未発見のダンジョン
ゆるゆると書いてます。
変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。
俺自身の私物など、もともと大して多くはなかった。
だから、驚くほど少ない荷物で引っ越しの準備は完了した。
大型の家具や家電製品のほとんどは、祖母の家に残されているものをそのまま使わせてもらうことにしたため、自宅にあったものは全て不用品回収業者に頼んで処分してもらった。
少しでも、元妻との生活を思い出させるようなものを身近に残したくなかった、という後ろ暗い理由もあった。
幸いにも、元妻が『財産分与も慰謝料もいらない』と言い残してくれたおかげで、貯金口座には一切の手を付けられていなかった。
とはいえ、次の定職が見つかるまでは、この限られた貯金だけを切り崩して生きていくことになる。
引き締めるべきところは引き締めなければならない。
古くても、家も生活家電も、使えるものは何でも使わせてもらうのが今の俺にとって最善の選択だった。
荷物の搬入が全て終わり、区役所へ行って離婚届を正式に提出し終えた日。
夕暮れ時の大田区の古い一軒家に戻り、俺は畳の上に大の字になった。
ようやく、全てが終わった。
そして、ここから何もない新しいスタートが始まるのだという、妙に澄んだ気持ちが胸に広がっていた。
普段の俺は、滅多に酒を飲まない。
というか、体質的に受け付けず、すぐに顔が真っ赤になって泥酔してしまうのだ。
会社の飲み会でも、薄いハイボールを1杯、ゆっくりと時間をかけて飲むのが関の山だった。
だが、今日という日は、人生の大きすぎる区切りの日だ。
俺は少しだけ調子に乗って、近所のコンビニで缶ビールを2本と、ささやかなイカのおつまみを購入して帰ってきた。
リモコンを押し、テレビをつける。
プシュッ。
缶ビールのプルタブを引き抜くと、炭酸の心地いい音が静かな部屋に響いた。
テレビの画面では、まさに今をときめく『覚醒者』のトップ探索者がバラエティ番組にゲスト出演しているところだった。
番組の企画で、彼が都内の一等地の一等マンションに構える自宅や、数千万円は下らないであろう高級外車、きらびやかな私物を紹介するコーナーが流れている。
「いいなぁ……華やかで、しっかり稼げて、みんなに認められて……本当に幸せそうだなぁ」
ポツリと呟いた独り言が、余計に胸に染みる。
非覚醒者としてダンジョン資源の会社で裏方に徹していた俺だからこそ、最前線で輝く彼らへの憧れは人一倍強かった。
その羨望と、自分の現状の惨めさが混ざり合い、アルコールの回りを急激に早めていく。
まだ1本目を空けたばかりだというのに、俺の頭はすっかりぐわんぐわんと揺れ、視界の端がぼやけ始めていた。
そのまま調子に乗って2本目の缶を開けた時、脳内に妙な高揚感が湧き上がってきた。
なぜだか無性に、この古い家の中を隅々まで『探検』したくなったのだ。
未覚醒者でありながら、心のどこかで迷宮探索への憧れを捨てきれなかった俺が、テレビの華やかな映像に感化され、泥酔した勢いで暴走し始めていた。
「よし……行くかぁ……」
すでに足元はフラフラで、真っ直ぐ歩くことすらおぼつかない。
あえて電気は点けず、スマホのライト機能をオンにして、暗い廊下へと探索気分で繰り出した。
かつて祖父が使っていた書斎、祖母が綺麗に整えていた和室、そして昔、父が実家にいた頃に使っていたという物置同然の部屋。
引き戸を開けるたびに、懐かしい埃の匂いと共に、幼い頃の記憶が薄暗い空間に蘇る。
そんな思い出の感傷に浸りながら、俺は廊下の最奥、最後に残っていた『物置部屋』の扉へと手を掛けた。
小さい頃の記憶では、ここは祖父が日曜大工の工具や、季節外れのストーブなどを雑多に押し込んでいた、ただの薄暗い物置だったはずだ。
酒でひどくぼやけた記憶の中でも、あの特有の埃臭さとカビ臭さだけは、妙にリアルに思い出すことができた。
「……ん?」
ガラリと襖を開けた瞬間、明らかな違和感が全身を駆け巡った。
暗い。
それは当たり前だ。
だが、違和感の本質はそこではなかった。
部屋の奥が、妙に深いのだ。
祖母の家の間取りから考えても、この物置部屋はせいぜい6畳程度の広さしかなかったはずだ。
スマホのライトを向ければ、すぐに突き当たりの壁に光が届くはずだった。
しかし、白っぽい光が照らし出したのは、どこまでも黒く沈んだ、底の知れない奇妙な空間だった。
そして――光の先に見えたのは、予想だにしないものだった。
足元から下方に向かって、整然と並ぶ石造りの階段が伸びている。
ひやり、と冷徹な空気が、アルコールで火照りきっていたはずの俺の身体を優しく撫でた。
「……なんだぁ、これぇ……?」
階段の奥、その暗闇の深淵から、湿り気を帯びた風が、不気味な周期で吹き上がってくる。
それはまるで、暗闇の中で静かに呼吸を繰り返す、巨大な生き物の口のようにも見えた。
普通の精神状態なら、ここで恐怖を覚えて踵を返していただろう。
警察に連絡するか、両親に確認を取るのが真っ当な人間の反応だ。
だが、今の俺は完全に理性を失った酔っ払いだった。
「へへ、地下室なんてあったんだなぁ……お邪魔しまーす……」
俺はスマホのライトで足元を危なっかしく照らしながら、一歩、また一歩と、その未知の石階段を降り始めた。
だが、泥酔した人間の平衡感覚を舐めてはいけない。
その階段には、身体を支えるための手すりなんて気の利いたものは設置されていなかった。
フラフラとした足取りで3段ほど降りたところで、自らの足がもつれ、視界が上下に激しく回転した。
「痛っ!!」
身体が浮き上がり、硬い石の段差をごろごろと転がり落ちていく。
幸いにも、本能的に頭だけは両腕で庇ったため致命傷は免れたが、その代わりに腰と尻をこれでもかと強気で石段に叩きつけられた。
「うぅ……っ、痛たた……」
階段の最下層とおぼしき床の上で、俺はしばらく虫のように丸まり、情けない声を上げるしかなかった。
涙が滲む目を擦りながら、痛む身体をなんとか引き起こす。
「……んあ?」
視線を上げると、目の前には、我が家にはおよそ似つかわしくない巨大な重厚な意匠の『扉』がそびえ立っていた。
木造一軒家に、こんな立派な地下室があるわけがない。
生前の祖母からも、自宅を増築したなんて話はただの1回も聞いたことがなかった。
俺は恐怖よりも好奇心と酔いが勝った状態で、その大きな扉の取っ手に手をかけ、力を込めて少しだけ隙間を開けて中を覗き込んだ。
「う、嘘だろ……?」
扉の先。
スマホのライトが照らし出したのは、古い民家の地下などでは決してなかった。
ごつごつとした剥き出しの岩壁がどこまでも続き、そのあちこちに、信じられないことに自然光ではない『青白く発光する美しい鉱石』が群生している、広大な洞窟の世界だった。
湿った空気、特有の魔素の匂い。
仕事柄、何度もデータとして見てきたあの光景。
「な、なんだぁ……これ……?」
これは、どう見ても『ダンジョン』の内部だった。
自分の家の物置の奥に、国が管理しているはずの未発見のダンジョンが存在している。
だが、強烈なアルコールに支配された俺の脳細胞は、その重大すぎる事実を正確に処理することを拒否した。
「……あー、ダメだ。俺、さすがに今日、酔いすぎだなぁ。幻覚まで見え始めてる……」
きっと、仕事のストレスと離婚のショックで、頭がおかしくなってしまったに違いない。
そう結論づけた俺は、フラつく身体を引きずりながら、一度、現実の世界であるリビングの畳の上へと戻ることにした。
扉をそっと閉め、お尻の痛みを摩りながら、夢見心地のまま這うようにして階段を上っていった。
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