第八章 憂悶の日々(三)
長年明日香が暮らした部屋のそこここには、今も明日香のにおいが色濃く沁みついていた。今にも帳が開いて明日香が顔をのぞかせるのではないかと思われる。壁に火影が揺れれば、鏡の前に座り髪をくしけずる後ろ姿を見たように目は惑わされる。部屋の主はとうに去ったというのに、この部屋は心を持たぬゆえにそれに気づかず、今も明日香が暮らしているものと思い込んで、時を生きているためかもしれなかった。
「明日香、『ちだじょうかんじ』、だそうだ」
ほおづえをつき忍壁は文机の薄く塵のかぶった上に「知太政官事」と指先で書いて見せた。以前持統が発案した、太政大臣に代わる官職のことである。
「知太政官事」とは、太政官を知る者、くらいの意味であろうか。太政大臣に代わって司法、立法、行政、執政の全てを総攬(掌握)する長官とのことであったが、忍壁に言わせればどうも雲行きが怪しかった。あの時の持統の案は、「太政大臣を廃し、皇族のために職掌の明確な官職を設ける」ということであったはずだった。しかし出来上がって来たこの「知太政官事」の職掌は「執政の総攬」であり、あまりに漠然とし過ぎている。そこが明確でないということは、知太政官事の権限は、官僚の都合で幾らでも削ることが出来るということではないか。結局は皇族側の不満をそらすための、実の伴わない形ばかりの官職であるように、忍壁には思われてならなかった。
『馬鹿馬鹿しい』
ぷっと息を吹きつけて、忍壁は文机の文字を吹き消した。いずれは忍壁が、この知太政官事に任命されることになるであろうという声が朝廷では囁かれている。皇族を代表する立場にあるのだからそれは自然の成り行きとも言えるが、しかし忍壁にはどうにも馬鹿らしかった。
「そもそも、わしが律令の作成に加わっていることに、何か意味があるのか」
ため息まじりに、忍壁は声に出して言った。
「太上天皇の頭には、不比等を中心とする貴族政治の絵図がちゃんとあるのだ。皇族側の主張を盛り込みたくとも、肝心の太上天皇がそれを許さぬでは、わしは始めから加わらなくとも同じことではないか」
あたかも隣に座った明日香に語りかけてでもいるように、忍壁はひとりごちた。時折、律令事業の総裁など持統と不比等の顔へ投げ返してくれようかと、腹の底に憤りをくすぶらせることもある。が、忍壁は気性は荒くとも蒙昧ではない。皇族の勢力回復という目的はほとんど全く達成されてはいないが、しかしそれでも、皇族の長ともいう立場の忍壁が総裁を務めたという事実は、やはり大きいであろう。例の知太政官事にしても、たとえ形ばかりとはいえ表向きには執政の頭である。その席に忍壁が座れば、それは不比等ら貴族官僚への一つの抑えになる。皇族が力を取り戻すための布石にもなるかもしれぬと、そう、忍壁は思案をめぐらせていた。
忍壁は、「大君」が統べる皇家中心の執政に完全に望みを捨てたわけではなかった。官僚組織も執政の仕組みも人の集まりである以上、木石のように不動堅固というわけにはいかないはずであろう。それこそいずれ朝廷に内紛が起こり、その機に乗じて皇族が再び執政を掌握することも出来るかも知れぬ。そのためにも、今はただ忍耐の時と、忍壁は己に言い聞かせている。
「だが太上天皇がお聞きになったら、烈火の如くお怒りであろうな」
忍壁は小さく笑った。が、笑い返してくれる声はない。なだめ、慰めてくれる言葉も無論聞こえて来なかった。
忍壁は立ち上がり奥の帳をかかげた。明日香が使っていた時のままに、臥所が伸べられてある。枕辺にはたたまれた衣までが、そのままに置かれてある。忍壁は臥所に横たわった。しとねはひんやりと冷たかった。頭を枕に乗せると、両足を伸ばして仰臥し、胸の上に両手を添えた。忍壁らに見守られながら目を閉じた、臨終の明日香の姿であった。
部屋を漂う空気の奥底のところに、うっすらと明日香の匂いが残っている。掃除もしないままに置かれているため、部屋は既に一面塵がたまり、すえたようなほこりっぽい臭いや、カビの臭いすら、次第に覆い始めているが、時折、そうした臭気の隙間の向こうにふと一瞬、懐かしい明日香の匂いが花の開くようによみがえる。待ちわびれば香らず、しかし行き過ぎれば後ろからそっと香る花枝にも似ていた。
忍壁は目を閉じた。薄闇の奥から思い出したようによみがえって来る香りを待ちながら、いつしか彼は明日香の魂に身を添わせ眠りに沈んで行った。死者の魂にしか安らぎを見出せぬ程に自らの心身が疲れ果てていることに、忍壁は気づいていなかった。
* * * * *
忍壁が愛しい者の死と寄り添うている時、大伴御行は自分自身の死を見つめていた。
春も終わろうという頃、飛鳥の一帯を季節はずれの激しい暑気が数日の間、襲ったことがあった。出仕していた御行は宮中でめまいを覚えて倒れ、以来、彼は全く床につききりになっていたのだった。
「面目しだいもございませぬ。このような大事な時に無様な有り様になり申した」
枕に頭をつけたまま、御行は病気見舞いに屋敷を訪れた持統に向かって弱々しくわびた。
枕辺についていた家人が傍らから手を伸べて額を拭った。何か一言喋っただけでも全身に汗をかいてしまうのだと、家人は小声で言い訳したが、しかしもはや暑さを感じる季節ではない。病がそれだけ重いのであろうと、持統は静かに頷いた。御行は弟の安麻呂のことをしきりと気にしていた。御行がこうして臥せってしまったため、御行の行ってきた政務は全て、安麻呂が引き継いでいるのである。
「安麻呂は大変に良く務めておりますよ」
持統は笑みをつけて請け合った。
「律令の作成はとどこおりなく進んでいる。それから対馬金の精錬も。朝廷の求めどおり、来年の内には送ってよこすと、先日、対馬守より使いがあった」
「安麻呂から聞き及びました。安堵しております」
「そなたが気をもまねばならぬことは何もありません。わずらいはひとまず忘れ、ゆっくりと養生することです」
御行は枕の上で頭を頷かせた。何事か思い出して、枕辺に置かれた錦の包みへ片手を上げた。
「帝から頂戴致しました薬でございます。昨日わざわざこちらへお見えになられました」
「ああ、軽が参ったのですか」
「たった今太上天皇が申されましたのと同じことを、宮中は全てとどこおりなきゆえ養生につとめよとの、ねぎらいのお言葉をたまわりました」
「そうでしたか。そのようなことを」
持統の口吻は嬉しげだった。重臣の病を案じ自ら薬を持参したこと、そして病中の御行の心をおもんぱかってこまやかな言葉をかけたこと、文武のそうした心根が、持統にはたまらなく喜ばしかったのだった。御行の前で、文武を思わず軽と呼んでしまったあたりにも、そんな心持ちが表われてた。
「帝は、お優しい心を持っておられます」
御行はすぐに、持統の胸の内を察し、代弁した。
「優渥にございます。周りの者の心を察し、寄り添うことの出来る優渥こそが、上に立つ者の資質にございます。これは学んで得られるものではなく、やはり生まれついての資質でございます。そして、帝はその、優渥を持っておられる。必ずやご立派な帝となられましょう」
「ええ、わたくしも。わたくしも左様に思うておりますよ」
言葉を交わす間に、家人はもう一度御行の顔の汗を拭い、それからこまごまとしたものを取り片づけると、そっと部屋を下がって行った。
人の気配が一つ消えてみると、部屋は急に静かになった。傍らに置かれたままの椀から、薬湯の残り香であろう、つんとした臭いが上っては、しきりに鼻に触れた。閉め切った窓の外に、木々の葉叢がさらさらと鳴っていた。
「しかし、せっかくのお気づかいではございますが」
家人が下がった後、しばらく黙って部屋の静けさに耳を傾けていた御行が、再び口を開いた。
「養生致したところで、もはや幾らも寿命は延びますまい」
「まあ、気の弱い。大伴御行の言葉とも思えませぬ」
「いやいや、今度ばかりは。それに胸の内を正直に明かせば、実は少々くたびれ申した。休みたくなって参りましてな」
冗談とも本気ともつかぬことを言って、御行は快活に笑って見せたが、しかしその笑い声にはどこか、から風の抜けて行くような虚しさがあった。
「無理もない。大納言、そなたもわたくしも、重ねた齢よりもずっと長い時を生きて参ったのですから」
持統はそんな言葉で、御行をねぎらった。ほとんど同い年の持統と御行は、朝廷の最も激しい動乱の時代を共に見つめて来た。御行への情は同志愛にも似ている。持統は病でやつれた手を取った。御行は小さく声をつまらせた。
「申し訳ございませぬ。わたくしも気が弱うなりました。貴女様のおっしゃられるとおり、大伴御行とも思えませぬ。年は取りたくありませぬな」
目元をおさえながらやっとの思いで戯れ言らしきものを言った。口元を覆う髭も、髪も、わずか半年の間に文字どおり雪のように白くなってしまったことに、持統はあらためて驚かずにはいられなかった。そして手も、見ただけでは分からないが、こうして握ってみると肉が皆削げて枯れ木のようにやつれ果てたのが分かる。あと幾ら命がもつかという御行の言葉も、決しておおげさなものとは思われなかった。
持統はいたわるように、御行の手を撫でさすった。御行の心が持統には分かる。目立った病こそないものの、肉体の身近に老いを感じ、魂の身近に死を感じるのは、持統とても同じであった。
持統には、近頃時の流れが矢のように速く感じられることがある。少年の文武が一年、成長するそのうちに、こちらには数年分の老いが身にのしかかって来るように思われる。一日の過ぎるのは速く、たったひと月の以前が既に遠い昔のようであった。
自分自身があたかも、川のおもてを渦へ向かって運ばれて行く木の葉であるかのように、持統には感じられた。川とは人の生である。渦とは死である。渦に巻き込まれる瞬間に、水の流れは速くなる。人の魂がこのように生き急ぐのは、死が間近いその証拠であるかもしれぬ。そしてまた、この数年体に訪れていた大小の変調も、皆死の予兆であったと考えると、持統には合点が行くのであった。
いずれ遠くない日に訪れるであろう死への恐れは、しかし持統にはない。その人生において、身内の血染めの死があまりに身近であった彼女の、それはむしろ不幸であるかもしれなかった。ただ、恐怖はなかったが、焦りはあった。何代もかけて皇家が行って来た国造りの事業を、持統は何としても自らの手で完成させ、それを見届けてから死にたかった。忍壁、そして不比等らの尻を火のつくように叩いて、律令の完成を急がせたのも、何のめども立っていない対馬金の精錬を来年の内に終えよと難題を言ったのも、全てそのためであったと言ってよい。
「左様でございましたか。――しかし、中納言殿がおりましょう。もしもの際は、彼の者にお任せするご所存かと、密かに思うておりましたが」
少し笑いを含んだ声で、御行が訊いた。先程までの力弱い様子は消えて、いつしかまた、父兄のような慈愛の光が、持統を見つめるまなざしには戻っていた。
「誰にも得手と不得手があります」
御行の表情につられたのか、持統も、少々悪戯っぽく目を細めた。
「造り上げた国をたくすのは、中納言しかおらぬと思うています。中納言の才は、精緻です。わたくしの意を正しく汲み取りしっかりと政を執って行くでしょう。ですが、一方であの者の才には空想というものが欠けている。水のように柔らかく、鳥のように奔放な空想がなければ、国を組み上げて行くには向きませぬ」
実もふたもない言葉で、持統は不比等を批評した。御行は少しかすれた声を絞って笑った。持統の、冷徹に突き放した視線の中には、実は不比等への厚い信頼と情愛が流れていることが、御行には分かるのである。持統も袖の陰で笑った。穏やかな笑い声が交差し、やがて潮のように引いた後、しかし持統の目には痛みの色が薄くにじんでいた。
「――何としても、わたくしの生きているうちに律令を仕上げ国造りを完結させたかったのです。帝はまだ若い。日々の執政を行うだけで精一杯で、とてもそのような大きな事業まで手はまわりますまい。だから今わたくしが成さねば、恐らくあと十数年は、国の流れは止まってしまうと思うたのです。けれど、御行」
持統は両の手を添えて、御行のやつれた手をしっかりと握った。
「そのために、そなたには大変な苦労をかけた。許しておくれ」
「何を申されます」
御行は白い頭をきっぱりと振った。
「こうして最後の最後まで、皇家に奉仕出来たことこそが、大伴家の氏上としての面目でございます。少々先に参りまするが、後の世で、再び貴女様の下にお仕え致すのを心待ちに待っておりまする」
おもてに、陽の落ちる気配がした。
* * * * *
対馬で、そして都で、時が流れて行った。時に速く、時にひどくゆっくりと流れて行く日々を、五瀬は偽りと苦悩を抱いて過ごした。忍壁は孤独を、御行は死の予感を抱いて過ごした。
ある日、対馬厳原の工房で、職工たちは、やって来た役人の様子がいつもと少し違っていることに気がついた。その手には砂金の箱がなかった。労役からの開放が目の前に近づいたことを職工たちは知った。それからひと月余り、土の型から最後の金塊が外され、箱に落とされた時、文武四年(七〇〇)は暮れようとしていた。
(第八章・了)




