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飲まずにやってられるか! リストラおじ、ダンジョンにて酔剣に目覚める  作者: 道雪ちゃん


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別れ

ゆるゆると書いてます。

変なところがあれば都度ストーリーに関わらない程度に直しております。

目の前のテーブルの上には、見慣れない緑色の紙と、折り畳まれた1枚のメモ、そしてきらりと虚しく光るプラチナの指輪がぽつんと置いてあった。


「わかった。好きにしたら?」


数日前、自宅のリビングで彼女が最後に残した、あの冷ややかな言葉の意味が、この場所でようやく理解できた。


俺はあの社長室での出来事のあと、家に帰って妻へ「会社を辞めるかもしれない……いや、辞める」とだけ伝えたのだ。


事情を説明する気力すら湧かなかった。


ここまで必死に死に物狂いで働いてきた結果、小さい会社ながらも役職にも付き、同年代の会社員と比べても給料は決して悪くなかったはずだ。


不自由のない生活をさせている、という自負が俺にはあった。


だけど、あの言葉は違ったのだ。


『私も好きにするから』――そういう意味だったのか。


確かに、管理職になってからは時間や休日に関係なく働き詰めだった。


トラブルが起きれば夜中でも飛び出し、土日も仕事で潰れることも珍しくない。


当然、妻との時間は著しく削られていた。


それでも、結婚記念日や彼女の誕生日、季節のイベントだけは欠かさず祝っていた……はずだった。


いや、違うな。


今になって思い返せば、去年あたりから妻の態度は目に見えて変わっていた。


「その日は友人たちと過ごすからいい。あなたはいつも通り働いていて」


そう言われることが増えていた。


当時の俺は、自分の仕事を応援してくれているのだと都合よく解釈していたが、彼女の心はとっくの昔に俺から離れていたのだろう。


テーブルの上の緑色の紙――離婚届には、すでに彼女の署名があり、捺印まで済まされていた。


こんなものをあらかじめ用意していたということは、あの事件が起きるよりずっと前、それこそ前々からこうするつもりだったに違いない。


俺の退職は、彼女にとって都合のいい引き金に過ぎなかったのだ。


寝室に向かい、クローゼットや部屋の中を確認してみる。


綺麗さっぱり、彼女の私物だけが消え失せていた。


残されたメモ用紙を開くと、そこには殴り書きのような筆跡で、たった一言だけ。


『残りは処分して。慰謝料も財産分与もいらない』


それだけが書かれていた。


これほどの手際の良さ、そして一切の未練を感じさせない条件。


もしかしたら、もう次の男がいたのかなんて、薄汚い邪推が頭をよぎる。


裏切った部下の顔、冷酷に引き金を引いた社長の顔、そして冷めきった目をして去っていった妻の顔。


ぐちゃぐちゃの感情が胸の奥からせり上がり、怒りで拳を振り上げたが、その拳を叩きつける場所など世界のどこにもなかった。


力なく、そのまま床へと膝から崩れ落ちる。


どれだけ言い訳を並べたところで、結果として彼女を放置し、孤独にさせてしまっていたのは紛れもない事実だったからだ。


翌日からも、世界は何も変わらずに回っていた。


それでも、あの会社に行けば、周囲からは『部下にパワハラを働き、責任をなすりつけようとした最低の上司』として白い目で見られる。


どこを向いても、自分の居場所なんて残されていなかった。


今、この世界で俺が頼れるのは、両親だけだった。


分不相応な広さの2LDKのマンション。


会社を退職する身では、毎月の家賃を払い続けることなど到底不可能だ。


だが、だからといって実家に戻ることもできなかった。


実家は数年前に建て替えを行い、現在は弟の家族が同居する二世帯住宅になっている。


突然、職と妻を失った兄が転がり込んでは、平穏な弟一家の空気を壊してしまう。


俺はどうすればいいのか、暗い部屋の隅で丸一日悩み続けた。


考えても答えは出ない。


とりあえず、現状の全てを包み隠さず話すしかない。


そう覚悟を決めて、震える手で実家へと電話をかけた。


コール音が何回か響いたあと、カチャリと電話に出たのは父だった。


俺は努めて冷静に、職場でハメられて責任を取らされる形で会社を辞めること、そして妻が出ていって離婚することになった事実を淡々と伝えた。


受話器の向こうで、父は自分のことのように激しい口調で憤っていた。


真面目だけが取り柄だった息子が受けていい仕打ちではないと、会社へ怒りを露わにしていた。


しかし、俺は力なく首を振った。


「親父、上手く嵌められたんだよ。音声も、書類の印鑑も、全部用意周到に準備されてた」


もうこうなってしまった以上、どうしようもない。


今さら会社を相手に裁判を起こしたり、身の潔白を証明するために行動を起こす気力なんて、今の俺には残っていなかった。


仮に弁護士を立てて戦って、会社に残ることができたとしても、職場での評価が元に戻るわけではない。


周囲からは『会社を訴えた腫れ物』として、白い目で見られ続けるだけだ。


そんな針のむしろで働き続けるなんて、精神がもたない。


「それなら、もう綺麗さっぱり諦めて、次の仕事を探すよ。妻のことも、もう引き止めるつもりはないんだ」


そう静かに告げると、受話器の向こうの父は長い沈黙のあと、重々しく息を吐き出した。


「……わかった。お前の人生だ。お前がそう決めたなら、俺が口を挟むことじゃない」


父はそれ以上、俺を責めるようなことは言わなかった。


ただ、現実問題として直面している『住む場所』のことは、どうしようもなかった。


情けないと思いながらも、そのことを正直に相談してみる。


すると、父から思いがけない提案が返ってきた。


「それなら、去年亡くなった婆さんの家があるだろ。あそこ、今は空き家になってるから、そこに住まないか?」


場所は東京の大田区にある一軒家だ。


築年数はそれなりに経っており、外観も内装も古い。


けれど、雨風をしのぐには十分だし、まだまだ現役で住めるはずだ、と父は言った。


「婆さんが亡くなったあと、遺品の整理をしなきゃと思いつつも、みんな仕事がバタバタしていてな。仏壇周り以外はほとんど手つかずのままで散らかっているが……それでも良ければ、好きに使ってくれ」


その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に小さな灯火が宿った。


「いいの? ……ありがたいよ。喜んで使わせてもらう」


大田区のその家は、俺が幼い頃、長期休みになるたびに何度も遊びに行った思い出の詰まった場所だった。


優しい祖母の笑顔が、脳裏に優しく蘇ってくる。


拠り所を失った俺にとって、そこは唯一の救いのように思えた。


数日後、俺は会社に正式な辞表を提出し、残っていた有給消化の期間に入った。


最後の手続きを終え、私物を詰めた小さな段ボールを抱えてオフィスを去る時。


廊下の向こうから歩いてきた元部下――真田は、すれ違いざまに口元を歪め、ニヤニヤとした勝ち誇った顔でこちらを見ていた。


(やっぱり、お前だったんだな……)


確信があった。


俺をどん底に叩き落としたのは、間違いなく俺が一番目をかけていたこの男だ。


言い返してやりたい衝動が胃のあたりで熱くなったが、俺は何も言わずに、ただ静かに前を向いて会社を後にした。もう、彼らと同じ世界で泥仕合をする必要すらない。

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