第19章「漁師たちの艦隊」
第二波の戦闘は、第一波とはまったく違う性質のものだった。
重戦艦は、岩礁地帯に踏み込まない。
鬼塚は、第一波で軽戦艦を犠牲にした代わりに、重戦艦の主砲を、岩礁地帯の外側から、ライン・カラの本陣に向けて、長距離砲撃する戦術に切り替えていた。
重戦艦4隻のうち2隻はすでに砲門を上空に向け、もう2隻も追従していた。
──陸の本陣を、海から焼き払う。
重戦艦の主砲は、最大射程3海里。火炎魔法弾を撃てば船腹も街並みも一瞬で焼ける、ヴァルナハト帝国海軍の象徴だった。
重戦艦の主砲は、火炎魔法弾の最大射程を、約3海里まで伸ばせる。
ライン・カラの中心部から沖合の重戦艦までは、約2.5海里。
──届く距離だった。
俺は指揮船の甲板で、潮の流れを読んでいた。
古老たちが「夜になると風が変わる」と予報していた、その風の変化が、まもなく起きる。
海面に打ち寄せる小さな波の角度が、わずかに変わり始めている。沿岸近くの海鳥が、低い高度から急に高度を上げた。これらは風向の転換が近い予兆だった。
漁師として何百回も見てきた予兆を、いまの俺は、戦術の判断材料として読んでいた。
風が南西から北東に切り替わる瞬間、潮の流れも、わずかに方向を変える。
その瞬間に、漁師艦隊の小舟は、岩礁地帯を抜けて、重戦艦の側面に取り付ける。
「ジル」
「ん」
「風が変わる時刻は」
「あと、たぶん30分」
「準備しろ」
「了解」
ジルは旗艦の艦尾に立って、号令を出した。漁師たちが櫂を点検し、帆を畳み直し、銛の刃を磨いた。誰一人、緊張で手が震えている者はいなかった。
むしろ漁師たちは、漁の前と同じ顔をしていた。これから魚を獲りに行く、その淡々とした顔だった。
同じ頃、海の上では、ひとつの作業が静かに進んでいた。
──電位差逆転装置の海上組み立て。
神官長アーシェが、ライン・カラの教会の地下から運び出した、500年前の契約陣の予備部材。
そして俺が、王宮の冷凍機の試作で得た、魔法石と金属塊の組み合わせ技術。
これらを統合した「移動式・小型契約陣」が、漁師艦隊の中央の旗艦の甲板に、組み上げられていた。
装置の大半は王宮で運び出した直後に分解され、旗艦の甲板に到着してからもう一度組み立て直されていた。組み立てたのは王都の文官ペルマと、レオと、ライン・カラの教会の若い神官たち。みな素人ばかりだったが、設計図と手順書をリョウが作っておいたため、何とか期日に間に合った。
王宮の地下から運び出した工具で、ライン・カラの教会の神官たち5人が、3日3晩かけて組み上げた装置だった。
サイズは、おおよそ畳3枚分。
木枠で組み上げた六角形の台座の上に、銀線で複雑な紋様を描き、その紋様の中央に台座より一段高い円形の祭壇を据えた。
中央には、ヘラ・ロッタ号の船底から回収した、半年腐食した亜鉛塊。
周囲には、神官長が持参した、500年前の儀式具。
そして全体を制御する魔法石は、王女から手渡された青い水晶の同型品。
──これが、もし機能するなら、王女の代わりに「移動式の犠牲陽極」として、海戦のあいだ、地脈の負担を分担できる。
機能するかどうかは、俺の仮説にすぎない。
けれど機能しなくても、海戦そのものが負ければ、王女の運命も終わる。
賭ける価値はあった。
風が変わった。
風が変わる瞬間、最初に変化を感じるのは、皮膚だった。頬に当たる空気の流れの方向が、ふっと一回だけ、停止する。停止する時間はせいぜい数秒。けれどその数秒のあいだ、海全体が呼吸を整え直しているように感じられる。
海の上の感覚は、漁師の体に染み付いている。風向が変わる前には、海面のさざ波の方向が一瞬乱れる。その乱れを目で確認した瞬間、空気の匂いも変わる。塩の匂いに、わずかに北の海の冷たさが混ざる。
古老たちの予報通り、ぴったり30分後に、風向が南西から北東へ反転した。
海の表面の波頭が、一瞬、平らになり、それから新しい方向へ流れ始めた。
ジルが、号笛を吹いた。
漁師艦隊26隻が、岩礁地帯の隙間から、重戦艦の側面に向かって、一斉に動き始めた。
帆を一斉に張り、櫂を漕ぐ音が、海面に重なった。漁師たちの掛け声が、低く響いた。
掛け声は、漁の歌だった。マグロの群れを追うときに、櫂を合わせるための歌。半年前、リョウがライン・カラの作業場の屋根の下で、初めて聞いた歌だった。
いま、その歌は、戦場に響いていた。
古老ヤンが舳先で太鼓を叩き、漁師たちが声を合わせて応じる。代々受け継がれた節回しが、海面の上で、不気味なほど整っていた。
重戦艦は、岩礁地帯から離れた深い海域にいた。
そこには漁師の小舟が来ない、と鬼塚は計算していた。
けれど鬼塚の計算は、漁師の小舟の機動力を、重戦艦の艦長たちの理解力で測ったものだった。
漁師の小舟は、海軍の艦長たちが「不可能」と判断する潮の流れを、自由に乗りこなした。
古老たちの海路情報は、季節風の変化も含めて、潮の流れを正確に予測していた。
海軍の艦長たちは「風と潮の予測」を、海図の行間に書かれた経験則程度にしか扱っていなかった。けれど漁師たちは、それを毎日の生死の問題として読んでいた。当然、解像度が違った。
漁師艦隊が、重戦艦の側面に取り付き始めた。
重戦艦の砲塔は、上空に向けたまま、固定されていた。長距離艦砲射撃の最中だったため、砲口が水平方向に動かせない状態だった。
これは事前に古老ヤンが「砲撃中の重戦艦は、自分の砲塔の重さで身動きが取れなくなる」と分析していた。古老は若い頃、商船の警備員として何度か海軍の艦に乗ったことがあり、その経験を覚えていた。漁師の知識は、海の上のすべてに及んでいた。
──そして、漁師艦隊は、重戦艦の艦尾に、銛で太いロープを打ち込み、3隻がかりで引き始めた。
重戦艦は、巨大すぎて、漁師の小舟3隻では動かせるはずがなかった。
けれど漁師たちは、「動かす」ためにロープを引いたのではない。
──「方向を、わずかに、変える」ために、引いた。
風と潮の流れに乗った状態で、わずか3度、艦の向きを変える。
すると、重戦艦は、自分の慣性で、漂流し始めた。
そしてその漂流の先には、岩礁地帯の最も浅い部分が、待っていた。
──罠だ。
重戦艦の艦長が気づいたとき、艦はすでに、岩礁の浅瀬に向かって、ゆっくりと滑り込んでいた。
艦長は急いで機関の出力を上げたが、潮の流れに逆らうには時間が足りなかった。
そして、ガリッ、という音とともに、重戦艦の最初の1隻の船底が、岩礁にこすった。
鉄の船底が岩に削られる音は、海面を伝わって、漁師艦隊の旗艦まで届いた。深い、低い、唸りのような音だった。
続いて、2隻目。
続いて、3隻目。
4隻目だけは、すばやく舵を切って、岩礁を回避した。
同時刻、旗艦の中央の「移動式・小型契約陣」が、起動した。
銀線の紋様が、青白い光をいっせいに帯びた。中央の祭壇に置かれた半年腐食の亜鉛塊が、低い周波数で振動を始めた。空気が冷えた。海上の風が、契約陣の周囲だけ、わずかに渦を巻いた。
神官長アーシェが、500年の祈りの言葉を、低く唱え始めた。
アーシェの白い指は震えていた。500年、神官たちが王女を犠牲にしてきた契約を、初めて「金属に置き換える」儀式だった。神官長は、自分の代でその慣習を断ち切る覚悟で、祈りの言葉を発していた。
アーシェの祈りは、王宮の北の塔で、王女セレネの祈りと共鳴していた。
──陽極と陰極の対が、海上で、新しい場所に、置き換えられようとしていた。
俺は青い水晶を、契約陣の中央に置いた。
水晶が、淡く青く光った。
そして、地脈の流れが、わずかに、海上の契約陣の方向に、引かれ始めた。
──仮説は、機能した。
神官長アーシェの腕の黒い斑が、わずかに薄くなった。陰極の負担が分散したのだ。
海上の契約陣が、地脈の流れの一部を、王女から自分の方へと、引き寄せ始めた。
王宮の北の塔で、王女の体内魔力の負荷が、わずかに軽くなった。
王女は、初めて、20年ぶりに、深く息を吸った。
胸が大きく上下した。20年、ずっと浅い呼吸しかできなかった胸が、いま、肺の底まで空気を入れた。王女の頬に、ほんのわずか、血の色が戻った。
そばに付き添っていた侍女が、王女の表情の変化に気づいて、目を見開いた。
「……王女様、お顔の色が」
「いいえ、まだ、油断は、できません」
王女は、静かに微笑んだ。
「けれど、リョウ殿の手が、海の上で、私の鎖の一部を、引き受けてくださったようです」
王女の声には、20年聞かれることのなかった、若い女性の声色が混ざっていた。
海戦は、地形戦から、組織戦へと、移り変わっていた。
重戦艦3隻が座礁したいま、鬼塚艦隊は、もはや艦隊としての形を保っていなかった。
残された4隻目の重戦艦と、軽戦艦の旗艦だけが、まだ動いていた。
重戦艦は岩礁地帯から離れた深海域に退避。軽戦艦の旗艦は、その後ろに付かず離れず、戦況を窺っていた。残った2隻と、補給艦4隻だけが、鬼塚の手元に残された戦力だった。
数では、まだ鬼塚側が上だった。
けれど、戦況の主導権は、すでに漁師艦隊の側にあった。
ジルが、第二陣の出撃を準備していた漁師たちに、声を張り上げた。
「いまから、最後の一押しに行く! 弓隊と銛隊は左舷に集合! 通信石持ちは、リョウさんの指示を細大漏らさず受け取れ!」
漁師たちは黙々と、それぞれの持ち場に散った。
──そしてその旗艦の甲板に、ザール・オニズカ提督が、立っていた。
俺は望遠鏡で、その男を見た。
距離、約1.5海里。
男の顔は、確かに、鬼塚毅だった。
半年で、男はわずかに痩せていた。けれど、鋭い目と歯で煙草を噛む癖は、第八海鵬丸の頃と、まったく変わっていなかった。
男は望遠鏡で、こちらを見ていた。
距離は1.5海里あるのに、男の表情が、はっきりと見えた。煙草を歯で噛む癖、顎の角度、肩の力の入り方、すべてがあの夜の第八海鵬丸の艦橋と同じだった。海を隔てて、半年と一万キロを越えても、男はあの男のままだった。
おたがいの望遠鏡が、おたがいの瞳を捉えた瞬間。
俺と、男の視線が、海を挟んで、合った。
──気づいた。
──鬼塚は、いま、俺がリョウであり、リョウが来島カズマであることを、認識した。
男の顔が、わずかに歪んだ。
怒りと、認知できないものへの困惑が、同時に浮かんだ顔だった。男の頭の中で、半年前のロイクスフェルンの軍港に流れ着いた朝と、いま目の前にいる漁師艦隊の旗艦と、第八海鵬丸の嵐の夜が、無理やり繋がろうとしていた。
鬼塚の手が、煙草を口元から外して、ぐしゃりと甲板に投げ捨てた。
けれど、それは恐怖の表情ではなく、怒りの表情だった。
──「使えねえ甲板員が、いま、俺を負かしてやがる」、という顔。
鬼塚は、軽戦艦の旗艦の砲塔を、漁師艦隊の旗艦──俺が立っている船──に向けて、低く構え始めた。
海戦の最終局面が、ここから始まろうとしていた。
そしてその最終局面で、俺と鬼塚は、ついに、海の上で、直接対峙することになる。
漁師艦隊の旗艦と、鬼塚艦隊の旗艦は、岩礁地帯の最後の縁で、にらみ合った。
距離、約1海里。海面の波頭は、夕日でわずかに赤く染まりつつあった。
沖合では、座礁した重戦艦3隻が、大きく傾いで、それぞれの船底から黒煙を上げていた。漁師たちが投げ込んだ火薬が、艦内の弾薬庫の一部に引火していた。
俺の手元には、ジルが餞別にくれた網針が、ベルトに差してあった。
鬼塚の手元には、火炎魔法弾の発射ボタンが、握られていた。
道具の差は、そのまま、ふたりの男の人生の差だった。
男は壊すために道具を握る。
俺は繕うために道具を握る。
そして、海は、両方の道具を、平等に試す場所だった。




