5話「祭りの夜とほどける歌」
5日目の朝、こはるは蝉の声で目を覚ました。
昨日までの曇り空は抜けていて、窓の外には、いかにも夏らしい強い青が広がっている。
日差しはもう朝から白っぽくて、障子の向こうで揺れる庭木の影まで、今日はくっきりして見えた。
祭りの日だ、と目が覚めた瞬間に思った。
誰かに言われたわけではない。
けれど朝の空気そのものが、今日は何かがあると知っているみたいだった。
布団の中で少しだけ目を閉じると、耳の奥で、遠くの太鼓の音みたいなものがかすかにした。
夢の続きかもしれない。
それでも、こはるはそれを聞いた気がした。
「おか野」は朝から慌ただしかった。
祭りの日は、観光客も地元の人も増えるらしい。
冷たい甘味を求めて人が絶えず、店先には開店してすぐから客の列ができた。
「こはるちゃん、白玉追加」
「はい」
「そっちのお客さん、氷先ね」
「分かった」
祖母もいつもより少しだけ口数が多い。
店の中には、祭りの夜を待つような浮ついた空気があった。
浴衣姿の女の子たち。
夜の予定を話す家族連れ。
カメラを片手にした観光客。
昼間から、町のどこかがそわそわしている。
こはるは器を運びながら、ふと表の通りを見た。
小町通りにも、もう提灯が下がっていた。
昼間の光の中ではまだ白く見えるけれど、夜になればきっとあれが赤や金の灯りになるのだろう。
「今日は落ち着かない顔してるね」
昼過ぎ、ようやく客足が途切れたころ、祖母が麦茶を差し出しながら言った。
「そうかな」
「そうだよ」
「楽しみなときと、不安なときが半分ずつって顔」
図星だった。
こはるはコップを受け取り、冷たい麦茶をひと口飲んだ。
「祭りって、どこでやるの」
「八幡さまの方まで灯りが出るよ」
祖母は帳場の方を見ながら答える。
「この町は祭りのとき、昼より夜の方が古くなる」
「……またそういうこと言う」
「本当のことだもの」
さらりと返される。
「今日は人が多いから、余計に気をつけな」
「何を」
「人が多いところで、急に静かになったら」
祖母はそこで言葉を切って、こはるを見た。
「あんたなら、分かるだろう」
こはるは黙った。
境が降りることを、祖母は言っていない。
けれど、その輪郭はきっと知っている。
「……うん」
小さく答えると、祖母はそれ以上何も言わなかった。
夕方、神社の石段を上ると、すずはもう待っていた。
白い服の袖口に、今日は少しだけ木の葉がついている。
髪は相変わらず黒に近く、夕方の光が触れるところだけ柔らかく茶に見えた。
「今日はほんとに祭りなんだね」
こはるが言うと、すずはうなずく。
「町が浮いてる」
「浮いてるって表現するんだ」
「人がたくさん願う日だから」
「祭りって、そういうものなの」
「そういうものでもあるよ」
すずは社の前に置いてあった小さな鈴を指先で触れた。
かすかな音が鳴る。
「人は楽しい日に、無意識にたくさん結ぶから」
「何を」
「お願いとか、思い出とか、帰りたくない気持ちとか」
こはるは少しだけ笑った。
「最後のは分かるかも」
すずがこちらを見る。
「こはるも、今日が終わらなかったらいいと思う?」
「まだ始まってもないけど」
「でも思ってる顔」
「また顔で分かるってやつ?」
「うん」
何となく悔しくて、こはるは軽く睨んだ。
すると、すずはほんの少しだけ笑う。
最初の頃より、その笑い方がずっと自然になっている。
「今日はどこに行くの」
「人の多いところ」
「ざっくりしてるなあ」
「でも、そこじゃないと聞こえないものがあるから」
すずはそう言って歩き出した。
こはるもその後を追う。
祭りの夜へ向かう町は、昼間よりさらにきらびやかだった。
通りには灯りがともり始めていて、屋台の準備をする匂いが漂っている。
焼きそば。
りんご飴。
金魚すくいの水の匂い。
提灯の赤。
浴衣の色。
それに笑い声。
その全部が夏の中心みたいに濃かった。
こはるはその賑わいの中をすずと並んで歩いた。
不思議なことに、今夜のすずは昼間より少しだけ人の目に留まりやすい気がした。
すれ違う子どもがちらりと見上げたり、屋台の店主が一瞬だけ視線を向けたりする。
完全に景色に溶けきっているわけではない。
むしろ、祭りの夜の方が、すずみたいな存在を町が受け入れてしまっているように見えた。
「今日は、見える人が多いの」
こはるが小声で聞くと、すずはうなずいた。
「境が薄いから」
「祭りだから?」
「うん」
「それって良くないことなんじゃ」
「良いことでもあるし、危ないことでもある」
その答え方が、いかにもすずらしかった。
人の流れの先に、灯りの集まる場所が見える。
鶴岡八幡宮の方角だった。
まだ境内の中までは入っていない。
でも空気が違う。
町全体の人の気配が、あっちへ引かれているみたいに思えた。
「今日は八幡さまの近くまで行くの?」
こはるが尋ねると、すずは少しだけ黙った。
「近くまでは」
「中には入らないの」
「まだ」
その言い方に、こはるは何も言えなくなる。
まだ、なのだ。
いずれ行かなければならない場所として、そこが最初からあるみたいに。
境内へ続く道の手前で、すずが立ち止まった。
人は多い。
浴衣の子どもたち。
屋台の列。
写真を撮る観光客。
笑い声。
太鼓の音。
笛の音。
祭囃子が風の中に流れていた。
その中に、こはるは妙な音を聞いた。
最初は気のせいだと思った。
でも違う。
太鼓でも、笛でもない。
祭囃子の裏に、別の節が混じっている。
ごく短い。
でも耳に引っかかる。
「……すず」
「聞こえた?」
すずの横顔が強張る。
「今の、何」
「混ざってる」
「何が」
「あわのうたの断片」
ぞくりとした。
人がたくさんいる。
笑い声がある。
提灯が揺れている。
そんな真ん中で、あの歌が混ざっている。
「どういうこと」
「本当は祭囃子じゃないのに、誰かがずっとそこに乗せてる」
すずは人波の向こうを見る。
「人が多すぎて、隠れてた」
そのとき、笛の音がひとつ高く抜けた。
同時に、近くで綿あめを持っていた小さな男の子が、ぴたりと立ち止まる。
その母親らしい人は数歩先へ進んでしまっていて、まだ気づいていない。
男の子は笛の音のする方へ、ゆっくり顔を向けた。
「あれ」
こはるの喉が冷える。
男の子だけじゃない。
少し離れたところにいた若い女の人も、友人たちと話していたはずの高校生らしい2人も、同じ方を見ている。
祭囃子の中心へ。
何かに引かれるみたいに。
「まずい」
すずが走った。
こはるも反射的に続く。
人のあいだをすり抜ける。
浴衣の袖。
提灯の影。
焼きとうもろこしの匂い。
その全部の中で、笛の音だけが少しずつ変わっていく。
祭りの音じゃない。
もっと古くて、もっと細くて、骨に刺さるような節。
そして。
急に、音が消えた。
笑い声も。
太鼓も。
笛も。
屋台の呼び込みも。
あれだけいたはずの人が、どこにも見当たらない。
灯りだけが残っていた。
提灯の赤。
屋台の電球。
ぼんやりした夜の明るさ。
それだけを残して、世界から人の気配だけが抜け落ちている。
こはるは立ち止まった。
「……うそ」
「境が降りた」
すずの声は低かった。
「でも、いつもより深い」
目の前の参道は、さっきまで祭りの人波で埋まっていたはずなのに、今は誰もいない。
なのに、提灯は揺れている。
金魚すくいの水槽の水も、射的の景品も、そのまま残っている。
まるで人だけが、きれいに剥がれたみたいだった。
「さっきの人たち」
「まだいるよ」
すずは前を向いたまま言う。
「でも、こっちにはいない」
「それ、毎回さらっと言わないで」
こはるの声は少し震えていた。
そのとき。
参道の奥に、誰かが立っているのが見えた。
笛を持った影だった。
祭りの衣装のようにも見える。
でも輪郭が曖昧だ。
人の形をしているのに、人の気配がまるでない。
その後ろに、さらにいくつもの影が浮かんでいる。
踊っているようにも、揺れているようにも見えた。
「……あれ何」
「祭りに残ったもの」
すずが言う。
「帰れなかった歌」
「帰れなかった……?」
「祭りって、人が願いを空に放る日でもあるでしょう」
「うん」
「でも、放られたまま戻れなかったものもある」
笛の影が1歩前に出る。
ぞわり、と空気が震えた。
その瞬間、さっきまで動きを止めていた何人かが、今度はこの空の参道の中に現れた。
綿あめを持った男の子。
若い女の人。
高校生らしい2人。
みんな、目を閉じたまま、笛の音の方へ歩き出す。
「だめ!」
こはるが叫ぶ。
でもその声は届かない。
笛の影が、また音を鳴らしたからだ。
甲高くもないのに、耳の奥へ直接入り込む音だった。
そしてこはるは見た。
その音を聞いた人たちの胸元から、細い光みたいなものがするりと抜けるのを。
白でも金でもない、淡い何か。
言葉になる前の願いみたいな光だった。
「……取ってる」
こはるがつぶやく。
すずがうなずく。
「祭りの夜に浮いた願いを、集めてる」
「何のために」
「歌を続けるため」
その答えが、ひどく嫌だった。
人の願いを勝手に抜き取って、歌の燃料みたいにしている。
それが祭りの影に混ざっている。
「止めないと」
「うん」
「どうするの」
すずは笛の影を見つめる。
「本当の祭りの音に戻す」
「それができるの?」
「やるしかない」
すずは前へ出た。
白い袖が提灯の赤を受けて、少しだけ朱に染まる。
あまりにもきれいで、こはるは一瞬だけ息をのんだ。
でも次の瞬間、その横顔が前よりずっと白いことに気づく。
「すず」
「大丈夫」
「今それ言うの禁止」
すずはほんの少しだけ目を伏せた。
「……まだ、立てる」
「それも信用ならない」
「でも、やる」
その言い方に、こはるは何も返せなくなる。
すずは歌い始めた。
あわのうた。
海の時とも、川の時とも、山の時とも違う。
人の中で歌われるための、やわらかいのに芯のある節。
提灯の灯りがかすかに揺れる。
笛の影が止まる。
でも、それだけだった。
次の瞬間、影の後ろにいたいくつもの揺らぎが、一斉にこちらを向く。
祭りの夜にほどけた、帰れなかった願いたち。
泣き声みたいなものが一度に押し寄せた。
「帰りたい」
「終わりたくない」
「まだ言ってない」
「まだ会いたい」
言葉になりきらない声が、参道いっぱいに溢れる。
こはるの膝が震えた。
こんなにたくさんあるのか、と一瞬だけ思う。
祭りの夜に浮かんだだけの、軽い願いじゃない。
どれも、人が本当に胸の奥で思ってしまったことだ。
終わってほしくない。
帰りたくない。
もう少しだけ。
その気持ちが、歌の形になれず溜まっていた。
笛の影は、それを集めていただけなのだ。
「……すず」
すずの歌が少し揺らぐ。
まずい……こはるはすぐに分かった。
さっきまで立っていたすずの足元が、わずかにふらついている。
「これ、数が多すぎる」
こはるが言うと、すずは歌のあいまに小さく答える。
「うん」
「なのにやるの」
「今じゃないと、祭りの音ごと持っていかれる」
笛の影が1歩近づく。
綿あめの男の子の胸元から、また淡い光が抜けかける。
若い女の人の唇が、何かを言いかけた形のまま止まっている。
高校生2人のうち1人は、泣いていた。
でも涙が落ちない。
時間ごと引き留められているみたいだった。
こはるの胸の奥に、熱いものが込み上げる。
……怖い。
でも、それより嫌だった。
こんなふうに、終わらない気持ちだけが夜に食われていくのが。
そのとき。
遠くで、本当の太鼓の音がした。
境の向こうだ。
人のいる祭りの方から、確かに届く音。
どん、どん、と腹に響く。
それが合図みたいに、こはるの耳の奥で別の旋律がはっきり立ち上がった。
祭囃子に混ざっていた、あわのうたの断片。
これは、ほどくための節じゃない。
返すための節だ、と分かった。
こはるは息を吸う。
「すず」
すずがこちらを見る。
「私もやる」
「うん」
止める気は最初からないみたいな返事だった。
こはるは思わず苦く笑いそうになる。
でも今はそんな場合じゃない。
こはるは歌った。
祭りの音に寄せるように。
太鼓の向こうから戻ってくる音を迎えにいくように。
あわのうたの断片を、自分の喉でつなぐ。
すずの歌と、こはるの歌が重なる。
参道の灯りが一斉に揺れた。
笛の影が止まる。
その後ろにいた願いたちが、ざわめきながら空気へ溶け始める。
帰りたかった声。
終わってほしくなかった声。
言えなかった声。
会いたかった声。
それらが全部、提灯の灯りの上へほどけて、夜空へ薄く昇っていく。
こはるはその中で、1つだけはっきりした声を聞いた。
「まだ一緒にいたかった」
胸が締めつけられる。
祭りの夜は、楽しいだけじゃない。
終わりが見えているから、誰もが少しだけ切ない。
それでも、終わるからこそ灯りはきれいなのだ。
歌いながら、こはるはそう思った。
笛の影の輪郭が崩れる。
その瞬間、こはるの目の前に別の景色が重なった。
ずっと昔の祭りの夜。
暗い境内。
舞殿の前。
白い装束の人影が何人も並んでいる。
その中心で、1人の少女が歌っている。
周囲にはたくさんの灯り。
でも少女の顔だけが、どうしても見えない。
ただ、その声だけが痛いほど懐かしい。
そして、景色のいちばん奥。
大きな社の方から、鈴の音がした。
鶴岡八幡宮だ、と何の説明もなく分かった。
次の瞬間、景色は切れた。
祭りの音が戻る。
太鼓。
笛。
人の笑い声。
屋台の呼び込み。
灯りと人。
全部がいっせいに世界へ流れ込んでくる。
境が解けたのだ。
綿あめの男の子は目をぱちぱちさせて母親の方へ走り出した。
若い女の人は、何かを思い出したみたいに胸元を押さえている。
高校生2人は顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
何もなかったように見える。
でも、きっと少しだけ違う。
抜かれかけた願いが、ちゃんと本人たちの中へ戻ったのだ。
こはるは大きく息をついた。
その瞬間、隣ですずの身体がぐらりと揺れた。
「すず!」
とっさに抱きとめる。
白い身体は、思った以上に軽かった。
「ちょっと、しっかりして」
「……いる」
「全然しっかりしてない」
すずの呼吸は浅い。
額に薄く汗が浮いていて、指先はやっぱり冷たい。
こはるはそのまま、人の流れから少し外れた石段の脇まで連れていった。
提灯の光がここまで届いて、赤く淡くすずの横顔を照らしている。
「また無理した」
「こはるもしたよ」
「私は歌えたからまだいいの」
「それ、私にだけ怒る理屈じゃない」
「今はそういう話じゃない」
こはるが言うと、すずは少しだけ笑った。
でもその笑い方も弱い。
「……見えた?」
すずが小さく聞く。
「何が」
「歌ってるとき」
こはるは黙った。
見えた。
昔の祭りの夜。
灯り。
舞殿。
白い人影たち。
そして……鶴岡八幡宮。
「見えた」
こはるが言うと、すずは静かに目を閉じた。
「やっぱり」
「やっぱりって何」
「祭りの断片は、あそこにつながってるから」
こはるの喉がわずかに詰まる。
「あそこって……八幡宮?」
すずはうなずく。
「最後に戻る場所」
「それって、今までの海も川も山も、全部?」
「うん」
提灯の赤い光が揺れる。
人の声はすぐ近くにあるのに、この石段の脇だけ少し静かだった。
「どうして最初から言わなかったの」
「言ったら、こはるは怖がると思った」
「今も十分怖いけど」
「うん」
すずは素直に言う。
「でも、もう見えたなら隠せない」
こはるはすずを見る。
白い服。
黒に近い髪。
祭りの灯りの中で、その存在だけがひどく、はかなく見えた。
「すず」
「なに」
「最後にあそこへ行ったら、何が起こるの」
すずはすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ視線を落としてから、静かに言う。
「あわのうたが戻る」
「それだけ?」
「……それだけじゃない」
その言い方で十分だった。
何かがある。
しかも、あまり良くない形で。
こはるの胸に、嫌な冷たさが落ちる。
「すず」
「うん」
「また、消えるとか言わないでよ」
思わず口にしていた。
すずの目がわずかに開く。
こはるは視線をそらさなかった。
「そういうの、まだ何も聞いてないけど」
「うん」
「でも、そういう顔してるときあるから」
すずはしばらく黙っていた。
祭りの音が遠くで鳴る。
太鼓の響きが、胸の奥まで届く。
やがて、すずがとても小さな声で言った。
「こはるは、ほんとによく見るね」
「見てるから」
「困る?」
「困るよ」
間を置かずに返す。
「何回も言わせないで」
すずはまばたきを1回して、それからほんの少しだけ笑った。
その笑い方はうれしそうなのに、少しだけ泣きそうにも見えた。
帰り道、祭りの灯りはまだ賑やかだった。
でもこはるの中では、さっきまでと少し違う音に聞こえる。
ただ楽しいだけの祭囃子じゃない。
終わっていくもの。
戻っていくもの。
言えなかった願い。
帰れなかった歌。
そういうものも全部、この夜には混ざっている。
「次で、近づく」
歩きながら、すずが言った。
「何に」
「私のことに」
そのひと言に、こはるは足を止めそうになった。
でも止まらなかった。
止まったら、何か大事なものがこぼれそうだったからだ。
「……それ、どういう意味」
「今までは、海と川と山と祭りの歌を拾ってきたでしょう」
「うん」
「次は、私がどうしてここにいるのかに近づく」
こはるは何も言えなかった。
知りたい……でも、知るのが怖い。
両方が本当に同じ重さで胸の中にあった。
「まだ戻れるよ」
すずが前を向いたまま言う。
「今なら」
「何から」
「最後から」
こはるは少しだけ息を吸って、それから吐いた。
「戻らない」
自分でも驚くくらい、声ははっきりしていた。
「……うん」
すずはそれ以上何も言わなかった。
でも、その横顔が少しだけ救われたみたいに見えた。
「おか野」に戻ると、祖母は片づけを終えていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は祭りの匂いだね」
祖母がそう言うので、こはるは少しだけ笑う。
「昨日は山の匂いって言ってたよね」
「日によって違うよ」
「何それ」
「そういうもん」
祖母はいつもの顔でそう返す。
台所からは温かいごはんの匂いがしていた。
味噌汁。
焼き魚。
炊きたてのごはん。
祭りの夜の華やかさから戻ってくると、その匂いが妙に胸にしみた。
「おばあちゃん」
「ん?」
「祭りって、終わるからきれいなのかな」
祖母は少しだけ手を止めた。
「そうかもしれないね」
「終わらなかったら」
「祭りじゃなくなるよ」
その答えが、痛いほどしっくりきた。
こはるは小さくうなずく。
終わるからきれいだ。
でも終わるから、ほどけなかった願いも残る。
あわのうたは、そのための歌なのかもしれない。
その夜、こはるはまた夢を見た。
今度は、はっきりと舞殿が見えた。
灯りが何十もともっている。
風に揺れるぼんぼり。
白い人影たち。
その中心で歌う少女。
やっぱり顔は見えない。
でも、その声だけはもう分かる。
すずだ。
夢の中のすずが歌い終えると、遠くの大きな社から鈴の音が落ちてくる。
1回、2回、3回と。
そのたびに、海と川と山の音が、どこからともなく集まってくる。
最後の音が鳴る直前で、こはるは目を覚ました。
暗い部屋の中で、しばらく息ができなかった。
耳の奥にはまだ、祭りの笛の音と、すずの歌が残っている。
そして、その奥に、もっと大きな場所の気配があった。
鶴岡八幡宮。
まだ辿り着いていないのに、もう向こうから呼ばれているみたいだった。




