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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第5章「網針の歌」

雨は3日間降り続いた。


出漁不可能。けれど漁師の仕事は雨で消えるわけではない。陸の仕事──網の補修、漁具の整備、エンジンの代わりの船尾舵板の調整──こうした地味な作業こそ、漁師の本業の半分を占める。


そしてこの3日間で、ライン・カラの漁師ギルドは静かに変わった。


きっかけは、たった一本の網針だった。


朝、ボルクの作業場に入ると、いつもの倍の人数の漁師たちが集まっていた。


20人いた漁師が30人近くまで増えている。話を聞きつけてやって来た余所のギルドの連中もいた。みんな破れた網を抱えてきていた。誰もが期待と疑念の混ざった目で俺を見ている。


ボルクが俺の肩を叩いた。男の手のひらは熊の足ほど大きく、肩がわずかに沈んだ。


「リョウ、すまんが頼む」


「全部か」


「全部だ」


俺は頭を掻いた。


30人ぶんの破れ網。


ひとり1枚として、最低30枚。


これを俺ひとりで繕えば10日はかかる。


──だから、繕わなくていい。


俺は別のことを思いついていた。


「ボルクさん、提案がある」


「言ってみろ」


「俺ひとりで繕うんじゃなくて、ここにいる漁師全員に教える」


ボルクが目を細めた。


「教える?」


「網針の作り方、足の作り方、二重蛙股結びの結び方。全部教える。10日かかる仕事は10人で分ければ1日で終わる」


「だが」


ボルクは少し言葉を濁した。


「教えちまったら、おまえの飯のタネがなくなるんじゃないか?」


俺は笑った。


「飯のタネは網仕事だけじゃない」


「ほう」


「ボルクさん、俺はこの先、もっとずっと先を考えている。網仕事はその先の前提条件だ。前提条件は早く広めるほどいい」


ボルクはしばらく俺を見つめてから、低く笑った。


「面白い男だ」と男は言った。


「いいだろう。やってみろ」


ボルクは俺の肩を太い手で叩いた。


「だがな、リョウ。教える側に回るってのは、教わる側でいるよりずっと疲れる仕事だぞ。覚悟しとけ」


男は若い頃、誰かに同じことを言われたのかもしれなかった。


そうして雨の3日間、俺はライン・カラ漁師ギルドの臨時講師になった。


講師。第八海鵬丸で誰にも何も教えられず、ただ怒鳴られていた俺が、講師になる。冗談のような響きだ。けれど現実の方が冗談より奇妙であることを、俺はこの3日で何度も確かめることになった。


1日目。


朝の作業場には湿った木の匂いと、麻糸の独特の青臭さが漂っていた。雨は屋根を一定のリズムで叩き続け、その音が漁師たちの呼吸を不思議な周期に揃えていた。


集まった30人を5人ずつのグループに分けた。


各グループに俺が1時間ずつ巡回して、網針の削り方、足の作り方を実演する。木の棒から網針を削り出すのは、やってみれば3歳の子供でもできる。けれどこの世界の誰もそれをやろうとしなかった。


教えてもらえなかったから。


知らなかったから。


──知らないというのは、本人の問題ではない。


これは俺が10年で学んだ大事なことだった。鬼塚は俺に「てめえは知らないことが多すぎる」と何度も言った。けれど鬼塚自身、教えてくれたことなど一度もなかった。教えない人間が「知らないやつが悪い」と言う構図は、第八海鵬丸でもライン・カラでも変わらない。


「右手で網針を持って、左手の指をこの位置に当てる」


俺は実演しながら言った。


「指の太さで網目の大きさを決める。あんたの指が太いか細いかで網目の大きさが変わる。だから一人で繕うときは必ず同じ指を使う。途中で別の指に変えると網目がガタガタになる」


漁師たちは真剣にうなずいた。


鬼塚に「そんな細かいことどうでもいい」と笑われた知識を、彼らは食い入るように聞いていた。


教えるという行為は不思議だった。一方的に知識を渡しているはずなのに、教えている側の自分の中で、知識の意味が次第に深まっていく。なぜこの結び方が良いのか、自分でも改めて考え直す。なぜ右手が網針を持つのか、左手が指を使うのか。10年やってきて当たり前だと思っていた動作の理由を、初めて自分の言葉で説明する。


これが「教える」ということだったのかと、俺は静かに思い知った。


鬼塚は教えなかった。教える能力がなかった。あの男は自分の手にある技術が、どの工程のどの動作に基づいているか、おそらく自分でも分かっていなかった。だから言葉にできなかった。だから怒鳴ることでしか後輩を「育てた」ことにできなかった。


そういう種類の上司は世界中どこにでもいる。そして部下に怒鳴ることで自尊心を保っているという点で、彼らは皆、健気な金属とは正反対の存在だった。先に腐るのではなく、他人を腐らせて自分を保とうとする金属。


──そういうやつもまた、世界には必要なのかもしれないと、俺は思いかけて、すぐに首を振った。


必要ではないだろう。少なくとも、必要だと思いたくはなかった。


そのうちのひとりが言った。


「リョウ先生」


──先生?


俺は聞き返した。


「先生って、誰のこと?」


「あんたですよ。教えてくれてるんだから先生だ」


別の漁師がうなずいた。


「うちの親父も漁師でね。死ぬ前に網仕事だけは覚えとけって言ってた。けど誰も教えてくれなかった。あんたみたいな人を待ってたんだ」


俺は親指の付け根を擦った。


先生、と呼ばれるのは10年で初めてのことだった。


鬼塚に呼ばれていたのは「来島ァ」、ミラに呼ばれていたのは「リョウ」、漁師たちに呼ばれているのは「先生」。同じ人間が3つの世界で違う名前を持っていた。


2日目。


一斉に網繕いが始まった。


30人が30枚の網に向かい、それぞれの手元で同じ動作が繰り返される。1秒に1目。1分で60目。30人なら、1分で1,800目。


これは小さな町工場のラインだった。


俺は工場長として全体を見回り、各人の手つきを修正する。


ジルもそこにいた。


男は最初こそ俺と目を合わせなかったが、やがて自分の網を持ってきて、低い声で言った。


「リョウ」


「ん」


「俺の網、どこが間違ってるか、見てくれ」


俺はその網を見た。


結び目の方向が左右で揃っていなかった。これは初心者によくあるミスだ。蛙股結びは右回りと左回りで微妙に違う。途中で混ぜると網目に変な歪みが出る。


「右回りで統一しろ」


と俺は短く言った。


「あと、糸の張り方が均一じゃない。右手で引きすぎてる。左手の親指と人差し指でテンションを揃えるんだ」


「……うん」


ジルは小さくうなずいた。


男はそのまま自分の網に戻り、俺が指摘した点を黙々と修正し始めた。


俺はその後ろ姿を見ながら、ふと鬼塚のことを考えた。あの男も、もし誰かに教わる機会があったなら、こんな風に変われたのだろうか。たぶん変われなかっただろう。鬼塚の中には「教わる」という選択肢そのものがなかった。


ジルとの違いは、ただそれだけのことだった。


男の手つきは少しずつ滑らかになっていった。プライドが折れたのではない。プライドの方向が変わったのだ。「余所者に負けない自分」から「より良い網を繕える自分」へ。それは小さな変化だが、男にとって生涯で初めての種類の変化だったかもしれない。


鬼塚なら絶対にできなかったことを、男はやった。


──自分より下に見ていた人間からアドバイスを受け入れる、という難しいことを。


3日目。


30枚の破れ網が、すべて修復された。


3日前、誰もが諦めていた古い網が、ぴんと張った新しい網のように甦っていた。網目の規則性は美しかった。指で押すと、力が均等に分散して、まるで小さなトランポリンのように網全体が呼吸する。


これが本来の網の姿だ。


漁師たちはそれを誰もが触って確かめた。指の関節が太い男たちが、まるで娘の髪に触れるような優しさで網に指を這わせていた。


漁師たちは自分の繕った網を肩に担いで作業場の前で並んでいた。誰もが満足げな顔をしていた。網は彼らの仕事道具であり、生活そのものだった。それを自分の手で蘇らせたという経験は、彼らにとって魚を獲ったときと同じ達成感を生んだ。


ボルクが俺に銀貨5枚を握らせた。


5日分の手間賃。


「リョウ、これでもまだ少ないと思ってる」


「十分だ」


「いや、足りない」


ボルクは煙草の灰を地面に落とした。


ボルクは俺の目を見て言った。


「おまえ、王都に行くべき男だ」


俺は黙った。


「王都?」


「うちのギルドの仲買が、王都の高位の貴族にあのマダイを届けたらしい。もう噂は王宮まで届いてるはずだ。近いうちに、王都から使者が来る」


「使者?」


「俺の勘だが、来る。間違いなく来る」


ボルクは煙草に火をつけて、煙を吐きながら言った。


「リョウ、俺はおまえをここに引き留めたい。だが王都に行きたいなら止めない。職人ってのは自分の腕が一番輝く場所で輝けばいい」


その夜、宿舎の屋根裏で、俺は天窓から知らない星を眺めていた。


ミラが食事を持ってきてくれた。木の盆に黒パンと魚のスープと、それから青い果実が3つ。果実はライン・カラで採れる柑橘の一種で、ビタミンが豊富だとミラが説明した。


ライン・カラは寒くないが、長期航海をする漁師は壊血病に悩まされる。けれどこの果実を食べる習慣のある町だけは、その病気が少ないらしい。


第八海鵬丸でも壊血病で倒れた船員はいた。鬼塚はそういう男を「根性なしが」と笑って蹴ったが、実際には食事の問題だった。長期航海の食料はほとんど缶詰と乾物で、生鮮食材が極端に不足する。


この国でも、漁師たちは似たような問題に悩まされているはずだった。


──これは現代知識で解説できる現象だ。


ビタミンCの摂取が壊血病を防ぐ。


けれど俺はそれを言わなかった。


言うべきタイミングではないと、なぜか直感した。


「リョウ」


ミラが屋根裏の梁にもたれて言った。


「あんた、王都に行くって聞いた」


「ボルクさんが言っただけだ。まだ決めてない」


「でも行くんでしょ」


俺は答えなかった。


ミラは笑った。乾いた、無理に作った笑いだった。


「行ったらたぶん、もう戻ってこないね」


「戻ってくるよ」


「嘘」


「嘘じゃない」


「嘘でも、いまそう言ってくれてありがとうって言うのが、たぶん港の女のたしなみなんだよ。あたしはまだ19だから、たしなみは知らないけど」


ミラはふっと笑った。


「みんな、王都に行くと戻ってこないんだよ。出世した漁師は王都の貴族の食堂で雇われたまま、もう海に出ない」


俺は親指の付け根を擦った。


ミラの声には10代の少女らしい寂しさが滲んでいた。


けれど同時に、19の女の覚悟もあった。


「あんたが行くなら、行きな」


とミラは言った。


「あたしは港に残る。網繕い、もう自分でできる。リョウに教わったから」


ミラの指先には、わずかにマメができていた。3日間、彼女もまた漁師たちに混じって網繕いの練習をしていたのだ。受付嬢でありながら、誰よりも熱心に俺の手元を見ていた。


俺は何か言いたかった。けれど何を言えばいいのかわからなかった。


屋根裏の天窓から星が見えた。


俺は何か言いたかったが、結局何も言えなかった。


鬼塚に怒鳴られない夜があるなら、誰かに静かに見送られる夜もあるのだということを、俺は10年で初めて知った。


そのまま俺たちはしばらく無言で、屋根を叩く雨音だけを聞いていた。星のひとつが流れた。けれど俺はそれが流れ星なのか、この世界の何かの魔法的な現象なのか、判別できなかった。


翌朝、ライン・カラの石畳を蹄の音が響かせた。


重い蹄、規則正しい三拍子。普通の馬車馬ではない。明らかに訓練された軍馬だった。漁師たちが家から顔を出し、商人たちが店先で固唾を呑んだ。


王都ヴァリスの紋章を掲げた早馬が3頭、港町に到着した。


馬上の男たちは王宮の使いだった。


鎧の上に深い紫の外套を羽織り、胸には金の刺繍で「天秤と海」の紋章。アルデロワ王家の正式な使者だ。


彼らが探していたのは、リョウ・キジマという名の漁師だった。


──第5章の終わりに、俺の運命は最初の階段から、二段目に上がった。


けれどその二段目は、あらかじめ崩れていることが定まっていた階段だった。


まだ俺はそれを知らなかった。


そして、知らないままでいられる時間は、あと数日しか残されていなかった。

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