第六章 誰のため?
「恋、ちょっといい?」
レッスンが終わったあと。
呼び止めたのは、蒼井真姫だった。
「何?」
「これ」
差し出されたのは、次のライブの構成表。
何か問題でもあったのかと思って、恋は受け取る。
「ここ?」
「うん」
真姫が指したのは、一曲目のフォーメーションだった。
「この移動、私こっちから入った方が綺麗じゃない?」
恋は紙を見る。
頭の中で動きを作る。
「ああ、確かに。その方が――」
言いながら。
恋はペンを取った。
「じゃあ、ここ真姫ちゃんをこっちにして、この子を一つずらして――」
「恋」
「ん?」
「私が聞いたの、自分の位置だけなんだけど」
恋の手が止まった。
「……そうだけど」
「もう3人動かしてる」
「その方が綺麗だから」
「そうかもしれないけど」
真姫は、少し笑った。
「その3人にも聞いたら?」
恋は顔を上げた。
「え」
「本人たちがどうしたいか」
「でも、全体見たらこっちの方が――」
「うん」
真姫は否定しない。
「恋には、そう見えるんだと思う」
「……」
「だから聞いてみよ」
そう言って。
真姫は近くにいたメンバーを呼んだ。
「ここ、どっちがやりやすい?」
「あ、私はこっちの方が好きかも」
「私は逆かな」
「じゃあ一回両方やってみようよ」
話が始まる。
恋は、その横に立っていた。
少しだけ。
自分の手から何かを取られたような気がした。
でも。
不思議と、嫌ではなかった。
◇
その日から。
真姫が妙に目につくようになった。
最年長。
普段から落ち着いていて。
必要以上に前へ出るタイプではない。
それでも。
真姫が何かを言うと、周りは自然と聞いた。
怖いわけではない。
むしろ優しい。
ただ。
言葉を急がない人だった。
だから。
一度口を開くと、その言葉だけが残る。
数日後。
休憩中。
恋は壁際でスマートフォンを見ていた。
次の特典会。
完売状況。
SNSの数字。
ライブの反応。
気づけば。
また一人ずつ見ていた。
「恋」
顔を上げる。
真姫が水を飲みながら立っていた。
「何?」
「また見てる」
「何を」
「みんなの数字」
恋は画面を伏せる。
「……別に」
「別に、の顔じゃない」
「真姫ちゃん今日うるさくない?」
「最年長だから」
「それ便利すぎるでしょ」
「便利だよ」
真姫は笑った。
恋も少しだけ笑う。
それで終わると思った。
けれど。
真姫は隣に座った。
「恋」
「うん」
「全部、見える?」
恋は、質問の意味が分からなかった。
「何が?」
「15人のこと」
「全部は無理だけど」
「でも見ようとしてるよね」
「……センターだから」
真姫が、少しだけ首を傾けた。
「それ、最近よく言うね」
「そう?」
「うん」
恋はスマートフォンを見る。
「だって」
少しだけ考える。
「私が一番前にいるから」
「うん」
「一番見てもらいやすいし」
「うん」
「だったら、私がちゃんとしないと」
真姫は何も言わない。
恋は続ける。
「私から入ってくれた人に、15人を知ってもらいたいし」
「うん」
「誰かが悩んでたら、できるだけ気づきたいし」
「うん」
「ライブだって、みんながちゃんと見つかるようにしたいし」
「うん」
「だから」
恋は少し笑う。
「センターだから」
真姫は。
そこで初めて。
「それ、誰のため?」
と聞いた。
恋の笑顔が止まった。
◇
「誰のためって」
恋は言う。
「みんなのためでしょ」
「うん」
真姫は、あっさり頷いた。
「それもあると思う」
「それも?」
「うん」
「他に何があるの」
真姫は少し考える。
「分かんない」
「え」
「私は恋じゃないから」
恋は、拍子抜けした。
「そこまで言って分かんないの?」
「分かんないものは分かんないよ」
真姫は普通に言った。
「ただ」
少しだけ間を置く。
「恋、最近しんどそうだから」
「しんどくないよ」
「そう?」
「大丈夫」
言った瞬間。
恋自身が、その言葉に引っかかった。
大丈夫。
何度も聞いてきた言葉。
何度も。
疑ってきた言葉。
真姫が、少しだけ笑った。
「恋、その言葉嫌いじゃなかった?」
「……嫌いじゃない」
「信用してないだけ?」
「そういう言い方やめて」
「ごめん」
全然悪びれていない。
恋は息を吐いた。
「真姫ちゃんはいいよね」
「何が?」
「そうやって、余裕あって」
言ってから。
少しだけ後悔した。
でも真姫は怒らなかった。
「余裕あるように見える?」
「見える」
「そっか」
それだけ。
恋は横を見る。
「……真姫ちゃんだって、センターやったことあるじゃん」
真姫の表情が、少しだけ変わった。
「ゼロ番のこと?」
「うん」
以前。
選抜された7人の楽曲。
その中央。
ゼロ番に立ったのは、真姫だった。
「分かるでしょ」
恋は言った。
「前に立つ感じ」
真姫は少し考えて。
首を横に振った。
「恋の気持ちが分かる、とは言わない」
「え」
「私は一度、ゼロ番に立っただけだから」
恋は黙る。
真姫は続ける。
「恋のセンターと、私のは違うよ」
「……違う?」
「うん」
真姫は、恋を見る。
「恋はRain Crownのセンターでしょ」
「私は、選ばれた7人の、この曲のゼロ番」
静かな声だった。
「同じ真ん中でも、背負ってる時間が違う」
恋は何も言えなかった。
その言葉には。
慰めも。
同情も。
なかった。
ただ。
違うものを、違うと言っただけだった。
◇
真姫は少しだけ視線を落とした。
「でも」
「うん」
「ゼロ番に立ったとき、思ったことはある」
恋は真姫を見る。
「あのとき」
真姫は言う。
「選ばれたのは7人だった」
「うん」
「選ばれなかった9人がいた」
恋は覚えている。
発表の日。
選ばれた7人。
残った9人。
空気。
喜びきれない人。
笑う人。
黙る人。
「最初は」
真姫はゆっくり言う。
「9人の分まで頑張らなきゃって思った」
恋の胸が、少しだけ動いた。
「ゼロ番だから?」
「うん」
「選ばれたから」
真姫は頷く。
「9人が立てなかったところに、私は立つんだから」
「その分まで、ちゃんとしなきゃって」
「……うん」
恋には。
よく分かった。
「でも」
真姫は続ける。
「途中で、違うなって思った」
「何が?」
「9人は」
少しだけ笑う。
「私に自分たちの人生を預けたわけじゃない」
恋は。
何も言えなかった。
「私がゼロ番で頑張ることと」
「9人がそれぞれ自分の場所で頑張ることは」
「別だった」
真姫は、自分の手元を見る。
「もちろん、悔しかった子もいたと思う」
「私を見て、何か思った子もいると思う」
「でも」
「だからって、私が9人の気持ちを全部正しく分かるわけじゃない」
恋は、俯いた。
真姫の声だけが聞こえる。
「全部見えることと」
「全部背負えることは」
「違うんだと思う」
恋は、指先を握った。
その言葉が。
どこか。
嫌だった。
「でも」
顔を上げる。
「見ないよりいいでしょ」
「うん」
「気づかないより、気づいた方がいい」
「うん」
「困ってたら助けた方がいい」
「うん」
真姫は、全部頷く。
だから。
恋は余計に分からなくなる。
「じゃあ何が悪いの?」
「悪いって言ってないよ」
「じゃあ」
真姫は少しだけ困ったように笑った。
「恋が全部やらないと」
一度、言葉を切る。
「Rain Crownって、なくなるの?」
恋の呼吸が止まった。
「……何それ」
「聞いてるだけ」
「なくならないよ」
「じゃあ」
真姫は恋を見る。
「私たち、そんなに頼りない?」
恋は、すぐに否定した。
「違う」
「じゃあ何?」
「違うって」
「恋」
声は優しい。
でも。
逃げられなかった。
「誰のため?」
また。
同じ問い。
恋は答えられなかった。
◇
その日の帰り。
恋は、一人だった。
駅まで歩く。
スマートフォンは開かなかった。
真姫の言葉だけが残っていた。
――私たち、そんなに頼りない?
頼りないわけがない。
歌が上手い子。
踊れる子。
話せる子。
自分の夢を持っている子。
みんな。
恋より得意なことがある。
恋より強いところがある。
分かっている。
なのに。
誰かが少し黙るだけで。
怖くなる。
誰かの数字が落ちるだけで。
気になる。
誰かが「大丈夫」と言うだけで。
もう一度聞いてしまう。
どうして。
分かれ道が見えた。
右。
恋の駅。
左。
灯が帰っていた道。
足が止まった。
――これは恋が何とかすることじゃないよ。
灯の声。
――私も自分で走るから。
ずっと。
言われていた。
あの頃から。
灯は。
自分の人生を恋に預けてなんかいなかった。
恋がセンターになっても。
灯は、
「私も自分で走る」
と言った。
それなのに。
恋はずっと。
自分が何かできたのではないかと考えていた。
恋は。
右へ曲がった。
◇
次のレッスン。
恋は意識して、
何もしなかった。
正確には。
すぐには、何もしなかった。
フォーメーション確認。
一人のメンバーが手を挙げる。
「ここなんだけど、私もう少し前に出てもいい?」
以前なら。
恋が先にスタッフへ提案していたかもしれない。
でも。
今日は。
黙って聞いた。
「理由は?」
スタッフが聞く。
「こっちの方が振り見せられると思う」
「一回やってみようか」
試す。
別のメンバーが言う。
「私は元の方が合わせやすいかも」
話し合う。
恋は。
そのやりとりを見ていた。
次。
歌割り。
「ここ、私歌いたいです」
別の声。
「このパート、もうちょっと練習したい」
また別の声。
「MC、今回私やってみたい」
恋は、少しだけ驚いた。
みんな。
言うんだ。
自分で。
欲しい場所を。
やりたいことを。
苦手なことを。
15人。
ちゃんと。
自分で走っていた。
恋が手を引かなくても。
誰かが。
止まるわけではなかった。
◇
休憩。
恋は鏡の前に座っていた。
真姫が隣へ来る。
「どう?」
「何が」
「今日」
恋はペットボトルを開けた。
「……みんな、普通に言うね」
「何を?」
「やりたいこと」
「言うよ」
「私、気づいてなかった」
「恋が先に言っちゃうからじゃない?」
「それ結構刺さる」
「ごめん」
「絶対思ってない」
真姫が笑った。
恋も少し笑う。
沈黙。
それから。
恋が言った。
「私さ」
「うん」
「みんなが、いなくならないようにしたかった」
真姫は何も言わなかった。
「Rain Crownのためっていうのも」
恋は、自分の手を見る。
「嘘じゃない」
「うん」
「みんなをもっと見つけてもらいたいのも、本当」
「うん」
「15人のこと、大事なのも本当」
「うん」
恋は、一度。
息を吸った。
「でも」
声が少し小さくなる。
「私が」
「いなくなってほしくなかっただけかも」
真姫が、恋を見る。
恋は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「灯が辞めたとき」
「うん」
「寂しかった」
真姫は。
ただ、頷いた。
「一緒に立ちたかった」
「うん」
「まだ」
言葉が詰まる。
「一緒に立ちたかったって思ってる」
「うん」
「だから」
恋は目を伏せた。
「また誰かいなくなるの、嫌」
静かだった。
レッスンルームの向こうでは。
誰かが笑っている。
誰かが音楽を流している。
誰かが振りを確認している。
真姫が言った。
「寂しいんでしょ」
恋は。
少しだけ顔を上げる。
その言い方が。
あまりにも普通だった。
「……うん」
「そっか」
「それだけ?」
「何か言ってほしい?」
「分かんない」
「じゃあ言わない」
「真姫ちゃん今日ずっとそれじゃん」
「分かんないもの」
少しだけ笑う。
それから。
真姫は前を見る。
「私も」
「うん?」
「できれば、ずっとここにいたいよ」
恋は黙る。
「15人にもいてほしい」
「恋にもいてほしい」
少しだけ間を置く。
「でも」
真姫は言った。
「ずっと、とは言えないけど」
恋の胸が、少し痛んだ。
でも。
真姫は続ける。
「それでも今は、一緒にいたい」
「……うん」
「一緒にいる間くらい」
真姫が恋を見る。
「一緒に走ればいいんじゃない?」
恋は。
しばらく黙っていた。
「それだけ?」
「それだけ」
「もっといいこと言えない?」
「難しくしたの、恋じゃない?」
恋は真姫を見る。
「真姫ちゃん今日ちょっと厳しくない?」
「最年長だから」
「それずるい」
「便利でしょ」
恋は。
ようやく笑った。
◇
その日の夜。
恋は久しぶりに、
ちゃんとスケッチブックを開いた。
何を描こうか。
少し考える。
大きなステージ。
最初に浮かんだのは、それだった。
でも。
昔のページは開かなかった。
新しいページ。
鉛筆を走らせる。
ステージ。
客席。
光。
そして。
そこに立つ、
16人。
中央に。
自分。
周りに。
15人。
描きながら。
一度。
手が止まる。
今までなら。
無意識に。
自分が15人を包むような構図にしていたかもしれない。
恋は。
消しゴムを取った。
少し直す。
16人が。
同じ床の上に立っている。
恋は中央。
それは変えない。
自分がRain Crownのセンターであることを。
やめたいわけではなかった。
真ん中に立つことも。
嫌ではない。
むしろ。
好きだった。
ただ。
中央にいることと。
15人の人生を背負うことは。
同じではない。
恋は。
描き終わったページを見る。
16人。
誰も。
誰かに持ち上げられていない。
誰も。
誰かに守られているだけではない。
全員。
自分の足で立っている。
その真ん中に。
恋もいる。
ふと。
真姫の言葉を思い出す。
――恋も16人の中にいるからね。
レッスン中。
何気なく言われた一言。
恋は。
今になって。
少しだけ意味が分かった気がした。
15人を守る人。
その外側にいるセンター。
ではなく。
16人の中の一人。
その中で。
今。
自分が真ん中にいる。
恋は、
鉛筆を置いた。
答えが出たわけではない。
明日になれば。
また誰かのことが気になるかもしれない。
数字を見るかもしれない。
「大丈夫」と言われたら。
もう一度聞いてしまうかもしれない。
それでも。
一つだけ。
覚えておこうと思った。
全部見ようとすることと。
全部背負うことは。
違う。
恋は、スケッチブックを閉じた。
明日も。
16人で、レッスンがある。
ーー続く




