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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第3章「これ誰でもできる仕事だろ」

雨の朝だった。


灰色の雲が港の上に垂れ下がり、海はくすんだ鉛の色に沈んでいた。出漁を諦めた漁師たちが20人ほどギルドの作業場に集まり、誰もが憂鬱な顔で破れた網を前にしていた。


そして俺の前にも一抱えの網があった。


古株のボルク・ガルガードが俺をここに連れてきた。


試験だ、と男は言った。本人は親切のつもりらしかったが、ボルクが俺を試そうとしているのは明らかだった。昨日のマグロの神経締めはたまたまかどうかを見極めようとしている。それくらい腕の良い漁師に冷遇された経歴のある男なら、俺の出現を疑うのが普通だ。


俺は試されることに慣れていた。


鬼塚に10年試され続けた人間に、新しい試験官は別段怖くなかった。


「リョウとやら」


ボルクの声は太く、煙草を1万本吸ってきたような胴間声だった。50過ぎ、肩幅が異常に広く、左の頬に鉤型の傷がある。漁師ギルドの古株として若い連中ににらみを利かせている男。


「昨日のマグロは聞いた。神経締めとやら、見事な腕前だ」


「どうも」


「だがな、マグロが神様の魔法で生き返ったってんなら俺は信じる。たまたまだったってんなら俺は許す。けどな、おまえがこの先この港で食ってくつもりなら、ひとつ証拠を見せてもらいたい」


ボルクは破れた網を顎で示した。


「網仕事、できるか」


俺は網を見た。


麻糸の網だった。化繊ではない。一目の大きさは10センチほど。漁の用途は──触ってみて見当がついた。底引きではない。中型の表層魚を獲るための刺し網だ。破れているのは中央部分、明らかに何か大きな魚が暴れて突き破った跡。穴は楕円形に大きく口を開け、糸が四方八方に飛び出している。


周りの漁師たちが俺を見ていた。


ジル、というあの若い男もいた。井戸の縁で爪を噛んでいた男だ。今は腕を組んで俺を睨んでいる。


俺は親指の付け根を擦った。


「網針はあるか」


俺は短く尋ねた。


「網針?」


ボルクは首をかしげた。


「破れた網を繕うときに使う針だ。竹でもプラスチックでもいい」


「プラ……?」


「いや、ない。竹でいい」


ボルクは横の少年に何か命じた。


少年は港の端の道具小屋まで走っていった。雨に濡れて戻ってきた頃には、髪も顔もびしょ濡れだった。少年が走っていって、しばらくして奇妙な道具を持ってきた。それは網針ではなかった。ただの太い縫い針と、糸を巻きつけるための木の枠。これでは効率が悪すぎる。


俺はため息をつき、自分の腰のベルトに差してあった木片を取り出した。漂着したときに袋に入っていたものらしい。中世風の薄汚れた紐にぶら下がっていた、誰かが彫り途中でやめたらしい木の塊。


俺はナイフを借りて、その木片から網針の形を削り出した。


長さ15センチ。両端が尖り、中央部分にスリットの入った薄い舌状の道具。


削っている途中、周囲の漁師たちのざわめきが消えた。誰もが俺の手元を見ていた。


そして俺が網針に修復用の糸を巻き始めると、ジルが鼻で笑った。


「何それ、おもちゃ?」


「黙って見てな」


ボルクが低い声で制した。


俺は網に向き合った。


まず破れた穴の周囲を整える。


これを「足を作る」と呼ぶ。


破れた穴は楕円形に膨らんでいるが、そのままでは規則性が壊れていて新しい糸が組めない。だから穴の縁を少しずつ切り落として、四角形に近い、網目の規則性が保たれた形に整える。本来なら網のサイズが小さくなるはずだが、漁師は誰でも知っているとおり、繕った網は元より少し小さくなっていい。それで構わない。


ハサミの代わりに小ぶりのナイフでチョキチョキと縁を整えていく。


5分ほどで穴が「整形」された。


周囲のざわめきが大きくなった。誰もこれをやらなかったらしい。誰も「足を作る」工程を知らなかったらしい。彼らはただ穴の縁から糸をぶら下げて引っ張り合わせ、結び目を作って、ぐちゃぐちゃに塞いでいた。だから繕った網はすぐにまた破れた。


これは技術以前の話だ。網目という構造の意味を理解していないだけだ。網は無数の正方形が組み合わさった力学的な構造体であり、ひとつの目に加わった力は周囲の目に均等に分散される。けれど結び目が不規則な場所では力が一点に集中する。集中すれば切れる。それだけのこと。


そんな当たり前のことを、この世界の漁師は誰も知らない。


規則性のないところに力を加えれば、最も弱い結び目が真っ先に切れる。それだけのことだ。


俺は親指の付け根を擦って、それから網針を握り直した。


「結びは蛙股結びだ」


と俺は誰にともなく言った。


「右手の網針を網目に潜らせて、左手の指で網目の大きさを揃える。糸を一回くぐらせて、もう一回戻して締める。これで一目」


言いながら手が動いていた。


体に染み込んだ動きだった。10年で、俺はこの動作を、たぶん何十万回繰り返してきた。第八海鵬丸の甲板で、暇さえあれば網を繕った。鬼塚に「金にもならねえ仕事してんじゃねえ」と何度も殴られながら、それでも繕った。なぜなら鬼塚は知らなかったが、繕われていない網は1か月でただのゴミになるからだ。


1秒に1目。


1分で60目。


1時間で3,600目。


俺の手の中で網針が紡錘のように行き交い、やがて穴が消えていった。


不思議な感覚だった。


第八海鵬丸の甲板で何百回もこの作業を繰り返したとき、俺はいつも自分のことを「ただの作業者」だと思っていた。けれどいま、見知らぬ顔の漁師たちに囲まれてこの作業をしていると、俺は何か別の存在になりかけていた。


教える側の存在。


自分の手元を真剣に覗き込む眼差しが、肩のあたりで何本も交差している感覚があった。


漁師たちは無言だった。


雨だけが屋根を叩いていた。


ボルクが俺の隣に立って、繕い終えた網を持ち上げた。男の太い指が新しい結び目を触る。引っ張る。さらに強く引っ張る。糸は微動だにしない。一斉にきしむような音がして、男の顔がゆっくりと変わった。


「……二重蛙股結びか」


太い声が掠れていた。


「俺の親父が死ぬ前、最後に編んだ網に、これと同じ結び目があった」


「同じ?」


「親父の親父の代から伝わってた結び方だ。20年前に死んだ網職人が知ってた最後の技だった。リョウ、おまえどこでこれを覚えた」


俺は答えに困った。


第八海鵬丸の元甲板長、いまはもう陸に上がった爺さんに教わった。あの爺さんも師匠から教わった。たぶん日本中の漁師の中で、それを知っている人間はもう数百人もいない。


「……師匠から」


結局そう答えた。


「亡くなった師匠から、いっぱい教わった」


「その師匠の名は」


「言えない。約束だ」


ボルクはしばらく俺の目を見つめてから、ゆっくりとうなずいた。


「いいだろう。職人には職人の流儀がある」


雨の音が強くなった。


ボルクは振り返って漁師たちに大声で告げた。


「みんな見ろ! これが本物の網仕事だ! おまえら、半年かけても繕えなかった網を、こいつは半時もかけずに直しちまった!」


漁師たちはうなずいたり、首を振ったり、何も反応しなかったりした。ジルだけが顔を真っ赤にして、俺を睨み続けていた。


嫉妬だ、と俺はわかった。


鬼塚が俺を睨んでいたあの目とそっくりだった。


自分が知らないことを知っている人間を見ると、人はどうしてああいう目をするのだろう。教わればいいだけなのに。


作業場の隅で、俺は次にもう一つ違う作業を始めた。


ボルクの船が上架されているところに行って、船底をのぞき込む。フジツボが分厚く付着している。プロペラの代わりに使われている操舵用の鉄の舵板も、海水に侵されてぼろぼろだった。


俺はその舵板の付け根に、小さな金属の塊を取り付けた。


──手のひらに残っていた、あの亜鉛のアノードだった。


「ボルクさん、これ取り付けといた」


「なんだそれは」


「防蝕亜鉛。アノードと俺たちは呼んでた。海水に触れる金属は電気腐食で勝手に痩せていく。だからこいつを先に腐らせる。先に腐るやつがいるから、肝心な部分は無事でいられる」


俺は何気なく言った。


周囲の漁師には聞き慣れない単語の連続だ。


けれどジルだけが、なぜか妙な顔で俺の手元を見ていた。


そして気づいた。彼は鼻を鳴らして言った。


「電気腐食? は? 電気って、雷のことか? 雷で金属が腐るとかわけわかんねえこと言うなよ余所者」


「雷とは違う」


「じゃあ何だよ」


「説明しても今のおまえには理解できない」


ジルの顔が引きつった。


俺は別に煽ったつもりはなかった。事実を言っただけだ。電位差の概念をこの世界の住人に説明するには、まず金属の電子の話から始めなければならない。何時間あっても足りない。十分な前提知識を共有していない相手に「電子」と言っても通じない。それは相手が馬鹿だからではない。教育の機会がなかっただけだ。


けれどジルにはそう聞こえなかったらしい。男は「上等じゃねえか」と低く吐き捨てて作業場を出ていった。


ミラがすっと俺の隣に来た。


彼女は小さな金属の塊──俺が船底に取り付けた亜鉛のかけら──をじっと見ていた。


「リョウ」


「ん」


「これ、本当に船を守るの?」


「ああ」


「自分が先に腐ることで?」


「そういうこと」


ミラはしばらく無言だった。


やがて、ぽつりと言った。


「なんだか、健気な金属ね」


雨音の中で、その言葉だけが妙に大きく俺の耳に残った。


俺は親指の付け根を擦った。


健気な金属。


たぶん、その日その港町で、一番優しい言葉が、一番地味な仕事に向けられた瞬間だった。


後年このシーンを俺はたびたび思い出すことになる。何度も思い出すうちに、それが意味するものは少しずつ変わっていくのだが、いまの俺はまだ、その言葉が何を意味するかを知らなかった。


夜、俺はギルドの宿舎の屋根裏で、この国の言葉と通貨を覚え始めた。


ボルクから今日の手間賃として銀貨3枚をもらった。1金貨が10銀貨。1銀貨が10銅貨。シンプルでありがたい。手間賃として銀貨3枚はかなり気前のいい部類だとミラは言った。


屋根裏には小さな天窓があり、そこから星が見えた。


知らない星座だった。


だが疲れすぎていて感慨に浸る余裕もなく、俺はすぐに眠りに落ちた。


夢の中で第八海鵬丸の甲板を歩いていた。鬼塚はいなかった。アリだけが甲板の隅で笑って手を振っていた。


──来島さん、結びかた、ありがとうな、と少年は言った。


──元気でやれよ、と俺は答えた。


翌朝、俺はライン・カラの冒険者ギルドに登録された。


正確には漁師ギルドに準会員として登録された。これは王国の制度で、漁師として活動するためには必ずどこかのギルドに所属しなければならない。


受付はミラだった。


「リョウ・キジマ。出身は……どうする?」


「漂流者でいい」


「漂流者ってカテゴリ、本当にあるんだよ」


ミラは笑いながら木の札に羽ペンで何か書きつけた。書き終わると札の表面が一瞬青く光った。指紋が刻印される魔法らしい。これも俺の知らない技術だ。


「これ、身分証だから。なくさないで」


「ああ」


木の札を受け取って腰のベルトに下げた。手のひらに馴染む重さがあった。これがあれば、俺はこの世界で「いる人間」として扱われるらしい。逆に言えば、これがないあいだ俺は「いない人間」だったということだ。


漂流者カテゴリ。それでもないよりはずっとましだった。


──こうして俺の異世界の名は確定した。リョウ・キジマ。漁師ギルド準会員。漂流者出身。


これで俺は晴れてアルデロワ王国の漁師ギルド準会員、リョウ・キジマだ。


──成り上がりの最初の階段をひとつ、踏んだ瞬間だった。


けれど俺はまだ、自分が階段の前に立っていることにすら気づいていなかった。


そして気づかないまま、俺はその日のうちにボルクの船の出漁準備に駆り出されることになる。


雨はまだ降り続けていた。


海の上では晴れの日より雨の日の方が、人の本性が見える。


俺はそのことを、その日のうちに学ぶことになる。

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