ヴァロワ伯爵代行夫婦 2
「フォンリーゼ侯爵、ごきげんよう」
誰がフォンリーゼ侯爵なのかわからなかったのでリリアンヌは紳士たちの数歩手前でカーテシーをした。
楽しげに賑わっていた紳士たちがぴたりと口を噤み、こちらを見下ろしてくる。
そういえば身分が低い者が身分の高い者に話しかけてはいけないという礼儀があったけれど、自分は侯爵の娘のヴィクトリアの妹だ。
身内のようなものなのだから気にすることはないと思った。
「リリアンヌですわ」
もうヴァロワの名も、伯爵夫人の肩書も邪魔だった。
だってこれから自分は同情されてフォンリーゼ侯爵令嬢になるのだから。
そう思ってにっこりと微笑みかける。
精一杯のおしゃれをして参加して可憐な笑みを浮かべている自分はきっと、健気に見えるだろう。
そう思ってフォンリーゼ侯爵が名乗り出るのを待っているのに紳士たちは動かない。
もしかしてこの中には居ないのだろうか、と思っていると。身なりは良いのになんだかぱっとしない紳士がまじまじと此方を見つめてくる。
「びっくりした。チャリティーで連れてこられた孤児院の子供が紛れ込んだのかと思ったけれど、顔が老けていたから頭のおかしい人だと思ってしまったよ」
そんな失礼なことを冴えない男に言われたのでリリアンヌは苛々して奥歯を噛んだけれど、恐らくその暴言を吐いた男こそがフォンリーゼ侯爵だと察した。
そして同時に姉も恐らく日常的に悪口を言われているのだろうと思って溜飲を下げる。
一見幸せそうに見えても、やはり姉は姉なのだ。
可愛くないし暗いから、誰からも粗末に扱われる。
「そうなんです……王から招待されてもまともなドレスも用意できないし、姉のせいで侍女はおろか、使用人すらほとんどいないので苦労が絶えません……」
「そうなんだ。食べこぼしがけっこうついてるからあとで洗濯するのも大変そうだね」
「そっそれは……」
リリアンヌは思わずドレスを見下ろした。
見えていなかったけれど夢中で食べていたのでドレスが汚れている。
かっと頬が熱くなるけれど。それもこれもまともなものを食べられていないせいだ。
「傾いた伯爵領を立て直すために、まともな食事も久しぶりで……」
「そう、まともな食事……」
大袈裟に嘆くふりをすると侯爵が言葉を切った。
同情されている、と思ってリリアンヌは内心ほくそ笑む。
「はい、普段は蒸かした芋とスープしかでないのです。でも、先代から仕えている女中がたまにお菓子を差し入れてくれて……領民が捌いた羊を分けてくれることだってあるんですよ」
大変な状況でそれでも頑張っている令嬢とフォンリーゼ侯爵に思わせればこちらのものだ。
「そう、それはとても恵まれているね」
そう思ってにっこりしていたのに。フォンリーゼ侯爵はにこにこしながらそんなことを言ってくるのでなんて鈍感で気の利かない男なのだとリリアンヌはいらいらした。
「はぁ!?」
つい礼儀を忘れて噛みつくけれどフォンリーゼ侯爵は気にした様子もなく肩を竦める。
「だって毎日それなりのものを食べられているんだろう。たまの贅沢もできるんだろう? 監査官殿がついているんだから餓えることもないだろうし、恵まれているよ」
「全然恵まれていないわ! 毎日働かないといけないしお洒落もできないの!」
「そう。でもヴィクトリアは何年もまともな食事ができていなかったんだけど……知っていたよね、君は」
もう周囲など見えていなかった。
金切り声が大広間に響くけれど侯爵は煩そうに顔をゆがめもしないまま、にこにこしながら問いかけてくる。
「そのくらいで!」
「そのくらいで? では君の流した悪意ある噂で学園でいじめを受けていたことも。君の母親が憂さ晴らしに毎日のように折檻を行っていたことも。愚かな婚約者にないがしろにされながらも将来伯爵家を支えるために学園で高い成績を取っていたのに……君のせいで教師にまで捌け口にされていたことも知っていたよね、君は」
気づけばフォンリーゼ侯爵は微笑んでいなかった。
いいや、微笑んではいた。
口元は笑みを浮かべていたけれどその眼差しは背筋が凍るほどに冷たかった。
「今夜、何のために君が私に声を掛けたかは敢えて訊かないよ。可愛くて賢くて優しいヴィクトリアは君の事なんてもう思い出すこともないだろうから……でもまぁ、私達からすると君はただの、頭が悪くて自分を可愛いと思い込んでいる、可愛い娘を虐めた醜い女だよ」
「わ、わたし……っ」
眼差しに飲まれて、リリアンヌは何も言えなくなった。
「あんな両親のもとに生まれた君はかわいそうだったと思うよ。人は生まれを選べないからね。でもやり直せる機会はあったはずなんだよ。この半年は特にそうだったはずなんだよ。あの子の、何十分の一の苦難に辛さを感じて、反省するようなら私達も考えたんだけどね……結局、ロベリアの言うことが正しかったんだ。残念だよ」
もう十分だ。もう十分ひどいことを言われているのに、脚が竦んで動けない。
「あらあらあなた、可愛そうじゃない」
耳元までせりあがる鼓動を持て余して泣きそうになっていると、ひときわ豪奢なドレスを身に纏った貴婦人が並び立つ。
若い頃はさぞやうつくしかったのだろうとわかる美貌は年を重ねても艶やかで。『若い私の方が可愛い』とすら思えないまま、リリアンヌはドレスの前に下着で立たされたような気持ちになる。
「うふふ、あなたがヴァロワ伯爵家の庶子の、ヴィクトリアの異母妹なのね……随分お可愛らしい事」
自分も……社交はしてきた。
心にも無い言葉を言われたことくらいは、わかる。
いまの夫人の言葉は皮肉だ。
「ううん、ヴィクトリアの方が可愛いよ」
「そうじゃないのよ、あなた。勿論それは揺るがないけれどね」
聞き捨てならないやり取りが目の前でされて。思わずむっとすると夫人の、笑みで撓んだ眼に見据えられて、どきりとする。
「悪いことは言わないわ。あなた、今後ヴィクトリアにもユリウスにも近づかない方が良い」
流石にその言葉は飲み込めなくて。けれど言い返すのももう怖くて夫人を睨むと夫人は嫣然と笑う。
「さしずめ馬鹿なことを考えていたんでしょうけれど……あなた、下手なことすると今度は命で贖うことになるわ。だって、ユリウスはもうヴィクトリアを守るって決めたんですもの」
命、と唐突に聞こえてきた言葉にリリアンヌは息を飲んだけれど。
やっぱり姉は、侯爵夫妻まで騙したのだと思った。
本当に姉は、昔から優しいふりと不幸なふりばかりが上手い。
初めて会った日だってこれ見よがしに襟に喪章をつけていて鬱陶しかった。
母が嫌な顔をしていたから歩み寄って襟ごと引きちぎったものだ。
「あなたが自分以外をどう思おうがかまわないけれどね。今のあなたの涙や命は……あなたが思っているよりもずっと軽い」
恐ろしいことを言っているのに、夫人の笑みは崩れない。
「こんなこと言いたくないけれど、あなたの行動があなたを『安売り』しているの。あなたは監査官の元で過ごして苦労したかもしれない。落ちぶれた自分を自分で可哀そうだと思っているかもしれない。けれど傍から見れば自業自得よ」
静かな声なのに、一語一句、聞こえることにリリアンヌは歯がみした。
自分の何が悪かったというのだろう。
庶子として生まれ、貴族としての生活が満ち足りて楽しかった。
自分は自由恋愛をしてヴァロワ伯爵家よりも良い家に嫁ぐ予定だった。
それなのに姉が告げ口をしたせいで父のミスが明らかになって、すべてが狂った。
だから、いまはその狂った歯車を直して元通りにしようとしているだけなのに。
何故、姉なんかを可愛がるどこぞの侯爵夫人からそこまで言われなければいけないのだろう。
「ヴィクトリアの立場に立って、考えなさい。あなたが九歳で母を失ったのに、喪が明けないうちに父が継母と、自分と半年しか歳の違わない娘を連れてきたら……そして冷遇というのも躊躇われるような生活を何年も送ることになったら。食事が与えられず、悪いことをしていないのに鞭で血が滲むまで背中を打たれたら」
「私はそんなことにはならないわ。だって私は可愛いし明るいし愛される子だもの」
「そう……」
夫人はふっと息を吐いてからにっこりと笑った。
ぱらりと小さな音とともに扇が開いて、艶やかな唇が隠れる。
「あなた達は苦労しているようだから、執事見習いや侍女見習いを送ってあげるわ。あなた達の元学友で同じ苦労をしてきた子達だから話が合うでしょう」
冷徹な声だった。
けれど口調は柔らかくて優しい言葉をかけられて。やはり自分は愛される存在なんだと思ったリリアンヌは侯爵夫人に微笑んだ。
姉に騙されたことに気づいたらいつか、自分を受け入れて娘として結婚相手を探してくれるだろうと思った。
侯爵夫人はもうこちらに目をくれず、ぱちんと音を立てて扇を閉じる。
偶然だと思うが、まるでその音に呼ばれたように現れたのはマイルズだ。
「随分長いお手洗いでしたね。慣れないものを詰め込みすぎて食あたりですか」
慇懃無礼なことを言ってくるマイルズを睨んでリリアンヌは挨拶もせずに侯爵夫妻の前を立ち去った。
マイルズの隣で、ナサニエルは食い入るように大広間の扉を見ていた。
先ほど第一王子夫妻が入場した。
第二王子と懇意にしているヴィクトリアが現れるとしたらもうすぐだ。
もう、自分の見る影もないみすぼらしい服装も、鏡を見る気にもならないほど衰えた顔も気にならなかった。
ヴィクトリアに会いたいと……会って話ができればすべて救われると本気で思っていた。
ヴィクトリアを失って、ゴミと結婚させられてはじめて気づいた。
自分は、ヴィクトリアに際限なく甘えていたことに。
馬鹿な伯爵夫妻とリリアンヌに迎合してヴィクトリアに嫌がらせをしたけれど。ヴィクトリアこそが自分との将来のために過酷な状況でも学び、自分への愛を貫いてくれていたことに気づいたのだ。
第二王子と懇意にしているとのことだが、伯爵家の窮状を訴えれば、領民想いのヴィクトリアは第二王子を捨て……過去はあんなにも自分のために頑張ってくれていたのだ、自分を選んでくれるだろう。
化粧すらままならない状況でもヴィクトリアはあんなにも美しかった。
化粧が無ければ別人かと思うほど醜いリリアンヌなど捨てて、ヴィクトリアと婚姻を結んで領地を立て直せば、自分は救われる。
教師にすら嫌がらせをされていたのに成績は常に上位だったヴィクトリアだ。
マイルズをずっと早く、あの屋敷から追い出せるだろう。
そうすれば自分達は今度こそ、幸せになれる。
過去の行いを謝ればヴィクトリアは受け入れてくれる。
ヴィクトリアは従順でつつましい女だった。
ドレスや宝石を買ったりして浪費をすることはないだろうし、自分が何人か愛人を作っても文句を言わないだろう。
ヴィクトリアに声を掛けることさえできれば、子供にも恵まれて贅沢に暮らせて、何者にも脅かされることのない、幸せな生活ができるようになる。
そんな気持ちのまま、大広間の扉を食い入るように見つめていると名が読み上げられる。
「ヴィクトリアァ……」
ナサニエルは笑った。
異様な者を見る眼で見られていることにも気づけなかった。
果たして……扉の向こうから現れたのは完璧な、白と黒の一対だった。
黒地に金糸の刺繍が複雑にあしらわれた上着を纏った第二王子と。
白地に金糸の刺繍が惜しみなくあしらわれたドレスのヴィクトリア。
寄り添いあって立つ姿勢や豪奢な服装などおまけのようなもの。
それ以上に交わす眼差しが、信頼し合った表情が……なによりも雄弁にユリウスとヴィクトリアが好き合って、既に結ばれていることを物語っていた。
「ヴィクトリア……」
駆け寄ろうと思っていた。
綺麗になってもほっそりとした、白い手首を掴んで引き寄せようと思っていた。
あの夜をやり直すように、駆け寄って。権力だけ持っている第二王子からヴィクトリアの手を握って引っ張って傍に連れ戻して……お前に相応しいのは俺だろうと告白しようと思っていた。
けれど気づけば脚の力が抜けていて。豪奢な絨毯に膝をついていた。
打ちひしがれるほどに、ヴィクトリアは美しかった。
金の髪はまるで金細工師が整えたかのように輝き。豪奢なドレスを引き立て役にできるほど。白い面差しは相変わらず整っていたけれど……なにより違ったのは星の瞬きのような、滴るような意思と賢さを感じられるその眼差しだ。
それだけで自分が見ていたヴィクトリアは……本来のヴィクトリアではなかったことを突き付けられる。
もう、ヴィクトリアの隣に並ぶどころか、いまの自分を見られたくなかった。
「おやおや、こんなところで跪いてどうしたのですか。皆様が躓かれてはいけません。立ちなさい」
やわらかな声がして、反射的に吐き気がこみ上げる。
微笑むマイルズが飛び出していきそうなリリアンヌの口をナプキンで塞いで片腕で御している。
リリアンヌの目はヴィクトリアを見つめていて、血走っていて……とても正気とは思えない。
豊満だった身体は急激に痩せたせいか歪に弛み、以前は可愛いと思ったはずの顔は現実逃避ばかりしているせいか生理的に受け付けない、妙な歪み方をしている。
輝かしいヴィクトリアを見てしまった後だと……リリアンヌの顔を見ただけで吐きそうになる。
いやだ、こんなのが自分の妻だなんて。
こんなのを選んだばかりにこんなに悲惨な人生を、死ぬまで歩むことになるなんて。
「……もう、もう嫌だ」
ぼろりと涙と鼻水が溢れた。
「生きていたくない、つらい、何もかも失った……」
「世迷い事を。どれだけ落ちぶれようと『貴族』であるあなたには自由に死ぬ権利がありません。汗も涙も血の一滴も領民のために尽くしなさい。それが領民によって生きている貴族の務め。今回の商談は破談です。フォンリーゼ侯爵夫妻に見放されたら大半の貴族の助力は期待できません。さぁ、はやく領地に帰って働かなければ冬を越せませんよ」
マイルズが淡々と言って、片手でリリアンヌを制御しながら蹲るナサニエルの尻を小突いて動かす。
波のように貴族が動いて。
無様なヴァロワ伯爵代行夫妻を輝かしい二人の目から覆い隠した。
「あなた方はこの半年で多少なりとも反省して変わったと思いたかったのですがね。私の見積もりが甘かった。あなた達を人間として扱いたかったのですがそれでは領民が苦労するままなので私はもうあなた方を人間と思わないことにしました」
マイルズが笑う。
「怖がることはありません。ふてぶてしい人間というものは思いの外、頑丈ですので」
薄暗い視界で、豚の鳴き声のようなリリアンヌの涙混じりの抗議の声を聞きながら……ナサニエルは深く絶望した。
その後、ヴァロワ伯爵家は十年で監査を終了する。
フォンリーゼ侯爵家をはじめとする貴族の家から支援のために送られた使用人達は伯爵代行夫妻の学友で、皆、ヴィクトリアの一件で処分を受け、婚約破棄や廃嫡もしくは勘当の憂き目に遭った者達だった。
マイルズ・ロスティーニ監査官は二年の指導の後、新たな赴任先へ向かい、その後、屋敷の中で何が起こったのかは明らかにされていないが一度、ヴァロワ伯爵家は小火を起こし、その一件で伯爵代行夫人が顔に火傷を負った。
伯爵代行夫妻は見る影もなくやせ細り、様々なものに怯えるようになったという。
ちなみに蟄居処分となっていた伯爵は恨みを持つ領民により殺され、伯爵夫人は行方知れずとなっている。
十年ですっかり人格の変わった伯爵代行夫妻はずっと何かに怯えながら領主として働き続け、遅くに生まれた息子に家督を譲って隠居した。
そんなふたりの過酷な日々は社交界の噂にもならず。
フォングレイス公爵夫人となったヴィクトリアはふたりの子供が生まれた時に祝の品を贈ったという。
その祝の品を見たふたりの反応は憤怒だったのか悲哀だったのか……はたまた感謝だったのか。
それを知るすべはない。




