第175話:魔脈を登れ
北方山地の岩壁は、遠くから見るよりもはるかに急だった。
切り立った岩肌は空へ突き上げるように伸び、ところどころに細い裂け目が走っている。普通の人間が登れるような斜面ではない。
登山道もなく、足場になる場所もほとんど見当たらなかった。
アランはその壁を見上げながら、深く息を吐いた。
「……無茶だろ」
後ろで腕を組んでいるヴァルドは、まったく動じていない。
「無茶ではない」
「魔脈が通っている」
アランは眉をひそめる。
「それ、どう見ればいい」
ヴァルドは岩壁を指差した。
「目で見るな」
「感じろ」
アランは苦笑する。
「それ、最近よく聞くな」
ヴァルドは淡々と言う。
「修行だからな」
そして岩壁へ近づき、手を軽く当てた。
その瞬間。
空気がわずかに震えた。
岩の中を、何かが流れている。
アランは目を細めた。
(……魔力)
山の奥から、ゆっくりと流れる巨大な魔力の流れ。
昨日感じた魔脈よりも、ずっとはっきりしている。
岩壁の中を、一本の太い流れが通っていた。
ヴァルドは言う。
「山は魔脈の塊だ」
「だから古代の魔導士は山に塔を建てた」
アランは岩壁に手を触れる。
冷たい。
だがその奥で、確かに魔力が流れている。
胸の奥のルミナ・コアが、わずかに共鳴した。
「……見えた」
ヴァルドは頷く。
「なら登れる」
アランは岩壁を見上げる。
高さは百メートル以上ある。
普通に登れば、確実に途中で落ちる。
だが、胸の光が、ゆっくり回っている。
その回転が、魔脈の流れと重なる。
(……流れ)
アランは呼吸を整える。
ヴァルドの言葉を思い出す。
――魔法は構造だ。
――流れを整えろ。
アランは足を一歩、岩壁へ踏み出した。
最初の足場はほとんどない。
だが魔脈が通っている場所だけ、微かに魔力が強い。
そこへ体重を乗せる。
胸の光が回転する。
魔力が脚へ流れる。
すると、体が軽くなる。
アランはゆっくりと次の手を伸ばした。
岩の裂け目を掴む。
また一歩。
また一歩。
岩壁を登り始める。
ヴァルドは腕を組み、その様子を静かに見ていた。
アランの動きはまだ遅い。
だが確実に進んでいる。
途中で足を滑らせそうになるが、その瞬間ルミナ・コアが強く回転し、体のバランスを保つ。
魔脈の流れと、体の魔力が少しずつ合ってきている。
ヴァルドは小さく呟いた。
「……順応が早い」
普通なら数日かかる修行だった。
だがアランはすでに半分ほど登っている。
岩壁の中腹。
アランは一度足を止めた。
息が上がっている。
腕も疲れている。
それでも胸の光は安定して回っていた。
(……これが)
アランは魔脈を感じる。
山の奥を流れる巨大な力。
それが足場を教えてくれる。
次に掴む岩。
次に踏む場所。
流れが自然と導く。
「……なるほど」
思わず笑った。
「秩序ってこういうことか」
その言葉を下で聞いていたヴァルドが、小さく頷く。
「そうだ」
アランは再び登り始めた。
今度は少し速い。
魔脈の流れを追うように体を動かす。
足場を迷わない。
光が体の動きを支える。
やがて、岩壁の上に手が届いた。
最後の一歩を踏み出し、体を引き上げる。
山頂の小さな平地。
アランはその場に座り込み、大きく息を吐いた。
「……登った」
空が近い。
風が強い。
山の魔脈が、足元から流れているのが分かる。
しばらくして。
下から声が聞こえた。
「降りてこい」
ヴァルドだった。
アランは顔をしかめる。
「……今登ったばかりだぞ」
ヴァルドは平然と言う。
「修行だからな」
アランはため息をついた。
だが立ち上がる。
胸の奥の光は、まだ安定している。
ルミナ・コアは完全に機能していた。
アランは岩壁を見下ろす。
そして小さく笑った。
「……まあいい」
岩に手をかける。
「次は落ちないように降りるだけだ」
だがその瞬間。
ヴァルドが下から言った。
「降りるな」
アランは止まる。
「え?」
ヴァルドは腕を組んだまま言った。
「飛べ」
山の風が強く吹き抜けた。
アランはしばらく黙る。
そしてゆっくり言った。
「……今、なんて言った?」
ヴァルドは同じ声で繰り返した。
「飛べ」
アランは空を見上げる。
青い空が広がっている。
そしてまた岩壁を見下ろした。
高さは百メートル。
落ちれば、普通に死ぬ。
アランは小さく笑った。
「……あんた」
「修行じゃなくて殺しに来てないか?」
ヴァルドは平然と言う。
「光魔導士だろ」
そして静かに続ける。
「落ちる前に、流れを掴め」
山の魔脈が、ゆっくりと流れている。
胸の奥の光が、それに共鳴していた。
アランは深く息を吸う。
そして、崖の端へ立った。
「……やるしかないか」
次の瞬間。
アランは、山頂から飛び降りた。
風が一気に体を包み込む。
だがその中で。
ルミナ・コアが、強く回転を始めていた。




