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最底辺の甲板員、異世界の海を制す ~下っ端漁師が現代知識で成り上がる転生記~  作者: もしものべりすと


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第1章「マイナス60度の現場」

マイナス60度の冷凍庫から這い出た瞬間、頬の汗が音を立てて凍った。


俺は10年間この音を聞き続けてきた。誰にも褒められず、誰の記憶にも残らず、ただ毎日凍って溶けてを繰り返す氷塊のような10年間だった。


そして今夜もまた、あの男の怒声が鋼鉄の甲板を裂いた。


「来島ァ! てめえ亜鉛の交換忘れただろうがよォ!」


鬼塚毅。この船の甲板長で、俺の人生における最大のハズレくじだった。


思えば俺がこの船に乗り込んだ18の春から、この男はずっと同じ顔で俺を見てきた。腹立たしいやつを見る顔だ。だが俺がそんなに腹立たしい人間だからではない。鬼塚は誰を見てもそういう顔をする。腹立たしい部下を持っているという事実そのものが、男の自尊心を保つ最後の燃料だからだ。


一度だけ俺は確信した瞬間がある。新人だった頃、揚縄中に幹縄が機械に絡みかけた。俺はとっさにラインカッターを掴んで切り離した。船の損害は数千円分の幹縄ですんだ。本来なら数十万のラインワインダーが壊れるところだった。


その夜、漁労長に呼ばれた鬼塚は、ためらいもなく言った。


「俺の指示で来島が切りました」


漁労長は鬼塚の肩を叩いて笑った。


「おまえは育てるのが上手いな」


俺の名前は誰の口にものぼらなかった。


そういう10年だった。


マグロはえ縄漁船「第八海鵬丸」は太平洋の真ん中で揺れていた。揺れていたというより殴られていた。低気圧が予報より2日早く北上してきて、いま船を縦にしようとしている。


風速28メートル。波高6メートル。本当ならとっくに作業を切り上げて避難航行に入るべき天候だ。


海面はもはや海面と呼べる平らさを失っていた。山と谷だ。船はその山の頂上に押し上げられたかと思うと、次の瞬間には底へ滑り落ちる。落ちる瞬間、内臓が浮く感覚が体を駆け抜ける。10年やってもこの感覚には慣れない。慣れたと言うやつがいたら嘘つきだ。


漁労長は今晩でこの低気圧をやり過ごせると判断したらしい。馬鹿げた判断だった。気圧計の数値はまだ落ち続けている。風向きも一定しない。低気圧の中心がこちらに向かっているサインだ。だが船長は今日も漁労長の機嫌を伺ってばかりで、漁労長は鬼塚の機嫌を伺ってばかりで、鬼塚はただ俺たち下っ端を怒鳴りつけることでしか自分の存在意義を確認できない男だった。


「忘れてねえですよ」


俺は短く返した。


「先週交換しました。記録もつけてあります」


「あぁ? てめえそれ俺の指示だったろうが! 誰の手柄だと思ってんだ!」


ああいつものやつだ。


俺がやった作業を「俺の指示だ」と言い換えて手柄にする。10年やられ続けて、もう数える気もしない。


漁労長も船長も無線室で煙草をふかしていて、ここには俺と鬼塚しかいない。波が船尾を叩くたびに鋼鉄が呻く。冷凍庫の扉から漏れる白い冷気が甲板に這って、俺の作業靴の周りで蛇のようにとぐろを巻いた。


「とにかく見てこい」鬼塚は親指で船尾を指した。「アノードが消耗してたら今夜中に交換しろ。明日の揚縄に間に合わせろ。返事は」


「はい」


「聞こえねえなあ?」


「はい」


俺はもう一度言った。


言い争う気力はとうに錆びついていた。


反論すれば30分は怒鳴られる。怒鳴られている間にアノードの交換は終わらない。終わらなければ明日の揚縄に支障が出る。支障が出れば船全体に被害が及ぶ。被害が及べば結局俺の責任にされる。算数のようにシンプルだった。


黙って動くのが一番早く片づく。


10年かけて学んだのは、結局それだけだった。


親指の付け根を擦る癖が出ていた。


緊張すると俺はそこを擦る。誰にも気づかれたことのない癖だ。鬼塚にも、誰にも、俺の癖を気にする人間はこの船にひとりもいなかった。


防蝕亜鉛。船員はみんな略してアノードと呼ぶ。プロペラやシャフトを電気腐食から守るための、ただの金属の塊だ。海水に浸かっている金属同士は電位差で勝手に腐っていく。だから先に腐ってくれる別の金属を取り付けておく。先に腐るやつがいるから、肝心な部分は無事でいられる。


地味な仕組みだ。


退屈で、誰にも話題にされない、けれど船を支える基本中の基本。


俺は工具袋を肩にかけて船尾へ向かった。デッキライトの黄色い光が波しぶきの中で滲み、船尾甲板は油と海水でぬらぬらと光っていた。手すりは凍りついている。一歩ごとに足の裏で氷の薄皮が割れる感触があった。


「来島さん」


細い声がした。振り返ると技能実習生の少年が震えながら立っていた。インドネシアから来て3か月の若い船員だ。確か名前はアリだったか。


「外、危ないです。鬼塚さん、嵐わかってない」


俺はうなずいた。


「わかってる。だから俺が行く」


「俺、手伝います」


「いや。船室に戻ってろ。揺れが本格的になったら甲板にいる人間は減らしたほうがいい」


アリは唇を噛んだ。それでも引き下がる気はないらしく、俺の工具袋に手を伸ばした。


「俺、教えてもらってます。来島さんに、結びかた、エンジンのこと、いっぱい」


「鬼塚には言うなよ」


「言いません」少年は笑った。「鬼塚さん、来島さんの手柄、ぜんぶ自分の手柄」


そう言われて俺は少し笑ってしまった。10年間で初めて、誰かが俺のためにあの男を笑った気がした。


けれどその笑いは長く続かなかった。


船尾甲板に出た瞬間、波が手すりを越えてきた。


海水は氷より冷たかった。


顔面を叩きつけられて視界が一瞬白くなり、息が詰まり、それから手のひらに塩の粒の感触が残った。アノードの位置を確認するためにはいったん船尾の手すりにロープを張って体を固定する必要がある。命綱なしで作業しろなんて本来ならありえない指示だ。けれど鬼塚は安全帯の鍵を持ったまま無線室に戻ってしまっていた。


俺は唇を噛んだ。


ここで戻れば「使えねえ野郎」と100回言われる。新しい亜鉛塊を持ったまま戻れば「明日まで何やってたんだ」と100回言われる。どちらも結果は同じだ。


だから俺は手すりに掴まって身を乗り出した。


──小さな金属の塊。


工具袋から取り出した亜鉛のアノードは、たかだか手のひら大の重さしかない。表面は灰色で、そっけなくて、何の主張もしていない。船底のどこにくっつこうと誰も褒めない。誰も気にしない。けれど海水と金属の電位差を感知して、自分から先に腐ることでプロペラの本体を守る。


健気な金属だ、と俺はふと思った。


そんなことを思ったのは10年で初めてだった。


「来島ァ! まだやってねえのかよ!」


鬼塚の声が船尾に飛んできた。


振り返ると、男はキャビンから半分だけ顔を出して俺を睨んでいる。安全帯はやはり持っていない。


「もうすぐです」


「もうすぐじゃねえ! 今すぐだ!」


そして男は何を血迷ったか、こちらに向かって歩いてきた。


嵐の甲板に。命綱もなしに。指示を出すだけのために。


俺はいやな予感がした。


鬼塚の足元はゴム靴ではなくただの作業靴だった。氷の張った甲板でゴム底のないやつが走るとどうなるか、船乗りなら誰でも知っている。


「鬼塚さんッ──」


言い終える前に船が大きく傾いた。


そこからは時間が伸びた。


船尾が海面に突っ込み、巨大な水柱が立ち上がった。鬼塚の足が滑った。男は手すりに飛びつこうとしてバランスを崩し、その肘が俺の背中に当たった。


たったそれだけだった。


たったそれだけで俺は手すりの外側に押し出された。


体が浮いた。


重力が逆向きになる感覚があった。


俺の頭は妙に冷めていた。


海に落ちる人間の最後の瞬間というのはこんなものなのかと、まるで他人事のように考えていた。視界の隅に鬼塚の顔が見えた。男はあわてて手を伸ばす素振りも見せず、ただ目を見開いているだけだった。助けようとしていない。それどころか、声を上げてもいなかった。


──ああ、こいつは俺の落下を「事故」として処理する気だ。


そう理解した瞬間、俺の右手だけが反射的に動いた。


工具袋を投げ捨てて、亜鉛のアノードだけを掴んだ。


なぜそうしたのかは、いまでもわからない。


ただ、何か握っていたかった。10年俺を支え続けてくれたものを、最後の最後で握っていたかった。


落下していく数秒の間に、俺は奇妙なほど多くのことを考えた。


親父の顔。死んだ母親の顔。中学を出てから一度も連絡をとっていない妹の顔。給料の振込先になっている口座の番号。最後に食ったコンビニ弁当の銘柄。それから、なぜかアノードの交換手順をひとつひとつ。


これが走馬灯というやつかと冷静に考えた。


海面が顔を打った。


衝撃で口が開いて塩水が肺に流れ込んだ。冷たさは痛みに似ていた。冷たい、ではなく、痛い、と脳が翻訳した。


視界が黒くなった。


上下がわからない。プロペラに巻き込まれていないか、と最後に思った。


そしてすべてが消えた。


──次に意識が浮上したとき、俺は冷たい石畳の上に倒れていた。


石畳。船の甲板ではない。鋼鉄でも木でもない、明らかに陸の感触。


鼻先で何かが腐っていた。


強烈な匂いだった。死んだ魚と人間の汚物と濡れた木の皮が混ざったような、むせ返る臭気。マグロ船の魚槽で1週間放置された冷凍庫より臭い。


漁港の臭いに似ている、と俺は思った。けれど俺の知っている漁港はもっと整理された臭いをしている。氷と魚と機械油。ここの臭いはそれ以前の、もっと無秩序な、人間の生活そのものが垂れ流されている臭いだった。


視界はぼやけている。けれど耳には音が届いていた。鳥の鳴き声、車輪の軋み、誰かの怒鳴り合い、それから波の音。


波の音?


俺は起き上がろうとした。全身が鉛のように重い。だが指は動く。右手の握りこぶしの中に、まだ亜鉛のアノードがあった。手のひらの形に冷たい金属の感触が残っている。


「お、生きてやがる」


知らない声が聞こえた。男の声で、聞き覚えのない訛りがあった。


「裏路地に流れ着いたんだとよ。あの嵐のあとな」


「身ぐるみ剥いどけ」


「待て、まだ生きてるって」


「死にかけだろうが。死んだら剥ぐ。それだけのことだ」


まずいな、と俺は思った。


起き上がろうとして首を動かした。瞼を無理矢理こじ開ける。視界の隅に複数の人影が見えた。粗末な布の服。腰に提げた短い刃物。誰かの腰に下げた皮袋。


マグロ船にも昔ながらの船員はいたが、こんな格好の連中はいなかった。映画の中世ヨーロッパの再現フィルムでも見ているような、そういう違和感だった。


「ねえ、待って」


別の声が割り込んだ。少女の声に近い、若い女の声だ。健康的に日に焼けた声、と俺は思った。声に色がついているように聞こえるのは、たぶん意識がまだ朦朧としているせいだ。


「この人まだ息あるよ。ギルドに連れていけば足代もらえるかも」


「ギルドが平民の溺死体に銅貨くれるかよ」


「漁師なら見てやってよ。手のひら、見て。網の繰り返しで潰れた指してる」


沈黙が落ちた。俺の右手が誰かに引き寄せられた。冷たくて細い指が俺の手のひらを開かせた。亜鉛の塊が転がり出る音がした。


「……金属だ」その若い女の声が言った。「変なお守り。見たこと、ない形」


俺は何かを言おうとした。


けれど舌が痺れて言葉にならなかった。代わりに、瞼の裏に最後に焼きついた光景がよみがえった。鬼塚の顔。助けようともしなかった、あの男の顔。


──もし生き延びたら、と俺は思った。


もし生き延びたら、今度こそあいつに、地味で退屈な俺の仕事が、何の役にも立たないと馬鹿にされ続けたあの仕事が、本当はどれだけ世界を支えていたか、教えてやる。


そう思った瞬間、視界はまた黒く塗り潰された。


港町ライン・カラ。


アルデロワ王国の南端に位置する、人口5千ほどの寂れた漁港。


後にこの町の名は王国史に深く刻まれることになる。一介の余所者が、ただ親指の付け根を擦る癖を持った男が、この町から世界の海図を書き換えていくからだ。


けれど、それはまだ先の話だった。


まずは目を覚ますところから始める必要があった。

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