空白は埋められない
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【空白は埋められない】
■人数:3人
■登場人物:男性 女性 友人
________
最後に彼女と会った日のことを、忘れられなかった。
いや、正確には違う。
忘れられなかったはずなのに、今は記憶が曖昧になっていることに気づいてしまったんだ。
それが何よりも恐ろしかった。
三年前の春、俺は彼女と別れた。
理由はごくありふれた一般的な理由だ。
将来への不安、仕事の忙しさ、価値観の違い。
でも本当は、もっと単純でどうしようもなく身勝手な理由だった。
俺が逃げただけ___
まだ自由に好き勝手に生きていきたかった。
彼女がふと口にした"結婚"の二文字。
俺はそれに答えられなかった。
「いや、無理だ」
そう吐き捨てたときの彼女の顔を今でも覚えている。
怒ってはいない…ただ静かに傷ついていた。
「…そっか」
それだけいって彼女は笑った。
その無理に作った笑顔がやけに綺麗だった…。
だから俺はそれ以上何も言えなくなってしまった。
それが、彼女を見た最後だった。
その後彼女は、仕事の都合で遠くの街へ引っ越した。
引き止めて欲しかったんだと思う。
本当はそれに気づいてないながら無視をした。
何度か会おうとしてくれた彼女に、都合すら会わせなかった。
最初のうちはLINEが来ていた。
どうでもいい近況報告、上司の軽い愚痴、新しい街で見つけた美味しそうなカフェの話。
でも返信はしなかった。
一度でも返してしまえば、また彼女から何かを求められるような気がしてそれが面倒で、怖かったからだ。
それから数ヶ月後、向こうからの連絡は途絶えた。
それで、すべて終わったのだと思っていた。
ある日、共通の友人から呼び出された。
「…連絡来てないのか」
友人はスマホを見て、それから顔を上げた。
「彼女」
少しだけ言いにくそうにしてから続ける。
「亡くなったって」
死因はよく覚えていない。
唐突な事故だったのか、隠していた病気だったのか。
この時の俺にとって、そんなことはどうでもよかった。
友人から言われた言葉がずっと離れない。
呪いのテープのように頭の中をずっとループする。
『ずっとお前の話ばかりしてたよ』
何かが壊れた音がした、いや世界が無音になった。
それでも俺は何も行動に移さなかった。
墓参りにも行かなかった。
…行く資格がないと思ったのだ。
生前、あんなに彼女のSOSを無視し続けた人間が、最後だけ悲劇の主人公のような顔をして現れるなんて許されるはずがない。
それから三年が過ぎた。
仕事をして、飯を食って、眠る。
時々彼女のことを思い出していた。
でもその回数も少しずつ減っていった。
いつの間にか、彼女の声を思い出せなくなっていた。
テキストの文字は覚えているのにそれがどんな音で再生されていたのかがわからない。
彼女の顔や背格好、笑い方や仕草、前まで当たり前に思い出せたものが、思い出そうとするたびに、全てがぼんやりとしている。
「はぁ…これやばいな」
ある夜、暗い部屋のベッドで天井を見上げながら俺は呟いた。
忘れている。
俺の都合で彼女の記憶が消えていく。
あんなに自分勝手に終わらせて、最後まで向き合わなかったくせに。それすら"なかったこと"みたいに消えていく。それが無性に腹立たしく、怖かった。
ふと都市伝説のように囁かれていた噂を思い出した。
『もう一度だけ通れる改札』
一度だけ会えなくなった人に会いに行ける改札がある。
ただし戻ってきた時、その人との記憶はすべて消える。そんなあるかもわからない馬鹿げた話だ。
あぁ、俺はバカだった。
終電が過ぎ去った深夜のホームは、思ったよりもずっと静かで不気味だ。
冷たい風が吹き抜けるホームのいちばん奥。
「…本当にあるのかよ」
ぽつんと置かれた古い型の小さな改札機。見慣れていふはずの機械なのに、異物のように浮いている。
電子掲示板には赤い文字でこう記されていた。
『一度限り』
そしてその下にある小さな注意書き。
『通過後、対象人物との記憶はすべて消去されます』
俺は思わず自嘲気味に笑った。
「都合よすぎだろ」
会える…でも会えばすべてを忘れる。
まるで彼女が用意した罰のようだと思った。
これは決して救済なんかじゃない、精算だ。
俺の心の中に中途半端に残る罪悪感と、彼女の残滓を全部終わらせるための儀式。
ポケットからICカードを取り出す。
自分でも驚くほど手が震えていた。
「…どうせもう消えかかってるんだ」
完全じゃない。
でも確実に彼女は俺の中から薄れている。
中途半端に忘れていくくらいなら___
「ちゃんと消えるならそれでいい」
俺は、カードをタッチした。
無機質な電子音が、夜の駅に響き渡った。
____
「最低だね」
ふと、どこからか声がした。
振り返ると彼女が立っていた。
三年前…最後に別れたあの日の姿のままで。
でも、あの時よりも少しだけその瞳は冷たい光を宿していた。
「…久しぶり」
喉の奥から絞り出した言葉に彼女は苦く笑う。
「よく言えるね、それ」
胸の奥がさっと引く。
ただ見つめることしかできない俺に彼女が一歩近づく。
「ねえ、なんで来たの?」
まっすぐな目だ。
はっきり…正直にいうんだ。
「…忘れてきてるから」
取り繕うことなど意味がない。
彼女の表情はあの時と同じ少し傷ついた顔をしていた。
「最悪」
小さく吐き捨てた声は震えていた。
「最後まで自分のためなんだ」
「…ああ」
否定できなかった。
「私がどう思うかじゃなくて」
「…ああ」
「自分が楽になりたいだけ」
「…」
「ほんと、変わんないね」
彼女は少しだけ昔のような柔らかい顔で笑った。
責める気配がない。
怒りの感情が感じられない…そんな変わらない彼女の雰囲気に少し呆気に取られてしまう。
そんな俺に悪戯っ子みたいな顔をして言う。
「返信もくれなかったくせにさ」
ずっと謝りたかったことだ。
「…読んでたよ」
「知ってる」
「なんでわかるんだよ」
「既読つくじゃん」
ああ…と情けない声が漏れた。
何も言い返せない自分がひどくみっともない。
彼女は、そのまま言葉を続けた。
「ずっと思ってた」
静かで落ち着いた声だ。
「なんで何も言ってくれないんだろうって」
本当そうだよな。
「終わりにするならそれでもよかった、もう好きじゃないってそう言ってくれればよかったのに」
「…」
「何もないまま、ただ消えるのが一番きついんだよ」
本当に自分がバカだった。
今はそればかりだ。
何か言わないければと思うが、全然言葉が出てこない。
今さら気づいたところで、何も変わらない。自分がしてきたことの軽さだけが、やけに重くのしかかる。
「ごめん」
結局、それしか言えなかった。
彼女は少し黙って、静かに首を振る。
「いいよ、もう」
それは全部を置いていく人の声だった。
「で?」
彼女は少しだけ声のトーンを上げて言った。
「最後に何しに来たの?」
冷たい空気を深く吸い込み、息を整えた。
「ちゃんと終わらせに来た」
「遅いよ」
「…そうだよな」
「でも」
彼女はもう一歩俺に近づいた。
ほんのりと昔嗅いだことのあるシャンプーの香りがした気がした。
「それでも来たのはえらいかもね」
その許しのような、小さな言葉に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
許された時間は決して長くはなかった。
でも充分だ。
俺たちはちゃんと話した、初めてお互いの本音だけで。
俺が何を怖がっていたのか、どうして逃げたのか。
その弱さを全部。
彼女も全部話してくれた。
画面の向こうで待ち続けていた時間のこと。
諦めがついた瞬間のこと。
それでも、好きでいてくれたこと。
最後に彼女は静かに言った。
「好きだったよ」
__過去形だった。
でもそれでよかった。
もう時間は戻らないのだから。
「俺も好きだ」
あまりにも遅すぎる告白だったけれどやっと言えた。
遠くでゴングのような低い音が鳴った。
時間切れの合図のようだ。
「ねえ」
彼女が言う。
その姿は少しずつ透明になり始めていた。
「忘れるんだよね」
「…ああ」
「全部?」
「全部だ」
彼女は少しだけ寂しそうに笑った。
「そっか」
それから、まっすぐ俺の目を見る。
「じゃあさ」
最後の一歩を踏み出し彼女は俺の目の前まで来た。
「今だけはちゃんと覚えてて」
胸の奥に熱い塊が落ちる。
「うん」
「私が貴方のことずっと好きだったってこと」
「ああ」
俺が頷くと、彼女は満足そうに微笑んだ。
そして透き通るような声で、静かに言った。
「さよなら」
改札の外。
冷たい夜風が頬を撫でた。
遠くで車の走る音がする。
何も変わらない、いつもの見慣れた日常。
でも胸の奥に、ぽっかりとあいた妙な空白があった。
あたたかな空白。
確かに"何か"を終わらせた感覚だけが残っているのに、それが一体"何"だったのか、どうしても思い出せない。
ただひとつだけ。
理由はまったくわからないのに、もう逃げるのはやめようという確かな決意のようなものだけが残っていた。
ポケットからスマホを取り出す。
無意識にLINEを開いた。
誰に送るでもない空白の画面。
俺は少しだけその画面を見つめ、何も打たずに画面を閉じた。
夜風が再び強く吹いた。
その一瞬、なぜか胸の奥がきゅうっと締め付けられるような痛みを感じて俺は空を見上げた。
___ちゃんと、返せばよかったな。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
何に対しての感情なのか。誰に向けた後悔なのか。
それはもう、永遠に思い出せなかった。




