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あわのうた  作者: ナオ
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8/8

最終話「あわのうた」

 8日目の朝、こはるは目が覚めた瞬間に、今日が最後の夜になることを知っていた。


 誰かに告げられたわけではない。

 夢を見たわけでもない。


 それでも、胸の奥にある歌のかたまりが、もうこれ以上は引き延ばせないところまで来ているのが分かった。


 窓の外では蝉が鳴いている。

 でも、その声はもう8月の真ん中の鳴き方ではない。

 強く鳴いているのに、どこか終わりへ向かっている音だ。


 空は青く、光はまだ夏のままなのに、季節だけが少しずつ指のあいだから抜けていく。


 こはるは布団の上でしばらく目を閉じた。


 今日、鶴岡八幡宮へ行く。

 今日、最後の1節を聞く。

 今日、すずのことも、あわのうたのことも、全部決まる。


 怖かった。


 でも、その怖さの奥に、はっきりとした熱もあった。


 ただ失いたくないだけじゃない。

 ただ泣きたくないだけでもない。

 最後に手を伸ばすなら、自分の言葉で伸ばしたい。


 こはるはそう思った。


 「おか野」の午前中は、いつも通り忙しかった。


 白玉あんみつ。

 冷やし抹茶。

 かき氷。

 観光客の声。

 食器の触れ合う音。


 祖母の背中。


 いつも通りだ。


 でもその“いつも通り”が、今日はやけに遠く見えた。


 自分だけが別の時間へ向かっているような気がしたからだ。


「こはるちゃん、これお願い」


「はい」


 返事をしながら動く。


 手はちゃんと働いているのに、胸の奥ではずっと鈴の音が鳴る前の沈黙みたいなものが続いていた。


 昼過ぎ、最後の客が帰って、祖母が暖簾を下ろす。


 店の中に静けさが戻る。


 その静けさの中で、祖母がいつものように麦茶を置いた。


「飲みな」


「うん」


 こはるはコップを手に取る。


 冷たい。


 その感触が、少しだけ自分を今ここへ戻してくれた。


「今夜だね」


 祖母が言った。


 こはるは顔を上げる。


 驚かなかった。


 もう、この人にはそういうことを隠せないのだと分かっていたからだ。


「うん」


「行く」

「行くよ」


 祖母は小さくうなずいた。


「なら、これを持っていきな」


 差し出されたのは、小さな鈴だった。


 手のひらに乗るくらいの、古い銀色の鈴。


 新品ではない。


 でも磨かれていて、薄い光を持っている。


「これ」


「昔から店にあったものだよ」


「どうして店に」


「さあね」


 祖母はわざとらしく肩をすくめる。


「けど、あんたが持っていく方がいい気がした」


 こはるはその鈴を受け取った。


 ひんやりしている。

 でも、すぐに体温になじんだ。


「おばあちゃん」


「ん?」


「もし」


 言いかけて、こはるは少し黙った。


 その先を言葉にするのが、怖かったからだ。


「もし、戻らなかったらどうしようって思う」


 祖母はこはるを見た。


 ごまかさない目だった。


「戻らないものもあるよ」


 やっぱり正直だった。


「でも、戻らないことと、なくなることは同じじゃない」


 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。


「大事なのは、自分で選ぶことだよ」


 祖母は続ける。


「歌に流されるんじゃなくて」

「人に決められるんじゃなくて」

「神さまに持っていかれるんでもなくて」


「自分で選びな」


 こはるは小さくうなずいた。


「うん」


「あと」


 祖母がふっと笑う。


「終わったら、ちゃんと帰ってきな」


「ごはん冷める前に」


 その言い方があまりにも普通で、こはるは少しだけ笑いそうになった。


 泣きそうにもなった。


 夕方、神社の石段を上ると、すずはもう待っていた。


 今日は社の前ではなく、石段のいちばん上に立っている。


 白い服。

 黒に近い髪。

 静かな横顔。


 でもその輪郭は、昨日よりさらにあわい。


 見失いそうなほどではない。


 ただ、風と光のあいだに立っているみたいだった。


「すず」


 こはるが呼ぶ。


 すずが振り向いた。


「来たね」


「うん」


「今日は、ちゃんと来ると思ってた」


「その言い方やめて」


「どうして」


「なんか、最後みたいで嫌だから」


 すずは少しだけ目を細めた。


「……そうだね」


 こはるは歩み寄って、その手首をつかむ。


 細い。

 冷たい。


 でも、ちゃんとここにいる。


「今日は離さないから」


 言うと、すずが少し驚いた顔をした。


「ずっと?」


「できるだけずっと」


「石段も?」


「石段も」


「本宮も?」


「本宮も」


「歌うときも?」


 その問いにだけ、こはるは少し黙った。


 でも、すぐに答える。


「できるだけ!」


 すずはその返事を聞いて、ほんの少しだけ笑った。


 それから、こはるの手をつかみ返した。


「じゃあ、行こう」


 鶴岡八幡宮へ向かう道は、昨日よりずっと静かだった。


 人はいる。


 それなのに、ざわめきの下の方がもう薄い。


 段葛(だんかずら)へ入った瞬間、こはるははっきり分かった。


 今夜、この場所は開く。


 両脇の木々が、夕方の光を受けて細く揺れている。

 空はまだ完全には暗くない。

 でも、境内の奥だけはすでに夜の色を宿し始めていた。


 鳥居をくぐる。


 源平池の水面が、暮れかけた空を映している。


 風が吹くたび、水がわずかに歪む。


 舞殿の白木はやわらかく沈み、大石段は上へ上へと静かに伸びていた。


「……きれい」


 こはるがつぶやく。


「うん」


 すずの声も、今日はどこか遠い。


 境内にはまだ人がいた。

 参拝客。

 散歩の人。

 写真を撮る観光客。


 でも、こはるには分かる。


 もうすぐこの人たちの気配は、ひとつ奥へ引く。


 そして、この場所の本当の姿が出る。


「どこから」


 こはるが聞く。


「舞殿」


 すずが答える。


「そこが、人の灯りと神さまの気配のあいだにあるから」


 2人は舞殿の前まで歩いた。


 板の匂いがする。

 夕方の風が、白木の表面をすべる。


 源平池の方から水の気配。


 石段の上から乾いた古さ。


 そしてその全部の上に、まだ鳴っていない最後の1節の沈黙が落ちている。


 その瞬間だった。


 境内のどこかで、誰かが鈴を鳴らしたような音がした。


 りん。


 1回だけ。


 それと同時に、空気が反転する。


 人の声が遠のく。

 足音が消える。


 風の音だけが一瞬だけ強くなって、それから、ぴたりと止まる。


 境が降りた。


 でも今までとは比べものにならない。


 海でも、川でも、山でも、祭りでもない。


 町そのものの底が、丸ごとひらいたみたいな深さだった。


 こはるは息をのむ。


 さっきまでいたはずの人たちは、きれいに消えている。


 残っているのは、舞殿、池、水面、石段、本宮、灯りのない夜の輪郭だけだ。


 そして。


 白い影たち。

 舞殿のまわり。

 池の向こう。

 石段の途中。


 いくつもの歌い終われなかったものたちが、静かに立っていた。


 その中心に、最初の白い影がいる。


 顔のない少女。

 でも今はもう、見えないはずの顔が少しだけ分かる気がした。

 それはすずに似ていて、でも、もっと昔の誰かの寂しさを持った顔だった。


「……来た」


 すずが小さく言う。


 同時に、海の音がした。

 ここは池のそばなのに、確かに海の波が聞こえる。


 次に、川の流れ。

 山の風。

 祭りの笛。


 4つの断片がいっせいに境内へ流れ込み、舞殿のまわりを巡り始める。


 光のような音。

 音のような匂い。

 それが全部、すずの方へ集まっていった。


「すず」


 こはるが名前を呼ぶ。


 すずの白い服の裾が、風もないのに揺れている。


「始まる」


「何が」


「最後の結びが」


 すずは舞殿へ1歩、近づく。


 白い影たちも、少しずつ位置を変える。


 まるで昔の夜をなぞり始めたみたいだった。


「待って」


 こはるはすずの腕をつかむ。


「今のまま行ったらどうなるの」


 すずは少しだけ振り返った。


「歌が戻る」


「それで?」


「今の私は、たぶん薄くなる」


 やっぱり、と胸が冷える。


 でも今は、それに沈んでいる時間はない。


 海の音がさらに近づく。


 池の水面が揺れ、石段の上から鈴の音の前触れみたいな圧が落ちてくる。


「じゃあ、変える」


 こはるは言った。


 自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。


「何を」


「終わり方」


 すずの目が揺れる。


「こはる」


「おばあちゃんに言われた」


「自分で選べって」


 すずの手首をつかんだまま、こはるは前を見る。


 舞殿。

 白い影。

 4つの断片。


 全部がこちらを待っている。


「歌が戻るのは止められないかもしれない」


「でも、すずがなくなるだけの戻り方は選ばない」


「そんなの」


 すずの声が震える。


「できるか分からない」


「私も分かんない」


 こはるは即座に返す。


「でも、分かんないからやらないよりは、分かんないままやる方がいい」


 それはきれいな言葉ではなかった。


 でも本当だった。


 最初の白い影が、舞殿の中央へ進む。


 それに引かれるように、4つの断片がひとつの輪を描く。


 海の音。

 川の声。

 山の風。

 祭りの願い。


 すずの身体がかすかに揺れた。


 歌が始まる。

 最初の白い影の口元が、ゆっくりと開いた。


 音にはならない。


 でも、こはるの耳にははっきり聞こえた。


 あわのうた。


 海で拾った節。

 川で拾った節。

 山で拾った節。

 祭りで返した節。


 全部がつながっていく。


 すずが、その続きを歌い始めた。


 今まででいちばん澄んだ声だった。


 風より細く、でも鈴よりまっすぐで、夜の鶴岡八幡宮そのものが鳴っているみたいな声。


 こはるの胸が熱くなる。


 この声だ。


 最初に神社で聞いたときから、ずっと追ってきた声。


 なのにその声は、歌うほどにすずの輪郭を薄くしていく。


「……だめ」


 こはるは小さくつぶやく。


 白い影の歌と、すずの歌が重なる。


 舞殿の白木が淡く光る。


 池の水面が海みたいに揺れ、風が山みたいに境内をめぐる。


 石段の上、本宮の方から、ついに鈴の音が落ちてきた。


 1回、2回、3回。


 こはるは息を止める。


 次だ。


 今まで聞こえなかった最後の1つ。


 その音が鳴ったら、全部が決まる。


 すずの身体が、わずかに透ける。


「すず!」


 叫んで、こはるは舞殿へ駆けた。


 白い影たちがざわめく。


 でも止まらなかった。


 舞殿の縁へ手をかけ、そのまますずの腕をつかむ。


 冷たい。


 でも確かにそこにいる。


「離して!」


 すずが初めて、少し強い声を出した。


「だめ」


「こはる」


「だめ」


 こはるは首を振る。


「そんな歌い方だめ」


「でも、今しか」


「分かってる」


「でも、それじゃ今のすずが消える」


 白い影の歌が、さらに強まる。


 4つの断片がうねるように舞殿の上へ集まっていく。


 石段の上から、最後の鈴の音が落ちる前の沈黙が、限界まで張りつめた。


 こはるの耳の奥で、最後の1節が今にもほどけそうになる。


 その瞬間、ふと分かった。


 足りなかったのは、歌の節そのものだけじゃない。


 選ぶ人の声だ。


 今までは海も川も山も祭りも、全部が戻るための節だった。


 でも最後に必要なのは何を戻して何を残すのかを選ぶ声だったのだ。


 こはるはすずの腕をつかんだまま……息を吸う。


「すず」


「なに」


「私が最後を歌う」


 すずの目が大きく揺れた。


「無理だよ」


「無理でもやる」


「だってそれは」


「今まで拾ってきた」


 こはるは言う。


「海も川も山も祭りも、全部聞いた」


「全部、私の中にも残ってる」


「だから最後は、私が選ぶ」


 白い影がこちらを見る。


 顔はない。


 でも、初めて少しだけ迷ったように見えた。


 こはるは鈴を取り出す。


 祖母がくれた、小さな鈴。


 手の中でひんやりしている。


「こはる!」


 すずが声を上げる。


 でももう遅い。


 こはるはその鈴を強く握り、最後の1節を歌った。


 海の名前を戻した声。


 川の言えなかった声。


 山の帰せなかった約束。


 祭りの帰れなかった願い。


 それらを全部、戻すだけではなく、今ここにあるものへつなぎ直すための節。


 そして、その最後に。


 いなくならないでという、こはる自身の願いを強く、強くのせた。


 歌になった瞬間、鶴岡八幡宮の夜がひっくり返るみたいに震えた。


 池の水面が強く揺れる。


 風が石段を駆け上がる。


 舞殿の白木が鈴の音みたいに鳴る。


 そして本宮の上から、最後の音が落ちてきた。


 4回目の鈴。


 それは今までのどの音よりも澄んで、まっすぐで、でもどこか人の涙に似ていた。


 白い影たちが、一斉に光へほどける。


 最初の白い影も、歌い終われなかったものたちも、海も川も山も祭りも、全部が夜空へほどけていく。


 でも、消えるのではない。


 それぞれの場所へ、ちゃんと帰っていくのだと分かった。


 海は海へ。


 川は川へ。


 山は山へ。


 人の願いは、人へ。


 そして。


 すずは、こはるの腕の中に残っていた。


 白い服。


 黒に近い髪。


 冷たい指先。


 でも、その輪郭はもう透けていない。


 代わりに、息をしていた。


 はっきりと。


 すずの身体が大きく揺れて、こはるの方へ倒れ込む。


 こはるは必死で抱きとめた。


「すず!」


 すずはまばたきをして、それから、とてもゆっくりこはるを見た。


「……残ってる」


 その声は震えていた。


「うん」


 こはるの声も、ひどく震えていた。


「残ってる」


「こはる」


「うん」


「何したの」


「分かんない」


 こはるは泣きそうな顔で笑った。


「でも、選んだ」


 すずの目から、ぽろりと涙が落ちる。

 初めて見る涙だった。

 人ではないはずの、歌の残りだったはずのすずが、今たしかに泣いていた。


「……私、戻らなかった」


「うん」


「でも、ほどけてもない」


「うん」


 こはるは何度もうなずく。


「だから言ったじゃん」


「終わるだけじゃだめだって」


 その瞬間、境が解けた。


 人の声が戻る。

 風が戻る。

 池の水面は静かな波に戻り、舞殿はただの白木へ戻る。

 石段の上には、本宮がいつもの夜の姿であるだけだった。


 でも、もう何も前と同じではない。


 歌は戻った。


 それでも、すずはここにいる。


 こはるはそれだけで、膝から力が抜けそうだった。


 2人はしばらく、舞殿の脇で座り込んでいた。


 夜の境内には、戻ってきた人たちの気配がある。


 でもその流れから少しだけ外れた場所で、2人だけが別の呼吸をしているみたいだった。


「すず」


「なに」


「今、どうなってるの」


 すずは少し考えてから答えた。


「……前より、ちゃんとここにいる」


「それって」


「分からない」


 でも、と続ける。


「歌に戻りきらなかったかわりに、私の中に町の断片がちゃんと残った」


「だからたぶん、前より消えにくい」


「……ほんとに?」


「うん」


「ただ」


「ただ?」


「たぶん、もう前みたいに何でも知らない」


 すずは少しだけ困ったように笑った。


「歌の全部を持ってるわけじゃなくなったから」


 こはるは息をついた。


「それのどこがただなの」


「でも、悪くないよ」


 すずは夜の池を見る。


「軽いから」


「軽い?」


「ずっと、何かを果たさなきゃいけない重さがあった」


「でも今は、それが少しだけ薄い」


 その横顔を見て、こはるはようやく実感する。


 ……助かったのだ。


 完全に何も失わず、というわけではないかもしれない。


 でも少なくとも、今ここにいるすずは、どこかへ持っていかれなかった。


「……よかった」


 こはるがそう言うと、すずはこっちを見た。


「うん」


「よかった」


 今度は、すずが先に言った。


 その言い方があまりにもまっすぐで、こはるは少しだけ顔を伏せる。


「こはる」


「なに」


「さっきの歌」


「うん」


「最後のところ、歌じゃなかったでしょう」


 ぎくりとする。


「……ばれた?」


「ばれるよ」


「だって願いをのせたから」


「何を」


 分かっているくせに聞くみたいな顔で、すずがそう言う。


 こはるは少しだけ唇を尖らせた。


「……いなくならないでって」


 すずの目がやわらかくなる。


「うれしかった」


「でも、恥ずかしいからあんまり言わせないで」


「うん」


 その返事のすぐあと。


 すずは、ほんの少しためらってから、こはるの肩に頭を預けた。


 こはるは一瞬だけ固まる。


 でもすぐに、その重さがちゃんとあることに気づいて、胸が詰まりそうになった。


 重さがある。

 温度がある。

 ここにいる。


「……これ、夢じゃないよね」


 こはるが小さく言うと、すずは肩にもたれたまま答えた。


「夢じゃない」


「よかった」


「うん」


 2人はしばらく、そのまま動かなかった。


 境内を出るころには、夜はだいぶ深くなっていた。


 人の流れはまだある。

 でも昼間や祭りの夜ほどの賑わいではない。

 夏の終わりの手前の夜は、どこかやさしい。


 段葛を並んで歩きながら、こはるは何度もすずの横顔を見てしまう。

 見てしまうたびに、まだ消えていないことにほっとする。


「そんなに見るの?」


 すずが言う。


「見るよ」


「どうして?」


「確認」


「何を?」


「残ってるかどうか」


 すずは少しだけ笑った。


「残ってるよ」


「今のところは」


「今のところって何」


「冗談」


 その言い方が前より少しだけ年相応で、こはるは妙にうれしくなる。


「ねえ」


 すずがふと空を見上げた。


「これで終わりじゃないんだね」


「え?」


「歌は戻ったけど、断片がなくなったわけじゃないと思う」


「どういうこと」


「町が違えば、きっと別の残り方をしてる」


 こはるは足を止める。


「それって」


「海の町なら、また海の歌があるかもしれない」


「山の深いところなら、別の結び方があるかもしれない」


「川が強い土地なら、声じゃなくて別のものが澱むかもしれない」


 すずは段葛の先の夜を見る。


「鎌倉だけじゃない」


 その言葉に、こはるの胸が小さく高鳴った。


 ……終わった。


 でも、それで全部が閉じたわけではない。


 この町の話はここで結ばれた。


 けれど歌そのものは、まだどこかで別の形をして残っているかもしれない。


「……それ、続きじゃん」


 こはるが言うと、すずは首をかしげる。


「続き?」


「他の場所の話」

「他の歌の残り」

「他の神さま」

「他の夏」


 こはるは少しだけ笑った。


「いいじゃん、それ」


 すずはまばたきして、それから小さく笑う。


「こはるは、終わったばかりなのに次の話をするんだね」


「だって、すずがいるなら行けるし」


 言ったあとで、少しだけ照れた。


 でも、すずは笑ったままうなずく。


「うん」


「行けるかもね」


 「おか野」に戻ると、祖母はまだ起きていた。


 店の灯りは落ちていたけれど、奥の座敷の明かりだけがついている。


「おかえり」


 祖母が言う。


「ただいま」


 こはるが答える。


 そのひと言だけで、何かが終わったのだと実感した。


 帰ってきたのだ。


 本当に。


 祖母の目が、こはるの隣に立つすずへ向く。


 そしてほんの少しだけ、驚いたように目を細めた。


「……そうかい」


 それだけ言う。


 でも、その声には十分すぎるほどの意味があった。


「ごはん、冷まさずに取っておいたよ」


 祖母は立ち上がる。


「2人分ね」


 そのひと言に、こはるは思わず祖母を見る。


 祖母は振り返らない。


 けれど、その背中は少しだけやさしかった。


 台所から、味噌汁の匂いがする。


 炊きたてではないけれど、ちゃんとあたため直されたごはんの匂いもする。


 こはるはそこで初めて、本当に涙が出そうになった。


「……お腹すいた」


 ぽつりと言うと、すずが隣で少し笑った。


「うん」


「私も」


 その言い方が、あまりにも自然だった。


 歌の残りでもなく。

 町の気配でもなく。


 今はただ、1人の女の子がそう言ったみたいに聞こえた。


 その夜、布団に入ったあと、こはるはなかなか眠れなかった。


 でもそれは、今までみたいな不安のせいではない。


 胸の中にまだたくさんの音が残っているからだ。


 海。


 川。


 山。


 祭り。


 舞殿。


 池。


 石段。


 本宮。


 4回目の鈴。


 それら全部が、ひとつの夏の中でちゃんとつながった。


 目を閉じると、最後の夜の景色が浮かぶ。


 その景色の端に、ふと別のものが見えた気がした。


 知らない川。


 もっと広い海。


 赤い鳥居ではない、別の形の社。


 聞いたことのない歌の断片。


 こはるは目を開ける。


 暗い天井の向こうで、虫の声がしている。


 そのあいだから、かすかに鈴の音がした。


 ……1回だけ。


 でもそれは、今夜の終わりの音ではなかった。


 どこか別の場所から届いた、まだ知らない始まりの音みたいに聞こえた。


 こはるは薄く笑って、布団の中で手を握る。


 夏は終わる。


 でも、この歌はたぶん終わらない。


 そしてそのとなりに、今はもうちゃんと名前を持つ少女がいる。


 こはるは目を閉じた。


 8月の最後の夜が、静かに、更けていった。

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