ヴァロワ伯爵代行夫妻 1
リリアンヌの朝は早い。
あの悪魔のような男……監査官マイルズ・ロスティーニのせいでこの伯爵家には料理女と馬丁と先代から仕えている執事とメイド以外、居なくなってしまったせいだ。
侍女としてなにもかもなっていない田舎女もいないよりはましだったのだと思いながら。リリアンヌは料理女から湯を分けてもらい、顔を洗って身支度をする。
ひとりで着られないドレスは論外なので、ここ最近いつも着ているのは洗い古したワンピースだ。
首飾りのひとつでもあれば気分がマシになったのだろうが、価値あるものはすべて売り払われた後だ。
もうガラス玉すら残っていない。
がらんとした食堂に行くと、同じように洗い古したシャツとズボンを着たナサニエルが現れる。
もう彼と寝室を共にしようとも思わなくなった。
けれど彼があの若いメイドに手を出そうとしたのでマイルズは彼女を解雇し……彼女は元々ワトマース侯爵の正妻の侍女で、護送される彼について来たのはナサニエルを更にどん底に落とすためだが『もうすでにどん底だったのでついてくるだけ無駄だった』とナサニエルを散々嘲笑して去っていった。
この生活の、唯一の救いのような若いメイドから面罵されてナサニエルは相当精神的に参ったようだ。
毎日毎日覇気のない顔をしているナサニエルはリリアンヌに挨拶すらしないばかりか、のろのろ歩くので、リリアンヌはナサニエルの尻を蹴りあげた。
「とっとと歩きなさいよ。食いっぱぐれるわ」
そうだ。
どうせ蒸かした芋と具の薄いスープしか出ないとわかっていても、早く食べなければ食事中でも構わずにあの悪魔が現れて笑顔で仕事を割り振ってくる。
毎日毎日割り振られる仕事は大抵、体力も気力もギリギリ限界になるような過酷さなのだ。
味気ない食事を何も考えずに飲み込む。
最初は文句を言ったけれど。文句を言ったところでどうにもならないことを痛感したのと、まずい食事しか作れないとはいえ、料理女に出ていかれるのは困るからだ。
今日の主食の芋は古いものらしい。
芽を取り除いたせいで、ぼこぼこになっていることに言いようのない惨めさを喚起されながらリリアンヌは冷えた芋を噛みちぎって飲み込み。
鼻呼吸を止めて仄かな苦みと土臭い匂いを感じないように、湯で流し込んだ。
使っているのは馬丁が厚意で作ってくれた不格好な木の杯だ。
蕩けるような質感の白磁のカップもすべて処分されたので、割れる食器すら残っていない。
まぁ、こんな状況で陶器が残っていたら、きっとナサニエルと陶器を投げ合ってすべて駄目にしてしまっただろうけれど。
これまでこの邸宅の中で冷えを感じたことなんてないのに、いまは暖炉に入れる石炭すら買えないから森から薪を拾って燃やしている。
薪も貴重なので暖炉に火を入れられるのは食堂と執務室のみ。
暖炉に火を入れていない部屋はとても寒いが、薪も足りなければ灰かきをする余裕もないので、仕方がない。
「おはようございます、よく眠れましたね。お仕事の時間ですよ」
そうこうしているうちに悪魔が現れた。
きょうもかっちりとした監査官の制服を纏い、髪も整えられている。
何度、その整った顔を殴りたいと思っただろう。
だがそれをしてはいけないことを早々にわからされたのでリリアンヌは俯いて震える。
一方、ナサニエルはマイルズの声を聞いただけでほとんど減っていない食事を前にえずく。
「ナサニエル様は昨日のうちに今年の小麦粉の納品数についてまとめ、商人との交渉に用いる書類の作成ができていると思いますので、朝食を終えたらそれを持って商会まで行きましょう」
「……できて、いない」
ナサニエルのテーブルの上に置いた手が震えてフォークがテーブルの上を転がって耳障りな音を立てる。
「おや、納品数は昨日の午前に報告が上がっていますし、その書類の基礎はナサニエル様が困らないように五度もお教えしましたよ、まさか半日もかけてできていないのですか? それは困りました。以前、数に不備があっただけで夕方までつるし上げられましたのに……? できていないのですか。致し方ありません、先方との予定は既に組んでしまっているので私がきちんと書類を仕上げるまでお詫びをなさっていてくださいね」
滔々と聞こえてくるマイルズの言葉にリリアンヌは吐き気を催しそうになる。
実際、ナサニエルは顔を蒼くして、蹲ってテーブルの下に吐いたけれどマイルズはなにも見なかったかのようにリリアンヌに向き直る。
「リリアンヌ様には今日も病院へのお手伝いをお願いいたします。この時期は流行り病や風邪が多いですからね。いくら人手があっても良いそうです。病院の皆様の指示に従って、くれぐれも勝手な行動は慎んでくださいね。毒見などという頭の悪い嘘を吐いて配膳される前の病院食を食べるのは言語道断ですよ」
マイルズの言葉にリリアンヌはげっそりとした。
領地で最も大きな病院は屋敷から近いけれど、当然集うのは領民だ。
何故高貴な生まれである自分が、領民たちの下の世話や病院の掃除や、薬の原料になる薬草の世話等、使用人でもやらないようなことをしなければいけないのだろう。
「いやよ。だって、この私が頑張ってもあいつら、感謝も何もないもの」
「そうですね。でも伯爵代行夫人として評判を上げるまたとない機会なので頑張ってください」
「伯爵代行夫人なんて呼ばないで!」
「それは失礼、代行夫人」
リリアンヌはもう言い返す気力も失くして席を立った。
どんなに汚くて腹の立つ仕事でもマイルズの顔を見ずに済む場所に居られるならずっとましかもしれないと思うことにした。
そんな、思い出すだけで吐きそうな生活が積み重なり、社交期がやってきた。
王都に行ってどうにかドレスを着ればきっといい男を捕まえられる。
なんなら学園に通っていた頃なら歯牙にもかけなかった伯爵令息や……商人の息子でもいい。
とにかくこの生活から、マイルズから逃げられるならなんでもいい。
そう思う気持ちはナサニエルも同じだったのだろう。
春が近づくにつれ、ぎらぎらとした眼をするようになった。
けれどマイルズはにべもなく二人の王都行きを却下した。
『ヴァロワ伯爵家にそのような余裕があるとでも?』
というのがマイルズの言で。二人はぐうの音も出なかった。
けれど春の終わりに商談のために王都に行くことが決まった。
それは喜ばしかったのだが、まともなドレスがないし、そもそも王都にあったマナーハウスは売却してしまった。
結局、クローゼットの奥に残った、すっかり流行遅れになったドレスを用意し、貴族が到底足を踏み入れないような界隈にある、傾きかけた安宿に泊まるしかなかった。
それでも久しぶりに足を踏み入れた王都の空気は泣きそうなほどに華やかで洗練されていて……だからこそ、石畳を闊歩する町娘にすら見劣りする恰好をするしかない自分が惨めだった。
そして、マイルズが持ってきた招待状は……よりにもよって、王家主催のものだった。
鏡なんて上等なものはないので、薄暗くした部屋で煤けた窓硝子に映る自分を見つめる。
ぼやぼやとした自分は以前に比べると痩せて、日に焼けているし化粧もできていないけれど、それでも十分かわいく見える気がした。
ひとりで髪を結うのは難しいのでほんの少し編み込んでリボンを結ぶ。
いまいちだと思ったドレスを着たらほんの少しだけ気分が良くなった。
思えば昨年姉の着ていたドレスはいま自分が纏っているドレスより数段劣っていた。
母の着古しだったから体型にも合っていなかったし、くすんだ色は姉の蒼白い肌をさらに病的に見せていた。
そうだ、あの汚いドレスを纏った姉は、まるで捨てられかけの人形のようだった。
唯一の取り柄だったお父さま譲りの金の髪は傷み、ほつれて艶がなく、表情も暗くて鬱陶しかった。
更に姉はナサニエルにワイングラスを投げつけられ、頭からワインを被っていた。
そんな状態の姉ですら、ユリウスを誑し込めたのだ。
自分にできないわけがないし……ユリウスはきっと不幸そうな女が好きな男に違いない。
姉はずるがしこい女だった。ちょっとまともなものを食べられなかっただけなのに、ユリウスの前で弱々しく振舞ったのだろう。
きっと母の折檻についても大袈裟に言ったのだろう。
折檻されるのは姉が悪いことをしたからなのに。
リリアンヌはにっこり微笑んだ。
やっぱり可愛い自分は遠回りしても、正しい道に戻ってくるのだ。
まさか城に入るのに辻馬車でというわけも行かず困っていたらマイルズがナサニエルを迎えに来た。
ナサニエルは引っ立てられる罪人のような顔をしながらも眼だけはやはりギラギラしていて、気味が悪かった。
マイルズは悠然とリリアンヌとナサニエルの向かいに座る。
それだけで彼が主で自分達が下男と下女のように感じられるほどに、彼の身なりは整っていた。
普段ならもう嫌と喚いて馬車を降りていただろう。
けれど今はみすぼらしければみすぼらしいほどいい……それだけユリウスの眼に留まりやすくなるはずだ、と思った。
だっていまの自分は一年前の姉より美人だし、一年前の姉より苦労している。
ユリウスはきっと自分のことを忘れていないので泣いて謝ればこんなにも可愛い自分の魅力に気づいて姉を捨てるだろう。
偽物の姉は、本物の自分に勝てないのだから。
そうして足を踏み入れた城の大広間はやはり煌びやかだった。
金と硝子と水晶でできたシャンデリアが天井を彩り、大きな飾り窓が豪奢に貴族たちを迎える。
壁際に並んだ料理は、夢にまで見た豪華さで。飛びつきそうになるナサニエルとリリアンヌをマイルズが微笑みひとつで止める。
下品にならない程度に料理を口にしているのにちらりとこちらを一瞥した貴族達は汚いものを見てしまったとでもいうように顔を逸らすので腹が立った。
すべてうまくいって王子妃……いいえ、ゆくゆくは王妃になった暁には少しでも今の自分を馬鹿にした貴族を処刑してやる、と思いながらちまちまと上品に盛られた料理を次々に口に運ぶ。
ナサニエルは商談があるのでマイルズが張り付いているが自分は自由だ。
はぐれたふりをしてユリウスに声を掛ければいいし、何なら姉を引き取ったというフォンリーゼ侯爵夫妻と話をしてもいい。
あんな女の子らしくない、暗くて頭でっかちで可愛くない姉を引き取った夫妻はきっと不満を持っている。
領地で苦労していることを話せばこんなに可哀そうなのに、一年前の姉よりもずっと可愛い自分は引き取ってもらえるはずだ。
うまくすれば姉と交換、なんてことだって夢じゃない。
あんなに無能で美男子でもないナサニエルにはやっぱり姉がお似合いだ。
姉なら空の屋敷にも蒸かした芋にも文句を言わず、馬鹿だからマイルズの言うままに伯爵家のために働くだろう。
ユリウスは第二王子なので王族が入場するまでこの大広間には居ない。
ならばフォンリーゼ侯爵夫妻を探そう。
そう思ったリリアンヌは皿を置くとお手洗いに、と嘘を吐いてナサニエルとマイルズの傍を離れた。
マイルズにはきっと見抜かれているのかもしれないけれど。微苦笑を向けられただけだったのできっと……この半年足らずでマイルズも自分の可愛さに絆されたのだと思った。
「フォンリーゼ侯爵夫妻はどこ」
リリアンヌはお仕着せを着た使用人からグラスを受け取りつつ問いかけた。
貴族名鑑は見たことがあるけれど、結婚相手に相応しい男の顔以外は憶えていない。
フォンリーゼ侯爵家という名前は聞いたことがある気がするけれど、公爵家ではないのでまぁまぁな家なのだろう。
そんなことを考えながら微笑むと何故か使用人は頬を引きつらせた。
「フォンリーゼ侯爵閣下、でございますか」
躊躇っているその顔に苛立ちが募る。
使用人ごときに行く手を阻まれている気がして、それが許せなくて睨むとそばかすが目立つ彼は困ったように目を泳がせた。
「えぇ、姉がお世話になっているので挨拶をしたくて……わたくしはリリアンヌ。リリアンヌ・ヴァロワ伯爵夫人ですわ」
そう言えば名乗っていなかった事を思い出してリリアンヌはにっこり微笑んだ。
てっきり頬を赤らめるかと思った使用人はすっと血の気を引かせて存じません、というと逃げるように去ってしまった。
リリアンヌはいらいらしながらグラスを空にして床に放り投げる。
こちらを遠巻きに見る視線をいくつも感じたけれど。こちらの要望を叶えない使用人が悪いのだ。
広大な大広間が狭く感じるほど招待客が集まってもフォンリーゼ侯爵夫妻を探し出すことはできず、リリアンヌは苛々していた。
使用人やメイドに声を掛けても皆一様に同じような反応を返してくるので余計に苛々が募る。いっそ、適当な貴族に声を掛けて教えてもらうか……と思ったところで。偶然、フォンリーゼ侯爵、という言葉を拾った。
ハッとして目を向けると父親ほどの年齢の紳士たちが集う一角があった。
その中の誰かがフォンリーゼ侯爵なのだろう。
天は自分に味方した。
やはり自分は幸せになる運命なのだ。
そう思ったリリアンヌは紳士たちに向かって歩き始めた。




