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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第2章「魚が腐る町」

目覚めて最初に思ったのは「飯がまずい」ということだった。


正確には飯ですらなかった。茶色いどろどろの何かと、石のように硬い黒いパンの欠片だ。けれど10年間下っ端をやっていると味より生存を優先するようになる。俺はそれを口に流し込みながら、自分が置かれた状況を整理しようとした。


整理して、結論はひとつだった。


──ここは俺の知っている世界ではない。


「あんたよく生きてたね」


木の匙を持った若い女が俺の正面に座っていた。


さっき石畳の上で「待って」と言った声の主だ。亜麻色の髪を肩の上で切りそろえ、日に焼けた頬にそばかすが散っている。年は俺より一回りほど若い。20歳前後といったところか。漁師の家の娘らしい節くれだった指。


「裏路地で倒れてた。3日寝てた。死人みたいな顔だったよ」


「3日……」


自分の声が掠れていた。喉が砂を詰めたように痛んだ。


「ここは」


「ライン・カラ。ギルドの宿舎。あんた、漁師?」


「ああ」


「どこの船?」


俺は答えに詰まった。なんと答えればいいのか。第八海鵬丸と言って通じる相手ではない。船長や漁労長の名前を出しても無駄だろう。


「……船は沈んだ」


とりあえずそう答えた。嘘ではない。少なくとも俺にとっての船は沈んでいる。


「そうか」女は顎を引いて短くうなずいた。「うちのギルドにも嵐で消えた船はいくつかある。あんたが流れ着いたのも、たぶんそのうちのひとつから飛ばされたんだろうって、ボルクさんが言ってた」


「ボルク?」


「漁師ギルドの古株。あたしが連れていきたいって言った相手」


女は匙を置いて手を差し出した。


「あたしはミラ。漁師ギルドの受付やってる。あんたの名前は」


「……来島カズマ」


「キジマ・カズマ?」


ミラの口の中で名前は妙な発音に変わった。彼女には「カズマ」が「ガズマ」に近く聞こえるらしい。それで俺は気づいた。俺たちはお互いに同じ言葉を喋っている。けれど発音だけが微妙にずれる。脳の中で誰かが翻訳しているような違和感が、ずっと耳の奥に居座っている。


「リョウでいい」


とっさに俺は答えた。本名を名乗る理由がない気がした。


「リョウ・キジマだ」


「リョウ。覚えやすくていいね」


ミラは笑った。10年ぶりに俺の名前を呼ばれたような気がした。鬼塚は俺を「来島」とすら呼ばず、「おまえ」「てめえ」「来島ァ」のいずれかでしか呼ばなかった。


食事の後、俺はミラに連れられて宿舎の外に出た。


そして本物の衝撃を受けた。


港町ライン・カラ。


朝の光が港湾をオレンジ色に染めていた。けれど美しい光景ではなかった。光の中に浮かび上がるのは、家々の壁を伝って流れる汚水と、道端にうずくまる物乞いと、痩せこけた犬と、その犬を蹴って通り過ぎる兵士の姿だった。


海岸線に沿って湾曲した石畳の道、その内側にひしめく木造の家屋、半ば崩れかけた石造りの教会、そして何より港を埋め尽くす船。


全部が違った。


何より、船が違った。


港に並んでいるのは木造の帆船だった。エンジンはない。スクリューもない。船底をひっくり返して見ても、防蝕亜鉛のついていない、ただの木と鉄釘の組み合わせ。中にはマストすら傾いた廃船同然のものもある。それを修理しているらしい男たちが、船腹に椰子の繊維のようなものを叩き込んでいた。


俺は呆然と立ち尽くした。


中世だ、と最初に思った。


けれど中世にしては妙な点もあった。空には小さな鳥のような影が群れて飛んでいて、よく見るとそれは2本の脚と4枚の翼を持っていた。建物の角に下げられた金属製の籠の中で、青い炎のようなものが揺れている。明らかにロウソクの炎ではない。


中世風の何か、と俺は結論した。


中世風の、しかも俺の知らない、ファンタジーじみた何か。


鬼塚に殴り殺される前に、俺は溺死した。死後の世界に流された。一番ありえそうな仮説はそれだった。けれど死後の世界にしては腹が減るし、傷は痛むし、ミラは温かい。


となると残る仮説はひとつ。


「リョウ、顔色悪いよ。座る?」


ミラが俺の腕を支えた。


俺はかぶりを振った。座っている場合ではなかった。立ち尽くしている場合でもなかった。


港のすぐ脇、市場の隅に山と積まれた、半分腐ったマグロ。


そのマグロを見た瞬間、俺は10年分の習慣を一瞬で取り戻した。


「……これ、何?」


「魚」


「いや、何でこんな扱いなんだ」


ミラは怪訝そうに首を傾げた。


「どんな扱い?」


「身が割れてる。エラから内臓まで腐ってる。ぜんぶ捨てるのか?」


「捨てるよ。売れないから」


「売れないって……これ獲れたばかりだろ?」


「2日前。うちの船が獲ってきた」


「2日も常温で放っといたのか、嘘だろ!?」


俺は思わず声を上げた。市場の連中が振り向いた。


全身に鳥肌が立っていた。これは虐待だ。魚への、というより、漁業そのものへの虐待だ。あの船員たちが命を懸けて獲ってきた魚を、こんな扱いで腐らせている。粗末な前掛けをした男たちの目には、明らかに「何だこの余所者は」という色があった。けれど俺は構わなかった。


マグロは赤身魚の中で最も鮮度劣化が早い種類だ。獲れた瞬間から肉の中で乳酸が溜まり、体温で身が焼け、放っておけば数時間で身割れする。船上で氷漬けにし、港に着いたら即座に内臓を抜き、頭を落として血抜きする。それでようやく丸1日もつかどうか。


2日放置したマグロなど、正気ならとっくに犬の餌にもしない。


「ここでは」と俺は息を整えてから尋ねた。「魚を獲ったあと、どう処理してるんだ」


「網から外して、桶に入れて、市場に運ぶ」


「氷は」


「氷? 山の方には冬に氷を切り出す業者がいるけど、あれは貴族向けだよ。漁師は使わない」


「内臓は」


「店で買った人が抜く」


「血抜きは」


「血抜き? 何の?」


ミラは本気でわからない顔をしていた。


俺は天を仰いだ。


──この国の漁師は、自分が獲った魚を、なぜ売れないのかすら理解していない。


港の壁にもたれて俺は親指の付け根を擦った。


強烈な情報量だった。中世風世界、明らかに地球とは違う生物、それでもなお発展していない漁業技術。けれど混乱と同時に、奇妙な熱がみぞおちのあたりに灯っていた。


これは、俺の知っている話だ。


鮮度管理。神経締め。血抜き。網繕い。エンジンメンテナンス。10年間、俺が誰にも褒められず、ただ毎日繰り返してきた地味で退屈な現場仕事。それがここでは、誰も知らない奇跡なのだ。


鬼塚の声がよみがえった。


「来島ァ、てめえみたいな下っ端、いてもいなくても変わんねえんだよ」


──そうか、と俺は思った。


そうかこの世界では、いてもいなくても変わらないと言われ続けた俺の仕事が、いるかいないかで世界の経済が変わる。


笑いがこみ上げた。


笑い声を漏らした俺を、ミラは妙な顔で見上げた。


「リョウ、頭、まだ濡れてる?」


「いや」


俺は首を振った。


「頭はもう乾いてる。たぶん、ようやく乾いた」


ミラに頼んで、市場の隅に転がっている腐りかけのマグロを1匹もらった。


商人は「変人だなあ」という顔をしながらも快く譲ってくれた。彼の前掛けには赤茶色の染みがべったりとついていて、一日中魚の血と汚物の中で過ごしている男の匂いがした。どうせ捨てる魚に銅貨1枚払うと言ったら、向こうから喜んで握らせてきたほどだ。本物の貨幣だった。表面に王冠と剣の紋章が彫り込まれている。


重さも、感触も、紛れもない金属。


──夢ではない。


俺は受け取った銅貨をミラに渡した。


「これでいい。釣りはあんたの分にしてくれ」


「えっ、ちょっと待って、これあたしのじゃないよ」


「あんたが拾わなかったら俺は石畳で死んでた。手間賃だ」


ミラは銅貨を握ったまま、頬を赤くした。


そういう反応をする女を、俺はずいぶん長いこと見ていなかった。健康そうな顔色、よく食べていそうな唇、湿った手のひら。生きている、ということが彼女の頬の赤みに全部詰まっている気がした。鬼塚の船には女はいなかったし、たまの寄港で会う女たちは銅貨ではなく金貨を握って初めて笑うようなプロばかりだった。


マグロを1匹かついで、俺はミラの宿舎に戻った。


そして包丁を借りた。


包丁とすら呼べない代物だった。鈍く、刃こぼれだらけで、しかも峰が直線ではなく波打っている。けれど無いよりはましだ。井戸から水を汲み、桶に張る。マグロの頭を落とし、エラを切り、心臓に向けて包丁を差し入れて血を抜き始める。


ミラが息を呑んだ。


「リョウ……何してるの?」


「血抜き」


「血抜きって」


「なんで」


「血が肉に残ってると腐敗が早まる。エラから血を抜いてやれば、身の劣化を遅らせられる」


「でも、もう死んでるよ」


「死んでても劣化はする」


俺は手を止めずに続けた。


「で、ここから神経締めだ」


マグロの頭部、左右の目の間の少し後ろ、延髄が走っている位置に細い棒状のものを差し入れる。本来なら専用のワイヤーがあるが、ここでは長い縫い針で代用するしかない。針を骨に沿って後頭部から尾びれの付け根までゆっくりと通していく。


「死後硬直を遅らせる処置だ」


と俺は説明した。


「魚は死んだあとも神経が動いて、身を硬くしようとする。神経を破壊しておけば筋肉が硬くならない。これだけで身質は劇的に変わる」


ミラはぽかんと口を開けて見ていた。


まるで魔法を見ているような顔だった。


処理を終えたマグロを井戸の水で冷やす。本当は氷水がいいが、ライン・カラには氷がない。そこで俺は宿舎の壁に立てかけてあった素焼きの壺に水を張り、その中にマグロを沈めた。気化熱を使って水温を下げるためだ。素焼きの細かな穴から水がじわじわ蒸発する。蒸発するときに気化熱を奪う。完全な氷水には及ばないが、何もしないよりは何倍もましだ。


ミラは黙ってその一連の作業を見ていた。


彼女の目はだんだん見開かれていき、最後には完全に作業の魔力に取り込まれていた。漁師の娘として彼女は無数の魚をさばく姿を見てきたはずだ。けれど血抜きと神経締めの技術はこの国に存在していない。10秒前の魚と10秒後の魚が違う物体に見える。それが彼女には魔法に映ったらしかった。


終わったとき、彼女は静かに言った。


「リョウ、あんた、何者なの」


俺は親指の付け根を擦った。


「ただの下っ端だよ」


と俺は答えた。


「下っ端ってのは、地味な仕事を10年やってきたやつのことだ。ただそれだけのことだ」


ミラは何か言いかけて、結局何も言わなかった。


翌朝、ライン・カラの市場で奇妙な事件が起きた。


商人ボルク・ガルガード、漁師ギルドの古株が、ミラの紹介で買い取った1匹のマグロを王都向けの仲買人に見せた。仲買人は最初マグロの艶を疑った。獲れて2日経っているとは信じられなかった。


試しに刺身にして食べた仲買人は、舌の上で身が溶けることに驚愕した。


そしてそのマグロは、ライン・カラ史上最高値で競り落とされた。


通常価格の8倍だった。


1匹の腐りかけの魚から、ひとつの町の運命が動き始めた瞬間だった。


けれどこのときライン・カラの誰も、それが世界史の動き始めだとは知らなかった。


ただひとり、ボルク・ガルガードは確信していた。


──あの余所者をなんとしても引き留めねばならない、と。


同じ朝、ライン・カラの裏路地でひとりの若い漁師が井戸の縁に座って爪を噛んでいた。ジルという名のその男は、ボルクの船で雑用係をしている。今朝の競りで王都の仲買人が腐ったはずのマグロに法外な値段をつけたという噂を聞いて、男は震えていた。


競りの値段が高かったからではない。


余所者がやったやり方を、自分は教わっていない。


教わっていないということは、自分の存在価値が下がるということだった。


──あの余所者を消さなきゃならねえ、と男は呟いた。


これがやがて第7章で噴き出すことになる、ライン・カラの古い壁のひびの始まりだった。


けれど壁にひびが入ったことを、まだ誰も知らなかった。

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