4話「山の風と古い約束」
4日目の朝、鎌倉の空は少し曇っていた。
真っ青な夏空ではなく、薄い雲が光をやわらかく散らしている。
窓の外の木々は静かで、蝉の声もいつもより遠い。
あの強い日差しがひと息ついただけで、町の表情まで少し変わって見えた。
こはるは布団の中で目を開け、しばらく天井を見つめていた。
昨日の橋。
川に揺れた黒い澱み。
謝れなかった女の子の声。
そして、白い顔で「平気」と言ったすず。
思い出すたび、胸のどこかがざらつく。
あれは、ただ怖いとか不思議とかいうだけではなかった。
すずが、自分の削れ方に慣れすぎていることが、どうしても引っかかっていた。
慣れているから大丈夫、なんてことはない。
むしろ、その方がよくない気もした。
「起きてるかい」
祖母の声がして、こはるはようやく起き上がった。
「起きてる」
「今日は空が重いから、洗濯物は早めに出しとくれ」
「分かった」
返事をしながら、こはるは思う。
こういう何でもない朝の用事が、今は妙にありがたかった。
「おか野」の午前中は、曇り空でも変わらず忙しかった。
湿気のある日は、冷たい甘味がよく出る。
祖母の言う通り、昼前にはかき氷の注文が続き、こはるは器を運ぶたびに袖口をぬぐった。
「こはるちゃん、そっちのお客さんにおしぼり」
「はい」
動いている間は、考えずに済む。
でも、ふっと手が空くたびに、頭の奥へ別のことが戻ってくる。
すずは今日も来るのだろうか。
また何事もない顔で待っていて、何事もないみたいに「山へ行く」とか言うのだろうか。
昼過ぎ、客足が途切れたころ、祖母が冷たい麦茶を出してくれた。
「今日は曇ってるのに、顔が暑そうだね」
「そう?」
「考えごとしてるときの顔」
こはるは麦茶のコップを見つめた。
「おばあちゃんって、ほんと何でも分かるよね」
「何でもは分からないよ。分かりやすいことしか分からない」
「それで十分すごいんだけど」
祖母は小さく笑った。
「今日は山の気配が強いね」
こはるは顔を上げる。
「……また急に」
「川の次は山が来る。昔からそういう流れもある」
「どういう流れ?」
「上から下へ落ちるものもあれば、下から上へ返すものもあるってこと」
いつも通り、意味が分かりそうで分からない言い方だった。
「この町、ほんと何なの」
「鎌倉だよ」
「そういう意味じゃなくて」
「そういう意味でも、そうじゃない意味でも」
祖母は湯呑みを重ねながら言う。
「山は気をつけな。海や川より、古いものが残りやすい」
「古いもの」
「約束とか、怒りとか、そういうの」
こはるは黙った。
約束。
その言葉だけが、妙に胸に残った。
夕方、こはるが神社の石段を上ると、すずはもういた。
いつもの白い服。
黒に近い髪。
曇り空のせいで今日は茶色く透けず、深い色がそのまま静かに肩へ落ちている。
「今日も待ってたの?」
こはるが言うと、すずはこくりとうなずいた。
「うん」
「毎回そうやって当たり前みたいにいるの、ちょっとずるい」
「こはるが来るから」
すずは本当にそれだけの理由みたいな顔で言った。
こはるは返事に詰まり、少しだけ視線をそらす。
「……今日はどこ」
「山の方」
「やっぱり」
「分かってた?」
「何となく」
こはるはすずを見た。
「でも先に1つ聞いていい?」
「なに」
「昨日のこと」
すずのまつげがわずかに揺れる。
「平気じゃなかったでしょ?」
「平気だったよ」
「嘘」
間を置かずに返すと、すずは少しだけ黙った。
「平気って言うの、やめて」
こはるは思ったより低い声で言っていた。
「見れば分かるときあるし、分かんなくても良くないことくらい分かるから」
風が木の葉を鳴らす。
すずはしばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの少し目を伏せる。
「……分かった」
「ほんとに?」
「できるだけ」
「“できるだけ”って何」
「急には変えられないから」
その言い方があまりにも正直で、こはるは少しだけ息を抜いた。
「じゃあ、それでいい」
そう言うと、すずはかすかに笑った。
「こはるは、やっぱり変だね」
「それもう聞いた」
「でも、嫌じゃない」
まっすぐ言われて、こはるは一瞬だけ黙る。
曇り空の下なのに、耳のあたりだけ熱くなった気がした。
「……行くんでしょ」
「うん」
すずは歩き出す。
こはるはその隣に並んだ。
山の方へ向かう道は、海や川へ行くときよりずっと静かだった。
人通りのある道を少し外れるだけで、空気が変わる。
古い石垣、傾いた塀、苔のついた階段。
観光客の気配もまだあるにはあるけれど、それはもう遠い町のざわめきみたいに薄い。
「鎌倉って、ほんと急に静かになるね」
こはるが言うと、すずは前を向いたまま答えた。
「山が近いから」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ……古いものは、だいたい高い方に残るから」
「高い方?」
「見下ろせるところ」
やっぱり、すずの言うことは時々ひどく古めかしい。
坂を上りきると、細い山道が現れた。
両脇に木々が茂り、夕方の光が葉の隙間から薄く落ちている。
土の匂いが濃い。
足元には小さな石がごろごろしていた。
道の先に、古い社が見えた。
最初に出会った神社よりもさらに小さい。
屋根は少し傾き、前に立つ狛犬は片方の耳が欠けていた。
誰かがきちんと世話をしている感じはない。
けれど、打ち捨てられたとも違う、妙な静けさがある。
社の前には、細い注連縄が張られていた。
新しくはない。
でも切れていない。
「ここ」
すずが立ち止まる。
「約束が残ってる」
「またそういう言い方……」
言いかけて、こはるは口を閉じた。
社の前に、1人の男の子が立っていたからだ。
年は10歳くらいに見えた。
半袖短パンの、ごく普通の子どもだ。
けれど様子が変だった。
社を見上げたまま、ぴくりとも動かない。
まるで誰かに「そこから動くな」と言われたまま時間が止まってしまったみたいに、じっと立っている。
「何あれ」
「呼ばれてる」
すずの声は低かった。
「どこに」
「昔の約束に」
こはるは眉を寄せた。
男の子の足元には、赤いプラスチックの虫取りかごが転がっている。
夏休みのどこにでもいそうな子どもなのに、その後ろ姿だけが妙に古い景色に見えた。
「声かければいいんじゃないの」
「待って」
すずが言った、その直後だった。
道の下の方から聞こえていた話し声が消えた。
木の葉の揺れる音が急にはっきりする。
蝉の声も、風の音も、何もかもがひとつ奥の層へ下がったような静けさ。
「……また」
「うん」
すずは社の方を見たまま、小さく言う。
「境が降りた」
こはるは喉を鳴らした。
さっきまで遠くにいたはずの人の気配が、きれいに消えている。
残っているのは、山の匂いと、薄暗い夕方の色と、その男の子だけだった。
男の子が、ふっと口を開いた。
「まもるって、言ったのに」
ぞくりとした。
声が、子どものものじゃなかったからだ。
高いのに古い。幼いのに、ひどく擦り切れている。
「――え」
こはるが息をのむ。
「まもるって言ったのに」
もう1度、男の子の口が動く。
でもその声は、明らかに今のその子の声ではない。
すずが一歩前に出た。
「それはこの子の声じゃない」
静かな、でもはっきりした声だった。
「もう返して」
社の奥で、何かが鳴った。
鈴ではない。
もっと乾いた、木が裂けるような小さな音。
男の子の身体がびくりと震える。
そのまま、ぎこちなく1歩、社へ近づいた。
「やばいじゃん!」
こはるが駆け出そうとすると、すずが腕をつかんだ。
「まだだめ」
「まだって何、あのまま入ったら――」
「入るんじゃない。連れていかれる」
その言い方に、こはるの背中が冷えた。
「何に」
「約束を違えたものに」
社の前の空気が揺らぐ。
最初は影かと思った。
でも違う。
社の扉の前に、黒い輪郭が立っている。
人の形に近いのに、人とは言えない。
背が高く、腕だけが妙に長い。
頭のあたりは煙みたいに滲んでいて、目鼻は見えない。
ただ、その存在だけが分かる。
古くて、怒っているものだ。
こはるの脚が止まる。
「……何、あれ」
「守れなかった約束」
「意味分かんない」
「昔、この山で、誰かが何かを誓ったの」
すずは前を見たまま言う。
「きっと子どもを守るとか、帰すとか、そういうこと……でも果たされなかった、だから約束だけが残って似た声や似た年頃の子に触れる」
男の子がまた1歩、社へ近づく。
その横顔はもうぼんやりしていて、眠っているみたいだった。
「止めないと!」
「分かってる」
すずは袖を握りしめる。
「でもこれは強い。海や川よりずっと古い」
「じゃあどうするの」
「ほどかないと」
「どうやって」
「約束の形を見つける」
「そんなの、今から!?」
こはるの声が震える。
その瞬間、黒い影がこちらを向いた。
目はない。
なのに、見られたと分かった。
空気が急に重くなる。
肺に入る息が冷たくて重い。
足元の土さえ、少し沈んだような気がした。
すずが歌い始める。
あわのうた。
これまでより低く、ゆっくりした節。
山の空気に沿うような、沈まないための歌。
黒い影が揺れる。
男の子の足が一瞬だけ止まる。
でも次の瞬間、すずの声がぶつりと切れた。
「っ……」
身体が傾く。
「すず!」
こはるが支えると、すずはひどく冷たかった。顔色も真っ白に近い。
「まだ……足りない」
「またそれ! もうやめて!」
「だめ、ここで止めたら」
すずの声はかすれていた。
「この子が持っていかれる」
その言葉が、こはるを引き戻す。
男の子はもう社の目の前だ。
黒い影の腕みたいなものが、すうっとその肩へ伸びかけている。
そのとき、こはるの目に、社の足元に落ちているものが見えた。
古い、小さな木札だった。
泥に半分埋もれ、字はほとんど消えかけている。
こはるはすずを支えたまま、それを引き抜いた。
木は湿って脆く、触れただけで崩れそうだった。
でも、かろうじて2つだけ文字が残っている。
まもる
かえる
胸の奥で何かが鳴った。
「……帰す」
こはるがつぶやくと、すずがかすかに顔を上げた。
「すず、これ……」
木札を見せる。
すずの目が細くなる。
「そうか……」
「守るって、帰すってこと?」
「たぶん」
すずは苦しそうに息をしながら言う。
「昔、この山で、子どもを無事に下まで帰すって誓ったんだ、たぶん山の神に、だから帰れなかった子の約束だけがここに残った」
「じゃあ、あれは……」
「守れなかった誰かの“帰したい”が、怒りに変わってる」
男の子の肩に黒い影が触れかける。
こはるの身体が先に動いた。
「待って!」
叫びながら、男の子の方へ走る。
背後ですずが何か言った気がしたけれど、もう止まれなかった。
男の子の腕をつかんで、思いきり引く。
ひどく重い。
まるで水の中から引き上げるみたいだった。
黒い影が、すぐ目の前にある。
顔のないはずのその奥から、暗い怒りだけが押し寄せてきた。
怖い。
喉が潰れそうになるほど怖かった。
でも、そこで離したら終わると思った。
「帰るんでしょ!」
こはるは叫んだ。
「この子を帰したかったんでしょ!なら連れていくんじゃなくて帰してよ!」
言った瞬間、山の風が吹いた。
木々が大きく揺れる。
社の注連縄がきしんだ。
黒い影がわずかに揺らぐ。
そのとき、耳の奥に歌が来た。
今までで1番はっきりと。
夢の中ではなく、今ここで。
山の奥から、古い女たちや子どもたちが何重にも重なる声で、あわのうたの断片を押し寄せるみたいに。
こはるは息を吸った。
歌う。
迷う暇はなかった。
すずが歌った節の、その先。
山の風に沿って、下へ下へ流れるような旋律。
抱え込んだ怒りをほどいて、留めた足を下へ返すための節。
歌声は震えていた。
それでも、確かに社の前へ届いた。
黒い影が崩れる。
怒りの形だったものが、風に削られる土みたいに少しずつほどけていく。
その一瞬、こはるは見た。
昔の山道。
雨。
ぬかるみ。
若い男が幼い子を背負って走っている。
必死で「もう少しだ」と言っている。
でも足を滑らせる。
子どもの手が離れる。
叫び声。
そこで景色が途切れた。
「……っ」
胸がつぶれるみたいだった。
守れなかったのだ。
帰せなかったのだ。
黒い影は、怒っていたんじゃない。
ずっと、帰せなかったことに囚われていただけだった。
こはるの歌が最後の音を落とした瞬間、風が強く吹いた。
男の子の身体から力が抜ける。
こはるはそのまま抱きとめた。
同時に、町の気配が戻ってくる。
遠くの車の音。
蝉の声。
下の道を歩く人の話し声。
境が解けたのだ。
男の子は数回まばたきをして、きょとんとした顔で周囲を見た。
「……あれ?」
普通の、子どもの声だった。
「僕、何でここ……」
「転びそうだったから、ちょっとこっちに」
こはるはとっさにそう言って、虫取りかごを拾って渡した。
男の子は首をかしげながらも、礼を言って山道を下りていった。
その背中が見えなくなるまで確認してから、こはるはようやく息をついた。
そして、すぐに振り返る。
「すず!」
すずは社の前に座り込んでいた。
白い服が土に触れているのも気にしていない。
呼吸は浅く、肩が小さく上下していた。
「大丈夫じゃないじゃん!」
こはるは駆け寄って、膝をつく。
「だから言ったのに」
「……止まったら、間に合わなかったから」
「それでも!」
声が強くなる。
「毎回毎回、自分が削れるの前提でやるのやめてよ!」
すずは驚いたみたいにこはるを見た。
深い色の目が、静かに揺れる。
「仕方な――」
「その言い方が嫌だって言ってるの!」
山の空気の中で、こはるの声だけが妙に熱かった。
「仕方ないとか、平気とか、そういうふうに言われると余計むかつく!だって全然平気じゃないし、見れば分かるし、私がいるのに何で1人で終わらせる前提なの」
言いながら、こはるは自分の喉が震えているのに気づいた。
怒っている。確かに怒っている。
でもその奥には、別のものも混じっていた。
怖かったのだ。
すずが本当に、そのまま壊れてしまうかもしれないと思った。
「……私がいなくなったら困るの?」
すずが小さく言う。
その声音が、あまりにも静かで、あまりにも無防備だった。
こはるは言葉に詰まった。
でも、詰まったままにしたくなかった。
「困るよ」
はっきり言う。
「すごく困る」
曇った夕方の光が、木々のあいだで揺れていた。
すずの睫毛がわずかに震える。
「名前つけたの、私なんだから」
こはるは続けた。
「勝手に消えられたら困る、すずはそういうの、もうちょっとちゃんと分かって」
しばらく、すずは何も言わなかった。
やがて、目を伏せる。
「……分からなかった」
「え」
「そんなふうに言われるの、初めてだから」
その一言が、こはるの怒りを少しだけ別のものに変えた。
すずは本当に知らないのだ。
誰かに「いなくなったら困る」と言われることも、自分が無理をしたときに怒られることも、たぶんずっと知らなかった。
「じゃあ今、覚えて」
こはるは言う。
「私は困るから」
すずは顔を上げる。
その目の奥に、今まで見たことのない揺らぎがあった。
戸惑いと、痛みと、少しだけ救われたみたいな色が混ざっている。
「……うん」
小さく、でも確かにうなずいた。
*
社の前に少しだけ水を撒き、崩れかけた木札を石の上へ戻す。
こはるは山道の脇に落ちていた細い枝で、土の上に小さく矢印を描いた。
下へ向かう印だ。
「何してるの」
すずが聞く。
「帰る方、こっちだよって」
「……そんなので分かるかな」
「分かんなくても、何もしないよりいい」
するとすずは、ほんの少しだけ笑った。
「こはるらしいね」
「どういう意味」
「強引」
「悪かったね」
「悪くないよ」
その言い方が穏やかで、こはるは少しだけ肩の力を抜いた。
「今日は帰ろう」
すずが立ち上がる。
まだ少し危なっかしい。
こはるは何も言わず、その腕を取った。
「こはる」
「何」
「子ども扱いしてる」
「いいから」
「……うん」
素直にされると、それはそれで調子が狂う。
2人で山道を下りる。
木々の隙間から見える町には、もう灯りがつき始めていた。
遠くに人の気配が戻っている。
現実は変わらずそこにあるのに、さっきまでの時間だけが別の場所に沈んだみたいだった。
「ねえ」
こはるが歩きながら言う。
「山の約束って、海や川よりずっと痛かった」
「うん」
「何で」
「古いものは、長く残るから」
すずは夕暮れの方を見たまま続ける。
「それに山の神さまは、人より“誓ったこと”を重く見ることがある」
「破ったら終わり、みたいな?」
「終わりじゃなくて、残る」
その答えが、この町そのものみたいだとこはるは思った。
終わらない。
残ってしまう。
だから、いまの誰かがそれに触れてしまう。
「……あわのうたって、そういう“残ったもの”を返してるのかな」
こはるの問いに、すずは少しだけ考えた。
「返すだけじゃない」
「じゃあ何」
「結び直す」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
町へ戻るころには、雲の切れ間から少しだけ夕焼けが見えていた。
小町通りの灯りが1つずつ濃くなる。
昼の賑やかさとは違う、夜へ向かう町の顔だ。
浴衣姿の観光客が写真を撮り、店先には明かりがともり、風鈴だけがまだ夏のまま鳴っている。
「また明日?」
こはるが聞くと、すずはこくりとうなずいた。
「たぶん」
「また“たぶん”」
「でも次は、人が多い場所になると思う」
「人が多い?」
「たくさん灯りが出るところ」
こはるは眉を寄せる。
「祭り?」
「うん」
すずは少しだけ、遠くを見るような目をした。
「歌が、そろそろ人の中でも鳴るから」
その言い方に、こはるの胸が少しだけ高鳴る。
祭り。
灯り。
人の多い夜。
この数日、海や川や山で見てきたものとは、また違う何かが待っているのだと分かった。
「すず」
「なに」
「今度、無理しそうになったら先に言って」
「……善処する」
「もっとちゃんと」
すずはほんの少し考えてから、静かに言った。
「言うようにする」
「うん」
「こはるが怒るから」
「そうだよ」
するとすずは、小さく笑った。
その笑い方は、最初に会った頃よりずっとやわらかくなっていた。
「おか野」に戻ると、祖母は店じまいを終えたところだった。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は山の匂いだね」
そのひと言に、こはるはもう驚かなかった。
「……おばあちゃん、ほんと何なの」
「甘味処のおばあちゃんだよ」
「絶対それだけじゃない」
「それだけで十分でしょう」
祖母はそう言って、食卓の方を指す。
「ごはんできてるよ」
台所から湯気の匂いがした。
煮魚と味噌汁と、炊きたてのごはんの匂い。
何でもない夜のはずなのに、今日はそれがやけに胸にしみた。
席に着く前、こはるはふと思って聞いた。
「おばあちゃん。約束って、破ると残るのかな」
祖母は少しだけ手を止めた。
「残るものもあるね」
「そういうものって、どうしたらいいの」
「忘れないことだよ」
祖母はそれだけ言った。
「忘れたままにすると、残り方が悪くなる」
こはるは返事をしなかった。
でも、その言葉はどこかで聞いたあわのうたみたいに、静かに残った。
夜、布団に入ると、耳の奥で風の音がした。
海の波とも、川の流れとも違う。
木々を渡る、山の風の音だ。
その中に、かすかに歌が混じる。
昨日までより近い。
そして少しだけ、明るい。
こはるは目を閉じたまま、山道の社と、黒い影がほどけた瞬間を思い出していた。
守れなかった約束。
帰せなかった子ども。
残ってしまった怒り。
でも最後に残ったのは、怒りそのものじゃなかった。
帰したい、という願いだった。
あわのうたは、それを結び直す歌なのかもしれない。
そう思ったとき、ふと別のことが胸をよぎった。
すずは、何を結び直そうとしているのだろう。
海の名前。
川の声。
山の約束。
それらを集めて、最後にどこへ行こうとしているのか。
まだ答えはない。
でも、祭りの夜が近づいている気がした。
その夜、眠りに落ちる直前、こはるは確かに聞いた。
遠くで、たくさんの灯りが揺れる音を。




