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きっと自分がユリウスへの恋心を自覚したことなど、気づかれていないと思うけれど。漸く勇気を振り絞って会えてうれしいと言葉にできたと思ったらユリウスに抱きしめられた。
ユリウスに抱きしめられたのは二度目だが、恋を自覚したせいだろう。
一度目とは何かが大きく違っていた。
跳ねるように高鳴る鼓動を持て余してユリウスを見つめていると、ユリウスは頬をひと刷毛紅くしてそっと離れていく。
もっと抱きしめてほしかった、なんて思わず考えてしまってから。貴族の令嬢にあるまじきはしたない考えに余計に頬が熱くなる。
自分はもうフォンリーゼ侯爵家の娘となり正式にユリウスと婚約しているけれど……まだ結婚できるとは限らないのだから、浮かれすぎてはいけないと思いながらヴィクトリアは呼吸を鎮めてどうにか落ち着こうとした。
そんなことを思いながら視線を逸らすと何故かこちらを見て涙ぐむ侯爵とユリウスに厳しい目を向ける侯爵夫人が居て。流石に玄関ホールでの抱擁はいけない事だったのだと思ったヴィクトリアは姿勢を正した。
「フォンリーゼ侯爵令嬢」
そうしているとロスティーニ侯爵に声を掛けられた。
見ればロスティーニ侯爵は頬を真っ赤にしたロベリアの腕を取っている。
恐らくこれから二人で街に出かけるのだろうと思ったヴィクトリアは微笑んだ。
まだ半年も経っていないのに、結婚する相手に恋をしているかとロベリアに問いかけたのが遠い昔のことに思えてくる。
「ロベリアをお借りいたします」
「はい……楽しんできてくださいね、ロベリア」
勿論断るわけがなくて。ヴィクトリアは微笑んで軽く手を振った。
「君を娘にしてから叔母上はさらに俺に厳しくなった気がするよ」
「ふふ、申し訳ありません」
侯爵夫妻と食事を共にした後、ヴィクトリアとユリウスは温室を散歩していた。
邸宅にある温室は広大で、過去には温室でガーデンパーティーを開いたこともあるほどだという。
城の温室でも見たことのない植物があって。少し散歩するだけでも植物図鑑の中に迷い込んだ気分を味わえる場所だ。
東屋ではハンナと侯爵家の侍女であるアンがお茶の用意をしてくれていて。二人きりではないけれどおい茂る葉が色々なものを遮ってくれる場所は……恋を自覚したばかりの身からすると少々落ち着かない場所だった。
「会った時に言いそびれていたが……俺も会いたかったよ、ヴィクトリア」
案の定、木漏れ日降り注ぐ木の下で身を寄せたユリウスにそう囁かれると、どんな顔をしたらいいのかわからなくなる。
ただ微笑む事なんてできなくて……ヴィクトリアは逃げた。
追いかけようとして躊躇うユリウスの気配に脚を止めてしまいそうになりながらも、ヴィクトリアは逃げた。
ヴィクトリアは女でユリウスは男。
それでもヴィクトリアには地の利があり。入り組んだ温室の小道を駆けたヴィクトリアは折り重なる緑の中にそっと身を隠すことができた。
ほんの少し走っただけで上がってしまった息をどうにか落ち着かせようとしていると見えないけれど近い場所にユリウスの気配がした。
どこに隠れているのかまだバレてはいないのだろうけれど、そう遠くに行っていないことは察しているのだろう。
けれどユリウスは積極的に探す様子はなく佇んだままだ。
「ヴィクトリア……びっくりさせてしまってすまない。俺は君に会いたかったんだ、社交期を待てないほどに」
思わず大きく茂ったシダの傍で息を殺していると、温室に声が響いてヴィクトリアは自分の頬が取り返しのつかないほど熱く、紅くなるのを感じた。
「君がリーゼで楽しそうにしていることは嬉しかった。いまの君は魅力的で誰より賢く美しく、俺と結婚しなくてももう十分幸せになれる……そのことに、賢い君は気づくとわかっていたからじっと待ってなどいられなかった」
温室には自分だけではなく、ハンナとアンもいるし、当然ユリウス付の侍女や護衛もいる。
それを知らないわけがないのにユリウスは良く通る声で告げてくるので……ヴィクトリアは頬の熱が治まらないまま、物陰から日向へ足を踏み出した。
「最高礼を律儀な君が覆すことはないとわかっていても……俺は君を逃がしたくないと、君の傍に居たいと思って格好がつかないと思いながらも会いに来た!」
格好がつかないなんてとんでもない。硝子越しの陽光を背負うユリウスは輝いて見えて。ヴィクトリアはやはり直視できない。
「俺は君のことになるとなりふり構っていられないんだ。それほどまでに君に恋をして、愛おしく思っている」
もう十分なのにユリウスは溢れんばかりに言葉をくれる。
ずっと態度で、行動で、あらゆる方法で自分を掬い上げてくれたユリウスがいま、言葉を溢れるようにくれる意味を考えると息を吸うだけで喉の奥が甘く、蕩けるような気分になってしまう。
これまでずっと羞恥心として牙を剥いてきた感情はいま……どろどろと煮崩れるほどの熱に触れて形を留めていなくて。そんな意味の分からない状況だから返す言葉が見つからない。
だからヴィクトリアはそっとユリウスの傍に歩み寄った。
「ユリウス様」
思わず漏れた自分の声は、驚くほどやわらかだった。
それに驚いて口を噤んでしまいそうになるけれど。いまは勇気を出してユリウスに応えたいと思った。
「私も……会いたいと思ったときにユリウス様に恋をしていることを自覚しました。あの夜、私を掬い上げてくださって、ありがとうございます。既にすべて捧げる覚悟は済ませておりますが……私の初めての恋心も、ユリウス様のものです」
肩を支えてくれるユリウスに身を寄せると自然と優しい抱擁になる。
一つに重なる影が恥ずかしいのに嬉しくて。ユリウスの腕は優しくて。簡単に抜け出せるのに永遠に居たくなってしまう。
見つめ合うのはまだ恥ずかしくて俯いているとそっと髪にくちづけられたことに気づいて。ますます動けなくなったヴィクトリアは気づかないふりを貫いた。
ユリウスがフォンリーゼ侯爵家に滞在した三日間は、あっという間に過ぎていった。
その三日間はとても有意義な時間になった。
第二王子の婚約者として視察に同行したり、リーゼの街でお忍びデートのようなこともしたし、侯爵家の蔵書にうずもれながら二人で議論も交わし……と、ほとんど共に行動していた。
侯爵夫人を交えて夏の結婚式に関する話ができたことも良かったが、それよりも胸躍ったのはユリウスが将来公爵として治める領土について聞けたことだ。
ユリウスが継承するのは王都にほど近い南の地、グレイスだ。
その場所は元々国有地ではあるものの山間で。河の流れが複雑かつ速く、護りに特化した難攻不落の場所ではあるが、従来の帆船ではどうにもできなかった場所だ。
土地は肥沃だが農耕を行っても運搬の点での問題から、長らく微妙な立場の王侯貴族が受け継ぐ土地の代名詞のような場所だった。
だがそれも従来までの事。
蒸気機関が開発され、蒸気船が珍しいものではなくなった昨今。王都にほど近く、大きな可能性を秘めたグレイ領は早急な開発が求められていた。
単純に輸送手段に蒸気船を導入し農耕を盛んに行うだけでは領民の生活は向上するだろうが、革新にはつながらない。
蒸気船なら王都まで数時間という立地を活かしてできる事はないかといまは可能性を探っている最中だ。
現地の視察をしないうちにあれこれ話をするのは建設的ではないかもしれないけれど。お互いの知識をすり合わせ、考えを共有すること自体がとても楽しいひとときだった。
そんな充実した三日間を過ごしたので、ユリウスが王都へ戻る日は寂しいと思ってしまった。
とはいえ冷静に考えればもう社交期まで日数はない。
それでも寂しいと思ってしまう自分がまぎれもなく恋をしている事を実感して。ヴィクトリアは逃げたくなるのを堪えながらユリウスを見送った。
見送りの時、掠め取るようなくちづけを頬にされて……その日は殆ど上の空になってしまったことは、皆の記憶から消してしまいたい出来事だ。
そんなこんなで寂しいという想いとは裏腹に、あっという間に社交期が始まった。
ヴィクトリアがヴァロワ伯爵家令嬢ではなくフォンリーゼ侯爵令嬢として公式に社交期に参加するのは初めてだ。
妹をいじめていたという人形のような冷たい伯爵令嬢が婚約者を置いて不義を犯し、それが原因で婚約破棄され、第二王子が動いたことでそれらが偽りだったことが明らかになり、その伯爵令嬢は国内有数の侯爵家の養女となり第二王子と婚約し、権威ある学園を中退……
しみじみと思うが、自分の噂は嘘と真実が入り混じって混沌としている。
きっとフォンリーゼ侯爵令嬢になったことを、第二王子ユリウスと婚約したことを寿いでくれる貴族ばかりではないとわかってしまう程度には貴族のことを知っている。
けれど自分は一度、もうどうにでもなればいいと捨て鉢になって、そこから立ち直った。
掬い上げてくれたユリウスとの幸せの為ならどんなことにも耐えてみせよう。
そんな決意を新たにしながら。ヴィクトリアは家族と共に王都へ帰還した。




