第21章「鬼塚との対峙」
火炎魔法弾、3発。
砲門の連続発砲音が、海面を低く伝わった。
飛距離およそ1海里。到達まで3秒。
海面に赤い尾を引きながら、それは、リョウひとりが立つ旗艦の中央に、まっすぐ飛んできた。
1秒目。
時間がスローモーションで進んだ。
漁師の体に染みついた感覚が、こういう瞬間には、現実の時間軸を引き伸ばす。鬼塚に殴られる寸前と、嵐の波に飲まれる寸前と、そして火炎魔法弾が飛んでくる寸前で、リョウの体感時間は、共通して、伸びた。
リョウは契約陣の中央で、亜鉛塊を握った。
塊は、左手のひらに収まった。指の腹で表面の腐食面を撫でた。半年で粉のように磨り減った金属の表面は、潮風と海水で削れた古老の頬に少し似ていた。
──健気な金属。
半年腐食した、灰色の小さな塊。
ライン・カラのヘラ・ロッタ号の船底から回収した、あの一個。
リョウは、その塊を、契約陣の祭壇から、自分の胸の前に、そっと持ち上げた。
自分の心臓の真ん前に、塊を置いた。
重さは、両手のひらに乗る程度。けれど胸に当てると、その温度は、ほんの少し、人肌より冷たかった。何百年も海底で他の金属を守ってきた金属の温度だった。
2秒目。
神官長アーシェが、副艦の甲板から、海上に向かって、低く祈った。
神官長の白い手のひらは、震えていなかった。500年の慣習を破ろうとする神官の手は、震えてはいけなかった。
王宮の北の塔で、王女セレネが、青い水晶を、両手で胸に押し当てた。
王女の指は、白く透き通っていた。
王太子マルコスが、玉座の脇で、深く目を閉じた。
王太子の口元は、何かを唱えていた。それは祈りではなかった。妹の名を、繰り返しているだけだった。
ライン・カラの教会の鐘が、避難していた住民の手によって、鳴らされた。
王太子マルコスが、玉座の脇で、深く目を閉じた。
ライン・カラの教会の鐘が、避難していた住民の手によって、鳴らされた。
──地脈の流れが、いっせいに、海上の契約陣の方に、引き寄せられた。
3秒目。
火炎魔法弾の3発が、契約陣に到達する直前。
リョウの胸の前の亜鉛塊が、突然、強い青い光を放った。
そして、その光は、契約陣の銀線の紋様と、共鳴した。
共鳴は、海上の契約陣を中心に、半径50メートルの「電位差の場」を発生させた。
場は目には見えなかった。けれど海水の表面に、わずかな波紋が、不自然な同心円を描いた。空気の音が低く変わり、火薬の煙の動きが場の境目で異常に折れ曲がった。
火炎魔法弾の3発は、その「場」に突入した瞬間、急激にエネルギーを失った。
──電位差攻撃。
異なる金属の電位差を利用して、相手の魔法エネルギーを、自分側に吸収する。
漁師のあいだで「健気な金属」と呼ばれる亜鉛塊の、もうひとつの性質。
リョウが、王宮の地下で、3か月かけて研究した、その応用だった。
漁師の世界では、亜鉛塊が「先に腐る」ことで、船体を守る。
同じ原理を、規模を変えて、海戦に応用すれば、敵の魔法エネルギーを「先に吸う」ことで、味方を守ることができる。
王宮の冷凍機開発の合間に、リョウはその仮説を、何度も紙の上で検証していた。仮説は、今夜、海の上で、初めて実地に試された。
火炎魔法弾は、亜鉛塊の中に、吸い込まれた。
海面に伸びていた赤い尾が、消えた。轟音もなかった。爆風もなかった。
弾は爆発しなかった。
弾のエネルギーは、亜鉛塊の電位差によって、無力化された。
亜鉛塊は、3発分のエネルギーを吸収して、瞬間的に灰色から銀色に光った。
そして、灰色に戻ったとき、塊は半分以上が、すでに腐食して粉になっていた。
健気な金属は、最後の役目を、果たした。
リョウは、その粉になりかけた塊を、両手で、静かに包んだ。
塊はもう、半年腐食した灰色の塊ではなかった。半年と、たった3秒で、一気に最終形に変化した塊だった。
「ご苦労さん」
と、誰にも聞こえない声で、リョウは呟いた。
リョウは、第八海鵬丸の冷凍庫の扉を開けたときも、似たような呟きをした記憶があった。一日働いた装置に、誰も声をかけないのが当たり前だったあの船で、リョウだけが、装置に声をかけていた。
鬼塚はそれを「お前、頭おかしいんじゃねえのか」と笑った。
けれどリョウは、最後まで、声をかけ続けた。
そして、塊を、海面に向かって、放った。
塊は、夜の海に、小さな水しぶきとともに、消えた。
海は、何も言わずに、塊を受け取った。
──健気な金属を、感謝とともに、新しい塊と取り替える。
漁師の流儀だった。
鬼塚は、旗艦の艦橋で、自分の火炎魔法弾が消えたのを見て、絶句した。
「な、なんだ、いまの……」
「提督、敵旗艦の中央に、何らかの魔法装置が」
「分かってる! あれを、もう一度撃て!」
「火炎魔法弾の残りは、あと2発」
「2発でいい! まとめて撃て!」
「は」
火炎魔法弾、2発目。
鬼塚の旗艦が、再び砲口を低く構えた。今度は2発を同時に発射する構えだった。
リョウは契約陣の祭壇に、新しい亜鉛塊を載せた。
ボルクが王宮に送ってきた、ライン・カラ産の純粋亜鉛塊30個のうち、最後の3個。
これを、海戦中に、ひとつずつ消費する計算だった。
アーシェの祈りが、再び響いた。
王女の青い水晶が、再び光った。
そして、火炎魔法弾の2発も、契約陣の電位差の場で、無力化された。
さらに2個の亜鉛塊が、灰色から銀色に光り、そして粉になった。リョウはその粉を、続けて、海に放った。
鬼塚は、旗艦の艦橋で、ついに、自分の手で、副官のハインツを殴った。
「使えねえ! お前ら全員、使えねえ!」
ハインツは、床に倒れた。
そして、立ち上がらなかった。
男は、半年で初めて、立ち上がるのを、やめた。
床に座り込んで、男は、低く言った。
「提督」
「あぁ?」
「これ以上の砲撃は、補給艦の弾薬を空にします。撤退命令を、お出しください」
「撤退? 撤退だと?」
「は」
「俺が、来島ごときに、撤退するだと?」
男の語気は、むしろ自分自身に向かっていた。来島ごときに、自分が押し負けている事実を、男は受け入れることができなかった。
鬼塚の声には、半年の権威が、すでに滲んでいなかった。
「来島という人物が誰なのかは、私には分かりません」
ハインツの言葉は短かった。
ハインツは、初めて、提督の目を、まっすぐ見た。
半年で初めて、男はその目を、見ることができた。震えなくなった代償として失ったものを、男は今になって少し取り戻していた。
「けれど、海戦の現実は、撤退を求めています。ご決断を」
鬼塚は、副官の顔を、長く見つめた。
男の目には、半年前のロイクスフェルンの軍港で、自分が初めて怒鳴り上げたあの朝の自分が、わずかに重なっていた。あの朝、男は「使えねえ部下ばっかだ」と笑い飛ばした。けれどいま、目の前で「震えなくなった部下」が、命令を拒否している。
そして、男は、やがて、低く笑った。
笑った後で、男は煙草を口元に持ってきた。
「お前、そんな顔できたんだな」
「は?」
「半年前、お前を選んだのは、お前が震えるやつだったからだ。震えるやつは、命令を聞く。震えないやつは、命令を聞かなくなる。お前、いま、震えてねえな」
「は」
鬼塚は、しばらく無言だった。
男の頭の中には、第八海鵬丸の甲板の風景が、薄く浮かんでいた。来島という下っ端と、自分と、嵐と、海。すべての始まりが、すべての終わりと、いま重なっていた。
鬼塚は、煙草を、新しく取り出した。
けれど、火をつける前に、煙草を、海に向かって、投げ捨てた。
男は、もう、煙草を歯で噛む気を、失っていた。
「分かった。撤退する」
「は」
「お前、撤退の指揮、執れ」
「畏まりました」
鬼塚艦隊は、潮の流れに乗って、ゆっくりと、外洋に退いていった。
艦尾が水平線に消えていくのを、リョウは旗艦の中央から、ただ静かに見送った。
重戦艦3隻と中型砲艦5隻を失ったあとに残ったのは、重戦艦1隻、軽戦艦1隻、補給艦4隻。
半年で築いた北方艦隊の、半分以上を、男は、たった一日の海戦で、失った。
漁師ひとりが組み立てた装置と、地味な戦術と、地味な漁師たちに、敗れた。
損害の規模は、ヴァルナハト帝国海軍の、ここ50年で最大の敗北だった。
そして敗北の指揮を執ったのが、半年前に流れ着いた身元不明の異邦人だったことが、後に皇帝の逆鱗に触れる原因となる。
海戦は、終わった。
海面が、ゆっくりと、夜の色に染まっていった。星が、いつもより多く、見えた気がした。
漁師艦隊の旗艦の甲板で、リョウは、契約陣の中央に座り込んでいた。
親指の付け根を、強く擦っていた。
擦りすぎて、指の関節が、白く擦り切れていた。
ペルマが、震える手で、羽ペンを握っていた。
文官は副艦から戻ってきたばかりだった。リョウが旗艦に残ると決めたとき、文官も「自分も残る」と言い張ったが、リョウに首根っこを掴まれて副艦に運ばれた。文官は、自分の生存と、リョウの片腕の火傷を、引き換えに受け取った形になっていた。
文官は、何度も、何度も、書いては消し、書いては消ししていた。
「リョウ殿、勝利の報告を、王宮にどう伝えれば」
「地味に、伝えてくれ」
「は」
「派手な戦勝報告は、漁師の流儀じゃない。ライン・カラの一日が、終わった、と。それでいい」
ペルマは何度か頷いた。
ペルマは、頷いた。
そして、文官は、羽ペンで、こう書いた。
──「アルデロワ王国南端、ライン・カラ沖、漁師艦隊、襲撃を撃退。ヴァルナハト帝国北方艦隊、撤退。本艦隊損害、漁船2隻軽微破損、死者ゼロ」。
これが、王国史で「健気な海戦」と呼ばれる戦いの、唯一の公式記録になった。
けれど、海戦の真の結末は、その記録の中には、書かれていなかった。
──書かれなかったこと、その一。
リョウは、火炎魔法弾の3発目を、契約陣の中央で受け止めたとき、左肩から左腕にかけて、深い火傷を負った。
弾の3発分のエネルギーを亜鉛塊が完全に吸収しきれず、残った熱が祭壇の縁から外側に漏れた。命に別状はなかったが、漁師として、もう左腕を上に挙げることは、難しいかもしれなかった。
──書かれなかったこと、その二。
鬼塚毅、ザール・オニズカ提督は、ロイクスフェルンの軍港に戻った夜、自宅で何者かに殺された。
寝室のベッドの上で、酒の盃を握ったまま、首を一刀のもとに切られていた。下手人は不明。けれどヴァルナハト帝国の高官たちのあいだで、「敗北を喫した提督は、皇帝の怒りで処分される」という慣習があったことを、ハインツは知っていた。男は遺体を発見して、しばらく無言だった。それから、男は静かに辞表を書いた。
──書かれなかったこと、その三。
王宮の北の塔で、セレネ王女は、海戦が終わった瞬間、初めて、20年ぶりに、深い眠りに落ちた。
王女は20年、毎晩、地脈の流れを浅い夢の中でも感じ続け、本当の意味での「夢を見ない眠り」を、一度も経験していなかった。
8時間連続の眠りだった。
神官長アーシェは、王宮に戻った後、その眠っている王女の顔を見て、しばらく、言葉を失った。
そして神官長は、20年仕えてきた王女に、初めて、白い布をかけてやった。寒いだろうから、と。それは契約者ではなく、ひとりの女性に対してかけた、白い布だった。
──健気な金属が、健気な金属の役目を、果たした。
海戦の真の結末は、ただそれだけだった。
そしてその夜、ライン・カラの避難先の集落では、ボルクが煙草を一本だけ吸って、ミラの行方の手がかりを地図に書き込んでいた。北街道のどこかで、彼女はまだ生きている、と男は信じていた。
戦の後始末は、海から、陸へと、移り変わろうとしていた。
そして、陸の中心──王宮の北の塔の地下──には、もうひとつ、リョウが据えなければならない、巨大な装置の場所が、待っていた。




