第169話:魔法を捨てろ
冷たい風が岩肌を吹き抜け、森の木々をざわめかせている。
帝都とは違い、ここには人の気配がほとんどない。
ただ岩と森、そして遠くに広がる山々だけがある。
目の前には小さな平地があり、その中央にヴァルド=セイレンが立っていた。
元帝国騎士団長。
五十代半ばとは思えないほど背筋は真っ直ぐで、無駄な肉のない身体をしている。
白髪の混じった短い髪を風が揺らし、その鋭い視線は朝の光よりも冷たかった。
アランは息を整えながら言う。
「で、何をするんだ」
ヴァルドは答えない。代わりに地面に転がっていた木剣を一本、足先で蹴り上げてこちらへ投げてきた。
「それを拾え」
アランは木剣を受け取る。軽い。
帝国の訓練用のものよりずっと粗末な作りだった。
「剣の修行か?」
ヴァルドは鼻で笑う。
「違う」
ゆっくりと腕を組み、アランを見下ろす。
「魔法を捨てろ」
その言葉に、アランは眉をひそめた。
「……は?」
ヴァルドは一歩近づく。
「お前の戦い方は見た。帝都の連中から話も聞いた」
少し顎を上げる。
「光魔法だの光導槍だの、派手なもんを振り回していたそうだな」
アランは何も言わない。
事実だった。
だがヴァルドは淡々と続ける。
「そういう魔導士は山ほど見てきた」
少しだけ声が低くなる。
「そして、ほとんどが戦場で死んだ」
山の風が二人の間を通り抜ける。
アランは木剣を握り直した。
「俺はまだ死んでない」
ヴァルドは小さく笑った。
「今はな」
そして突然、足元の石を蹴り上げる。
石はまっすぐアランの顔へ飛んできた。
反射的に身体を動かす。
だがその瞬間、ヴァルドが踏み込んでいた。
気づいたときには拳が腹に叩き込まれる。
空気が一気に肺から抜け、アランは膝をついた。
「……ぐっ!」
胃がひっくり返るような痛みが走る。
ヴァルドは見下ろしたまま言った。
「今のはただの石だ」
そして肩をすくめる。
「魔法でも何でもない」
アランは歯を食いしばりながら立ち上がる。
「だから何だ」
ヴァルドの目がわずかに細くなる。
「わからんか」
ゆっくりと言った。
「魔法は現象だ」
「火が燃える。雷が落ちる。光が走る」
軽く手を振る。
「全部ただの結果だ」
そしてアランの胸を指で軽く叩いた。
「だがその前に、必ず“構造”がある」
アランは黙って聞いていた。
ヴァルドは続ける。
「帝国の魔導士はそこを理解していない。属性に頼る」
「火なら火、雷なら雷」
少しだけ口元が歪む。
「便利だからな」
そして視線を鋭くする。
「だが構造を知らない魔導士は三流だ」
アランは木剣を握ったまま言った。
「じゃああんたは一流ってことか」
ヴァルドは少し笑った。
「違う」
その目に一瞬だけ別の光が宿る。
「生き残っただけだ」
その言葉には、長い時間の重みがあった。
アランは息を整える。
「……で?」
「魔法を捨てろってどういう意味だ」
ヴァルドは地面に落ちていたもう一本の木剣を拾う。
軽く振る。
空気が鋭く鳴った。
「簡単だ」
剣を肩に担ぎながら言う。
「これからしばらく、お前は魔法を使うな」
「一切だ」
アランは目を細めた。
「冗談だろ」
「冗談じゃない」
ヴァルドは歩き出す。
「魔法に頼る癖を全部壊す」
振り返る。
「光の核を失ったお前にはちょうどいい」
アランはしばらく黙っていた。
帝都では常に魔法を使っていた。
戦うときも、訓練でも、学院でも。
魔法を使わない戦いなど考えたこともない。
だが今。
その魔法は、もうない。
アランは木剣を肩に担ぐ。
「……いいだろう」
ヴァルドの口元が少しだけ動く。
「ほう」
アランは構えた。
「やる」
風が強く吹く。
ヴァルドは木剣をゆっくり持ち上げる。
「そうか」
そして次の瞬間。
地面を蹴った。
恐ろしく速い。
木剣が真っ直ぐ振り下ろされる。
アランは慌てて受けるが、衝撃で腕が痺れる。
「遅い」
ヴァルドは冷たく言った。
「構えが甘い」
二撃目。
三撃目。
アランは後退しながら必死に受ける。
だがまったく追いつかない。
やがて足を払われ、地面に転がる。
土と砂が舞い上がった。
ヴァルドは剣を下ろす。
「今日の訓練はこれで終わりだ」
アランは地面に仰向けになったまま、荒い息を吐く。
「……は?」
「終わりだと言った」
ヴァルドは背を向ける。
「明日も同じことをやる」
アランは呆れて言った。
「それ修行っていうのか」
ヴァルドは振り返らない。
ただ一言だけ言った。
「お前の魔法は壊れている」
山の風が再び吹き抜ける。
「だから作り直す」
ヴァルドは扉を開けながら続けた。
「ゼロからな」
アランは空を見上げる。
青い空が広がっていた。
体中が痛い。
だが胸の奥に、わずかな熱が残っていた。
(……いいだろう)
ゆっくり立ち上がる。
そして木剣を握り直した。
修行は、まだ始まったばかりだった。




