第20章「セレネの秘密」
海戦の最中、王宮の北の塔。
王女セレネは、寝台に半身を起こして、青い水晶を握りしめていた。
王女のそばには、神官長アーシェの代理として残った若い神官と、それから侍女がふたり。
そして、その夜、ひとりだけ、想定外の人物が、王女の部屋に入ってきた。
──マルコス王太子。
兄が、戦の最中に、妹の部屋を訪れた。
これは王宮の慣習では、ありえないことだった。王太子は閣議の議長として作戦地図室に詰めるべきであり、王女の私室に入ることは、年に一度の儀礼の場でしか許されない。
慣習を破ったのは、マルコス自身の判断だった。
マルコスは寝台の脇に立った。
王太子の鎧は、戦場には出ていないにも関わらず、軽く埃をかぶっていた。閣議で長く立ち続けていたためだろう。男の靴底からは、王宮の地下倉庫の石粉の匂いがした。たぶん作戦地図室と王女の寝室を行き来していたのだ。
王太子は妹の顔をしばらく見つめてから、低く言った。
「セレネ」
「お兄様」
「リョウは、勝てるか」
「勝てます」
王女の声は、静かだった。
「あの方は、地味な方法でしか勝てない方です。地味な方法は、派手な方法より、確実です」
マルコスは深く頷いた。
そして、王女のもう一方の手を、軽く握った。
「セレネ、ひとつだけ、訊きたい」
「はい」
「リョウは、お前を、新しい塊と取り替える方法を、探している」
「はい」
「もし、その方法が、見つかったとして」
「はい」
「お前は、もう、500年の契約から、解き放たれることを、望んでいるのか」
セレネは、長く目を閉じた。
寝室の窓の外では、夜風が冷たく吹いていた。
外洋の方角から、わずかに、火薬の匂いが届いていた。海戦の匂いだった。
王女は、目を開いて、答えた。
「お兄様」
「ん」
「私は、20年、自分の希望を、自分のものとして口に出すことを、許されてきませんでした」
「ああ」
「3歳のとき、私は、契約の中央に置かれました。その日から私の希望は、王国の希望でした。私の幸福は、王国の幸福でした。私の体は、王国の体でした」
「うむ」
「だから、いま、お兄様に『お前の希望を言え』と訊かれて、私は、何と答えていいのか、分かりません」
王女の声には、どこか戸惑った響きがあった。20年「希望」という言葉を、自分の中で熟成させる時間を持たなかった人間の声だった。
言葉を持たない感情は、言葉になる前に、別の形で漏れる。
王女の白い指が、寝具の縁を、何度も撫でていた。
マルコスは黙って、王女の手を、もう一度強く握った。
「セレネ」
「お兄様」
「お前の希望を、答える必要はない。私が、決める」
「お兄様」
「リョウが戻ってきたら、私が、お前を、契約から解き放つ。条件は、リョウが提示する『新しい塊』の準備が、整い次第。亜鉛塊でも、鉄塊でも、何でも構わない」
マルコスの声には、揺るぎはなかった。すでに何度も自問自答した結論を、口に出しているだけの声だった。
セレネは、目を見開いた。
「お兄様、それは、王国の運命を……」
「王国の運命は、王国が背負う。妹ひとりの運命を、王国に背負わせる時代は、もう終わる」
王太子の声には、500年で初めて、王家の長男としての、明確な意志があった。
──兄として、妹を守る、という意志。
そして、未来の国王として、500年の慣習を断ち切る、という意志。
セレネの目に、涙が溜まった。
涙は、王女の頬を、ゆっくりと、伝った。
一筋目が頬の半ばで止まり、二筋目がそれを追い越して顎まで滴った。寝台のシーツに小さな染みが落ちた。神官が静かに白い布を差し出したが、王女は受け取らずに、涙を頬に置いたままにした。
20年、こぼすことを許されなかった涙だった。
同じ頃、海上では、漁師艦隊の旗艦に組まれた契約陣が、王女の負担を、わずかに引き受けていた。
王女が涙をこぼした瞬間、契約陣の銀線の紋様が、ひときわ強く青く光った。
神官長アーシェは、それを見て、息を呑んだ。
「リョウ殿」
「は」
「王女様の心が、いま、動きました」
「と申しますと」
「契約陣の出力が、上がっています。王女様が、20年閉じ込めていた、何らかの感情を、いま、解放されました」
リョウは契約陣を見た。
銀線の紋様は、間違いなく、出力を上げていた。
出力上昇の波形は、機械の振動とはまったく違う、もっと有機的なリズムを持っていた。心臓の拍動に近い、けれど人間の心臓よりずっと深い、何かのリズム。
──理由は分からない。
──けれど、王女の負担は、ますます分散されている。
海上の契約陣が、王宮の北の塔の王女と、いま、確実に、繋がっていた。
距離にして数百キロ。けれどその距離は、契約陣の前では意味を持たなかった。地脈は、地球の反対側でも、同じ地脈だった。
セレネの寝室で、王女は、ようやく、自分の希望を、自分のものとして口にした。
「お兄様」
「ん」
「私、20年、たぶん、生きていなかった気がします」
王女の声は、20歳の女性の声に戻りつつあった。
「うむ」
「契約の陽極として、消耗していくだけの存在でした」
「うむ」
「だから、もし、契約から解き放たれたら、私は、20年分、生きてみたい」
「うむ」
「ライン・カラを、見てみたい。漁港を見てみたい。健気な金属が船底で腐っている、その船底を、自分の目で見てみたい」
王女は、そこで一度言葉を切った。
「あの方の出身の港を、自分の足で歩いてみたい。あの方が網針を握って削った、その作業場の屋根の下に、一度だけでいいから、立ってみたい」
マルコスは何も言わなかった。
妹がここまで具体的な希望を口にしたのは、20年で初めてだった。希望には常に細部がある。細部があるということは、その人間が、頭の中で、その場所を、何度も何度も、思い描いていたということだ。
兄は、妹が思っていたより遥かに、そのライン・カラの男のことを、頭の中で、長く、深く、思い描いていたことを、初めて理解した。
マルコスは、深く頷いた。
「分かった」
「お兄様」
「ん」
「お兄様も、私と一緒に、ライン・カラに、来てくださいませんか」
マルコスは、しばらく沈黙した。
やがて、男は、初めて、笑った。
「いいだろう」
「本当に?」
「王太子としてではなく、兄として、お前と一緒に、ライン・カラを、見に行く」
「お兄様」
王女は、初めて、20年ぶりに、子供のように、兄の手を握り返した。
兄妹のあいだに、20年閉じ込められていた何かが、いま、ゆっくりと、解凍されていた。
兄は、初めて、妹の手の小ささに気づいた。20歳になった妹は、3歳の頃と比べてはるかに大きいはずなのに、契約に消費された分だけ、再びほとんど子供の手のようになっていた。
その夜、海上では、海戦の最終局面が、始まろうとしていた。
夕日はすでに水平線の下に沈み、空には早い星がいくつか瞬いていた。海面は紺色に染まり、波頭だけが、わずかに残った西の光を反射していた。
鬼塚の旗艦と、リョウの旗艦は、岩礁地帯の最後の縁で、にらみ合っていた。
距離、約1海里。
鬼塚は、火炎魔法弾の発射ボタンを、低く構え直した。
──そして男は、ある選択をした。
漁師艦隊の旗艦ではなく、ライン・カラの本陣ではなく、海の真ん中に組み上げられた「契約陣」の方に、砲口を向けたのだ。
「ハインツ! あの装置を、最優先で破壊しろ!」
「は?」
「契約陣だ! あの装置が機能している限り、王国はびくともしねえ! あれを壊せば、王女が落ちる! 王女が落ちれば、王国が落ちる! 食料の話より、こっちが先だ!」
鬼塚は、自分が王国の結界の仕組みを正確に理解しているわけではないことを、自覚していた。
けれど男は、敵の急所を、本能で見抜く動物だった。
第八海鵬丸では、それで何度も部下のミスを摘発した。10年間、その嗅覚だけが、男を組織の上層に押し上げてきた。
男はいま、その嗅覚を、海戦の最終局面で発動させていた。
「畏まりました」
ハインツは命令を伝令に伝えた。
けれど男の伝達は、ほんの一瞬、わずかに遅れた。
男は元は穏やかな士官だった。半年で変わってしまった自分の中に、まだ消えていない何かがあった。海上に組まれた契約陣を、敵の弱点として破壊する命令を、男の中の古い良心が、一瞬だけ、ためらわせた。
けれど一瞬の後、男は、結局、命令を伝えた。
生き残るための判断だった。
男はもう「震えない」人間に、半年で訓練されていた。
鬼塚は、第八海鵬丸で身につけた「敵の弱点を見抜く本能」を、ここでも発揮した。
戦術書を読んだことのない男だった。海軍学校に通ったこともない男だった。けれど男は、生き残りのための嗅覚だけは、誰よりも鋭かった。それは漁船の甲板で10年磨かれた、暴力の経験から得た嗅覚だった。
男は学はなかったが、嗅覚だけは、本能的に鋭かった。
──そして男の嗅覚が見抜いたのは、リョウの戦術の唯一の弱点だった。
契約陣を破壊されれば、王女の負担は、すべて元に戻る。
王女は、契約陣に解放感を感じた直後の方が、その喪失を、より深く受けることになる。
リョウは、男の砲口の方向を見た。
そして、自分の旗艦の中央に組まれた契約陣を見た。
──距離は1海里。
──火炎魔法弾は、3秒後に到達する。
──契約陣は、リョウの旗艦の甲板に、固定されている。
──だから、契約陣を守るためには、旗艦そのものを、盾にするしかない。
──そして、盾になった旗艦は、火炎魔法弾の直撃を受ければ、確実に沈む。
リョウは、親指の付け根を、強く擦った。
人生で何千回擦ってきたか分からない癖が、いま、最後の判断の前に、もう一度、強く出ていた。
──道具の差は、人生の差だ。
──男は壊すために道具を握り、俺は繕うために握る。
──そして、繕うためには、まず、自分の体を、盾にする覚悟が要る。
王女との約束を思い出した。
──「あなたが私の代わりに腐ることを、私は、絶対に、許しません」
王女の命令だった。
けれど、いまここで契約陣が破壊されれば、王女は、もっと長い時間をかけて、もっと深く腐っていくことになる。
だから俺は、王女の命令を、半分破ることにした。
──完全に腐るのではなく、契約陣が機能している短い時間だけ、自分が盾になる。
──火炎魔法弾を、契約陣ではなく、自分の体で受ける。
──それで装置が無事なら、王女の負担は引き続き分散される。
命を賭ける代わりに、たぶん、片足か片腕を失う計算だった。
漁師としては悪くない取引だった、と俺は思った。
リョウは、ジルに、命じた。
「ジル」
「は」
「お前は、副艦に乗り換えろ。アーシェ様も連れて」
リョウの声は、いつもより、わずかに低かった。けれど命令そのものには、迷いがなかった。
「先生、何をする気ですか」
「俺は、契約陣と一緒に、ここに残る」
「先生!」
「お前らは、生きてライン・カラに帰れ。そして、王女様に、伝えてくれ」
「先生──」
「『健気な金属が、健気な金属の役目を、果たしました』、と」
リョウの声は、いつも通り、淡々としていた。
けれどその声には、もう戻ってこない人間の声色が、わずかに混ざっていた。
ジルの目に、涙が溢れた。
けれどリョウは、その涙を見ずに、契約陣の中央に立った。
海上に、火炎魔法弾の赤い尾が、3つ、次々に飛び始めていた。
暗くなりかけた海の上で、3本の赤い線は、不気味なほど美しかった。
ジルがアーシェの腕を引いて、副艦に飛び移った。漁師たちが櫂を必死に漕いで、副艦は旗艦から離れていった。
旗艦の甲板には、リョウただひとりが、契約陣の前に立っていた。
後ろに退避した副艦から、ジルが叫んだ。
「先生──!」
リョウは振り返らなかった。
ただ、片手だけ、軽く上げた。
それが返事だった。
風の中で、誰の耳にも、何の言葉も届かなかった。




