12.孤独に割り込む声
重たい瞼を押し上げると、薄暗い天井が視界に広がった。
鼻腔をくすぐるのは、乾いた木材の匂いと煙草の残り香。どこかで油が焦げたような臭気も混じっている。
しばし瞬きを繰り返したあと、ユキヤはようやく場所を悟った。ここはジャックスの店のベッドだ。粗末な布団の感触は意外にも肌に馴染み、固い寝台がかえって安心をもたらしていた。
横を向けば、床に雑魚寝する影が二つあった。
ジロとバクだ。ジロは壁に背を預けたまま口を半開きにして眠り、バクは豪快ないびきを響かせながら丸太のような腕を組んでいた。二人とも疲れ果て、眠りに沈んでいる。
その光景を目にしたとき、胸の奥にかすかな違和感が芽生えた。
「起きたか」
不意にかけられた声に、ユキヤはびくりと肩を揺らした。
視線を向けると、カウンターの椅子に腰かけたジャックスが煙草をくゆらせていた。暗がりの中でも、鋭い眼差しだけははっきりと光を帯びている。
「こいつらなりに恩義を感じてるんだよ。お前がタカクラを斬ったおかげで、命拾いしたんだからな」
煙を吐きながら、ジャックスは机を軽く叩く。その上には、微かに厚みを帯びた封筒が置かれていた。
「約束通り、依頼料の五万だ」
ユキヤは思わず息を呑んだ。
慎重に封筒を手に取る。中身を確かめずともわかる――こんな大金を手にするのは初めてだった。
重みは確かにある。けれど胸の内に嬉しさよりも戸惑い広がる。どう使えばいいのか、何に費やせばいいのか。
これまでの自分には縁のなかった問いが、不意にのしかかる。
指先で封筒の端を撫でながら、ユキヤは思わず小さく呟いた。
「……こんなに、俺がもらっていいのか」
ジャックスは口元で笑ったが、その声音は冷ややかだった。
「いいも悪いもねぇ。命賭けた報酬だ。寧ろ足りないぐらいだろ」
不意に前方で、扉が軋む音がした。
こんな早朝に客が訪れるはずもない。ユキヤが顔を上げると、フードを深く被った影が足を踏み入れてきた。
「はじめまして」
声は澄んでいた。低く抑えられているのに、芯の強さを感じさせる響きだった。
フードが外されると、見覚えのあるような顔が現れる。夜明けの光が差し込む窓辺に、その容姿が鮮やかに浮かび上がった。
淡い金色の髪が肩で揺れ、滑らかな肌は夜の冷気にも曇らない。長い睫毛に縁取られた瞳は、青玉石のように澄んでいる。それでいて冷ややかな光を帯び、観察者としての色を失わない。
上流階級の衣服を目立たぬよう地味な外套で覆っていたが、それでも隠しきれぬ気品があった。
「俺の依頼主で、クロードレイ家のご令嬢でもある、セリーヌ様だ。この方のおかげで、今ギルドが手を出してくることはなくなってる。安心しろ」
ジャックスが片眉を上げて言う。
セリーヌは何も答えず、ただユキヤへと歩み寄った。彼を一瞥し、その姿を測るように目を細める。
「……本当に、あなたがタカクラを斬ったの?」
その問いは、信じられないという感情を隠そうともしないものだった。
彼女の目には、ただの痩せたスラムの少年にしか映っていない。体格も貧弱、雰囲気も臆病げで、とても屈強な兵士を退けるような強さは見えなかった。
視線を逸らし、答えを見つけられない。そんな彼に代わり、ジャックスが口を開いた。
「見た目に似合わねぇこともある。少なくとも、現実にユキヤはここに生きて帰ってきた」
セリーヌは微笑んだ。だがそれは柔らかな笑みではなく、好奇心を隠しきれない輝きだった。
「面白いわ。……ねぇ、これからどうするの?」
ユキヤが封筒を見下ろして小さく頷く。
「決まってない。外にでる」
すると、彼女は裾を翻した。
「なら、わたしもついて行っていいかしら」
妖艶な笑みで言い切るその姿に、ユキヤは黙り込む。これまで一人で生きてきた彼にとって、他者と行動を共にすることには強い躊躇があった。
「いや、一人がいい」
数刻の間をおいて、笑みをみせたまま固まるセリーヌ。彼女の身分上、明確に拒絶される経験があまりなかった。
あわててジャックスが間を取り持つ。
「お、おい、ユキヤ、聞いてたか? クロードレイ家のご令嬢だぞ。わかっているのか」
「いや」
「なっ……」
ジャックスは半ばあきれたように肩をすくめた。
「ったく……お前、クロードレイ家を知らねぇのか」
正直にうなずく。スラムで育ったユキヤにとって、上流階級の家柄など遠い別世界の話にすぎなかった。
耳にすることはあっても、それがどれほどの力を持つのか実感できたことは一度もない。
「クロードレイ家はな、この都市〈シンカイ〉を動かす大動脈を握ってる方々だ」
ジャックスの声は低く重い。
「街じゅうに張り巡らされた魔力導管。あれを整備したのはクロードレイ家だ。導管がなけりゃ魔導灯も水流ポンプも動かねぇし、上層の方々が快適に暮らすこともできやしねぇ。要するに、この街が息してるのはクロードレイ家のおかげってわけだ」
ユキヤは封筒を握りしめたまま、ぽかんとしていた。
「……ふーん」
まるで近所の井戸を修理した職人の話でも聞くような調子だった。
ジャックスは額を押さえ、深く息を吐く。
「ふーん、じゃねぇ。力でいったらギルドと並ぶぐらいの、都市の根幹そのものだぞ。セリーヌ様はその直系のお嬢様ってわけだ。……わかるか? スラムで五万握ったところでどうにもならねぇような連中を、一言で動かせる立場なんだよ」
ギルドの兵士たちを思い出し、ユキヤは初めて眉をひそめた。
「……すごいんだな」
分かったような、分かってないような反応を見て、ジャックスは諦める。
ユキヤの無知は偽りではなかった。彼にとって上層の生活や、都市を動かす大きな力は、遠い霧の向こうにあるようなものでしかない。
セリーヌはユキヤを見据えたまま、ふと唇の端を上げる。
「改めて聞くわ。あなた、これから外に出るんでしょう? なら、わたしも一緒に行く」
再度の確認は、もはや命令に近い響きだった。
ユキヤは顔を背け、しばし黙り込む。仕事でもないのに見ず知らずの人間と共に行動することはない。ましてや、上流の令嬢と肩を並べて街を歩くなど、場違いに思えてならなかった。
「……好きにしてくれ」
しぶしぶ吐き出した言葉は、拒絶と承諾の間に揺れる曖昧な答えだった。
様子を見ていたジャックスが、重い溜息をついた。
「護衛もつけずに平気なのか? 何かあっても俺は責任を取らねぇぞ」
セリーヌは肩をすくめ、涼しい声で答えた。
「問題ないわ。わたしはタカクラを斬った少年と一緒にいるんですもの。これ以上の護衛がいるかしら?」
さらりと言ってのける口ぶりに、ジャックスの眉がわずかにひきつる。
セリーヌはさらにフードを深く被り直し、柔らかく笑んだ。
「それに、こうしていれば人目につく心配もないわ」
その瞳は楽しげに光り、どこか冒険を前にした子供のような高揚すら滲んでいた。
ジャックスは煙を吐き、肩を落とす。
「そうか。ただし、何があっても俺のせいにすんなよ」
渋い顔を浮かべつつも、ユキヤは扉へ歩みを進める。
その背後でセリーヌが軽やかに続き、フードの下から小さな笑みを洩らした。




