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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第4章「神経締めの衝撃」

銀貨3枚で、俺の人生最大のチートが始まった。


正確には、チートと呼べるものではなかった。それはただの労働の対価だった。けれどその対価が、この世界では「奇跡」と呼ばれた。


鬼塚はかつて言った。「来島ァ、てめえの仕事なんて誰でもできるんだよ」。


──残念だが、誰でもできる仕事は、誰もが知っている世界でしか誰でもできないのだ。


出漁は雨明けの夜明けに決まった。


ボルクの船「ヘラ・ロッタ号」は全長12メートルほどの木造帆船だった。マスト1本、横帆1枚、補助の三角帆が1枚。乗組員は4人。船長兼船主のボルク。網繰り役のジル。雑用の少年エド。そして俺。


朝3時半、ライン・カラの港は墨を流したように暗かった。


港の魔導灯の青い炎は静かに揺れ、波の音だけがゆっくりと打ち寄せていた。ライン・カラの夜明け前は、第八海鵬丸の出港時刻と妙に似ていた。漁師の朝はどの世界でも早い。それだけは万国共通らしい。


街灯はない。けれど港の桟橋には魔法の青い炎が等間隔に灯っていて、足元を照らすには十分だった。漁師たちが影絵のように動き回っている。船を桟橋から引き離す音、帆を上げる軋み、舵棒を握る男の咳払い。


俺は出航前にしておきたいことがあって、船底に潜り込んでいた。


「リョウ、何やってんだ」


ボルクが上から覗き込んだ。


「船底のチェック」


「チェック?」


「フジツボ。あと、舵板と船底の継ぎ目」


「そんなもの去年も見た」


「去年から1年経ってる。まだ生きてる船は今年も見るべきだ」


ボルクは少し笑って何も言わなかった。


俺はランタンの光で船底をなめるように見て、フジツボの厚みを確認した。船速を5パーセント落とす程度の付着量だった。本来ならもう一度上架して落としたい量だが、いまは無理だ。代わりに、舵板の継ぎ目に小さなひびを見つけた。指で押すと黒い水が滲み出てくる。腐食水だ。


俺はそこに昨夜削っておいた木栓と、松ヤニを混ぜた接着剤を塗り込んだ。


「リョウ、何の油だそれ」


「松ヤニと魚油を煮詰めたもの。水に強い」


「……そんなの、聞いたことねえな」


「聞いたことなくても効く」


出航。


ボルクが舵棒に手を置いた。エドが補助帆を引き上げる。ジルが(もやい)を解く。


帆が風をはらんで、ヘラ・ロッタ号がゆっくりと沖へ滑り出した。


海面はまだ凪いでおらず、昨日の嵐の名残でうねりがあった。けれどボルクは慣れた手つきで舵を切り、船は波の山と谷を上手に乗り越えていく。男はやはり腕の良い船乗りだった。10年勘で海面を見てきた人間特有の、ほんの少し先の波を予測する目を持っている。


「リョウ、漁場までどのくらいかかると思う?」


ボルクが俺を試すように尋ねた。


俺は空を見上げた。


雲の流れ、湿度、風の方向、海鳥の高度。


「3時間と少し」と俺は答えた。


「向こうから流れてくる潮の重さで、たぶん少し早めに着く。風は今のうちは安定するが、午後には南西に振れる。帰りは思ったより遅くなる」


ボルクは無言だった。


ジルが船尾で俺を睨んでいるのが視界の隅に見えた。


漁場に到着。


ボルクが舵棒を反対に切り、船を風上に向ける。帆を半分巻き取って船速を落とす。海の色がここから少し濃い藍色に変わっていた。海底が深くなっている目印だ。


刺し網を流し始める。網は前日にギルドの作業場で俺が一気に繕い直したやつだ。漁師たちが半年放置していたものが2時間で全面復活した。ボルクはそれを見て一晩で4枚分を俺に頼んだ。


網が海中に沈んでいく。


流し込みの後は、待ち。


1時間。


海上で待つ1時間というのはひどく長い。


風と波だけがゆっくりと体を揺らす。船は生き物のようにきしむ。空には4枚翼の小鳥が舞い、遠くで何か巨大な海洋生物が背鰭を一瞬だけ水面に出して消えた。10メートル級の魚影だった。あれは何だ、と俺は思った。けれど聞いても誰も知らない名前を出されるだけだろう。


俺はその時間に、船尾で次の作業を始めた。


1匹も魚はまだ獲れていないのに、なぜか俺は包丁とまな板を出していた。


「何の準備だ」


ジルが訝しんで聞いてきた。


「魚が上がったらすぐ処理する」


「処理? 港に戻ってから売りに出すんだよ」


「網から外したら港に戻るまでに死ぬ。死んでから時間が経つほど劣化する。だから上がった瞬間に処理する」


「……上がった瞬間に?」


「血抜きと神経締め。船上でやれば、港に着いた頃には港まで持って帰った魚と倍の値段がつく」


ジルは黙った。


何かを言いかけて、結局言わなかった。


ボルクが舵棒を握ったまま俺の手元を見ていた。


第一回の網起こし。


ボルクの掛け声でジルとエドが網を手繰り寄せ始めた。網は重かった。何かがかかっている重さだ。船が少し傾く。


サイズの揃ったサバが網にかかっていた。20匹ほど。


漁師たちが歓声を上げた。サバは大衆魚だが、まとまった数が獲れれば確実に銅貨になる。


俺は1匹ずつ網から外しながら、即座に処理を始めた。


まず、エラの後ろから包丁を入れて頸動脈を切る。続けてバケツに張った海水に頭から沈めて血を抜く。サバが暴れる。けれどそれは末梢神経の反射であって、血液の循環は止まっている。30秒も経つと暴れも止まる。


次に脊椎を貫く位置で頭を落とし、内臓を抜く。


──これだけだ。


けれどこれだけのことを、この世界の漁師は誰もしていない。


ジルが目を見張っていた。


「リョウ、おまえ……」


「仕事だ」


俺は短く返した。


「なんで」


「血が肉に残れば腐敗が早まる。内臓は最も腐りやすい部位だ。船の上で抜いておけば、港まで持って帰る時間そのものが鮮度の保存時間になる」


ジルの目は次第に赤くなっていった。怒りなのか屈辱なのかわからない感情が瞼の裏で渦巻いている。けれど男の手は動かなかった。憎しみと、好奇心と、職人としての本能が混ざり合っていた。


自分が10年、いや15年やってきた仕事の意味を否定されるのは、誰にとっても辛い。ジルがこの場で俺に殴りかかってこないだけ、彼はまだ常識的な範囲の漁師だった。


サバを次々に処理する俺の手は止まらなかった。


1匹あたり40秒。


20匹で14分弱。


港まで戻る3時間の間に、20匹のサバはほとんど劣化しないだろう。


ボルクが奇妙な声で言った。


「リョウ、おまえの手、まるで何かに憑かれてるみたいだな」


「憑かれてはいない」


「おまえの先生は本当にすげえ人だったんだな」


俺は何も言わなかった。


第八海鵬丸でこの動作を最初に教えてくれたのは、当時60代だった爺さんの先輩だった。すぐに陸に上がってしまったあの爺さんは、もうとっくに死んでいるかもしれない。けれど確かにすごい人だった。爺さんは俺に「丁寧にやれ」とだけ言った。「丁寧にやれば魚が応えてくれる」と。最初は意味がわからなかったが、いまならわかる。


第二回、第三回の網起こしも順調だった。


サバ60匹、アジ40匹、それから1匹だけ大きなマダイ。マダイは赤身魚と違って身質の劣化はゆっくりだが、それでも血抜きと神経締めをしておけば1日経っても刺身でいけるレベルになる。


マダイの目に針を刺して延髄を貫いた瞬間、ジルが息を呑んだのが聞こえた。


巨大な赤い魚体が、生きているのに、生きていないように、静かになった。動かないのではない。「動こうとしなくなった」という表現の方が近い。神経の指令が途絶えたから筋肉は硬くならず、結果として死後の身は柔らかいまま保たれる。


「リョウ、それは何だ」


「神経締め。ピアシングとも言う」


「魚が一瞬で動かなくなったぞ」


「動かないんじゃない。神経が遮断された。死後硬直も遅くなる」


ジルは何度か口を開けて閉じた。


男の中で何かが動いていた。それが嫉妬から好奇心へと、わずかに揺れ始めた瞬間だった。


帰港。


風は予想通り南西に振れて、帰りの航海は予定より少し遅れた。けれど船倉の魚はすべて生きているように艶やかなままで、ボルクは何度も振り返って氷の代わりに張った海水浴室の中の魚を見ていた。


男は子供のように小声で「すげえな……」と呟き続けていた。


ヘラ・ロッタ号が桟橋に着いたとき、市場ではすでに昼の競りが始まっていた。


ボルクは即座にタライ車に魚を積み込み、ライン・カラの中央市場へ走った。


そして30分後、戻ってきたボルクの顔は、人生で初めて宝くじに当たった男のそれだった。


男は走ってきて桟橋の上で膝に手をつき、息を整えてから俺の肩を掴んだ。掌の力は熊のようだった。


「リョウ……サバが、銀貨1枚」


「1枚?」


「1匹あたり、銀貨1枚だ」


ジルが目を剥いた。


これまでサバは1匹あたり銅貨3枚程度の取引だった。それが10倍以上の値段で売れている。


「マダイは金貨1枚だ」


ボルクは震える指で言った。


「いつもは銀貨2枚だ。それが、金貨1枚だ」


5倍。


ヘラ・ロッタ号、本日の水揚げは合計で金貨5枚相当。普段の20倍近い。


ジルは口を開けたまま桟橋に立ち尽くしていた。


ライン・カラ中央市場、王都向け仲買人の馬車前。


仲買人は神経締めされたマダイを白い布の上に置いて、薄く切った身を口に運んだ。


男は咀嚼を止めて、目を閉じた。


そして開いた目には、商売人の顔ではない、純粋な驚きの色があった。


男は40年市場で働いてきた人間だった。あらゆる魚を見てきた。あらゆる嘘を見破ってきた。けれどこの魚の身質は、その40年で一度も見たことがない。


「これは……どこで」


「リョウ・キジマという男がやった」


ボルクは答えた。


「うちのギルドの新人だ」


「キジマ」


仲買人はその名前を、何度か口の中で転がした。


「キジマ。覚えておこう」


仲買人は手帳を取り出し、その名を書き付けた。


そしてその夜、王都行きの早馬が一頭、夜の街道を駆け抜けた。馬蹄の音が街道沿いの宿場を起こした。何事だろうかと宿の主人たちが顔を出すほどの速度だった。


馬の背中には1通の封書があった。封書の宛先は、王都ヴァリスの王宮、大膳寮(だいぜんりょう)──宮廷食材調達所。


リョウ・キジマという名前は、その日のうちに王都の高位貴族たちの噂のひとつになった。


漂流者の名前が王都の貴族の口にのぼるのは、王国の歴史でも稀なことだった。けれどもっと稀なのは、その漂流者本人がそれを完全に知らないままでいることだった。


けれど俺はそんなこととはつゆ知らず、ギルドの宿舎で疲れ切って眠っていた。


健気な金属が船底で静かに腐り始めていることも、ジルが井戸の縁で拳を握りしめながら俺を呪っていることも、何ひとつ知らなかった。


知らないまま俺は深く眠った。


10年ぶりに、誰にも怒鳴られない夜だった。それだけのことが、こんなにも深い眠りをくれるものだったのかと、夢の中の俺はゆっくりと驚いた。


──夜中、港の魔導灯の青い炎がふっと一瞬揺らいだ。


これに気づいた漁師は誰もいない。


それはアルデロワ王国全土を覆う「国土結界」が、第二王女セレネ・ヴェル・アルデロワの体内で、ほんの少しだけ余分に魔力を消費した証だった。


その夜、王都の奥深く、王宮の北の塔で、若い王女が血を吐いた。


銀の盆に落ちた赤い飛沫を見て、王女は静かにため息をついた。これで何度目だろうか。月に2度、3度と頻度が上がっている。


彼女の侍女が震える声で神官を呼んだ。


神官長アーシェが駆けつけたとき、セレネは血の混じった唇でかすかに微笑んだ。


「大丈夫よ、アーシェ」と王女は言った。


「私はまだ……腐りきっていないわ」


神官長は無言で王女の手を握った。


国土結界の崩壊と、王女の死は、ほぼ同義だった。


そして王国は、これを止める手段を、もう何百年も探し続けていた。


けれど誰も知らなかった。


同じ夜、王国の南端の港町で、たったひとりの漂流者が、知らぬ間に世界を救う最初の歯車を回し始めていることを。


神経締めされた魚は、長く保つ。


神経を遮断された王女もまた、長く保つ。


けれど両者の根本的な違いを、まだ俺は知らなかった。

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