6話「すずの秘密」
6日目の朝、こはるは目が覚めた瞬間に、自分の胸の中に何か重いものが置かれているのを感じた。
夢のせいだった。
舞殿。
白い人影たち。
灯り。
そして歌っていた、顔の見えない少女。
あれがすずだと、夢の中では最初から分かっていた。
でも目が覚めた今は、そのことが逆に怖かった。
夢ではなく、記憶みたいに近かったからだ。
布団の上でしばらく動けずにいると、障子の向こうから朝の光が少しずつ濃くなっていく。
外では蝉が鳴いている。
いつもの夏の音だ。
それなのに、耳の奥ではまだ鈴の音が残っていた。
1回、2回、3回……。
最後の音だけが、どうしても聞こえない。
「こはる」
祖母の声がして、ようやく身体が動いた。
「起きてる」
「なら朝ごはん食べな」
「うん」
返事をしながら、こはるは唇を結んだ。
今日、何かを知るのだろうと分かっていた。
それはたぶん、ずっと知りたかったことだ。
でも同時に、知ったら戻れなくなることでもある。
午前中の「おか野」は、祭り明けにしては意外なほど客が多かった。
昨日の夜の話をしている人たちが何組もいた。
灯りがきれいだったとか、屋台が混んでいたとか、八幡さまの方まで歩いたとか。
その何気ない会話の中に、こはるだけが別のものを聞いてしまう。
祭りの裏に混ざっていた歌。
抜かれかけた願い。
提灯の灯りの中で揺れていた、帰れなかった声たち。
「こはるちゃん、あんみつ2つ」
「はい」
器を運びながら、こはるは何度も思い出していた。
次で、近づく。
昨夜、すずはそう言った。
自分のことに近づくと。
客が引いた昼過ぎ、祖母が麦茶を置く。
「今日は静かだね」
「え」
「あんたの顔」
祖母はこはるを見て、小さく笑った。
「怖いものを待ってる顔してる」
こはるはコップに触れたまま、少し黙った。
「……おばあちゃん」
「ん」
「昔からある歌って、土地に残ることあるの」
祖母の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「あるよ」
「人が忘れても?」
「忘れたから残ることもある」
さらりとした口調だった。
でも、その言葉は妙に重かった。
「残り方には、いろいろあるけどね」
「歌そのものが残るとか」
「節だけ」
「言葉だけ」
「意味だけ」
祖母は指を折るみたいに言う。
「どれか1つだけ残ることもあるし、何か別のものに化けて残ることもある」
「別のものって」
「祭りとか、遊びとか、風習とか」
こはるは息をのむ。
祭囃子に混ざっていた断片のことを、祖母は知っているのだろうか。
「おばあちゃん」
「うん」
「あわのうたって知ってる?」
祖母の手が止まった。
ほんの少しだけ。
それだけだったのに、こはるには十分だった。
「……誰に聞いたんだい」
「やっぱり知ってるんだ」
祖母はすぐには答えなかった。
暖簾の向こう、小町通りを歩く人の声が薄く聞こえる。
やがて、祖母はゆっくり言った。
「古い呼び方だよ」
「どういう歌なの」
「人と土地の結び目を、ほどけないようにする歌だったって話がある」
こはるは黙って聞く。
「でも、1つの正しい形が今も残ってるわけじゃない」
「断片しかない?」
「そう」
祖母はうなずいた。
「海に残ったり、川に残ったり、山に残ったり、人の祭りの音に混ざったり」
背筋が冷えた。
海、川、山、祭り。
全部、こはるたちが通ってきた場所だ。
「どうしてそんなふうに散ったの」
祖母の目が、少し遠くを見る。
「結び目が切れたからだよ」
「どこで」
祖母は答えなかった。
かわりに、静かに言う。
「その先は、自分で聞いておいで」
それ以上は教えない、という顔だった。
こはるは息を吐く。
やっぱりそうだ!祖母は知っている。
でも、最後の扉だけは自分で開けろということなのだ。
夕方、石段を上る足は、今までで1番重かった。
風は弱い。
空は薄く曇っている。
夏の終わりにはまだ早いはずなのに、光の色が少しだけやわらかい。
境内に入ると、すずは小さな社の前ではなく、石段の途中に立っていた。
待っていたのだろう。
でも今日は、最初から少し違って見えた。
白い服は変わらない。
黒に近い髪も変わらない。
なのに……その輪郭がいつもより少しだけ薄い。
日が強くないせい、だけではないと、こはるにはすぐ分かった。
「すず」
名前を呼ぶと、すずは静かに振り向いた。
「来たね」
「来るって分かってた顔してる」
「分かってたから」
「今日は、話す日なんでしょ」
すずは少しだけ目を伏せて、それからうなずいた。
「うん」
「どこに行くの」
「今日は、歩きながらじゃなくていい」
その言い方に、こはるは少しだけ息を止めた。
「ここで話すの?」
「最初の場所だから」
2人は境内の奥、小さな社の前に並んで座った。
木々の揺れる音がする。
町の気配は遠い。
でもまだ、境は降りていない。
現実の夏の夕方のまま、話せる時間だった。
「何から聞きたい」
すずが言う。
「……いっぱいある」
こはるは正直に答えた。
「でも1番は、すずが何なのか」
すずはうなずいた。
「うん」
「それと、名前がなかった理由」
「うん」
「あと、最後に八幡宮へ行くと何が起きるのか」
言い終えたあと、こはるは唇を結んだ。
「全部、聞くとたぶん嫌な気持ちになる」
すずは小さく言う。
「それでも?」
「聞く」
間を置かずに答えた。
「もうここまで来て、聞かない方が嫌だよ」
すずはしばらく黙っていた。
やがて、風が1度だけ木々を鳴らしたとき、静かに話し始めた。
「私は、人じゃない」
分かっていた。
でも、実際に言葉にされると胸の奥が少し冷たくなる。
「神さま?」
「それとも少し違う」
「じゃあ何」
「歌の……残り」
こはるは眉を寄せた。
「残り?」
「昔、この町であわのうたがまだ1つだったころ、それを結ぶ役目の人がいた」
すずの声は落ち着いていた。
まるで、自分のことじゃなく、古い昔話をするみたいに。
「海と川と山と、人の灯りが集まる夜」
「その全部を、最後に1つへ戻すために歌う人」
「それが毎年いたわけじゃない」
「でも、結び目がほどけそうになるたびに、必要になった」
こはるは黙って聞いている。
「最後にその役目をしたのが、たぶんずっと昔の、八幡さまの祭りの夜」
すずの目が少しだけ遠くを見る。
「でも、その夜に結びきれなかった」
「何を」
「全部を」
喉が冷える。
「海も、川も、山も、人の願いも全部を1つへ戻す前に、歌が途切れた」
「どうして」
すずはすぐには答えなかった。
ただ、自分の膝の上で白い指先を重ねる。
「最後の節を、落としたから」
「落とした?」
「歌の終わりだけが、どこにも着かなかった」
その言葉に、こはるは昨夜の夢を思い出した。
鈴の音が3回鳴って、最後だけが聞こえなかったことを。
「じゃあ、あわのうたはそのときから」
「散った」
すずがうなずく。
「海に」
「川に」
「山に」
「祭りに」
「結べなかったものたちと一緒に」
しばらく、風の音だけがした。
こはるはやっとのことで聞く。
「……すずは」
その先を言うのが、少し怖い。
「その、最後に歌ってた人と関係あるの」
すずはこはるを見た。
その深い色の目の奥に、今までよりずっと人らしい痛みがあった。
「私は、その人の“歌い終われなかったところ”」
こはるは息を止める。
「全部の思い出でも、全部の魂でもない」
「ただ、最後まで歌えなかった歌の続きだけが、この町に残った」
「残り続けて薄くなって」
「名前もなくなって、今の私になった」
言葉が出なかった。
すずは人ではない。
神でもない。
歌い終われなかった歌の続き。
そんなものが、人の形をしてここにいる。
そう言われているのに、不思議と完全には遠くならない。
むしろ、すずが時々見せる寂しさの理由が、ようやく少し分かってしまった。
「だから名前がなかったの」
こはるが小さく言うと、すずはうなずいた。
「人の名前は、その人の時間に結びつくでしょう」
「うん」
「でも私は、途中で止まったものだから」
「どの時間にもちゃんと属せなかった」
こはるは胸の奥がずきりと痛んだ。
途中で止まったもの。
どの時間にも属せないもの。
それが、最初に会ったときのあの不思議な古さだったのだ。
「……でも今は、すずだよ」
思わずそう言っていた。
すずがわずかに目を見開く。
「途中で止まっていても、属してなくても今はすず」
「私がそう呼んだんだから」
少しだけ強めに言うと、すずはほんの少しだけ笑った。
でも、その笑い方はすぐに消える。
「それが、怖いの」
こはるは黙る。
「名前をもらったから、私は前よりずっとこの町に結ばれた」
「それはいいことじゃないの」
「良いことでもある」
「でも、最後の歌が戻るとき」
「私も一緒に、戻らなきゃいけないかもしれない」
その言葉は、予想していたのに、やっぱり痛かった。
「……戻るって」
喉が乾く。
「消えるのと同じ?」
すずはすぐには答えなかった。
「分からない」
「でも、今のままではいられないと思う」
こはるは、しばらく何も言えなかった。
胸の中で何かが嫌な音を立てる。
海で名前を戻した。
川で声を戻した。
山で約束をほどいた。
祭りで帰れなかった願いを返した。
その全部が最後に何のために集まるのか、今やっと分かってしまった。
すずを完成させるためだ。
そして完成したら、今のすずはなくなるかもしれない。
「……最悪」
こはるの口から、思わず出る。
すずが少しだけ困った顔をした。
「うん」
「うんじゃないよ」
こはるは膝の上で手を握る。
「何でそんな大事なこと、今まで言わなかったの」
「言ったら、こはるが来なくなるかもしれないと思った」
「来るよ」
強く言い切る。
「そういう言い方される方が嫌だから」
すずが黙る。
こはるは息を吸って、それから吐いた。
「……私が手伝ったせいで、すずが消えるなら意味ないじゃん」
「でも、手伝ってもらわないと最後まで届かない」
「じゃあ最悪じゃん」
もう1度言う。
言ってから、喉が少し痛くなった。
でも、それ以外の言葉が見つからない。
すずは目を伏せたまま、小さく言った。
「ごめん」
「そういうとこも嫌」
「え」
「謝ればいいって話じゃない」
こはるは自分でもびっくりするくらい、はっきり怒っていた。
「何で最初から、私が好きでここに来てるみたいに話進めるの」
「何で最後だけ、そういう大事なこと黙って決めてるの」
「何で、私が困るって何回も言ってるのに、そこ無視するの」
言葉が止まらなかった。
胸の奥でずっとざらついていたものが、一気に出てきている気がした。
「私、すずのこと助けたいのに」
「歌が戻るとか、町の結び目とか、そういうの大事なのは分かるけど」
「それで今のすずがいなくなるなら……そんなの全然よくない」
最後の方は、怒りというより、ほとんど泣きそうな声になっていた。
すずはそれを聞いて、長いこと黙っていた。
やがて、こはるをまっすぐ見る。
「……うれしい」
その言葉に、こはるは一瞬だけ返事を失う。
「は?」
「そんなふうに言われると思ってなかったから」
すずの目は静かだった。
でも、その奥で何かが揺れている。
「今まで、私が何とかしなきゃいけないと思ってた」
「最後まで戻せるなら、それでいいと思ってた」
「でも、こはるは違うんだね」
違うに決まっている。
こはるはそう言い返したかった。
でも実際に口にしたのは、別の言葉だった。
「当たり前でしょ」
少しだけ掠れた声だった。
「すずは歌の残りかもしれないけど」
「私には、ちゃんとすずだから」
すずのまつ毛が震える。
その瞬間だった。
境内の空気がすっと冷えた。
風が止まる。
木々の音が消える。
人の気配が、どこか遠くへ引いていく。
こはるは息をのんだ。
「……境が」
「降りた」
すずの声は低い。
「でも、今までと違う」
たしかに違った。
海でも、川でも、山でも、祭りでもない。
もっと静かで、もっと深い。
まるで町全体の底が、今だけ少し開いたみたいだった。
社の前の空気に、淡い光が集まり始める。
青とも白ともつかない細い筋だ。
1本。
また1本。
……さらに1本。
海の湿った匂い。
川の冷たさ。
山の土の気配。
祭りの灯りの熱。
それが全部、光の形で集まってくる。
「……来た」
すずが立ち上がる。
けれど、こはるはその腕をつかんだ。
「何が」
「今まで拾った断片」
「どうしてここに」
「私が話したから」
すずは光を見つめたまま言う。
「私が自分のことを口にすると、向こうも寄ってくる」
光は社の前でくるくると渦を巻き、やがて1つの歌の形になりかける。
こはるの耳の奥で、あわのうたの断片が一斉に鳴った。
海の節。
川の節。
山の節。
祭りの節。
全部が重なって、でも最後の1つだけが足りない。
その中心に、白い影が立つ。
夢で見た、顔の見えない少女だった。
白い装束。
長い髪。
すずと似ているのに、少し違う。
もっと古くて、もっと遠い。
「……誰」
こはるがつぶやくと、すずが静かに答えた。
「最初の……私」
白い影は歌わない。
ただ、こちらを見ている。
顔は見えないのに、視線だけがある。
その視線がすずに向いているのだと分かった。
戻れ、と言っている。
終われ、と言っている。
そういう気配だった。
「すず」
こはるが名前を呼ぶ。
すずは少しだけこはるを振り返る。
その横顔は、驚くほど静かだった。
「このままだと、断片はもっと集まる」
「それで?」
「最後の場所が、はっきり開く」
「最後の場所って、八幡宮」
「うん」
白い影の向こうに、また別の景色が重なる。
石段。
舞殿。
源平池の水面。
夜の灯り。
大きな社。
今度ははっきり見えた。
鶴岡八幡宮だ。
ただの予感ではない。
歌の断片そのものが、そこへ帰ろうとしている。
「……ほんとに最後なんだ」
こはるが言うと、すずはうなずいた。
「うん」
「海も川も山も祭りも、全部あそこに戻る」
「だから、次はもう遠回りじゃない」
白い影が、すずの方へ1歩近づく。
同時に、すずの身体がかすかに揺れた。
「だめ」
こはるは反射的に前へ出た。
すずの前に立つ。
「こはる」
「だめだよ」
自分でも何に向かって言っているのか分からなかった。
白い影に向かってか。
歌そのものに向かってか。
それとも、この町の古い決まりに向かってか。
でも言わずにいられなかった。
「勝手に連れていかないで」
光が揺れる。
白い影は何も答えない。
けれど、その沈黙の中に、どうしようもない古さがあった。
人の都合なんて関係ない、と言われているみたいだった。
すずが小さく息を吐く。
「こはる」
「何」
「今、止められない」
その声は弱くない。
でも、痛いほどやさしかった。
「これは、来るものだから」
「じゃあどうすればいいの」
こはるの声が震える。
「八幡さまへ行く」
すずははっきり言った。
「そこで最後の節を見つける」
「それで、今の私がどうなるのかも決まる」
その言い方に、こはるは奥歯を噛んだ。
決まる。
つまりまだ、決まりきってはいないのだ。
「……なら」
こはるは白い影を睨むみたいに前を見た。
「最後まで行く」
すずが息をのむ気配がした。
「でも、すずが消えるだけの終わりなら、絶対やだ」
言葉にした瞬間、光がひときわ強く揺れた。
耳の奥で、あわのうたの断片がいっせいに鳴る。
その中心で、足りない最後の1節だけが、かすかにこはるの方へ近づいた。
まだ聞こえない。
でも、近い。
そのとき、白い影がふっと揺らいだ。
風が戻る。
木々が鳴る。
町の気配が少しずつ戻ってきて、光の渦は社の前でほどけるように消えていった。
境が解けたのだ。
残ったのは、こはるとすずと、いつもの小さな社だけだった。
しばらく、2人とも何も言えなかった。
木の葉が揺れている。
遠くで人の声もする。
たった今まで、町の底が開いていたことなんて信じられないくらい普通の夕方だ。
「……今の」
こはるがやっと口を開く。
「最初の、すず?」
「たぶん」
すずは静かに答える。
「でも、もう人だったころの誰かじゃない」
「歌の形に近いもの」
こはるは拳を握った。
人だったころの誰かじゃない。
でも歌の形には近い。
つまり、すずもまたああなりうるということだ。
「私、やっぱりそれ嫌だ」
こはるは言う、さっきより少しだけ落ち着いた声で。
「歌に戻るとか、町に戻るとか、きれいに聞こえるけど」
「今ここにいるすずが薄くなる方が、私は嫌」
すずは少しだけ困ったように笑う。
「こはるは、ほんとに私の味方なんだね」
「当たり前でしょ」
「でも私は、この町も見捨てられない」
「……うん」
そこは分かっていた。
分かっているから苦しいのだ。
すずは悪くない。
町も悪くない。
でも、その両方のあいだに立たされるのが、あまりにも痛い。
「じゃあ約束して」
こはるが言う。
「何」
「最後まで、1人で決めないで」
すずは黙る。
こはるは続ける。
「戻るとか、消えるとか、歌うとか、そういうの」
「全部、私に言って」
「勝手に終わらせないで」
すずの目が揺れた。
やがて、小さくうなずく。
「……うん」
「約束だよ」
「うん」
「破ったら怒るから!」
その言い方に、すずはほんの少しだけ笑った。
「こはるは、怒るの好きだね」
「すず相手だけだよ」
「それも変」
でもその声は、少しだけ明るかった。
帰り道、町の夕方はいつもより静かに見えた。
小町通りには人がいる。
観光客も、買い物袋を下げた地元の人も、食べ歩きの学生もいる。
けれどこはるの目には、その全部の向こうに、もう1つ別の流れが見える気がした。
海から来たもの。
川から来たもの。
山から来たもの。
人の灯りから来たもの。
それが全部、少しずつ1つの場所へ集まっている。
「次は、八幡宮の中?」
歩きながら聞くと、すずはうなずいた。
「うん」
「どこから」
「まだ分からない」
「でも、舞殿と」
「あと石段」
「それから上」
その答えに、こはるは夢の景色を思い出した。
舞殿。
灯り。
白い人影。
鈴の音。
「……こわいな」
思わずこぼすと、すずがこちらを見た。
「うん」
「そこは否定しないんだ」
「こわいよ」
すずは静かに言う。
「私も」
そのひと言が、こはるの胸に深く落ちた。
すずだって怖いのだ。
怖くない顔をしていただけで、ずっと。
こはるは少しだけ歩幅を緩めて、すずの隣へぴたりと並んだ。
「じゃあ、一緒に怖がろう」
「え」
「その方がまだマシでしょ」
すずは1度まばたきして、それから小さく笑った。
「うん」
「それは、たしかに」
「おか野」に戻ると、祖母は店じまいの途中だった。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は、ずいぶん深いところまで行った顔だね」
そのひと言に、こはるはもう驚かない。
「……行った」
「そうかい」
「おばあちゃん」
「ん」
「あわのうたって、最後に戻る場所があるの」
祖母の手が少し止まる。
「あるって話だね」
「八幡宮?」
祖母はすぐには答えなかった。
でも、答えなかったことが答えだった。
「やっぱり」
こはるがつぶやくと、祖母は静かに言った。
「昔から、いろんなものが集まる場所だからね」
「人の願いも、土地の気配も」
「戻るなら、あそこなんだろう」
夕方の店の中は、外より少しだけ暗い。
木の匂いと、甘い小豆の匂いがまだ残っている。
こはるはその中で、ぽつりと言う。
「戻ったら、なくなることもあるのかな」
祖母はこはるを見た。
その目はやさしかったけれど、簡単な慰めはくれなかった。
「戻るってのは、変わるってことだからね」
その答えは、苦いくらい正直だった。
こはるは黙ってうなずく。
知っていた。
でも、誰かの口から言われるとやっぱり苦しかった。
夜、布団に入ってもなかなか眠れなかった。
窓の外の風は弱い。
夏の夜の匂いが、少しだけ変わってきている気がする。
まだ8月の途中なのに、終わりの気配がごく薄く混ざり始めていた。
目を閉じると、今日見た白い影が浮かぶ。
歌い終われなかった最初のすず。
町に残り続けて、名前もなく薄くなって、それでも最後の場所を指し続けるもの。
そして今、隣にいるすず。
名前を持って、笑って、少し困った顔をして、こはるに怒られる方のすず。
同じものだなんて、思いたくなかった。
そのとき、耳の奥で、今までで1番はっきりした歌が聞こえた。
海。
川。
山。
祭り。
4つの断片が重なっている。
そして、そのいちばん奥に、まだ鳴っていない最後の1節がある。
こはるは目を開けた。
暗い天井が見える。
でもその向こうに、大きな石段の気配がした。
舞殿。
池。
灯り。
上へ続く段。
鶴岡八幡宮が、今はもうただの場所じゃなく、はっきりと物語の終わりとして立ち上がっている。
次に行けば、もっと引き返せなくなる。
たぶん、それは本当だ。
それでも。
こはるは布団の中で、小さく手を握った。
最後まで行く。
でも、すずを失うだけの終わりにはさせない。
その決意だけが、夜の中で不思議なくらい熱かった。




