第6章「嵐の予兆を読む者」
「リョウ・キジマ。アルデロワ王家の名において出頭を命じる」
紫の外套の使者がそう言ったとき、俺の腹は意外なほど落ち着いていた。
10年下っ端をやってきた人間は、命令されることに慣れている。出頭、と言われればただ「はい」と答える。それが下っ端の本能だった。
けれど俺はその朝、出頭する前にひとつだけ、やらなければならない仕事があった。
王都からの使者は3人。
隊長らしき中年の男、若い騎士、そして文官風の眼鏡をかけた書記。
彼らはギルドの作業場の前で馬を降り、油を塗ったような滑らかな声で俺の名を呼んだ。
「リョウ・キジマ殿。王宮大膳寮よりの召喚状である。確認されたし」
隊長が金色の枠に縁取られた羊皮紙を差し出した。
受け取って中を見たが、文字が一部読めなかった。アルデロワ王国の正式書字は俺の知っている字とは別系統で、ミラに教わったのは口語と簡単な看板文字だけだった。
「内容は」
と俺は短く尋ねた。
「貴殿の魚介鮮度処理技術を王宮にて披露せよ、との命である」
「いつ」
「今より3日以内に出立を望む。我らが護衛として同道する」
ボルクが俺の隣で深く息を吐いた。
ミラは数歩離れたところで、両手を腰の前で握りしめていた。
俺は親指の付け根を擦った。
そして、空を見上げた。
西の空に、薄く灰色の雲が湧いていた。
普通の人間には何でもない雲に見えるかもしれない。
けれど俺の目には違って見えた。
雲の縁が一定方向に削れている。雲底の高さが奥に行くほど低くなっている。湿度が普段より3割増し。風が南西から南南東へ、ゆっくりと方向を変えつつある。気温の下がり方も平年より急。けれどその雲の縁の歪み方、雲底の高さ、湿度、風の方向の微妙なズレ。
──低気圧。
それも、かなり大きい。
「隊長」
と俺は言った。
「3日以内の出立は無理だ」
隊長の眉が動いた。
「無理? 王命であるぞ」
「王命でも、海は王命を聞かない」
俺は続けた。
「あんたら今日、王都への帰路に船便を使うつもりだろう。北回りの沿岸航路。馬よりずっと早い」
「……そうだが」
「明日の昼から大時化が来る。3日は出航不可だ。下手に出ると船が沈む。乗合船の船長は出すかもしれない。けど沈む。それから、もし無理して陸路を取るなら、北街道の橋がひとつ落ちる。今夜から明朝にかけての雨で」
隊長は無言だった。
文官書記が眼鏡を直しながら俺を凝視した。
「貴殿、なぜそれが分かる」
「漁師だからだ」
と俺は答えた。
「30年やってる港の年寄りに聞けば、同じことを言うはずだ。雲を見れば分かる」
沈黙が落ちた。
沈黙の中で、ボルクが小さくうなずいた。男もまた、空を読む人間だ。同じ雲を見て、同じ気圧の崩れを感じている。けれどボルクは「3日」とは言えなかった。「2日後には荒れる」までは言えただろう。それが俺との経験の差だった。第八海鵬丸では気象FAXと衛星画像を毎日見ていた。雲の形と気圧配置の対応関係を、10年かけて頭に叩き込んだ。
隊長は何度か瞬きをして、それから書記に何か命じた。男の中では、王命と海の権威が拮抗していた。普通の使者であればこんなところで譲歩しない。けれどこの隊長は、どうやら海岸沿いの貴族家の出身らしかった。海の権威が王命に並ぶことを、男は経験的に知っているらしかった。
「リョウ殿の言が事実かどうか、確かめさせていただく。今夜の天候を見守る。もし誤りであれば、王命に従い即時出立。もし正しければ、再考の余地あり」
「いいだろう」
と俺は答えた。
隊長は満足げにうなずき、馬の轡を引いて港の宿屋へ向かった。
ミラが小さく駆け寄ってきた。
「リョウ……あんた、王の使いに天気で逆らう人、初めて見た」
「逆らったわけじゃない。事実を言っただけだ」
「同じことだよ」
ミラは少し笑った。
けれどその笑いの奥には、別の感情が見え隠れしていた。
──この人は、自分が思っていたより、ずっと遠くまで行く人だ。
その夜、ライン・カラの港は予想通り荒れた。
風速30メートル超。波高7メートル。
出航しようとしていた乗合船は、港から30分の沖で進めなくなり、危うく座礁を回避して引き返してきた。
北街道では、夜明け前に老朽化した木橋が増水で流された。1か月かけて修理が必要な被害が出た。
翌朝、宿屋の隊長が血の気の引いた顔で俺を訪ねてきた。
「リョウ殿」
男は俺の前に深く頭を下げた。
「我らの判断不足を許されたい。3日待つ」
「謝らなくていい」と俺は言った。「むしろ謝るべきは、空を読まなかった船長たちだ」
隊長は小さく笑った。
「貴殿が王宮に上がる意味が、ようやく分かりかけてきた」
その日の昼、ボルクの作業場で奇妙な集会が開かれた。
ライン・カラの古い漁師たちが7人、灰色の海を前にぽつりと座っていた。誰もが両手を膝に置き、煙草を吹かしながら、互いに何も言わなかった。
ボルクが太い声で言った。
「リョウ。これからおまえに、ライン・カラの古い知識を渡す」
「古い知識?」
「うちの町には、500年続く海の知識ってのがある。雲の読み方、潮の見方、月の周期、海鳥の動き。けど誰も体系化してない。古い漁師がそれぞれ自分の頭の中に持って、そのまま死んでいく。もう半分は失われた」
ボルクは煙草を消した。
「おまえは王都に行く。たぶんもう戻ってこない。だが行くなら、うちの町の知識をひとつでも多く持って行ってくれ。王都の連中に、海ってのが何かを教えてやれ」
7人の老漁師たちが順番に話し始めた。
そのうちの一人、85歳というカルメンという爺さんは、目がほとんど見えていなかった。けれど耳と肌で海を読む男だった。海の匂いの変化、潮の音の高低、肌に当たる風の温度。爺さんが教えてくれた知識は、目で読む天気予報よりずっと深層的だった。
その隣の、痩せた肩をした老婆は逆に視覚で読む達人だった。海面を3キロ先まで見て、油膜の流れ方からその日の漁場を割り出す女。何十年もカモメを観察してきた爺さん。月齢と魚の浮上の関係を全部覚えている爺さん。
──ライン・カラには間違いなく、海の図書館があった。
その図書館の本は文字で書かれておらず、人間の頭蓋の中にだけあった。一人死ねば一冊が消える。
西から来る雲は雨。北から来る雲は嵐。海面の油膜が走る方向で潮の流れが分かる。月が大きい夜は鯛が浮く。海鳥が高く飛ぶ日は風が強い。逆に低く飛ぶ日は雨が近い。
俺はそれを必死で書き留めた。
ミラが横で文字起こしを手伝ってくれた。彼女の字は丸くて読みやすかった。
午後、俺はもうひとつだけ仕事をした。
ボルクの船「ヘラ・ロッタ号」の船底に、もう一度小さな亜鉛塊を取り付けた。
前回つけたものは半分ほど痩せていた。健気な金属はちゃんと役目を果たしていた。
半月で半分。船底に流れる微弱な電流の量からすると、計算通りの消耗だ。逆に言えば、もう半月も経てば、この亜鉛塊はほぼ消滅する。そのとき、新しい塊を取り付けないと、今度はプロペラと舵板の鉄が腐食を始める。
「ボルクさん、これが消耗したらまた俺が削り出してくれた網針みたいに、自分で作れる。型は教える」
「型?」
「亜鉛は鉱山にある。ライン・カラから北東に2日の山地に亜鉛鉱がある。あんた知ってるか」
「あぁ、坑夫町だな。鉛鉱の副産物として亜鉛が出るらしいが、誰もまともに使ってない」
「知ってる」
「あの鉱石を木炭で還元して固める。簡易な方法でいい。塊にして船底に取り付ける。1年半に1度交換する。これだけで、船の寿命が3倍になる」
ボルクは深くため息をついた。煙草の煙が灰色の海風に溶けて消えた。
「リョウ、おまえ……一体何者なんだ」
男の声には、もう疑念は混ざっていなかった。ただ、純粋な驚きと、一抹の畏れがあった。
俺は答えなかった。
答えようがなかった。
──たぶん、ただの下っ端だ。
ただ10年、地味な仕事を真面目にやり続けただけの、ただの下っ端だ。
出立の朝。
ライン・カラの港にはギルドの漁師全員が集まっていた。30人。誰もが俺に頭を下げた。
ジルもいた。
男は俺の前まで歩いてきて、しばらく何かを言いかけて、結局何も言えずに、新しい網針を1本差し出した。
自分で削った網針だった。
「リョウ、これ……餞別」
「ありがたく受け取る」
「王都でも、その、網仕事、忘れんなよ」
男の頬は赤かった。
「忘れない」
と俺は答えた。
そしてジルの肩を1回だけ叩いた。鬼塚が俺にしたような肩の叩き方ではない、対等な人間が対等な人間に向ける叩き方を、俺は10年で初めて誰かにした。
ジルの目が一瞬泳いで、それから真っ直ぐ俺を見た。男はもう昨日までの男ではなかった。彼は彼なりに、3日間で何かを越えていた。
ミラは港の端に立っていた。
彼女は他の連中の前では泣かなかった。けれど俺が馬車に乗り込んで振り返ったとき、唇を強く噛んでいるのが見えた。
「リョウ」
「ん」
「無事で」
「ああ」
「絶対戻ってきな」
「ああ」
短い言葉だった。
けれどそれだけで十分だった。
ミラの目は赤かった。彼女は俺にではなく、出ていく人間そのものに泣いていたのかもしれない。漁師の娘である彼女は、これまでも何人もの男たちが王都へ出ていって戻ってこなかった姿を見てきたのだ。
馬車が動き出した。
4頭立ての立派な馬車だった。御者と王都の使者が前列に座り、俺は後部の革張りの椅子に押し込まれた。第八海鵬丸の漁労長室より広い空間だった。10年下っ端をやってきた人間が座るには、過分すぎる椅子だ。
ライン・カラの石畳が背中に遠のいていく。海の匂いがゆっくりと薄れていく。
俺は親指の付け根を擦りながら、最後にもう一度だけ振り返った。
ミラが手を振っていた。
──そして同じ朝、海を隔てた遠い大陸。
ヴァルナハト帝国の主要軍港、ロイクスフェルンの司令部の窓から、ひとりの男が冷たい北の海を眺めていた。
男の階級章には、海軍提督の三本線と、新任を示す銀の星章。
男は煙草を口の端で噛みながら、誰にともなく呟いた。
「使えねえ部下ばっかだなあ……ったく」
鬼塚は窓際で煙草を歯で噛み砕くように噛んでいた。
部下のひとりが書類を持って入ってきた。鎧を着た若い士官だ。男は紙を差し出してから、震える声で報告した。
「提督、今期の演習日程につきまして」
「あぁ?」
男は紙をひったくると、内容も見ずに机に叩きつけた。
「俺の指示通り動けねえやつは要らねえ。次に同じ報告したらクビだ。わかったか」
「は……はい」
若い士官は震えながら退室した。鬼塚は煙を吐いて、誰にともなく舌打ちをした。
──こいつらは使えねえ。
まったく、第八海鵬丸の連中の方がまだましだった。あの船にも腹立たしい部下はいたが、少なくとも頭は下げてきた。来島って下っ端の野郎なんかは、いつも黙って言うことを聞いていた。
そういえばあいつ、海に落ちたんだったな。
鬼塚は煙を吐きながら、一瞬だけ来島の顔を思い出した。一瞬だけだ。それからすぐに忘れた。
男にとって部下とは、いるあいだは利用するもので、いなくなったら消えるものだった。
鬼塚毅、ザール・オニズカ提督。
第八海鵬丸からこの世界に流れてきた、もうひとりの転生者。
男の名は、ヴァルナハト帝国に流れ着いてから「ザール・オニズカ」と呼ばれていた。発音しにくい鬼塚という日本名から、現地の役人がそう書き記した。男もまた、リョウ・キジマと同じ嵐の夜に海へ落ちた。けれど男の流れ着いた場所は、ライン・カラの裏路地ではなかった。北の海軍国家、ヴァルナハト帝国の海岸線。そして男が握っていたのは亜鉛のアノードではなく、第八海鵬丸の備品庫から盗んでいた拳銃だった。
だから男は、最初から銃を持った得体の知れない余所者として、帝国海軍の目に留まった。
そして男は、銃という存在しない武器の威力で、たちまちのうちに帝国軍の一画を支配下に置いた。
弾丸はすでに底をついていた。けれど男はそれを見せなかった。空の銃を腰に下げ、相手を威圧する声と腕力だけで部下を従えた。鬼塚という男には、この種の人間操作の才能だけは確かにあった。第八海鵬丸でも、恐怖と威圧と手柄横取りで甲板長まで上り詰めた男だ。
そういう種類の人間は、新しい世界でも同じやり方で生き延びる。
知識は何ひとつ持たないまま、ただ恐怖だけを武器に。
──二つの世界に、二人の転生者。
二人はやがて、海の上で再会することになる。
けれどその朝、両者の距離はまだ、海と大陸ぶんだけ離れていた。
海と大陸を挟んで、二人の転生者は同じ太陽の下にいた。
けれど見ている空の色は、まったく違っていた。
一方は「教える」ことで国を変えようとし、一方は「奪う」ことで国を支配しようとしていた。
同じ甲板の上で擦れ合って10年、互いを知り尽くしているはずの二人は、それぞれの異世界で全く違う方角に枝を伸ばし始めていた。




