7話「8月の終わりは夜に向かう」
7日目の朝、こはるは蝉の声で目を覚ました。
けれどその音は、数日前までとは少し違って聞こえた。
同じように鳴いているのに、どこか薄い。
朝の光もまだ十分に強いはずなのに、窓の外の色には、ごくわずかに夏の終わりの気配が混ざっていた。
8月はまだ終わっていない。
でも、終わりへ向かっていることだけは、空気が先に知っている。
布団の上で起き上がりながら、こはるは胸の奥にある重さを確かめた。
今日だ。
はっきりとは言われていない。
でも、もう分かる。
今日の夜が、最後の前だ。
明日ではない。
次に夜が深く開いたら、それがきっと鶴岡八幡宮につながる。
そう思うだけで、喉の奥が少し乾いた。
朝の「おか野」は、いつも通り忙しかった。
でもその“いつも通り”が、今日はやけに愛おしく感じた。
冷たい麦茶の音。
小豆の匂い。
白玉を盛る祖母の手元。
開け放した戸口から入ってくる、小町通りのざわめき。
たぶん、何も知らなければ、こはるはこの夏をただの少し特別な手伝いの思い出として終えられたのだろう。
でも今は違う。
この町の海も、川も、山も、祭りの灯りも、全部が1つの歌につながっていることを知ってしまった。
「こはるちゃん、黒蜜お願い」
「はい」
器を運びながら、こはるは何度も戸口の外を見る。
強い陽射しの中を、人が行き交っている。
観光客も、地元の人も、誰も普通に笑って歩いている。
それなのに、その頭上を見えない歌が流れているような気がした。
昼過ぎ、ようやく客足が引いたあと、祖母がいつものように麦茶を出してくれた。
「今日は朝からそわそわしてるね」
「分かる?」
「分かるよ」
祖母は帳場の横へ腰を下ろし、こはるを見た。
「もう近いんだろう」
そのひと言に、こはるの指先が少し止まる。
「……分かるんだ」
「顔を見ればね」
祖母はいつものように軽く言った。
でも、その目はごまかしていなかった。
「おばあちゃん」
「ん?」
「最後の前って感じがする」
こはるが言うと、祖母は少しだけ黙った。
通りの向こうから、風鈴の音が聞こえる。
ちりん、と細く鳴って、すぐに遠のく。
「そういう日はね」
祖母が静かに言う。
「町の方も、少し静かになるんだよ」
「こんなに人いるのに?」
「人がいても、底が静かになる日がある」
底。
その言い方が、この町にはよく似合う気がした。
「おばあちゃん」
「うん」
「最後まで行ったら、戻れなくなるかな」
祖母はすぐには答えなかった。
湯呑みの縁を指でなぞってから小さく息を吐く。
「戻るって、どこへ」
「……前の夏」
自分で言ってから、その言葉が妙にさみしく響いた。
祖母はこはるを見て、やわらかく笑った。
「それは、もう無理だろうね」
やっぱり正直だ。
でも、それでよかった。
「ただ」
祖母は続ける。
「前と同じ場所へ戻れなくても、自分じゃなくなるわけじゃない」
「変わるだけだよ」
こはるは麦茶をひと口飲んだ。
喉は冷えたのに、胸の奥は少しも静まらなかった。
「……変わって、すずがいなくなるのは嫌だ」
こぼすように言うと、祖母は少しだけ目を細めた。
「そうかい」
「うん」
「じゃあ、ちゃんと言葉にしな」
「え?」
「大事なことほど、思ってるだけじゃ届かないよ」
その言葉は、川の時の“言えなかった声”を思い出させた。
渡せなかった言葉は澱む。
結べなかった願いは残る。
なら、今のこはるに必要なのは、怖がることじゃない。
ちゃんと渡すことなのだ。
夕方、神社の石段を上ると、すずは社の前にはいなかった。
一瞬、胸が冷えた。
でもすぐに、境内の奥の木陰に白いものが見えた。
こはるは足を速める。
すずは古い石灯籠のそばに立っていた。
白い服。
黒に近い髪。
でも今日は、その姿がやけに遠く見えた。
輪郭が薄いのではない。
ただ、こはるから少し離れたところに立っている感じがした。
「……いた」
思わずそう口にすると、すずが振り向く。
「うん」
「何その返事」
「いるよ」
「そういう意味じゃなくて」
こはるはそのまま歩み寄って、すずのすぐ前で足を止めた。
「今日、少し変」
すずは目を伏せる。
「分かる?」
「分かるよ」
間髪入れずに言う。
「分かるに決まってる」
木々のあいだから落ちる夕方の光が、すずの頬に薄く触れていた。
触れているのに、影はどこか浅い。
まるで、光の方がすずをうまく掴めなくなっているみたいだった。
「今日、八幡宮に行くの?」
こはるが聞くと、すずはゆっくりうなずいた。
「まだ中までは入らない」
「でも近くまで行く」
「うん」
「どうして今日なの」
「歌が近いから」
すずはそう言って、胸元のあたりに手を当てた。
「もう、町のあちこちから引かれてる」
その言い方が痛かった。
すず自身が、町に引かれているのだ。
海と、川と、山と、祭りに散った歌の断片が、すずの中へ戻ろうとしている。
それはつまり、今のすずが少しずつ“最後”に近づいているということだった。
「行こう」
すずが言う。
こはるは返事をせず、その手首をつかんだ。
すずが少しだけ驚いた顔をする。
「何?」
「その前に」
「こはる?」
「今日は、ちゃんと話すから」
自分でも思ったよりまっすぐな声が出た。
祖母の言葉がまだ胸に残っている。
思ってるだけじゃ届かない。
なら、渡さなきゃいけない。
「……何を」
すずが小さく聞く。
こはるは少しだけ息を吸う。
怖い。
でも、ここで黙ったら、川で言えなかった誰かと同じになる気がした。
「私」
「最後まで行くよ」
すずの目が揺れる。
「それは知ってる」
「まだある」
こはるは続けた。
「最後まで行く」
「でも、すずがいなくなるだけの終わりなら嫌だ」
「それも前に聞いた」
「それもまだある」
すずは黙る。
こはるは唇を結んで、それから言った。
「私、すずが好きだよ」
風が止まった気がした。
木々の音も、町の気配も、一瞬だけ遠のく。
すずの顔が、見たことがないくらい静かに固まる。
こはるの耳が熱くなる。
言った。
言ってしまった。
でも、言った途端に、後悔より先に少しだけ息がしやすくなった。
「……その、変な意味だけじゃなくて」
あわてて付け足す。
「でも、もちろんそれも全然ないってわけじゃなくて」
「いや、違う、そうじゃなくて」
「えっと」
自分で何を言っているのか分からなくなり、こはるは顔をしかめた。
すると、すずがほんの少しだけ目を見開いたまま、小さく息をついた。
「こはる」
「何?」
「今、すごく顔が赤い」
「言わないで」
「うん」
「でも、分かった」
すずの声はひどく静かだった。
けれど、その静けさの奥で、何かが壊れそうなくらい揺れているのが分かった。
「うれしい」
そのひと言に、こはるは息を止める。
「でも、こわい」
すずは続けた。
「そんなふうに言われると、今の私を手放したくなくなるから」
その言葉は、こはるが今まで聞いた中でいちばん痛かった。
「……手放さないでよ」
思わず言う。
「まだ」
「うん」
「まだじゃなくて、できればずっと」
こはるはすずの手首をつかんだまま、視線をそらさなかった。
「最後がどうなるか分かんないのは分かる」
「でも、勝手に今の自分を諦めるのだけは、やめて」
すずは長いこと黙っていた。
やがて、とても小さくうなずく。
「……うん」
「約束」
「うん」
「ちゃんと」
「ちゃんと」
その返事を聞いて、こはるはようやく指先の力を少しだけ抜いた。
でも完全には離せなかった。
離すと、今この瞬間のすずまで少し遠くへ行ってしまいそうだったからだ。
2人で八幡宮の方へ向かう道は、いつもより少し静かに感じられた。
人はいる。
観光客も、地元の人も、帰り道の学生もいる。
でも、町の底の方にある音が薄い。
祖母の言った通りだった。
表面はいつも通りなのに、その下が静かだ。
段葛へ近づくにつれて、その感覚はさらに強くなる。
まっすぐ伸びる道。
その先にある、大きな社の気配。
夕方の空はまだ明るいのに、道の奥だけが少しだけ深く見えた。
「……ここから、もう違うね」
こはるが言うと、すずはうなずいた。
「うん」
「まっすぐすぎて、ちょっと怖い」
「帰る場所だから」
「誰にとって」
すずは少しだけ考えてから答える。
「人にとっても」
「神さまにとっても」
「歌にとっても」
段葛を歩く。
両脇に木が並び、夕方の光が葉のあいだを抜けて落ちている。
その先に、鶴岡八幡宮の鳥居が見える。
まだ遠いのに、そこだけ空気が違う。
こはるは歩きながら、今までの景色を思い出していた。
海、川、山、祭りの夜。
全部が違うようでいて、全部ここへ続いていたのだ。
「すず」
「なに」
「最初から分かってた?」
「八幡宮に戻ることは」
「うん」
すずは少しだけ目を伏せた。
「たぶん」
「でも、はっきりは分からなかった」
「自分のことだから?」
「うん」
「近すぎると、かえって見えないこともあるから」
その言い方が、人みたいで、こはるは少しだけ救われる。
すずは歌の残りかもしれない。
それでも、こうして迷ったり、怖がったり、うれしがったりする。
それはもう、ただの歌じゃない。
「じゃあ」
こはるは前を見たまま言う。
「最後も、一緒に見よう」
すずが隣で少しだけ息を止めた気配がした。
「うん」
「……うん」
2回目のうんは、少しだけ震えていた。
鳥居の手前まで来たとき、風が変わった。
境が降りるときの、あの感覚に似ている。
でもまだ完全ではない。
ただ、こちらを見ているものが増えたのだと分かった。
池の方から、水の気配がする。
石段の上からは、もっと乾いた古い気配。
舞殿の方からは、人の灯りに混ざった歌の残り。
そして、本宮の方からは、鈴の音がしないのに、鈴が鳴る前の沈黙みたいなものが落ちてきていた。
こはるの喉がひりつく。
「……いる」
思わずつぶやく。
「うん」
すずが答える。
「全部がいる」
そのひと言で、今まで拾ってきたものたちが、この中にもう集まり始めているのだと分かった。
海の名前。
川の声。
山の約束。
祭りに浮いた願い。
それらが全部、この場所で最後の形を待っている。
急に、石段の上の方がちらついた。
こはるは目を凝らす。
白いものがいる。
いや、1つじゃない。
2つ。
3つ。
もっとかもしれない。
人影みたいなものが、石段の途中や舞殿の近く、水辺の向こうに立っている。
顔は見えない。
でも全部が、同じ歌の断片でできているように見えた。
「……あれ」
「来る前の人たち」
すずの声が低くなる。
「歌い終われなかったものたち」
こはるは息をのんだ。
最初のすずだけではなかったのだ。
この町には、最後まで結びきれなかったものがいくつも残っている。
でも、その中心にいるのはやはり、最初の白い影なのだと分かる。
舞殿の奥に、いちばん濃い白が立っている。
夢で見た少女。
顔はない。
でも視線だけが、真っ直ぐこちらを見ていた。
「……今日はここまで」
すずが言う。
「え?」
「まだ上には行かない」
「でも、もうこんなに」
「だからこそ」
すずはこはるを見た。
「今夜は、最後の前」
「ここで無理に入ると、歌に引かれる」
その言葉の意味は、説明されなくても分かった。
中途半端に踏み込めば、今の自分たちのままでは戻れない。
必要なのは勢いじゃない。
最後の覚悟だ。
「じゃあ今日は何するの」
こはるが聞くと、すずは石段の下を見上げたまま答えた。
「見ておく」
「何を」
「私たちが行く場所を」
その言葉が、妙に胸に残った。
こはるとすずは、鳥居の手前でしばらく黙って立っていた。
人の気配はある。
でもその向こうに、もっと古い層が透けている。
舞殿。
池。
石段。
本宮。
全部が夜を待っているみたいだった。
そのとき、風が1度だけ強く吹いた。
参道の砂が少しだけ舞う。
同時に、こはるの耳の奥で、今まで集めた4つの断片が重なった。
海。
川。
山。
祭り。
そして、その奥に。
今まででいちばん近く、最後の1節の気配が立ち上がる。
まだ聞こえない。
でも、もう届く距離だ。
「……明日だ」
こはるが言うと、すずはゆっくりうなずいた。
「うん」
「明日の夜」
「たぶん」
「たぶんじゃないよ」
こはるが言うと、すずは少しだけ笑う。
「じゃあ、明日」
「うん」
「明日、終わらせる」
その言い方に、こはるはすぐ返した。
「終わらせるじゃなくて、つなげる」
すずがこちらを見る。
こはるは前を向いたまま続ける。
「終わるだけじゃだめだから」
「すずも、歌も、この町も」
「ちゃんとつながらないと意味ない」
しばらく沈黙があった。
それから、すずがとても静かな声で言う。
「……ほんとに、こはると会えてよかった」
胸が苦しくなる。
うれしいのに、泣きそうになる。
「それ、まだ早い」
こはるは言う。
「最終話の最後みたいなこと言わないで」
すずが吹き出すみたいに、少しだけ笑った。
「そうだね」
「まだ早い」
「おか野」に戻るころには、空はだいぶ暮れていた。
店の中には、いつもの木の匂いと、甘い小豆の匂いが残っている。
祖母は暖簾を外したところだった。
「おかえり」
「ただいま」
こはるが言うと、祖母は少しだけ目を細めた。
「見てきたんだね」
「うん」
「どうだった」
こはるは少し考えてから答える。
「……ちゃんと、最後の場所だった」
祖母は小さくうなずく。
「そうかい」
「おばあちゃん」
「ん?」
「明日、行くと思う」
「うん」
「最後まで」
祖母はそれを聞いても驚かなかった。
ただ、台所の方を見ながら静かに言った。
「なら今夜は、ちゃんと食べて、ちゃんと眠りな」
「最後の前ほど、人は普通のことを粗末にしちゃいけないよ」
その言葉に、こはるは少しだけ笑った。
「うん!……あと」
祖母が振り返る。
「言うことがあるなら、今夜のうちに自分の中でちゃんと整えな」
「明日、全部うまく言えるとは限らないから」
こはるは黙ってうなずいた。
祖母の言う通りだ。
最後の場では、きっと余裕なんてない。
だから今のうちに、自分の気持ちだけははっきり知っておかなければいけない。
夜、布団に入っても眠気はなかなか来なかった。
窓の外では、虫の声がかすかに鳴いている。
蝉の音は昼間より減って、そのかわり夜の細い音が増えていた。
夏が少しだけ傾いている。
目を閉じると、今日見た石段が浮かぶ。
舞殿。
池。
白い影たち。
大きな社。
その全部の中心にある、最後の1節。
明日、あそこへ行く。
そして、すずのことも、あわのうたのことも、全部決まる。
怖い。
でももう、怖いだけではない。
こはるは布団の上で、小さく手を握った。
明日、ちゃんと言う。
最後の場で、もし歌が全部戻るとしても。
もし町がそれを求めるとしても。
今のすずを、ただ差し出すだけの終わりにはしない。
それが自分の願いだ。
そのとき、耳の奥で、今まででいちばん澄んだ鈴の音が鳴った。
1回、2回、3回……。
そして、今まで聞こえなかった最後の前に、ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
こはるは息を止めた。
次だ。
次に鳴る音の先に、最後がある。
その確信だけを胸に、こはるはゆっくり目を閉じた。




