覚醒?
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
居間の畳の上に寝転がったまま、俺はさっき開けて置いてあった缶ビールの方へ、手を伸ばした。
「……うぷっ」
アルコールが喉を通り、小さな胃液のせり上がりに襲われる。
普段の俺なら、職場の付き合いの席で薄いハイボールをちびちびと、それこそ1時間以上かけてどうにか1杯飲むのが限界なのだ。
それなのに、今日の俺はすでに銀色のビールの2本目を開けている。
その事実自体が、自分でも驚くほど異常なことだった。
そして、どうしてなのか、今日は自分の意志とは無関係に、不思議と酒へと手が伸びてしまう。
(……あれは、やっぱり本物のダンジョンだよなぁ……?)
どれだけ脳がアルコールに侵されていようとも、前職の資源関連会社で毎日のように嫌というほど目を通してきた、あのダンジョン内部のデータ、提出されてくる鮮明な写真の景色は、記憶の底にこびりついて離れなかった。
あの青白い鉱石の輝き、抉られたような岩肌は、現代社会の誰もが知る迷宮そのものだった。
当然、人間がダンジョンに入るには、国が発行した正式な『探索者登録証』が必要不可欠となる。
もしも無許可で立ち入れば、一発で法律違反となり逮捕されても文句は言えない。
だけど、ここは誰の土地でもない、俺の祖父母の敷地内だ。
家の中にポッカリと開いた穴に、自分が勝手に入るだけの話じゃないか。
理不尽なクビと離婚。
すべてのブレーキが完全にぶっ壊れて、感覚が完全におかしくなっている俺は、もう一度あの地下へ行ってみることにした。
「よし……もう一回、確認しに行くかぁ……」
ビール片手に、今度はしっかりと廊下の電気のスイッチを押し、薄暗い空間を蛍光灯の明かりで照らし出す。
靴箱から自分のスニーカーを取り出し、そのまま廊下の途中にある祖父の古い書斎へと千鳥足で向かった。
先ほどの当てのない家の中の探検の際、俺の瞳が偶然捉えていたものがあったのだ。
それは、厳格だった祖父が生前に趣味にしていた、居合用の本物の日本刀だった。
「じいちゃん、ちょっとこれ、借りるよぉ……」
もしも祖父が生きていたら、泥酔した孫が大切な愛刀をこんな風に持ち出そうとすれば、顔を真っ赤にして激怒したに違いない。
だが、今の俺にはそんな当たり前の世間体も、死者への不敬を気にする心の余裕も、これっぽっちも残されていなかった。
抜けないようにしっかりと鞘が固定されているのを確認し、左手でそれを鷲掴みにする。
そのまま俺は、廊下の最奥にあるあの物置部屋へと足を進めた。
物置部屋の照明をつけると、埃の舞う空間の真ん中に、改めてポッカリと異質な口を開けた石階段がそこにあった。
やっぱり、さっき見たものは酔っ払いの見せた一過性の幻覚なんかじゃなかったのだ。
俺は物置の隅に転がっていた、黄色い防災用のヘルメットを見つけて頭に被った。
右手に飲みかけの缶ビール、左手に古い日本刀。
頭には不釣り合いなヘルメットという、客観的に見れば完全に正気を失ったカオス極まりない格好のまま、俺はよろよろとした足取りで再び石階段を一歩ずつ降りていった。
今度は、さっきのように派手に足を踏み外して転げ落ちるような無様は晒さなかった。
なんとか一番下の床まで無事に降り立った俺は、とりあえず景気付けにと、右手の缶ビールを口に運んでグビッと一口煽る。
この時、俺のひどく曇った頭の中には、テレビの中で拍手喝采を浴びていたあの華やかな探索者たちの姿があった。
俺だって、未覚醒者で負け組のままで終わるつもりはない。
あいつらのように、このダンジョンとやらに挑んで、全部をひっくり返してやるんだ。
間違いなく、普段の素面の俺であれば、そんな身の程知らずで無謀な大言壮語を思い浮かべることすらあり得なかっただろう。
「……うぷっ……いよぉぉし! いくぞぉぉう!」
俺はビールを持った右手を掲げ、左手の日本刀の重みを感じながら、勢いよく地下の重厚な扉を押し開けた。
◇
扉の向こうに広がっていたのは、ひんやりとした冷気が肌を刺す、どこまでも頑強な岩壁が続く洞窟の世界だった。
スマートフォンのライトをわざわざ点灯させる必要すら感じないほどに、壁面のあちこちには、魔鉱石と思われる青白く発光する特殊な石が、点々と星屑のように埋まっていた。
その微かな光が、洞窟の内部を幻想的かつ不気味に照らし出している。
グビッ、とまた一口、ビールを喉に流し込む。
「へへ……俺も、ついにダンジョンデビューってわけだ……」
そう小さく呟いてみる。
だけど、世界中を探したところで、片手に缶ビールを引っ提げたまま、千鳥足で呑気に未知の迷宮を探索する間抜けな人間など、どこを探してもいるはずがなかった。
洞窟の奥へと進むにつれて、キュッ、クシュッと、俺の履いているスニーカーのゴム底が、湿った硬い地面と擦れる摩擦音が静まり返った空間に妙に大きく響き渡る。
俺は左右に大きくふらつき、今にも壁に激突しそうになりながら、おぼつかない足取りでダンジョンの奥へと進んでいった。
「なんらぁ……? あそこにあるの、はぁ……?」
前方の暗がりの奥から、ポヨン、ポヨンと不規則に上下に跳ねながら、こちらに向かって近づいてくる青く丸い半透明の物体が、ぼやけた視界の先に捉えられた。
目を細め、上半身を揺らしながらじーっとその物体の動きを凝視しているうちに、前職の知識がその名前を弾き出した。
(――スライムだ。ダンジョンに生息する、最下級のモンスターの一種)
だが、悲しいかな、俺はその時、観察することに全神経を集中させすぎてしまっていた。
泥酔した脳は、そのモンスターがどれほどの速度で、自分のすぐ目の前まで急接近してきているのかという『距離感』を、致命的なほどに完全に見誤っていたのだ。
ドンッ!!!
「痛っっっ!!」
衝撃が走った。
気づいた時には、その青い粘体のかたまりが放った強烈な体当たりをまともに正面から食らっており、俺の身体は無様に地面をごろごろと吹き飛ばされていた。
背中と横腹を硬い岩の地面に激打し、物置の階段から落ちた時以上の凄まじい激痛が全身を駆け巡る。
あまりの痛さに、俺は体をエビのように丸めてうずくまることしかできなかった。
最悪なことに、右手に持っていた缶ビールが手元から滑り落ち、床を転がりながら中身のビールがトクトクと無慈悲にこぼれ出して、俺の顔やヘルメットへと容赦なくかかった。
アルコールの独特な匂いが、鼻腔をこれでもかと刺激する。
(――情けない。なんて情けないんだ、俺は)
馬鹿みたいに能力も持たない非覚醒者のくせに、ちょっと酒が入ったからと調子に乗ってダンジョンに足を踏み入れ、挙句の果てにはモンスターであるスライムに一撃で吹き飛ばされて、地面に転がってビールをビショビショにかぶっている。
そのあまりの惨めさと情けなさに、だんだんと身体の痛みよりも、胸の奥底からドロドロとした暗い苛立ちと怒りが、マグマのように激しく燃え上がってきた。
這いつくばったまま、少し離れた場所にいるスライムへと視線を向ける。その青い半透明の身体は、ポヨンポヨンと小刻みに足元で跳ねていた。
それが、まるで俺の無様な姿を見て、腹を抱えて大笑いしながら挑発しているようにしか見えなくなったのだ。
「なんらぁ……? お前もぉ……俺をそんな風に、馬鹿にするのかぁ……? あぁ!!!」
真田のニヤニヤとしたあの歪んだ笑顔、社長の見下すような目線、そして、俺を路頭に迷う一歩手前まで追い詰めた、理不尽な世界そのものへの悪意。
それら全てが、目の前で弾むスライムの丸いフォルムと完全に重なり合っていった。
俺は左手の日本刀を杖代わりに地面に突き立て、痛む腰を必死にかばいながら、よろよろとどうにか立ち上がった。
足元は定まらず、視界も激しく揺れ動いていたが、それでも執念だけで怪物の正面へと身体を向ける。
そして、右手を添えて、祖父の日本刀をゆっくりと、静かに鞘から引き抜いた。
シャリン、と冷たい金属音が響く。
だんだんと、目の前の丸いスライムの輪郭が、俺に不当な死刑宣告を突きつけた会社の社長の顔そのものに見えてきたのだ。
やってやる。
ここで、こいつを、叩き斬ってやる!!
その、俺の感情が爆発して殺意へと変わった、まさにその瞬間だった。
『個体名:桐原悠馬の内部魔素の変質を感知――適正を検出しました』
『固有の覚醒条件をクリアしたことを確認』
『適合。これより、桐原悠馬のステータス、ジョブの覚醒処理を実行します』
『おめでとうございます。ユニークスキル《酔剣》を獲得しました』
頭の真ん中で、どこか機械的でありながらも、妙に透き通った美しさを持つ女性のような、謎のアナウンス音がはっきりと響き渡った。
だが、酷く酔った今の俺には、それが現実なのか幻聴なのかも判別できなかった。
今の俺はそれどころではなかった。
目の前のスライムは、再びこちらに向かってポヨン、ポヨンと身体を弾ませて迫ってきている。
俺は一度、引き抜いた日本刀をあえて鞘へと戻し、フラフラと身体を左右に揺らしながら、無防備とも言える姿勢で構えを取った。
キィン、と空気が張り詰める。
次の瞬間、俺の胸元を目がけてまた飛びついてきたスライム。
俺は、その突進の軌道を、まるで独楽が回るかのように、上半身をフラッと横へ傾けるだけで、紙一重の差で完璧に避けてみせた。
不思議だった。
自分の身体なのに、まるで自分のものではない別の何かに操られているかのように、流れるような滑らかな動きで自然と攻撃を躱すことができたのだ。
自分の攻撃をスカされたスライムは、着地するとすぐさま反転し、再び俺の足元へと突っ込んでくる。
「よっとぉ!」
俺はそれをも、泥酔した人間の特有のあやふやなステップで軽やかに躱しながら、すれ違いざまに左手の鞘を強く振り下ろし、スライムの身体の下側を激しく掬い上げるようにして真上へと打ち上げた。
ポーンと高く、無防備に空中に放り出され、重力に従ってまっすぐ落ちてくるスライムの丸い身体。
その軌道を完全に見切り、俺は腰の鞘から日本刀を一閃させた。
手応えは、驚くほどに軽かった。
スライムの肉体は地面へと叩きつけられるよりも早く、空間の中で瞬く間に鮮やかな紫色の靄へと姿を変え、そのまま引き寄せられるようにして俺の胸のあたりへと一気に吸い込まれていった。
「……な、なんなんだよ、これぇ……オエッ!!」
戦闘が終わった瞬間、それまで身体中を駆け巡っていた興奮物質――アドレナリンが一気に引いていくのを感じた。
それと同時に、さっきスライムに激しく体当たりされた強烈な衝撃のダメージが、腹の底から一気に押し寄せてくる。
極限の腹痛と、激しく身体を動かしたことによる強烈な目眩が混ざり合い、俺はたまらずその場に両膝をついて、口から勢いよく、さっき飲んだばかりの酒とおつまみを床へと吐き出してしまった。
「あぁ……くそ、だめだぁ……もう、帰ろう……オエッ!!」
自分の足元とダンジョンの硬い床を、泥酔による嘔吐物でビシャビシャと汚しながら、情けなく地面を引きずるような形で入口の扉へと引き返した。
お尻の痛みと、消えない吐き気に涙目を浮かべながら、這うような不恰好な姿で、俺は記念すべき初めての迷宮探索を終えて、我が家のリビングへと傷だらけで這い上がっていったのだった。
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