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鍍金の島(ときんのしま)  作者: 李孟鑑


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第九章 大宝律令(二)

 しかし本来ならば、知太政官事は太政官の長官という位置づけなのだから、持統が健在であろうがなかろうが、常設されるべき官職のはずである。それが前述のような理由で簡単に空位とされるところに、この官職の存在の頼りなさが既に垣間見える。律令に規定されない「令外官」という位置づけになったのも心もとない。執政に柔軟で即応的な対応が出来るように配慮したためというのだが、忍壁はどうも気に入らなかった。たとえ形だけでも皇族が執政の頭に座るところに意義があると忍壁は考えていたのだが、様々の理由をつけてこの知太政官事という官職そのものがなくなるかもしれぬ。不比等の奴にしてやられた、と忍壁は声をひそめて苦々しくこぼした。


「太政大臣と知太政官事。これではどちらも変わらぬではないか。むしろ令外官である分、太上天皇の肝いりであるはずの知太政官事の方が短命かもしれぬ。馬鹿な話だ。」


「確かに気に懸かりますな。しかし太上天皇は、今後朝廷内において太政大臣をどのように扱うご所存でございましょう」


「うむ、そうだな……。それこそ名誉職の如きものにするおつもりではないか」


 新律令での太政官の構造は、まず大納言と左大弁、右大弁があり(中納言の官職は廃止された)、その上に左右大臣、そして形の上ではその更に上に太政大臣が置かれている。左大臣または右大臣として大きな功があった場合、それ以上の昇進がないため、代わりに褒章として太政大臣の名を与えるという形になるのではないかと忍壁は推察した。


「そうなると、皇族から任ずるとの規定から外れまするな」


「そこは構わぬだろう。皇族から任ずるとはあくまでも御祖父様の方針で、令で定められていたわけではない。それに太上天皇は、誰か皇族の者が太政大臣という特殊な立場につくことで、皇位の継承に障りとなることを大変に憂慮しておられるのだから、公卿大夫が太政大臣になるのは、あの方にとってむしろ望ましいかもしれぬ」


 楽音が大きくなって、忍壁の声はかき消された。


 いつの間にか琴はやみ、演奏は笛と太鼓とが代わっていた。寒々とした朝鮮の大地を渡る風を思わせる笛の音に、軽やかな太鼓の響きがからみ合い、大陸然としたうねりのある抑揚が生み出される。舞姫たちの動きも躍動を増した。しかし、躍動的ではあるが、不思議とそこに激しさは感じられない。乱舞の中にもたおやかな流麗を、戦場に振るう剣の中にもはなやかな花の心を。それこそが、百済の美であった。


「御祖母様、お疲れではありませんか」


 椅子の肘かけにもたれ舞を見ている持統の手に、文武がそっと触れ、訊いた。


「この様子ですと、今宵の宴はかなり遅くまで続きそうです。ご無理をなさらずもうお休みになられては」


「案ずるには及びませぬよ」


 持統は笑みを向け、首を振って見せた。本当は日中から続いた様々の儀式と宴とで体はかなりの疲れを感じていたのだったが、しかし持統は、自室に戻って休む気にはなれなかった。今日という日を出来るだけ長く、彼女は味わっていたかったのだった。


 酒を酌み、思い思いに笑いさざめく人々、華やかな楽音、美しい舞姫、酒の香り、肉の匂い、燃えさかる炎の色。宴を見守る持統の胸は満たされていた。


 今日この日をもって、日本国は律令国家の道をはっきりと歩みだしたと言ってよい。律令完成までにはまだもう少し時が要るが、それとてあと半年もすれば成就する。孝徳帝から数えて六代、五十年に渡って皇家が心血を注いで来た、国造り。その壮大な事業を他ならぬ自分が完遂させたのだという思いが、持統を深く陶酔させた。


 父、天智が、朝廷の中枢を牛耳っていた蘇我本宗家を刃で滅ぼし、孝徳帝を奉じて国と政の改革へ乗り出した、あの大化元年(六四五)という年に、持統は生を受けた。持統の人生を流れた時間はそのまま、歴代の帝が律令国家を目指して苦闘して来た歴史そのものなのである。それを思えば、あの流血の年に自らの人生が始まりを迎えたことにも、何か運命じみたものを持統は感じずにはいられなかった。


 金の飾りを輝かせ、百済の舞は続いている。日本と百済の軍が敗れ、百済王扶余豊璋(ふよほうしょう)が籠城していた周留(する)城が陥落した時、城内の何百人という女官たちは敵兵より辱めを受けることを恐れ、城を逃れて崖から眼下の川に身を投げたと、のちに持統は聞いた。あの舞姫は、その、落花のように散った女たちの血と魂を受け継いでいる。百済の舞は力強さの中に美しさと儚さを秘めている。それは百済の民が、滅びの美しさをその血の中に刻み込んでいるためではあるまいか……。


「誰ぞ」


 女官がすぐに歩み寄った。


「ついでおくれ」


 蒼い瑠璃の盃を取り上げ、持統は唇を酒でうるおした。舌を通って咽へ、酒の滴が透明な樹液のようにすべり落ちた。舞姫たちの衣装が蝶となって舞い乱れるその向こうに、持統は、百済の女たちの、崖上からあでやかな花となって身を投じて行くその様を追っている。しかし大きな達成感と幸福感に酔う持統には、その光景は痛ましいよりも鮮やかに美しい一枚の絵画であった。


 心の内には、わずかに緊張がある。幸福の陶酔の中に不吉を予感する、幼い頃からの彼女の肉体の癖である。不吉とは恐らく自身の死であろうと、持統は思う。もはや彼女の心は不吉の予兆を恐れなかった。全ては乗り越えられた。血の時代は終わった。人生を染めて来た血の色は瑞兆の朱となる。そして生臭い血の匂いはかぐわしい天華の芳香ともなろう。持統は今一度、唇に酒を含んだ。まさしく勝利の美酒であった。


      * * * * *


 年号と官位にかんする令を発布したこの三月二十一日をもって、朝廷は律令の「作成」から「施行」へと舵を切った。撰令所では引き続き条文の作成を急がせる一方、書き上がった巻については順次、字句の検討、推敲が行われ原本の作成が進んで行った。


 翌四月には皇族と官人らを集め新令の講義が行われた。本来これは令の写本が行き渡ってから行うべきものであるが、写本の完成を待っていては施行が先送りになってしまうため、前倒しで講義を行い、中央の政治だけでも新令にそってすぐさま執行出来るよう準備を整えたのである。ちなみに律の方は、条文と照らし合わせなければ正確な裁判は出来ないため、さすがにこのような乱暴なやり方はしていない。翌大宝二年八月に写本が仕上がり、全国の国衙、郡衙に配布されるのを待って施行を命じるという、しかるべき手順を踏んでいる。


 六月七日、文武は詔を発し、以後の執務は全て新令に準拠せよと下命した。さらにそれからふた月のちの八月三日、全条文の作成と推敲が終わり、序文を添え装丁を整え、新律令が文武の下に献上された。(先の詔の時点ではまだ、条文作成や推敲が続いていたのであろう)


 律令作成の詔からおよそ一年半。律、令合わせて千五百条、大宝律令はここにようやく、完成の日を見た。この日、律令作成にたずさわった者たちに、文武は褒美の禄を与えた。そしていよいよ新律令を全国で本格的に施行させるべく、各地の国司、郡司のもとへ明法博士が講義のために遣わされた。


 対馬の国衙に行賞の遣いが来たのは十一月に入ってからのことだった。

 朝廷の遣いが国衙に着いた時、五瀬は国衙近くの自分の小屋にいた。金の精錬を終え工房をたたんでからもうじき一年になろうというのに、帰国の許しがまだ出ていなかったのである。対馬にいる間は、郷里の忍海の群司が米を送ってくれるために食うには困らなかったが、しかし閉口したのは日々何もすることがないことだった。


 そんな折、国麻呂から五瀬のことを聞いたのか、近隣の豪族が、修繕をして貰いたいと言って金細工を持ち込んで来た。五瀬は快諾し、それからというもの、対馬での日々を五瀬は金細工の修理士として過ごしていたのである。


 せっせと槌を振るう五瀬の傍らには、小さな厨子があった。全体に漆が塗られ扉の四隅には金の飾り金が打ちつけられた贅沢な作りだが、長い年月のうちに飾り金のひとつが失われてしまっている。同じものを金で作り直して取り付けようと、五瀬は槌で金を叩き伸ばしている最中であった。


 こうした飾り金は銅で作り金をかぶせるのが一般的なのだが、この厨子の飾りは金無垢である。恐らく金の豊富な大陸で作られ、渡って来たものなのであろう。入り江に浮かんでいた新羅船の姿がふと思い出された。朝方の澄んだ陽の光は、金の色とよく似合う。自分の手が奏でる軽妙な槌音と金板に弾む陽の向こうに、新羅船の旗の揺らめきがかぶった。心地良さに誘われていつしかうとうとしていると、


「おい、起きろ」


 いきなり声がして、体が横ざまに倒れた。


「館様がお呼びじゃ。すぐに参れ」


「な、何事でございますか」


 五瀬は体を起こした。見れば肩の辺りを蹴られたらしく、泥がべったりとこびりついていた。


「わしが知るものか。さっさと致せ」


 兵士は腰の剣を叩いてせかした。作業台の上を取り片づけてすぐに立ち上がったが、眠りから覚めたばかりで頭はまだぼんやりと濁っていた。そんな五瀬の顔を見て兵士は


「よだれを拭け」


 と顔をしかめた。


 兵士のあとをついて国庁(国司が政務を執る場所)の建物に入ると、広間に通された。人が十人ばかり集まっていた。東人が広間の中央に、こちらへ背を向けて立っているのが見えた。見覚えのある国麻呂の後ろ姿と、広兄の姿もあった。その他の者は国衙、または郡衙の役人と思われた。東人以外の者は二手に分かれて壁に沿って並び、ひそひそと言葉を交わす声もあったが、広間は重々しい静けさに包まれていた。場違いな空気に戸惑っている五瀬の頭を、兵士が押さえつけてその場にしゃがませた。そうしておいて、兵士は東人のもとへ歩み寄り耳元に囁いた。東人の顔がちらりとこちらを振り返り、五瀬を認めた。


 そのまま部屋の隅にうずくまっていると、扉が開き、鮮やかな袍に身を包み腰に太刀を帯びた立派な装いで、役人が入って来た。東人を含めた全員が、その場に片膝をつき腰をかがめた。五瀬も訳が分からぬままに平伏した。


 ゆっくりとした足取りで広間の上座に進み、使いの役人は都からたずさえた書状をさらさらと広げた。


「――先の金の産出は、まことに神がこの国に示されためでたき瑞兆であった。対馬よりの金の献上を、帝はこの上なくお喜びである」


 張りのある声が、緊張した静けさを破って、広間に響いた。


「その忠勤に報い、朝廷は行賞を行う。

 対馬守、田口東人。金を献じた功により、官位を一階昇進させ、従五位上を授ける」


 東人がこうべを垂れた。


「郡司、対馬県国麻呂。領内から金を産出させた功により二階の昇進、また郡衙の主典以上の者には一階の昇進を授ける。

 金を発見した農民家部宮道。その功により正八位上の官位を授け、合わせてあしぎぬ、真綿、麻布及び鍬を授ける」

※ 国司が政務を執る場所

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