表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あわのうた  作者: ナオ
PR
5/8

5話「祭りの夜とほどける歌」

 5日目の朝、こはるは蝉の声で目を覚ました。


 昨日までの曇り空は抜けていて、窓の外には、いかにも夏らしい強い青が広がっている。

 日差しはもう朝から白っぽくて、障子の向こうで揺れる庭木の影まで、今日はくっきりして見えた。


 祭りの日だ、と目が覚めた瞬間に思った。

 誰かに言われたわけではない。

 けれど朝の空気そのものが、今日は何かがあると知っているみたいだった。


 布団の中で少しだけ目を閉じると、耳の奥で、遠くの太鼓の音みたいなものがかすかにした。

 夢の続きかもしれない。


 それでも、こはるはそれを聞いた気がした。


 「おか野」は朝から慌ただしかった。


 祭りの日は、観光客も地元の人も増えるらしい。

 冷たい甘味を求めて人が絶えず、店先には開店してすぐから客の列ができた。


「こはるちゃん、白玉追加」


「はい」


「そっちのお客さん、氷先ね」


「分かった」


 祖母もいつもより少しだけ口数が多い。

 店の中には、祭りの夜を待つような浮ついた空気があった。


 浴衣姿の女の子たち。

 夜の予定を話す家族連れ。

 カメラを片手にした観光客。

 昼間から、町のどこかがそわそわしている。


 こはるは器を運びながら、ふと表の通りを見た。


 小町通りにも、もう提灯が下がっていた。

 昼間の光の中ではまだ白く見えるけれど、夜になればきっとあれが赤や金の灯りになるのだろう。


「今日は落ち着かない顔してるね」


 昼過ぎ、ようやく客足が途切れたころ、祖母が麦茶を差し出しながら言った。


「そうかな」


「そうだよ」


「楽しみなときと、不安なときが半分ずつって顔」


 図星だった。

 こはるはコップを受け取り、冷たい麦茶をひと口飲んだ。


「祭りって、どこでやるの」


「八幡さまの方まで灯りが出るよ」


 祖母は帳場の方を見ながら答える。


「この町は祭りのとき、昼より夜の方が古くなる」


「……またそういうこと言う」


「本当のことだもの」


 さらりと返される。


「今日は人が多いから、余計に気をつけな」


「何を」


「人が多いところで、急に静かになったら」


 祖母はそこで言葉を切って、こはるを見た。


「あんたなら、分かるだろう」


 こはるは黙った。

 境が降りることを、祖母は言っていない。

 けれど、その輪郭はきっと知っている。


「……うん」


 小さく答えると、祖母はそれ以上何も言わなかった。


 夕方、神社の石段を上ると、すずはもう待っていた。

 白い服の袖口に、今日は少しだけ木の葉がついている。

 髪は相変わらず黒に近く、夕方の光が触れるところだけ柔らかく茶に見えた。


「今日はほんとに祭りなんだね」


 こはるが言うと、すずはうなずく。


「町が浮いてる」


「浮いてるって表現するんだ」


「人がたくさん願う日だから」


「祭りって、そういうものなの」


「そういうものでもあるよ」


 すずは社の前に置いてあった小さな鈴を指先で触れた。

 かすかな音が鳴る。


「人は楽しい日に、無意識にたくさん結ぶから」


「何を」


「お願いとか、思い出とか、帰りたくない気持ちとか」


 こはるは少しだけ笑った。


「最後のは分かるかも」


 すずがこちらを見る。


「こはるも、今日が終わらなかったらいいと思う?」


「まだ始まってもないけど」


「でも思ってる顔」


「また顔で分かるってやつ?」


「うん」


 何となく悔しくて、こはるは軽く睨んだ。


 すると、すずはほんの少しだけ笑う。

 最初の頃より、その笑い方がずっと自然になっている。


「今日はどこに行くの」


「人の多いところ」


「ざっくりしてるなあ」


「でも、そこじゃないと聞こえないものがあるから」


 すずはそう言って歩き出した。


 こはるもその後を追う。


 祭りの夜へ向かう町は、昼間よりさらにきらびやかだった。

 通りには灯りがともり始めていて、屋台の準備をする匂いが漂っている。


 焼きそば。

 りんご飴。

 金魚すくいの水の匂い。

 提灯の赤。

 浴衣の色。


 それに笑い声。

 その全部が夏の中心みたいに濃かった。


 こはるはその賑わいの中をすずと並んで歩いた。


 不思議なことに、今夜のすずは昼間より少しだけ人の目に留まりやすい気がした。

 すれ違う子どもがちらりと見上げたり、屋台の店主が一瞬だけ視線を向けたりする。

 完全に景色に溶けきっているわけではない。


 むしろ、祭りの夜の方が、すずみたいな存在を町が受け入れてしまっているように見えた。


「今日は、見える人が多いの」


 こはるが小声で聞くと、すずはうなずいた。


「境が薄いから」


「祭りだから?」


「うん」


「それって良くないことなんじゃ」


「良いことでもあるし、危ないことでもある」


 その答え方が、いかにもすずらしかった。


 人の流れの先に、灯りの集まる場所が見える。

 鶴岡八幡宮の方角だった。

 まだ境内の中までは入っていない。


 でも空気が違う。

 町全体の人の気配が、あっちへ引かれているみたいに思えた。


「今日は八幡さまの近くまで行くの?」


 こはるが尋ねると、すずは少しだけ黙った。


「近くまでは」


「中には入らないの」


「まだ」


 その言い方に、こはるは何も言えなくなる。


 まだ、なのだ。

 いずれ行かなければならない場所として、そこが最初からあるみたいに。


 境内へ続く道の手前で、すずが立ち止まった。


 人は多い。

 浴衣の子どもたち。

 屋台の列。

 写真を撮る観光客。


 笑い声。

 太鼓の音。

 笛の音。

 祭囃子が風の中に流れていた。


 その中に、こはるは妙な音を聞いた。

 最初は気のせいだと思った。


 でも違う。


 太鼓でも、笛でもない。

 祭囃子の裏に、別の節が混じっている。


 ごく短い。


 でも耳に引っかかる。


「……すず」


「聞こえた?」


 すずの横顔が強張る。


「今の、何」


「混ざってる」


「何が」


「あわのうたの断片」


 ぞくりとした。


 人がたくさんいる。

 笑い声がある。

 提灯が揺れている。


 そんな真ん中で、あの歌が混ざっている。


「どういうこと」


「本当は祭囃子じゃないのに、誰かがずっとそこに乗せてる」


 すずは人波の向こうを見る。


「人が多すぎて、隠れてた」


 そのとき、笛の音がひとつ高く抜けた。


 同時に、近くで綿あめを持っていた小さな男の子が、ぴたりと立ち止まる。

 その母親らしい人は数歩先へ進んでしまっていて、まだ気づいていない。

 男の子は笛の音のする方へ、ゆっくり顔を向けた。


「あれ」


 こはるの喉が冷える。


 男の子だけじゃない。

 少し離れたところにいた若い女の人も、友人たちと話していたはずの高校生らしい2人も、同じ方を見ている。

 祭囃子の中心へ。

 何かに引かれるみたいに。


「まずい」


 すずが走った。


 こはるも反射的に続く。


 人のあいだをすり抜ける。


 浴衣の袖。

 提灯の影。

 焼きとうもろこしの匂い。


 その全部の中で、笛の音だけが少しずつ変わっていく。

 祭りの音じゃない。

 もっと古くて、もっと細くて、骨に刺さるような節。


 そして。


 急に、音が消えた。


 笑い声も。

 太鼓も。

 笛も。

 屋台の呼び込みも。


 あれだけいたはずの人が、どこにも見当たらない。


 灯りだけが残っていた。

 提灯の赤。

 屋台の電球。

 ぼんやりした夜の明るさ。


 それだけを残して、世界から人の気配だけが抜け落ちている。


 こはるは立ち止まった。


「……うそ」


「境が降りた」


 すずの声は低かった。


「でも、いつもより深い」


 目の前の参道は、さっきまで祭りの人波で埋まっていたはずなのに、今は誰もいない。


 なのに、提灯は揺れている。

 金魚すくいの水槽の水も、射的の景品も、そのまま残っている。


 まるで人だけが、きれいに剥がれたみたいだった。


「さっきの人たち」


「まだいるよ」


 すずは前を向いたまま言う。


「でも、こっちにはいない」


「それ、毎回さらっと言わないで」


 こはるの声は少し震えていた。


 そのとき。


 参道の奥に、誰かが立っているのが見えた。

 笛を持った影だった。

 祭りの衣装のようにも見える。


 でも輪郭が曖昧だ。

 人の形をしているのに、人の気配がまるでない。

 その後ろに、さらにいくつもの影が浮かんでいる。

 踊っているようにも、揺れているようにも見えた。


「……あれ何」


「祭りに残ったもの」


 すずが言う。


「帰れなかった歌」


「帰れなかった……?」


「祭りって、人が願いを空に放る日でもあるでしょう」


「うん」


「でも、放られたまま戻れなかったものもある」


 笛の影が1歩前に出る。


 ぞわり、と空気が震えた。


 その瞬間、さっきまで動きを止めていた何人かが、今度はこの空の参道の中に現れた。


 綿あめを持った男の子。

 若い女の人。

 高校生らしい2人。


 みんな、目を閉じたまま、笛の音の方へ歩き出す。


「だめ!」


 こはるが叫ぶ。


 でもその声は届かない。


 笛の影が、また音を鳴らしたからだ。


 甲高くもないのに、耳の奥へ直接入り込む音だった。


 そしてこはるは見た。


 その音を聞いた人たちの胸元から、細い光みたいなものがするりと抜けるのを。

 白でも金でもない、淡い何か。


 言葉になる前の願いみたいな光だった。


「……取ってる」


 こはるがつぶやく。

 すずがうなずく。


「祭りの夜に浮いた願いを、集めてる」


「何のために」


「歌を続けるため」


 その答えが、ひどく嫌だった。

 人の願いを勝手に抜き取って、歌の燃料みたいにしている。

 それが祭りの影に混ざっている。


「止めないと」


「うん」


「どうするの」


 すずは笛の影を見つめる。


「本当の祭りの音に戻す」


「それができるの?」


「やるしかない」


 すずは前へ出た。


 白い袖が提灯の赤を受けて、少しだけ朱に染まる。

 あまりにもきれいで、こはるは一瞬だけ息をのんだ。


 でも次の瞬間、その横顔が前よりずっと白いことに気づく。


「すず」


「大丈夫」


「今それ言うの禁止」


 すずはほんの少しだけ目を伏せた。


「……まだ、立てる」


「それも信用ならない」


「でも、やる」


 その言い方に、こはるは何も返せなくなる。


 すずは歌い始めた。


 あわのうた。


 海の時とも、川の時とも、山の時とも違う。


 人の中で歌われるための、やわらかいのに芯のある節。


 提灯の灯りがかすかに揺れる。


 笛の影が止まる。


 でも、それだけだった。


 次の瞬間、影の後ろにいたいくつもの揺らぎが、一斉にこちらを向く。

 祭りの夜にほどけた、帰れなかった願いたち。

 泣き声みたいなものが一度に押し寄せた。


「帰りたい」

「終わりたくない」

「まだ言ってない」

「まだ会いたい」


 言葉になりきらない声が、参道いっぱいに溢れる。


 こはるの膝が震えた。


 こんなにたくさんあるのか、と一瞬だけ思う。

 祭りの夜に浮かんだだけの、軽い願いじゃない。


 どれも、人が本当に胸の奥で思ってしまったことだ。


 終わってほしくない。

 帰りたくない。


 もう少しだけ。


 その気持ちが、歌の形になれず溜まっていた。


 笛の影は、それを集めていただけなのだ。


「……すず」


 すずの歌が少し揺らぐ。


 まずい……こはるはすぐに分かった。


 さっきまで立っていたすずの足元が、わずかにふらついている。


「これ、数が多すぎる」


 こはるが言うと、すずは歌のあいまに小さく答える。


「うん」


「なのにやるの」


「今じゃないと、祭りの音ごと持っていかれる」


 笛の影が1歩近づく。


 綿あめの男の子の胸元から、また淡い光が抜けかける。


 若い女の人の唇が、何かを言いかけた形のまま止まっている。


 高校生2人のうち1人は、泣いていた。


 でも涙が落ちない。


 時間ごと引き留められているみたいだった。


 こはるの胸の奥に、熱いものが込み上げる。


 ……怖い。


 でも、それより嫌だった。

 こんなふうに、終わらない気持ちだけが夜に食われていくのが。


 そのとき。


 遠くで、本当の太鼓の音がした。


 境の向こうだ。

 人のいる祭りの方から、確かに届く音。

 どん、どん、と腹に響く。


 それが合図みたいに、こはるの耳の奥で別の旋律がはっきり立ち上がった。

 祭囃子に混ざっていた、あわのうたの断片。


 これは、ほどくための節じゃない。

 返すための節だ、と分かった。


 こはるは息を吸う。


「すず」


 すずがこちらを見る。


「私もやる」


「うん」


 止める気は最初からないみたいな返事だった。


 こはるは思わず苦く笑いそうになる。


 でも今はそんな場合じゃない。


 こはるは歌った。


 祭りの音に寄せるように。

 太鼓の向こうから戻ってくる音を迎えにいくように。


 あわのうたの断片を、自分の喉でつなぐ。


 すずの歌と、こはるの歌が重なる。


 参道の灯りが一斉に揺れた。


 笛の影が止まる。


 その後ろにいた願いたちが、ざわめきながら空気へ溶け始める。


 帰りたかった声。

 終わってほしくなかった声。

 言えなかった声。

 会いたかった声。


 それらが全部、提灯の灯りの上へほどけて、夜空へ薄く昇っていく。


 こはるはその中で、1つだけはっきりした声を聞いた。


「まだ一緒にいたかった」


 胸が締めつけられる。


 祭りの夜は、楽しいだけじゃない。


 終わりが見えているから、誰もが少しだけ切ない。


 それでも、終わるからこそ灯りはきれいなのだ。


 歌いながら、こはるはそう思った。


 笛の影の輪郭が崩れる。


 その瞬間、こはるの目の前に別の景色が重なった。


 ずっと昔の祭りの夜。

 暗い境内。

 舞殿の前。

 白い装束の人影が何人も並んでいる。


 その中心で、1人の少女が歌っている。


 周囲にはたくさんの灯り。


 でも少女の顔だけが、どうしても見えない。


 ただ、その声だけが痛いほど懐かしい。


 そして、景色のいちばん奥。


 大きな社の方から、鈴の音がした。


 鶴岡八幡宮だ、と何の説明もなく分かった。


 次の瞬間、景色は切れた。


 祭りの音が戻る。


 太鼓。

 笛。

 人の笑い声。

 屋台の呼び込み。


 灯りと人。


 全部がいっせいに世界へ流れ込んでくる。


 境が解けたのだ。


 綿あめの男の子は目をぱちぱちさせて母親の方へ走り出した。


 若い女の人は、何かを思い出したみたいに胸元を押さえている。


 高校生2人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。


 何もなかったように見える。


 でも、きっと少しだけ違う。


 抜かれかけた願いが、ちゃんと本人たちの中へ戻ったのだ。


 こはるは大きく息をついた。


 その瞬間、隣ですずの身体がぐらりと揺れた。


「すず!」


 とっさに抱きとめる。


 白い身体は、思った以上に軽かった。


「ちょっと、しっかりして」


「……いる」


「全然しっかりしてない」


 すずの呼吸は浅い。


 額に薄く汗が浮いていて、指先はやっぱり冷たい。

 こはるはそのまま、人の流れから少し外れた石段の脇まで連れていった。

 提灯の光がここまで届いて、赤く淡くすずの横顔を照らしている。


「また無理した」


「こはるもしたよ」


「私は歌えたからまだいいの」


「それ、私にだけ怒る理屈じゃない」


「今はそういう話じゃない」


 こはるが言うと、すずは少しだけ笑った。

 でもその笑い方も弱い。


「……見えた?」


 すずが小さく聞く。


「何が」


「歌ってるとき」


 こはるは黙った。


 見えた。


 昔の祭りの夜。

 灯り。

 舞殿。

 白い人影たち。


 そして……鶴岡八幡宮。


「見えた」


 こはるが言うと、すずは静かに目を閉じた。


「やっぱり」


「やっぱりって何」


「祭りの断片は、あそこにつながってるから」


 こはるの喉がわずかに詰まる。


「あそこって……八幡宮?」


 すずはうなずく。


「最後に戻る場所」


「それって、今までの海も川も山も、全部?」


「うん」


 提灯の赤い光が揺れる。


 人の声はすぐ近くにあるのに、この石段の脇だけ少し静かだった。


「どうして最初から言わなかったの」


「言ったら、こはるは怖がると思った」


「今も十分怖いけど」


「うん」


 すずは素直に言う。


「でも、もう見えたなら隠せない」


 こはるはすずを見る。


 白い服。

 黒に近い髪。


 祭りの灯りの中で、その存在だけがひどく、はかなく見えた。


「すず」


「なに」


「最後にあそこへ行ったら、何が起こるの」


 すずはすぐには答えなかった。


 ほんの少しだけ視線を落としてから、静かに言う。


「あわのうたが戻る」


「それだけ?」


「……それだけじゃない」


 その言い方で十分だった。


 何かがある。


 しかも、あまり良くない形で。


 こはるの胸に、嫌な冷たさが落ちる。


「すず」


「うん」


「また、消えるとか言わないでよ」


 思わず口にしていた。


 すずの目がわずかに開く。

 こはるは視線をそらさなかった。


「そういうの、まだ何も聞いてないけど」


「うん」


「でも、そういう顔してるときあるから」


 すずはしばらく黙っていた。


 祭りの音が遠くで鳴る。


 太鼓の響きが、胸の奥まで届く。


 やがて、すずがとても小さな声で言った。


「こはるは、ほんとによく見るね」


「見てるから」


「困る?」


「困るよ」


 間を置かずに返す。


「何回も言わせないで」


 すずはまばたきを1回して、それからほんの少しだけ笑った。


 その笑い方はうれしそうなのに、少しだけ泣きそうにも見えた。


 帰り道、祭りの灯りはまだ賑やかだった。


 でもこはるの中では、さっきまでと少し違う音に聞こえる。


 ただ楽しいだけの祭囃子じゃない。


 終わっていくもの。

 戻っていくもの。

 言えなかった願い。

 帰れなかった歌。


 そういうものも全部、この夜には混ざっている。


「次で、近づく」


 歩きながら、すずが言った。


「何に」


「私のことに」


 そのひと言に、こはるは足を止めそうになった。

 でも止まらなかった。


 止まったら、何か大事なものがこぼれそうだったからだ。


「……それ、どういう意味」


「今までは、海と川と山と祭りの歌を拾ってきたでしょう」


「うん」


「次は、私がどうしてここにいるのかに近づく」


 こはるは何も言えなかった。


 知りたい……でも、知るのが怖い。


 両方が本当に同じ重さで胸の中にあった。


「まだ戻れるよ」


 すずが前を向いたまま言う。


「今なら」


「何から」


「最後から」


 こはるは少しだけ息を吸って、それから吐いた。


「戻らない」


 自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。


「……うん」


 すずはそれ以上何も言わなかった。


 でも、その横顔が少しだけ救われたみたいに見えた。


 「おか野」に戻ると、祖母は片づけを終えていた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は祭りの匂いだね」


 祖母がそう言うので、こはるは少しだけ笑う。


「昨日は山の匂いって言ってたよね」


「日によって違うよ」


「何それ」


「そういうもん」


 祖母はいつもの顔でそう返す。


 台所からは温かいごはんの匂いがしていた。


 味噌汁。

 焼き魚。

 炊きたてのごはん。


 祭りの夜の華やかさから戻ってくると、その匂いが妙に胸にしみた。


「おばあちゃん」


「ん?」


「祭りって、終わるからきれいなのかな」


 祖母は少しだけ手を止めた。


「そうかもしれないね」


「終わらなかったら」


「祭りじゃなくなるよ」


 その答えが、痛いほどしっくりきた。


 こはるは小さくうなずく。


 終わるからきれいだ。


 でも終わるから、ほどけなかった願いも残る。


 あわのうたは、そのための歌なのかもしれない。


 その夜、こはるはまた夢を見た。


 今度は、はっきりと舞殿が見えた。

 灯りが何十もともっている。


 風に揺れるぼんぼり。

 白い人影たち。

 その中心で歌う少女。


 やっぱり顔は見えない。


 でも、その声だけはもう分かる。


 すずだ。


 夢の中のすずが歌い終えると、遠くの大きな社から鈴の音が落ちてくる。


 1回、2回、3回と。


 そのたびに、海と川と山の音が、どこからともなく集まってくる。


 最後の音が鳴る直前で、こはるは目を覚ました。


 暗い部屋の中で、しばらく息ができなかった。


 耳の奥にはまだ、祭りの笛の音と、すずの歌が残っている。


 そして、その奥に、もっと大きな場所の気配があった。


 鶴岡八幡宮。


 まだ辿り着いていないのに、もう向こうから呼ばれているみたいだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ