表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/33

第九章 大宝律令(一)

 その日。

 藤原京の朝庭は人で埋まった。数百人もの官人が各々襟を正し、冠を整えて、広大な朝庭に整然と列を成している。周囲には(ゆぎ)を負い、鎧兜を輝かせた兵士たちが並び、庭を護っている。壮麗な眺めであった。皆々のおもてには緊張と、そしてそれ以上の歓喜がみなぎり、広い朝庭には、冷たい水のような、ゆらゆらと踊るかげろうのような、澄んだ高揚感が張りつめていた。


 人々の見守る先には大極殿がある。青灰色の入母屋屋根と柱の朱の対比が、さんざめいて注ぐ陽の光の中にいつにも増して美しい。都は晩春であった。大宝元年三月二十一日(※)。渡る風は暖かく澄み、そして陽には未だ、春日の麗しさがとどまっている。飛鳥が一年で最も美しく映える季節である。金献上の儀が執り行われるには、如何にもふさわしかった。


 大極殿の広間には、朝廷の公卿大夫(まえつきみ)がうちそろっていた。位ごとに染め分けられた朝服(みかどころも)の色が、重々しい静けさの中に染みとおるかのようであった。重臣の居並ぶその奥には、八角の天蓋に守られた高御座(たかみくら)があり、玉をちりばめた金の冠を戴き、純白の袍も清らかに文武帝が座している。高御座の傍らには、こちらは紫紺の袍と白い肩衣をまとい、額をかんざしで飾って持統太上天皇がひかえていた。献上の儀の開始を告げる鳴りものの音が、広間いっぱいに響き渡った。はるばると長く尾を引く余韻にかぶせて、対馬にて金が産出され、それがこのほど帝に献上されたことが告げられた。


 金塊を盛り上げた三つの盆が侍臣に導かれて広間に入って来た。石だたみの床を進み、高御座正面に据えられた台の前で、盆は忍壁皇子と二人の重臣の手に渡され、台の上に並べられた。盆も、盆が乗せられた台も美しい丹塗りである。鮮やかな朱の色が、金の輝きをいやおうなく際立たせていた。


 文武帝が立ち上がり、ゆっくりと高御座を下りた。台に歩み寄って献上された金を見る。それから文武は振り返り持統を差し招いた。持統はうながされるまま立ち上がった。歩み寄り、文武と共に金を愛で、そして一礼して下がった。持統が下がると入れかわりに左大臣多治比真人(たじひまひと)が進み出た。


「対馬国より産した黄金こそは、新しい律令の完成を祝い天が贈られためでたき瑞兆である。これをかんがみ、大宝の年号を、新たに定めるものとする。加えて、新令にもとづき官名を改定し、その授与を行う」


 宣命(せんみょう)を読み上げる声が朗々と、大極殿に鳴った。朝庭に並び固唾を呑む百官の耳にもその声は琴音のようにしみ渡った。


 孝徳帝が即位した際に大化が定められたのが、日本における年号の初見だが、以後の朝廷は年号にはさほど関心を払って来なかった。孝徳帝の下で白雉、天武朝の末期に朱鳥が定められたきり、年号は用いられなくなって久しい。しかし、新令では、常に年号を用いることが規定された。つまり大宝の年号の制定は、金産出の瑞兆に合わせて久しぶりに年号を定めたというだけではない。新律令の施行という意味も、同時に含まれていたのだった。


 とは言ったものの、実際には、この時はまだ、律令は完成に至ったとは言い難かった。年内完成のめどはとりあえずついたが、条文作成、読習共に撰令所での作業は継続されている最中であるし、全国に配る写本の作成も、これから行わねばならない。予想していたよりも早く金が送られて来たために、仕上がっていた巻の中から前倒しする形で、年号の制定と、新しい官位の授与の儀を大掛かりに執り行うことにしたのである。金の献上と新律令の完成、両者を共々に、公卿大夫、百官の目に強烈に印象づけるためであった。


 文武が台の前から下がって高御座に戻り、金献上の儀は終わった。引き続き、新令に基いて改定された官位名が発表され、式典はその授与へと移った。


 飛鳥浄御原令下では、親王、諸臣合わせて六十もの官位が定められていたが、それが大宝令下では大幅に減じられることとなった。特に、下級の官位は半分近くに減じられた。これにより、下級官人は出世がこれまでよりも容易になる。ひいては試験によって登用される者の数も増えることになると、官位を発表する役人はつけ加えた。官位制度を簡素化し、官僚組織の充実化をはかるために不比等の考案した政策である。また、今までは正大壱や直広肆など煩雑であった各位階の名称も、正一位、従二位、のように簡明なものに改められた。


 重臣の筆頭である多治比真人の名が、まず呼ばれた。真人は進み出て、位記(辞令)の巻物を受け取った。彼は今まで正広弐であったのだが、新体制の下では正二位となり、受け取った位記にはその旨が書いてある。巻物を手に多治比真人は重々しく一礼した。


 左大臣の真人から始まり、官位の順に次々と名が呼ばれ、位記を受けた。ほとんどの者は先の多治比真人のようにそれまでの位に相当する官位を受けたが、今回律令編纂に功のあった重臣については、特に栄進も発表された。その中で皆の目を最も引いたのは、やはり不比等であった。かねてより持統が密かに心に定めていたとおりに、正三位授与という破格の進階をし、加えて大納言にも任じられた。それまでの不比等の位は直広壱、新しい官位に照らし合わせると正四位下であり、ひと息に三階もの昇進を果たしたことになる。自信に額を輝かせ位記をうやうやしく受ける不比等を、驚きと羨望のため息が追った。


 この日行われた式典は、国史における金字塔と言ってよい。この「大宝」から始まった年号はその後千数百年に渡り途切れることなく制定されている。またこの時に整えられた官位も、多少の修正を加えられながら近代まで連綿と続いた。持統や不比等は、彼ら自身が考えていたよりも遥かに重要な足跡を、歴史の上に刻んだのである。


 しかしその記念すべき場に、もう一方の功労者であるはずの大伴御行の姿はなかった。一月十五日、金の到着を見ることなく、御行は病に没したのだった。文武は御行の死を惜しみ、その日のうちに正広弐(正二位)の位と右大臣の官職を贈った。また没してから三日後に予定されていた大射の礼(※2)も、服喪のために取りやめとなった。朝廷において御行が重きをなしていた有り様がうかがえる。


 夜、宮中の大広間に諸臣が一堂に集い、盛大な酒宴が張られた。

 芳醇な酒の香りと、香ばしい料理の香りが流れ、皆は酒を酌み笑い声を交わした。広間の一隅には楽師たちがひかえ、今は一人の楽師が膝に多弦の琴を抱え奏していた。


 広間中央には舞姫が三人、裾をひるがえして舞っている。鮮やかな黄と紅の衣には一面、大きな花の文様の刺繍がある。たっぷりとひだを取った衣装の裾を柔らかく乱して、琴音のさざなみの中、舞はいっときたりとも休むことなく流れて行く。耳に下がった大きな金の耳飾り、額に刺した金のかんざし、灯火を照り返して、胡蝶が花野を乱舞するような舞姿には、異郷の匂いがある。百済の舞踏なのであった。


 今から四十年の昔、百済は当時同盟していた日本と共に、白村江で唐、新羅の連合軍と戦い、敗れた。国を失った百済の民は故郷の地を捨て、敵軍の手を逃れて大和へと渡った。この広間で楽器を奏し、舞を舞っている者たちは、その百済民の子孫である。


「皇子」


 舞姫たちにぼんやり見入っていた忍壁の袖を引く者があった。


「ああ、お主か」


 粟田真人と気づいて、忍壁は破顔した。真人は酒器を取り上げ、忍壁の盃を満たした。


「そちらの様子はどうだ。随分と多忙だと耳にしておるが」


「いえ、多忙には違いございませぬが、撰令所ほどでは」


 真人は微笑した。

 ふた月前、真人は文武より直大弐(従四位上)の官位と、民部尚書の官職をたまわり、加えて遣唐執節使という大役に任じられたのだった。そうしたわけで、律令の編者に未だ名を連ねてはいるものの、実際には真人は撰令所の方からは手を引き、使節団の全権代表として様々な準備に追われていたのである。


 件の白村江の戦い以来、日本と唐の国交は絶えている。今回の遣唐使の目的は、第一にその国交を四十年ぶりに回復することであり、もう一つは、唐王に完成した律令を献じて、日本国が律令国家となったことを示し、隋や唐の歴史において、東海の蛮国の如く認識されて来たこの国の国威を発揚するところにある。使節団の責務は重大だった。


 真人は若い頃、留学僧として遣唐使船に随行した経験があり、唐の事情には通暁(つうぎょう)している。朝廷内でも指折りの学識があるし、その人柄や物腰の穏やかであるところも、彼がこの大役に選ばれたゆえんであった。


「つまりわしのように粗暴な者ではつとまらぬのだ。彼の国はやはり蛮民の集まりと、あなどられようからな」


 真人が遣唐執節使に任じられたと聞いた忍壁は、そんな冗談を言って近習の者を笑わせた。


「あの者は学識が豊かで思慮が聡明だ。加えてその聡明にも嫌みや下品さがない。唐へ遣わすのにこれ以上の適材はおるまいよ」


 そう言って、忍壁は真人が代表に選ばれたことを心から喜んだ。


「撰令所は未だ多忙を極めておりましょう。かような時に抜けるのはいささか心苦しくもあるのでございますが」


「つまらぬことを気に病まんでもよい」


 忍壁は干した盃を真人の手に持たせ、手ずから酒をついだ。


「唐への使節は、お主以外に安心して任せられる者はおらぬ。確かにまだまだ繁忙ではあるが、完成のめどはついた。こちらのことは気にせず、使節の方に専念してくれ。撰令所にへたに出入りさせて魂を吸い取られたとあっては、わしはそれこそ帝に顔向けが出来ぬ」


 忍壁はにやにやと笑った。というのは、編纂作業が開始されてから今までのわずか一年余のうちに、過労から病を得、撰令所を去った者が少なくなかったのである。実務を行っている下級官人の顔ぶれも随分変わったし、編者の一人、調伊伎老人(つきいみきおきな)に至っては、病に倒れたのちひと月も床につかぬうちに病没してしまった。膨大な条文の作成、読習という作業は、たずさわった者が感じるよりも遥かに激しい負担を、心身に強いるものだったのである。


 忍壁のたちの悪い冗談にあいづちを打つわけにも行かず、真人は苦笑したきりつがれた盃に口をつけてごまかした。


「結局のところ、官職の任命はございませんでしたな」


「うん?」


 と忍壁は眉を上げ、ああ、知太政官事のことかと頷いてみせたが、口ぶりには少々、自嘲の態があった。かねてより宮中では、新律令体制の開始と共に忍壁が知太政官事に就くであろうとの噂があった。しかし文武の後見人である持統が健在である今は、知太政官事の補佐は不要であるとされ、結局忍壁の任命は見送られたのだった。

※1 この当時の暦では、一月から三月が春である

※2 皇族や官人が射技を披露する年中行事

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ