選ばなかった方の自分
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【選ばなかった方の自分】
■人数:2人
■登場人物: 上司 部下(橋本)
うちの会社の自動販売機には妙なボタンが1つある。
ラベルも値段も商品名もない。
それでも、他の見慣れたラインナップと同じように白い光を放っている。
「先輩、あれ押したことあります?」
隣に立っていた後輩の橋本が、その自販機から缶コーヒーを取り出しながら言った。
「どれ」
「この何も書いてないやつ」
指さされた先を見る。
白いボタン。
いつからそこにあったのか思い出せない。
「あるわけないだろ、何味かもわからんし」
「確かに、でもずっとありますよね」
橋本は少しだけ楽しそうに笑う。
「先輩、気になりません?」
「まあな。でもわざわざ得体の知れないものを押す理由もないだろ、金ももったいねーし。」
「ですよね」
あっさり頷いたあと、橋本は続ける。
「でもこういうのって、だいたい“選ばなかったやつ”の方が、後々記憶に残りません?」
「は?」
「たとえば…人生の分岐ってあるじゃないですか。あっちに行けばよかったなーとか」
他愛のない冗談のつもりなのだろう。
なのにその言葉の端だけが妙に引っかかった。
「別に…選ばなかったなら、それだけの存在価値だったってだけだろ」
そう返すと、橋本は少しだけ首を傾げた。
「うーん、そうですかね」
間を置いて、ぽつりと言う。
「選ばなかっただけで、消えたわけじゃない気がするんですよね」
その日はそれで終わった。
俺はいつも通りの缶コーヒーを買って、苦味を喉に流し込みながら会社を出た。
ふと思い出す、自分の昔を。
俺は昔、役者を目指していた。
大学のサークルで舞台に立ち、拍手をもらって周りに褒められて、いけるかもしれないと本気で思っていた。
でも現実は…。
思ったよりずっと静かで、ひどく冷たかった。
オーディションの張り詰めた空気に飲まれ落ち続け、
生活のためにバイトを増やし、寝る時間を惜しんで台本と向き合っていた。
合格通知は一向に届かず、気づけば稽古場に向かう足が遠のいていた。
最後に舞台に立った日はいつだったか…。
もうはっきりとは覚えていない。
いつの間にか諦めることすら曖昧なまま、やめていた。
そのまま"普通"に就職した。
それが、俺の選んだ人生だ。
数日後。
残業で重くなった体を引きずりながら、俺はまたその自販機の前に立っていた。
橋本の言葉が、ふと頭をよぎる。
『選ばなかっただけで、消えたわけじゃない。』
暗闇の中で白いボタンがやけに明るく誘うように見えた。
「一度くらい…押してみるか」
誰に言い訳するでもなく呟いて、その光に指を押し当てた。
カタン、と鈍い音がして缶が転がり落ちる。
銀色の何てことのない無地の缶。
プルタブを開けると妙な匂いがした。
甘いとも苦いとも言えない、懐かしい匂い。
口をつける。
その瞬間、世界がぐらりと揺れた。
気がつくと舞台の上に立っていた。
じんわりと汗ばむ、強い照明。
客席から満ちてくるざわめきと期待。
息が詰まるような、あの濃密な熱気。
身体が勝手に動く。
口が台詞を紡ぎ出す。
覚えたことのないはずの言葉なのに、感情の乗せ方も、間の取り方も、全部知っている。
____理解した。
ここは、“役者を辞めなかった俺”のいる場所だ。
舞台は成功した。
拍手が雨のように降ってくる。
圧倒的な音の波。
でもちっとも嫌じゃない。
カラカラだった身体に潤いが満ちる。
楽屋に戻ると椅子に放り出されたボロいリュック。
薬局で売ってる安物のミネラルウォーター。
スマホの画面には、家賃の催促と掛け持ちしているバイトのシフト連絡が光っている。
生活は決して楽じゃない。
今の俺の日常よりもずっと泥臭くて不安定だ。
それでも、鏡の中の自分は"笑っていた"
心底、満たされた顔で。
「ああ……」
声が漏れる。
「楽しかったな」
わかってしまった。
どちらが楽かじゃない。
どちらが正しいかでもない。
でも俺は…本当はこっちを選びたかったんだ。
その瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
気づくとまた自販機の前に突っ立っていた。
手には空の銀缶。
夜の冷たい空気は何一つ変わっていない。
次の日、その次の日も俺は会社に行った。
何も変わらない。
もう変えられない。
でも知ってしまった。
あの舞台の、肌を刺すような熱を。
あの拍手の、ずっしりとした重さを。
そして鏡の中で笑っていた自分のあの顔を。
帰り道、自販機の前で足が止まる。
白いボタンが、今日も静かに光っている。
押せばまた見られるのかもしれない。
でもそれは自分の意思で“選ぶ”ことじゃない。
ただ、過去の亡霊を確かめるだけの行為だ。
指が少し動く、でも…空中で止まる。
結局俺はいつものブラックコーヒーを押した。
カタン、と音がする。
冷たくて苦い味が、口いっぱいに広がる。
その夜夢を見た。
舞台の上で台詞が出てこずに立ち尽くす夢。
暗い客席の奥にあいつがいる。
もうひとりの俺。
何も言わず誇らしげに笑っている。
目が覚めてもその顔はまぶたの裏から消えなかった。
それから数日後。
会社の休憩中、橋本がふと思い出したように言った。
「先輩、あのボタン押しました?」
俺は少しだけ間を置いて答える。
「押してないよ」
嘘をついた。
何も聞いてほしくなかったからだ。
橋本は「そうですか」とだけ言って笑った。
その笑い方が前と少しだけ違って見えたのは気のせいだろうか。
自販機の前に立つ。
白いボタンが今日も光っている。
俺はたぶんこの先も絶対にあれを押さない。
押せばまた知ってしまうからだ。
選ばなかっただけでどこかで確かに続いていた人生を。
そっちで生きているあいつの方が、ずっと"俺"だったかもしれないということを。




