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あわのうた  作者: ナオ
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6/8

6話「すずの秘密」

 6日目の朝、こはるは目が覚めた瞬間に、自分の胸の中に何か重いものが置かれているのを感じた。


 夢のせいだった。


 舞殿。

 白い人影たち。

 灯り。


 そして歌っていた、顔の見えない少女。


 あれがすずだと、夢の中では最初から分かっていた。


 でも目が覚めた今は、そのことが逆に怖かった。

 夢ではなく、記憶みたいに近かったからだ。


 布団の上でしばらく動けずにいると、障子の向こうから朝の光が少しずつ濃くなっていく。


 外では蝉が鳴いている。

 いつもの夏の音だ。

 それなのに、耳の奥ではまだ鈴の音が残っていた。


 1回、2回、3回……。


 最後の音だけが、どうしても聞こえない。


「こはる」


 祖母の声がして、ようやく身体が動いた。


「起きてる」


「なら朝ごはん食べな」


「うん」


 返事をしながら、こはるは唇を結んだ。


 今日、何かを知るのだろうと分かっていた。


 それはたぶん、ずっと知りたかったことだ。


 でも同時に、知ったら戻れなくなることでもある。


 午前中の「おか野」は、祭り明けにしては意外なほど客が多かった。


 昨日の夜の話をしている人たちが何組もいた。

 灯りがきれいだったとか、屋台が混んでいたとか、八幡さまの方まで歩いたとか。


 その何気ない会話の中に、こはるだけが別のものを聞いてしまう。


 祭りの裏に混ざっていた歌。

 抜かれかけた願い。

 提灯の灯りの中で揺れていた、帰れなかった声たち。


「こはるちゃん、あんみつ2つ」


「はい」


 器を運びながら、こはるは何度も思い出していた。


 次で、近づく。


 昨夜、すずはそう言った。


 自分のことに近づくと。


 客が引いた昼過ぎ、祖母が麦茶を置く。


「今日は静かだね」


「え」


「あんたの顔」


 祖母はこはるを見て、小さく笑った。


「怖いものを待ってる顔してる」


 こはるはコップに触れたまま、少し黙った。


「……おばあちゃん」


「ん」


「昔からある歌って、土地に残ることあるの」


 祖母の目が、ほんの少しだけ細くなる。


「あるよ」


「人が忘れても?」


「忘れたから残ることもある」


 さらりとした口調だった。

 でも、その言葉は妙に重かった。


「残り方には、いろいろあるけどね」


「歌そのものが残るとか」


「節だけ」


「言葉だけ」


「意味だけ」


 祖母は指を折るみたいに言う。


「どれか1つだけ残ることもあるし、何か別のものに化けて残ることもある」


「別のものって」


「祭りとか、遊びとか、風習とか」


 こはるは息をのむ。


 祭囃子に混ざっていた断片のことを、祖母は知っているのだろうか。


「おばあちゃん」


「うん」


「あわのうたって知ってる?」


 祖母の手が止まった。


 ほんの少しだけ。


 それだけだったのに、こはるには十分だった。


「……誰に聞いたんだい」


「やっぱり知ってるんだ」


 祖母はすぐには答えなかった。


 暖簾の向こう、小町通りを歩く人の声が薄く聞こえる。


 やがて、祖母はゆっくり言った。


「古い呼び方だよ」


「どういう歌なの」


「人と土地の結び目を、ほどけないようにする歌だったって話がある」


 こはるは黙って聞く。


「でも、1つの正しい形が今も残ってるわけじゃない」


「断片しかない?」


「そう」


 祖母はうなずいた。


「海に残ったり、川に残ったり、山に残ったり、人の祭りの音に混ざったり」


 背筋が冷えた。


 海、川、山、祭り。


 全部、こはるたちが通ってきた場所だ。


「どうしてそんなふうに散ったの」


 祖母の目が、少し遠くを見る。


「結び目が切れたからだよ」


「どこで」


 祖母は答えなかった。


 かわりに、静かに言う。


「その先は、自分で聞いておいで」


 それ以上は教えない、という顔だった。


 こはるは息を吐く。


 やっぱりそうだ!祖母は知っている。


 でも、最後の扉だけは自分で開けろということなのだ。


 夕方、石段を上る足は、今までで1番重かった。


 風は弱い。


 空は薄く曇っている。


 夏の終わりにはまだ早いはずなのに、光の色が少しだけやわらかい。


 境内に入ると、すずは小さな社の前ではなく、石段の途中に立っていた。


 待っていたのだろう。


 でも今日は、最初から少し違って見えた。


 白い服は変わらない。

 黒に近い髪も変わらない。

 なのに……その輪郭がいつもより少しだけ薄い。


 日が強くないせい、だけではないと、こはるにはすぐ分かった。


「すず」


 名前を呼ぶと、すずは静かに振り向いた。


「来たね」


「来るって分かってた顔してる」


「分かってたから」


「今日は、話す日なんでしょ」


 すずは少しだけ目を伏せて、それからうなずいた。


「うん」


「どこに行くの」


「今日は、歩きながらじゃなくていい」


 その言い方に、こはるは少しだけ息を止めた。


「ここで話すの?」


「最初の場所だから」


 2人は境内の奥、小さな社の前に並んで座った。


 木々の揺れる音がする。


 町の気配は遠い。


 でもまだ、境は降りていない。


 現実の夏の夕方のまま、話せる時間だった。


「何から聞きたい」


 すずが言う。


「……いっぱいある」


 こはるは正直に答えた。


「でも1番は、すずが何なのか」


 すずはうなずいた。


「うん」


「それと、名前がなかった理由」


「うん」


「あと、最後に八幡宮へ行くと何が起きるのか」


 言い終えたあと、こはるは唇を結んだ。


「全部、聞くとたぶん嫌な気持ちになる」


 すずは小さく言う。


「それでも?」


「聞く」


 間を置かずに答えた。


「もうここまで来て、聞かない方が嫌だよ」


 すずはしばらく黙っていた。


 やがて、風が1度だけ木々を鳴らしたとき、静かに話し始めた。


「私は、人じゃない」


 分かっていた。


 でも、実際に言葉にされると胸の奥が少し冷たくなる。


「神さま?」


「それとも少し違う」


「じゃあ何」


「歌の……残り」


 こはるは眉を寄せた。


「残り?」


「昔、この町であわのうたがまだ1つだったころ、それを結ぶ役目の人がいた」


 すずの声は落ち着いていた。


 まるで、自分のことじゃなく、古い昔話をするみたいに。


「海と川と山と、人の灯りが集まる夜」


「その全部を、最後に1つへ戻すために歌う人」


「それが毎年いたわけじゃない」


「でも、結び目がほどけそうになるたびに、必要になった」


 こはるは黙って聞いている。


「最後にその役目をしたのが、たぶんずっと昔の、八幡さまの祭りの夜」


 すずの目が少しだけ遠くを見る。


「でも、その夜に結びきれなかった」


「何を」


「全部を」


 喉が冷える。


「海も、川も、山も、人の願いも全部を1つへ戻す前に、歌が途切れた」


「どうして」


 すずはすぐには答えなかった。

 ただ、自分の膝の上で白い指先を重ねる。


「最後の節を、落としたから」


「落とした?」


「歌の終わりだけが、どこにも着かなかった」


 その言葉に、こはるは昨夜の夢を思い出した。


 鈴の音が3回鳴って、最後だけが聞こえなかったことを。


「じゃあ、あわのうたはそのときから」


「散った」


 すずがうなずく。


「海に」

「川に」

「山に」

「祭りに」

「結べなかったものたちと一緒に」


 しばらく、風の音だけがした。


 こはるはやっとのことで聞く。


「……すずは」


 その先を言うのが、少し怖い。


「その、最後に歌ってた人と関係あるの」


 すずはこはるを見た。

 その深い色の目の奥に、今までよりずっと人らしい痛みがあった。


「私は、その人の“歌い終われなかったところ”」


 こはるは息を止める。


「全部の思い出でも、全部の魂でもない」


「ただ、最後まで歌えなかった歌の続きだけが、この町に残った」


「残り続けて薄くなって」

「名前もなくなって、今の私になった」


 言葉が出なかった。


 すずは人ではない。

 神でもない。


 歌い終われなかった歌の続き。


 そんなものが、人の形をしてここにいる。


 そう言われているのに、不思議と完全には遠くならない。


 むしろ、すずが時々見せる寂しさの理由が、ようやく少し分かってしまった。


「だから名前がなかったの」


 こはるが小さく言うと、すずはうなずいた。


「人の名前は、その人の時間に結びつくでしょう」


「うん」


「でも私は、途中で止まったものだから」


「どの時間にもちゃんと属せなかった」


 こはるは胸の奥がずきりと痛んだ。


 途中で止まったもの。


 どの時間にも属せないもの。


 それが、最初に会ったときのあの不思議な古さだったのだ。


「……でも今は、すずだよ」


 思わずそう言っていた。


 すずがわずかに目を見開く。


「途中で止まっていても、属してなくても今はすず」


「私がそう呼んだんだから」


 少しだけ強めに言うと、すずはほんの少しだけ笑った。


 でも、その笑い方はすぐに消える。


「それが、怖いの」


 こはるは黙る。


「名前をもらったから、私は前よりずっとこの町に結ばれた」


「それはいいことじゃないの」


「良いことでもある」


「でも、最後の歌が戻るとき」


「私も一緒に、戻らなきゃいけないかもしれない」


 その言葉は、予想していたのに、やっぱり痛かった。


「……戻るって」


 喉が乾く。


「消えるのと同じ?」


 すずはすぐには答えなかった。


「分からない」

「でも、今のままではいられないと思う」


 こはるは、しばらく何も言えなかった。


 胸の中で何かが嫌な音を立てる。


 海で名前を戻した。

 川で声を戻した。

 山で約束をほどいた。

 祭りで帰れなかった願いを返した。


 その全部が最後に何のために集まるのか、今やっと分かってしまった。


 すずを完成させるためだ。


 そして完成したら、今のすずはなくなるかもしれない。


「……最悪」


 こはるの口から、思わず出る。


 すずが少しだけ困った顔をした。


「うん」


「うんじゃないよ」


 こはるは膝の上で手を握る。


「何でそんな大事なこと、今まで言わなかったの」


「言ったら、こはるが来なくなるかもしれないと思った」


「来るよ」


 強く言い切る。


「そういう言い方される方が嫌だから」


 すずが黙る。


 こはるは息を吸って、それから吐いた。


「……私が手伝ったせいで、すずが消えるなら意味ないじゃん」


「でも、手伝ってもらわないと最後まで届かない」


「じゃあ最悪じゃん」


 もう1度言う。


 言ってから、喉が少し痛くなった。


 でも、それ以外の言葉が見つからない。


 すずは目を伏せたまま、小さく言った。


「ごめん」


「そういうとこも嫌」


「え」


「謝ればいいって話じゃない」


 こはるは自分でもびっくりするくらい、はっきり怒っていた。


「何で最初から、私が好きでここに来てるみたいに話進めるの」

「何で最後だけ、そういう大事なこと黙って決めてるの」

「何で、私が困るって何回も言ってるのに、そこ無視するの」


 言葉が止まらなかった。

 胸の奥でずっとざらついていたものが、一気に出てきている気がした。


「私、すずのこと助けたいのに」

「歌が戻るとか、町の結び目とか、そういうの大事なのは分かるけど」


「それで今のすずがいなくなるなら……そんなの全然よくない」


 最後の方は、怒りというより、ほとんど泣きそうな声になっていた。


 すずはそれを聞いて、長いこと黙っていた。


 やがて、こはるをまっすぐ見る。


「……うれしい」


 その言葉に、こはるは一瞬だけ返事を失う。


「は?」


「そんなふうに言われると思ってなかったから」


 すずの目は静かだった。


 でも、その奥で何かが揺れている。


「今まで、私が何とかしなきゃいけないと思ってた」


「最後まで戻せるなら、それでいいと思ってた」


「でも、こはるは違うんだね」


 違うに決まっている。


 こはるはそう言い返したかった。


 でも実際に口にしたのは、別の言葉だった。


「当たり前でしょ」


 少しだけ掠れた声だった。


「すずは歌の残りかもしれないけど」


「私には、ちゃんとすずだから」


 すずのまつ毛が震える。


 その瞬間だった。

 境内の空気がすっと冷えた。

 風が止まる。

 木々の音が消える。


 人の気配が、どこか遠くへ引いていく。


 こはるは息をのんだ。


「……境が」


「降りた」


 すずの声は低い。


「でも、今までと違う」


 たしかに違った。


 海でも、川でも、山でも、祭りでもない。


 もっと静かで、もっと深い。


 まるで町全体の底が、今だけ少し開いたみたいだった。


 社の前の空気に、淡い光が集まり始める。


 青とも白ともつかない細い筋だ。


 1本。

 また1本。


 ……さらに1本。


 海の湿った匂い。


 川の冷たさ。


 山の土の気配。


 祭りの灯りの熱。


 それが全部、光の形で集まってくる。


「……来た」


 すずが立ち上がる。


 けれど、こはるはその腕をつかんだ。


「何が」


「今まで拾った断片」


「どうしてここに」


「私が話したから」


 すずは光を見つめたまま言う。


「私が自分のことを口にすると、向こうも寄ってくる」


 光は社の前でくるくると渦を巻き、やがて1つの歌の形になりかける。


 こはるの耳の奥で、あわのうたの断片が一斉に鳴った。


 海の節。

 川の節。

 山の節。

 祭りの節。


 全部が重なって、でも最後の1つだけが足りない。


 その中心に、白い影が立つ。


 夢で見た、顔の見えない少女だった。


 白い装束。

 長い髪。

 すずと似ているのに、少し違う。


 もっと古くて、もっと遠い。


「……誰」


 こはるがつぶやくと、すずが静かに答えた。


「最初の……私」


 白い影は歌わない。


 ただ、こちらを見ている。

 顔は見えないのに、視線だけがある。

 その視線がすずに向いているのだと分かった。


 戻れ、と言っている。

 終われ、と言っている。


 そういう気配だった。


「すず」


 こはるが名前を呼ぶ。


 すずは少しだけこはるを振り返る。


 その横顔は、驚くほど静かだった。


「このままだと、断片はもっと集まる」


「それで?」


「最後の場所が、はっきり開く」


「最後の場所って、八幡宮」


「うん」


 白い影の向こうに、また別の景色が重なる。


 石段。

 舞殿。

 源平池の水面。

 夜の灯り。

 大きな社。


 今度ははっきり見えた。


 鶴岡八幡宮だ。


 ただの予感ではない。


 歌の断片そのものが、そこへ帰ろうとしている。


「……ほんとに最後なんだ」


 こはるが言うと、すずはうなずいた。


「うん」


「海も川も山も祭りも、全部あそこに戻る」


「だから、次はもう遠回りじゃない」


 白い影が、すずの方へ1歩近づく。


 同時に、すずの身体がかすかに揺れた。


「だめ」


 こはるは反射的に前へ出た。


 すずの前に立つ。


「こはる」


「だめだよ」


 自分でも何に向かって言っているのか分からなかった。


 白い影に向かってか。

 歌そのものに向かってか。

 それとも、この町の古い決まりに向かってか。


 でも言わずにいられなかった。


「勝手に連れていかないで」


 光が揺れる。


 白い影は何も答えない。


 けれど、その沈黙の中に、どうしようもない古さがあった。


 人の都合なんて関係ない、と言われているみたいだった。


 すずが小さく息を吐く。


「こはる」


「何」


「今、止められない」


 その声は弱くない。


 でも、痛いほどやさしかった。


「これは、来るものだから」


「じゃあどうすればいいの」


 こはるの声が震える。


「八幡さまへ行く」


 すずははっきり言った。


「そこで最後の節を見つける」


「それで、今の私がどうなるのかも決まる」


 その言い方に、こはるは奥歯を噛んだ。


 決まる。


 つまりまだ、決まりきってはいないのだ。


「……なら」


 こはるは白い影を睨むみたいに前を見た。


「最後まで行く」


 すずが息をのむ気配がした。


「でも、すずが消えるだけの終わりなら、絶対やだ」


 言葉にした瞬間、光がひときわ強く揺れた。

 耳の奥で、あわのうたの断片がいっせいに鳴る。


 その中心で、足りない最後の1節だけが、かすかにこはるの方へ近づいた。


 まだ聞こえない。


 でも、近い。


 そのとき、白い影がふっと揺らいだ。


 風が戻る。


 木々が鳴る。


 町の気配が少しずつ戻ってきて、光の渦は社の前でほどけるように消えていった。


 境が解けたのだ。


 残ったのは、こはるとすずと、いつもの小さな社だけだった。


 しばらく、2人とも何も言えなかった。


 木の葉が揺れている。

 遠くで人の声もする。


 たった今まで、町の底が開いていたことなんて信じられないくらい普通の夕方だ。


「……今の」


 こはるがやっと口を開く。


「最初の、すず?」


「たぶん」


 すずは静かに答える。


「でも、もう人だったころの誰かじゃない」


「歌の形に近いもの」


 こはるは拳を握った。


 人だったころの誰かじゃない。


 でも歌の形には近い。


 つまり、すずもまたああなりうるということだ。


「私、やっぱりそれ嫌だ」


 こはるは言う、さっきより少しだけ落ち着いた声で。


「歌に戻るとか、町に戻るとか、きれいに聞こえるけど」


「今ここにいるすずが薄くなる方が、私は嫌」


 すずは少しだけ困ったように笑う。


「こはるは、ほんとに私の味方なんだね」


「当たり前でしょ」


「でも私は、この町も見捨てられない」


「……うん」


 そこは分かっていた。


 分かっているから苦しいのだ。


 すずは悪くない。

 町も悪くない。


 でも、その両方のあいだに立たされるのが、あまりにも痛い。


「じゃあ約束して」


 こはるが言う。


「何」


「最後まで、1人で決めないで」


 すずは黙る。


 こはるは続ける。


「戻るとか、消えるとか、歌うとか、そういうの」


「全部、私に言って」


「勝手に終わらせないで」


 すずの目が揺れた。


 やがて、小さくうなずく。


「……うん」


「約束だよ」


「うん」


「破ったら怒るから!」


 その言い方に、すずはほんの少しだけ笑った。


「こはるは、怒るの好きだね」


「すず相手だけだよ」


「それも変」


 でもその声は、少しだけ明るかった。


 帰り道、町の夕方はいつもより静かに見えた。


 小町通りには人がいる。


 観光客も、買い物袋を下げた地元の人も、食べ歩きの学生もいる。


 けれどこはるの目には、その全部の向こうに、もう1つ別の流れが見える気がした。


 海から来たもの。

 川から来たもの。

 山から来たもの。

 人の灯りから来たもの。


 それが全部、少しずつ1つの場所へ集まっている。


「次は、八幡宮の中?」


 歩きながら聞くと、すずはうなずいた。


「うん」


「どこから」


「まだ分からない」

「でも、舞殿と」

「あと石段」

「それから上」


 その答えに、こはるは夢の景色を思い出した。


 舞殿。

 灯り。

 白い人影。

 鈴の音。


「……こわいな」


 思わずこぼすと、すずがこちらを見た。


「うん」


「そこは否定しないんだ」


「こわいよ」


 すずは静かに言う。


「私も」


 そのひと言が、こはるの胸に深く落ちた。


 すずだって怖いのだ。


 怖くない顔をしていただけで、ずっと。


 こはるは少しだけ歩幅を緩めて、すずの隣へぴたりと並んだ。


「じゃあ、一緒に怖がろう」


「え」


「その方がまだマシでしょ」


 すずは1度まばたきして、それから小さく笑った。


「うん」


「それは、たしかに」


 「おか野」に戻ると、祖母は店じまいの途中だった。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は、ずいぶん深いところまで行った顔だね」


 そのひと言に、こはるはもう驚かない。


「……行った」


「そうかい」


「おばあちゃん」


「ん」


「あわのうたって、最後に戻る場所があるの」


 祖母の手が少し止まる。


「あるって話だね」


「八幡宮?」


 祖母はすぐには答えなかった。

 でも、答えなかったことが答えだった。


「やっぱり」


 こはるがつぶやくと、祖母は静かに言った。


「昔から、いろんなものが集まる場所だからね」

「人の願いも、土地の気配も」


「戻るなら、あそこなんだろう」


 夕方の店の中は、外より少しだけ暗い。


 木の匂いと、甘い小豆の匂いがまだ残っている。


 こはるはその中で、ぽつりと言う。


「戻ったら、なくなることもあるのかな」


 祖母はこはるを見た。


 その目はやさしかったけれど、簡単な慰めはくれなかった。


「戻るってのは、変わるってことだからね」


 その答えは、苦いくらい正直だった。


 こはるは黙ってうなずく。


 知っていた。


 でも、誰かの口から言われるとやっぱり苦しかった。


 夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。


 窓の外の風は弱い。


 夏の夜の匂いが、少しだけ変わってきている気がする。


 まだ8月の途中なのに、終わりの気配がごく薄く混ざり始めていた。


 目を閉じると、今日見た白い影が浮かぶ。


 歌い終われなかった最初のすず。


 町に残り続けて、名前もなく薄くなって、それでも最後の場所を指し続けるもの。


 そして今、隣にいるすず。


 名前を持って、笑って、少し困った顔をして、こはるに怒られる方のすず。


 同じものだなんて、思いたくなかった。


 そのとき、耳の奥で、今までで1番はっきりした歌が聞こえた。


 海。


 川。


 山。


 祭り。


 4つの断片が重なっている。


 そして、そのいちばん奥に、まだ鳴っていない最後の1節がある。


 こはるは目を開けた。


 暗い天井が見える。


 でもその向こうに、大きな石段の気配がした。


 舞殿。


 池。


 灯り。


 上へ続く段。


 鶴岡八幡宮が、今はもうただの場所じゃなく、はっきりと物語の終わりとして立ち上がっている。


 次に行けば、もっと引き返せなくなる。


 たぶん、それは本当だ。


 それでも。


 こはるは布団の中で、小さく手を握った。


 最後まで行く。


 でも、すずを失うだけの終わりにはさせない。


 その決意だけが、夜の中で不思議なくらい熱かった。

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