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13. 五万と五百万

 スラムを抜けると、空気が変わった。

 煤と油に満ちた灰色の空気から、香辛料と甘い菓子の匂いが入り混じる鮮やかな通りへと足を踏み入れる。

 魔導灯が並ぶ大通りは昼のように明るく、石畳は水で打たれ、光を受けて淡くきらめいている。

 軒を連ねる屋台や露店は声を張り上げ、焼ける肉の香り、果実の瑞々しい香り、薬草の刺激臭といった匂いが混ざり合い、人の波に押し流されるように活気づいていた。


 セリーヌはわずかに目を細めた。

 ここは〈シンカイ〉の中流階級が暮らす繁華街。上層に住む彼女の目には、粗野で雑多な光景としか映らない。

 だが、隣を歩くユキヤの瞳は、宝石の原石を見つけた少年のように輝いている。この世界は、彼にとって眩しかった。


「肉だ」


 呟くと同時に、彼は迷いなく屋台へ歩み寄った。

 煙を上げる鉄板の上で、油が弾ける。香ばしい匂いが通りを満たし、炭に滴った肉汁が赤々と燃え上がっていた。

 ユキヤは五本まとめて肉串を買い、手早く支払いを済ますと、豪快に齧りつく。

 脂が口端を濡らしても気にせず、次々と平らげる。頬を膨らませ、噛みしめるたびに幸せそうに目を細めた。


「はぁ」


 セリーヌは思わず小さく息を洩らした。

 彼があまりに幸せそうに食べるので、微笑ましさに釣られて笑みを浮かべてしまう。だが、その一方で心の奥底に奇妙な感情が広がる。


(ただ肉串を食べて満足するなんて……本当に、それでいいの?)


 腹いっぱい食べるというささやかな贅沢が、彼にとってどれほど遠い夢だったのか。上流の暮らしを知る彼女には、その感覚は到底理解できなかった。

 ユキヤは無我夢中で肉に噛り付く。


「うまい! 上等な飯をこんな食えるなんて、何年ぶりだ……」


 その表情は、戦いのときの険しさとは別人のように穏やかだった。

 セリーヌは一歩近づき、ふと軽い調子で口を開く。


「ねぇ、ユキヤ。私がジャックスに支払った依頼料、いくらだと思う?」


 ユキヤは口をもぐもぐさせながら首を傾げる。


「ん? 知らない。俺が貰ったのは五万だからそれ以上だろ」


「ふふ……教えてあげる。五百万よ」


 わざと囁くように打ち明けた。これは本来、契約内容に差しさわり、口にしてはならない秘密だった。

 だが、彼への興味と……少し試してみたい気持ちが、唇を緩ませた。

 ユキヤは手を止め、肉串の棒を見下ろす。

 驚きはしたものの、目を丸くして騒ぎ立てることはなかった。


「そうか。……まあ、そんなものか」


「え?」


 思わず問い返すセリーヌに、彼は淡々と続けた。


「俺がジャックスと交渉して、報酬を五万と決めたんだ。もちろん、安く見積もられていることを考えて、話し合いの結果、だ。だからもしこの報酬額が不当なものだったとしても、それは騙された俺が悪い。むしろ、次は騙されないようにすればいい」


 その声音には、悔しさよりも、自分の未熟さを受け入れる静かな覚悟が滲んでいた。

 セリーヌは瞠目する。


「ずいぶん前向きなのね」


 彼女は軽い調子でそう言いながらも、胸の奥では不思議なざわめきを覚えていた。

 普通なら「騙された」「損をした」と憤る場面だ。それをこの少年は、当然の失敗として受け入れ、次への糧にしようとしている。無知で未熟なはずなのに、なぜか背骨の通った確かさを感じさせた。


「現実的なだけだ」


 そう言い放つ声音に、打算や虚勢はなく、ただ事実を見据えた者の重みがあった。

 セリーヌは一瞬、言葉を失った。無知で未熟なはずの少年が、自分よりもずっと地に足をつけているように思えたからだ。

 普通なら拗ねたり怒ったりする場面で、彼は淡々と次に備えることを考えている。

 その潔さに、素直に感心せざるを得なかった。


 ユキヤはふと昨日のことを思い出す。


 ――敵がタカクラ以上に強ければ、拡張知能があっても死んでいた。ジャックスのような相手に交渉で後れを取ることもある。


 その二つの現実を、彼は痛いほど理解していた。だからこそ、もっと自分の能力を理解しなければならないと決意する。


(これからの仕事は、できるだけ戦闘を避けたい)


 当面の目標は、金と拡張知能の解明。その思いを心に刻みながら、ユキヤは再び歩き出した。

 セリーヌはその背を見つめ、ふと唇に小さな笑みを刻んだ。粗野で雑多な街並みの中にあって、彼の姿はなぜか目を離せない光を放っていた。


「もう帰る」


 ぽつりと口にした言葉に、隣を歩いていたセリーヌが足を止めた。


「え? せっかくお金があるのに、もう終わり?」


 その声音は半ば呆れたような調子だった。

 ユキヤは眉をひそめる。


「他に何をするんだ」


「そうね、欲しいものがないなら、贈り物でも買うのはどう?」


「贈り物?」


 彼の声には本気の疑問が混じる。

 セリーヌは微笑みを浮かべながらも、どこか誇らしげに説明した。


「贈り物は、感謝を伝えたり、関係を良くしたりするのに役立つのよ。単なる物じゃなくて、人と人との間に橋を架ける素敵なものなら尚いいわ」


「なるほど……」


 贈り物を買ったことがないユキヤは真剣な表情で悩む。

 セリーヌの本心としては、今日買い物に付き合っている(実際は半ば強引についてきたのだが)お礼として、そこまで裕福でないユキヤの懐から、自分への贈り物を期待しての言葉だった。

 ユキヤが何を選ぶのか、もしくは拒否するのか興味があった。


 だが、彼が向かったのは華やかな装飾品の並ぶ店でも、鮮やかな衣服の並ぶ仕立屋でもなかった。

 通りの端にひっそりと店を構える、古びた茶葉屋。棚には小袋に詰められた乾いた茶葉や、白砂糖の瓶が並んでいる。


「これだ」


 ユキヤは迷わず茶葉と砂糖を選び、硬貨を数枚支払った。


「オトラ婆に持っていく」


(……え? 誰?)


 てっきり自分に贈るものだと考えていたセリーヌは、拍子抜けする。

 ユキヤの身近にいる老女なのだろう。それは理解できた。

 だが心の奥で他の女という単語が勝手に反響し、不満と驚きが入り混じる。

 それでも笑顔を崩さず、皮肉まじりに言葉を投げた。


「贅沢と言って真っ先に選ぶのが、肉と茶葉なのね」


 ユキヤは茶葉の袋を眺めながらぼそりと呟く。


「俺なんかが上等な服や装飾を持ったって似合わない」


 セリーヌはその言葉に、彼が自分を過小評価していることを見抜いた。目の前の少年は、確かに粗末な外套を纏ったスラムの子だ。

 だがタカクラを斬った事実があるならば、力も、運命も、すでに彼を別の段階へ引き上げている。


(すごく面白い子ね)


 青玉石の瞳に光が宿る。


 セリーヌは心の中で密かに笑んだ。彼がどのように変わっていくのか――それを見届けることは、退屈な上流階級の遊戯よりも、ずっと刺激的に違いない。

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