は崩壊していた。


桟橋に半分沈みかけた船が3隻。網は破れたまま放置され、漁師らしき男たちは港の隅で酒を飲んでいる。市場には魚はほとんど並んでおらず、並んでいるものはすべて干物か塩漬けだった。鮮魚というカテゴリそのものが存在していなかった。


「鮮魚はないのか」


俺が干物屋の主人に聞くと、男は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「鮮魚? あんなもん獲った日のうちに食わなきゃならねえだろ。誰がわざわざ買うんだよ」


「獲って5時間以内なら問題なく食える」


「5時間? どこの国の話だ」


男は俺を馬鹿にしたように笑って、それから黒い乾物を1枚押し付けてきた。


「これでも食ってな。マグロの干物だ」


俺はそれを受け取って、かじってみた。


マグロを干物にすると、独特の風味が出る。けれどここの干物は塩が強すぎて、魚本来の旨味は完全に殺されていた。塩で防腐するしかないから塩を使う、その結果として味が壊れている。


──これは保存の問題ではない、と俺は思った。


流通の問題でもない。


知識の問題だ。


たった一人の漂流者が知識を持ち込めば、この国全体の食文化が変わるレベルの空白がある。


けれどその空白は、同時に俺自身を呑み込みかねない深さでもあった。


ライン・カラだけ変えるなら、ボルクとミラの隣で十分だった。けれど王都が変わり、王国全体が変われば、それは「変えた人間」を放っておかない。


変えた人間は、変えられた既存秩序の中で生まれる、必ず誰かの敵になる。


旅の3日目。


街道沿いの中規模の町、エルダルクで一泊することになった。


ここには漁師ギルドの大きな支部があり、王都に向かう途中の重要な経由地だった。隊長は俺を支部長に紹介した。


「リョウ・キジマ。ライン・カラから王都へ召還される、漂流者出身の漁師である」


支部長は太った中年男だった。両手の指に金の指輪を3つずつ、合わせて6つはめている。指の根元の肉に指輪が食い込んで、ほとんど取り外せないだろうという見た目だった。


「ふん」


と男は鼻を鳴らした。


「漂流者ねえ。最近の王都は趣味が変わったらしい。流民を客人扱いするとは」


隊長の眉が動いた。


けれど隊長は何も言わず、俺を支部の応接室に案内するよう支部長の従者に命じただけだった。


応接室で俺は出された茶を飲んだ。


ぬるくて、しかも苦かった。


質の悪い茶葉を、しかも冷ました湯で淹れている。これは「客人を歓迎しない」明確な表現だった。


第八海鵬丸でも似たようなことはあった。漁労長が嫌いな人間が乗船してくると、賄い場で出る飯がやたら水っぽくなる。態度は変えなくても、料理だけが正直に客の格を表す。万国共通の現象だ。


ドアの向こうから声が聞こえてきた。支部長が誰かと話している。


「あの漂流者は本当に技を持ってるのか?」


「らしいですよ。ライン・カラのボルクが王都の仲買に売り込んだとか」


「ふん、ライン・カラの古狸が……あいつには貸しがあるんだ。漂流者ひとりに王都への足がかりを与えるとは、何を企んでいる?」


「企みというより、本当に腕がいいのでは」


「腕? 漂流者がか? どこの誰とも分からん流民が、急に魚捌きの天才になるわけないだろう。あのマグロの値段は、どうせライン・カラのギルドが裏で価格をつり上げただけだ」


──俺はゆっくり茶を置いた。


思ったより、くだらない壁だった。


支部長は俺を試そうとした。


翌朝、男は支部の作業場に俺を連れていき、20匹のサバを並べた。


「これを見て、鮮度の状態を当ててみせろ。当てられなかったら、王都にはおまえの技を保証できないと書状で伝える」


隊長が眉をひそめたが、俺は構わないと手で制した。


試験は受けて立つ方が早い。


俺はサバを順番に手に取り、エラの色、目の濁り具合、腹の張り、肌の艶を確認した。


一匹あたり10秒。第八海鵬丸の魚槽で、毎日500匹単位の選別をやってきた手だ。10秒もかければ、サバの鮮度は完璧に判定できる。エラの色がピンクなら新しい、茶色く変色していたら2日以上経過、暗赤色なら塩水につけて偽装している証拠だ。


「1番、獲って8時間以内。冷却処理あり」


「2番、獲って2日。常温保管」


「3番、獲って4日。塩水につけてある」


「4番、獲って今朝。船上処理なし」


……順に20匹分を答えていった。


5分で終わった。


支部長の顔が引きつっていた。


「……全問正解だ」


「これは試験になってない」


俺は短く言った。


「漁師ならこの程度は分かる。見えないところを見るのが漁師の仕事だ」


支部長の額に汗が浮かんだ。


男は俺を試したつもりが、自分が試されてしまった構図に気づいた。


「もうひとつだ」


男は声を上げた。


「網の補修ができると聞いた。ここで証明してみろ」


俺は黙ってうなずいた。


そこからは、ライン・カラで30人を相手にやった「網仕事の歌」の小型版だった。


ただ違うのは、ここの漁師たちはライン・カラの連中より斜に構えていたことだった。エルダルクは内陸寄りの町で、漁業は副業に近い。彼らは海に対して敬意が薄く、技術への興味も薄かった。


支部の若手漁師たち15人ほどが集められ、俺は2時間で全員に二重蛙股結びの基本を伝授した。誰もが目を丸くし、最後には支部長まで自分の手で結びを試そうとして、太い指を糸に絡めて格闘していた。


男は最後に、銀貨10枚を俺に握らせた。男の指輪が俺の手の甲に当たって冷たい音を立てた。


「失礼を許せ、リョウ殿。あなたは本物だ」


俺は受け取りながら、内心で苦笑した。


銀貨10枚で、人は手のひらを返す。


これは第八海鵬丸の鬼塚も、ヴァルナハト帝国に流れ着いた鬼塚も、たぶんやらないことだ。あの男は手のひらを返すだけの謙虚さすら持たない。けれど世界の大半の人間は、この支部長のようなタイプだ。技を見せれば認める。態度を改める。それだけのことだ。


鬼塚という存在は、世界の中でもむしろ稀な「逸脱」だったのかもしれない。


その夜、支部の宿舎で俺は天井を見上げて考えた。


これからどうするか。


王都に行く。技を披露する。たぶん貴族たちに気に入られる。報酬がもらえる。下手をすると爵位や役職をくれるかもしれない。


──そこで止まるか。それとも先へ進むか。


第八海鵬丸では、俺はずっと「下っ端」だった。下っ端でいることに、ある種の安心があった。責任を負わなくていい。決断しなくていい。鬼塚に怒鳴られていればいい。


けれどここでは、もう下っ端ではいられない。


教える側、決める側、引っ張る側。


──怖い、と俺は思った。


怖いと感じている自分に、また少し驚いた。鬼塚の前で怖いと感じたことは10年で一度もなかった。怒りと諦めはあったが、怖さはなかった。


けれどいま、責任を引き受けることに対して、俺は怖い。


怖いというのはこういう感覚だったか、と俺は気づいた。海に落ちた瞬間より、鬼塚に殴られた夜より、いまの方がずっと怖かった。死ぬ怖さではない。生きて、結果を引き受けなければならない怖さ。


下っ端の10年は、ある意味で楽だったのかもしれない。決断の責任を上に押し付けられたから。


親指の付け根を擦って、目を閉じた。


健気な金属。先に腐ることで本体を守る金属。あれは怖くないのだろうか。怖いに決まっている。けれど、怖くてもやる。それが彼らの仕事なのだ。


──俺もそうあるべきだろう、と思った。


思った瞬間、俺の中で、何か小さな歯車が音を立てて回った。


──同じ夜、王都ヴァリス。


王宮の廻廊(かいろう)を、ひとりの中年の貴族が早足で歩いていた。


男の名はガウル・ベルファード公爵。王国宰相であり、保守派の代表格。古いしきたりと貴族の秩序を重んじる男だ。


公爵は王の執務室に入り、頭を下げた。


「陛下。あの漂流者の件、再考を願いたい」


王は無言で羊皮紙にペンを走らせていた。


「漂流者を王宮に上げるのは、王国の伝統に反します。出自不詳の者を、宮廷食材調達に関わらせるのは……」


「ガウル」


と王は静かに言った。


「我が娘が血を吐いている」


公爵の口が止まった。


「セレネはあと何年、結界を保てる? 5年か。3年か。1年か」


公爵は唾を飲み込んだ。


「神官長アーシェの最新の報告では」


「言ってみろ」


「半年、もたぬかと」


「……陛下」


「腐っていく国を救うためなら、漂流者だろうが、悪魔だろうが、王宮に上げる」


国王アルシド四世。王位について23年。在位の間に小国の戦争を3度凌ぎ、内政の混乱を5度収めた老獪な君主だった。男は感情で動かない。動くときは必ず、すべての選択肢を消した後だった。


王の声は冷たかった。


けれどその冷たさの奥には、父親の絶望が滲んでいた。


公爵は何も言えず、深く頭を下げて執務室を辞した。


廊下に出ると、男は壁にもたれて拳を握った。


「漂流者……ふん、たかが余所者風情が……」


男の中では、すでに小さな計画が動き始めていた。


リョウ・キジマがもし王宮に上がるとしても、本当に役に立つかどうかを、男は男なりの方法で確かめるつもりだった。


そしてその確かめ方は、リョウ・キジマにとって命がけのものになる予定だった。


──ギルドの古い壁の向こうにあったのは、貴族社会の、もっと厚くて、もっと冷たい壁だった。


そして、その壁の向こうに座っているのは、血を吐きながらなお微笑む王女だった。


俺はそのことをまだ知らない。


知らないまま、馬車は王都ヴァリスに向かって、4日目の朝を迎えようとしていた。


旅は折り返しを過ぎた。


馬車は森を抜け、川を渡り、王都ヴァリスを示す石碑の脇を通り過ぎた。空の色は南の港町とは違い、薄く青みがかった灰色を帯びていた。北の冷たい空気が混ざり始めている証拠だ。漁師なら誰でも知っている、空が変わる兆しだった。風の匂いも変わった。塩の代わりに、煤と人間の匂いが滲んでいた。


そして物語もまた、最初の三幕構成の第一幕を、ようやく終えようとしていた。

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