第八章 憂悶の日々(二)
* * * * *
翌日、五瀬は武官のもとを訪ね、ここで海の祭祀を行わせてくれるようかけ合った。幾度か訪ねてはかけ合い、十日ばかりののちようやく、武官から許可をとりつけた。
それきり、五瀬はそのことは忘れていた。が、月があらたまって十日を迎えた夕刻、雪麻呂が訪ねて来た。皆の承諾を得たからと言って、五瀬も祭祀に加わってくれるようにと誘った。ひそかに骨を折ってくれた礼のつもりであるようだった。
雪麻呂の誘いを、始め五瀬は笑って聞き流していたが、ふと、海の神を降ろす祭祀とはどのようなものなのかと、訊いてみた。
「神様に、ことほぎ(寿ぎ)をしてもらう祭りだ」
と言って、雪麻呂は祭祀の段取りを説明した。まず男たちの中から一人が木の葉の面を着け神に化ける。祭祀の場に「神」が現れると、祭主役の男が神に向かって問いかけ、神と祭主の間で問答が行われる。
例えば
「今年は豊漁であるか」
と問えば、神は
「今年は豊漁である」
と応える。
「悪しき病は流行らぬか」
と問えば
「悪しき病は流行らぬ」
と応える。こうしたかけ合いが次々と行われるのである。これは祭主が問いかけることによって、神の口から祝いの言葉、つまりことほぎを引き出し、めでたい言霊で村を祝福し守護してもらうという一種の呪術であった。
「ほう。おれの村でもそんな祭りをやっていたよ」
雪麻呂の話に五瀬は驚いた。実はこうしたかけ合いとことほぎの祭祀は、対馬や大和だけではなく、日本のあちこちで行われていたものである。だが五瀬は他国を知らぬ。この遠く離れた対馬に、故郷と同じ祭祀があることに五瀬はひどく感嘆し、また懐かしくなった。望郷の思いも手伝って、五瀬は結局誘われるまま、祭祀が行われるという村のはずれへ雪麻呂と共に出かけて行った。
他の者たちは既に集まっており、円座が組まれたその中央に、炎がにぎやかに上がっていた。皆の目がちらりと五瀬に向いたが、これといった感情もなく視線は通り過ぎた。男たちの間に隙間を見つけ、五瀬は雪麻呂と並んで腰を下ろした。
日が落ち、闇が濃くなった。祭主が姿を見せた。祭主を務めるのは年長者の追海である。追海は集まった男たちを見渡した。が、その中に五瀬の顔が混じっていることに気づいて、追海の顔色が変わった。
「おい、何故、彼奴がここにいる」
五瀬をにらみつけ荒々しくわめいた。雪麻呂の肩が飛び上がるように緊張した。どうやら五瀬が祭祀に加わることを、雪麻呂は年の近い連中には承諾させたものの、肝心の追海には言い出せなかったものらしい。祭りの空気と頭数で押せば何とかなるとたかをくくっていたのだろう。
「何の餌を食わされたか知らぬが、その男に随分と尻尾を振っておるようだな、雪麻呂」
丸太で殴りつけるような怒声に、雪麻呂は青ざめてうつむいた。
「わしらがこのような山奥でふいごを吹かされておるために、村の暮らしがどれ程困窮しておるか忘れたのか。お主はそれでも海人か。恥を知れ」
「追海、待ってくれ」
横合いから五瀬がさえぎった。
「これはおれが雪麻呂に頼み込んだのだ。今宵の祭りは神にことほぎをいただくと聞いた。おれも皆と共に工房で働いているのだから、仕事の無事を祈願したい。加えてもらえまいか」
頭を下げた。雪麻呂の戸惑った表情が視界の端に映った。追海は一瞬、鼻白んだが、しかしすぐに渋面を作り頑なに首を振った。
「いや、それは断る。お主は余所者で、どうあってもわしらの仲間ではない。仕事の無事を祈願したいというなら、この祭りの場を穢さずに今すぐ立ち去ってくれ」
「そうか、悪かった。邪魔をした」
すぐに五瀬は立ち上がった。まだ青ざめている雪麻呂の肩を二、三度、そっと叩いてやってから、くびすを返した。
『やはり、行くのではなかったな』
草を踏みしめながら五瀬は肩を落とした。いたずらに心身を傷つけた自らの軽挙がしきりと悔やまれた。
小屋に戻って休む気にもなれず、五瀬は村を囲む林の中へと歩を折った。まばらに腕を伸ばす枝を分けながら四半刻も勾配を上り、小高く隆起した崖上へと出た。
この場所は村の周辺をおちこちと歩き回るうちに、五瀬が偶然見つけたのだった。十日に一度工房の作業は休みになる。その休みの日、五瀬はしばしばこの崖に足を運んでは、ひとり、眼下の景色を飽かず眺めた。
崖ぎわに立つと、足元には大斧で割り削ったように谷が落ち、その向こうには数々の山並みが、まるで波がしらのように延々と連なっていた。朝方はその谷あいの全体が、青みをおびた光にたっぷりと満たされる。幾千ともつかぬ木々の葉のことごとくが、くまなく光を照り返し、荘厳とも言うべき眺めであった。
見守るうちに陽は炎を増し、谷を燃やし山の背を焼き焦がす。やがて陽は傾き、傾くと谷は真っ先にそれを察して翳りの中に身を沈める。薄墨の影の中でも、陽の余韻は木々の色の上にとどまっているが、しかしそれも、地上から光が失われるにつれ少しずつ、刃で削ぐようにしてあせて行く。谷を照らしては過ぎる陽は、五瀬に時が流れていることを教えた。金によって刻まれるのではない時の流れを感じると、五瀬の心は束の間の安寧を覚えた。
その谷は今、月の光の下に静かな停滞をむさぼっていた。山の細かく複雑な起伏、山を覆う木々の一本一本を銀の陰影が彩り、繊細な銀細工のようである。月がとぎすました鋭い影の線描が美しく冴えた。谷底には沢が白々と光った。目のくらむ程の谷底の深みにまで、淡い月の光がくまなく届いているのだと思うと不思議であった。
傍らの木の根方に五瀬は座り込んだ。湿った土がひんやりと触れた。頭上でやもりが驚いたように鳴いた。一声、二声、高く鳴いて、爪音を残していずこかへ去った。眼下の谷を風が静かに吹き抜けた。木々の梢が順ぐりに揺れては過ぎ、その後を低いざわめきが寂しく追って行った。
五瀬の身は影に浸されている。月が明るいために、木の下陰はなまなかの闇夜よりもなお闇色が濃く、五瀬の目には自分の姿が見えない。塗り込めた暗がりに、ただ己がいるというその感覚だけが、不明瞭に漂っている。夢の中をさ迷っているようだった。
しかし夢というならば、五瀬には時に、眼前の谷の景色も、作業場での有り様も、山の工房での明け暮れの全てが、自分が見ている夢であるように思われることがある。自分の現し身は今もまだ鶏知にあるのではないか。国麻呂の屋敷裏に建てた小屋で、明日も三船と二人、日がな一日るつぼに火を入れるのに備えて眠っている、その夢が、ここにいる自分ではあるまいか。
三船――。
その名を呼ぶのは五瀬には苦しい。三船は、東人の手で命を奪われたように、五瀬には思われてならなかった。金の真相を三船も知っていると、五瀬は問いつめられるまま、国麻呂に明かしてしまった。秘密を知る者は一人でも少ない方が良い。そして何らかの手を打って三船に固く口止めするよりも、牛一頭分ばかりの損を東人がこうむって刃で口をふさぐ方が、簡易であり、また如何にも役人の考えそうなことであった。
何よりもあの時の小屋の周りの様子は、兵士の態度も含め何もかも不自然だった。兵士に引き離されて聞けずじまいになった家人の言葉も、思い起こす程に異様であった。
しかし、そう思いながらも五瀬の心には悲しみの感情は触れて来ないのだった。体のどこかには確かに刺すような悲嘆の思いがある。であるのに、それすらもただ夢の中の涙に過ぎないかのように、五瀬の心からは遠い。
この山に囲まれた工房で、五瀬は日々偽りの金を作っている。そしてまた、日々偽りの心も作っていた。帝をあざむくという大罪を犯している恐怖も、共に働く者たちに役人の手先として憎しみを向けられる孤独も、三船という友を永遠に失ったかもしれない痛嘆も、五瀬の心は己を偽って感受しようとしない。何もかもを偽らなければ、この日々を五瀬は生きることが出来なかった。
ふと立ち上がって、五瀬は、銀の葉の揺れる谷へ小石をほうった。飛んで行く影はすぐに見失われたが、だいぶ経ってから遠くで枝が鳴った。腕を振るって、五瀬は足元から幾つも石を投じた。やがて谷底から、傷ついた木肌から染み出した樹液の匂いであろうか、未熟な橘のような青々とした匂いがのぼって、鼻を打った。偽りの時の中で、その香りだけが、生きた真実であった。
* * * * *
五瀬の心が鬱屈した闇間をさ迷っている頃、遠く都でも、鬱屈した魂がさ迷っていた。
午後、撰令所での仕事を終え屋敷に戻った忍壁は、手綱を馬飼いに預け、いつものように妃の明日香皇女の部屋へ向かった。扉を押し開け、窓も閉め切られた暗い室内に入ると、忍壁は慣れた手つきで暗がりをさぐり、明かり窓を開けた。窓近くの卓に鏡やこうがいを始め、こまごまとした化粧道具が乗っている。こちらには文机がある。すずり、墨、龍をかたどった象牙の筆架と、そこに休んでいる筆。窓を開けても部屋は相変わらず薄暗い。忍壁は文机の前に腰を下ろし、傍らの明かりを灯した。
机には紙が広げられ、その半ばくらいのところまでなよやかな女文字で経が書かれている。傍らには経典が開いたままで、つい今しがたまで誰かがここに座って熱心に写経をしていたような有り様だが、しかし灯火をかざすと机にもすずりにも、一面にうっすらと塵が覆っていた。
長年病の床についていた明日香皇女がみまかったのは、半年程前、四月四日のことであった。明日香の部屋を今もこうして取り片づけずに置いているのは、服喪のためである。人が死んだ時、その人が使っていた家や部屋を、生前のままに残しておき、しだいに塵に覆われ日にあせ、朽ちて行くその様を見守ることで故人を偲ぶという慣習が、この当時貴賤を問わず行われていた。
出仕から戻ると、まず真っ先にこの部屋を見舞うのが、忍壁の長い間の日課であった。奥の臥所に臥せっていることが明日香は多かったが、時折、気分が良いとこの文机に向かって静かに筆を動かしていることもあり、扉を開けた時そんな明日香のほっそりした後ろ姿が見えると、忍壁はひどく嬉しい心持ちがしたものであった。
文机の前にいても臥所に臥せっていても、明日香はいつも変わらず
「お帰りなさいませ」
と、忍壁を優しい笑みと共に迎えた。
そして忍壁は明日香のそばに座り、病床の慰めにと、あれこれと物語を語り聞かせながら、午後のひと時を過ごすのだった。語ることは、たまたま見聞きして来た世間話であったり、撰令所で働く官人の噂話であったりと他愛なかったが、明日香はいつも楽しそうに笑いながら耳を傾けた。
忍壁の荒っぽい気性ゆえに、噂話は時に人の悪口になった。不比等中納言くらいならばまだしも、悪しざまな攻撃は持統太上天皇の上にも及びそうな空気になることもある。親しくしている異母姉の危険を察すると、明日香は
「忍壁様、姉君をあまりいじめないで下さいませ」
などと冗談を言って持統をかばい、そうしていっそうおかしそうに笑い声を上げながらこの少し年下の夫を諌めるのだった。
忍壁はこうして日々、明日香の慰めになってやっているつもりであった。が、本当は、日々慰められていたのは、忍壁の方であったのかもしれない。
あれは年があらたまり、風に花のほとびが感ぜられるようになった頃であった。臥所に並んで横になり、二人は灯火の下で寝物語をしていた。するうちに、ふと明日香が、忍壁様、と寝衣の袖を引いた。
「忍壁様、わたくしがいなくなったのちは、日々のくさぐさは伊予娘にお話しなさいませ」
「伊予娘?」
明日香の他にも、忍壁には数人の妃がいた。伊予娘とはその妃の一人だった。
「これから撰令所ではますます気苦労が多くなりましょう。鬱としたことは今後あの者にお話しなさいませ。あれは情深いおなごで、忍壁様をまことに慕っております。加えて、年若に似合わぬ賢さもそなえておりますゆえ」
「明日香……、何故に左様なことを言う」
はね起きて、忍壁は明日香の、仰臥している白い顔をのぞき込んだ。明日香はなだめるように指を伸べて、忍壁の黒い髪や頬を覆う髭をそっと撫でた。細い指の下で、忍壁の頬がひきつったように震えた。ならぬ、声にならない嗚咽が、咽から洩れた。
昨年の暮れを迎える頃から、明日香の病身がそれと分かる衰えを見せ始めたことに、忍壁は気づいていたのだった。忍壁は明日香の胸に身を投げた。聞き分けのない子供がするように、激しく頭を打ち振った。
「明日香、それはならぬ。律令作成は大変な難事業になる。たった今そなたが申したではないか。そなたの支えが要るのだ。まだ生きていてくれ。せめて律令が完成するまでは、死んでは困る」
「まあ、忍壁様。勝手なことばかりおっしゃって……」
忍壁の自分勝手な物言いに明日香は笑って、それから胸に乗っている忍壁の頭を両の腕でしっかりと抱きしめた。
「大丈夫ですよ。貴方様はわたくしがいなくなっても大丈夫です。わたくしが言うのですから。わたくしの言葉をお信じ下さいませ。忍壁様は、大丈夫ですよ」
耳元で繰り返しながら、明日香は忍壁の髪を幾度も、あやすように愛撫した。
こうして、明日香が愛用した文机に座っていると、忍壁の胸にはあの夜のことがまざまざとよみがえる。明日香の声、髪を優しくまさぐっていたなめらかな爪先、寝衣をとおして感じられた、肌の温みと、匂い。ふっと忍壁の唇が苦笑し、ため息を洩らした。
『そなたは賢いおなごであったが、いかんせん男というものを知らぬ。そなたに去られて、わしはやはり大丈夫ではなかったよ。伊予娘は優しい女だが、辛い時に胸の内を聞いてくれるのはやはりそなたしかおらぬ。だからこそ、そなたに会いに、わしはこうして毎日通うておるのだ』




