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あわのうた  作者: ナオ
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4/8

4話「山の風と古い約束」

 4日目の朝、鎌倉の空は少し曇っていた。


 真っ青な夏空ではなく、薄い雲が光をやわらかく散らしている。

 窓の外の木々は静かで、蝉の声もいつもより遠い。

 あの強い日差しがひと息ついただけで、町の表情まで少し変わって見えた。


 こはるは布団の中で目を開け、しばらく天井を見つめていた。


 昨日の橋。

 川に揺れた黒い澱み。

 謝れなかった女の子の声。

 そして、白い顔で「平気」と言ったすず。


 思い出すたび、胸のどこかがざらつく。

 あれは、ただ怖いとか不思議とかいうだけではなかった。

 すずが、自分の削れ方に慣れすぎていることが、どうしても引っかかっていた。


 慣れているから大丈夫、なんてことはない。

 むしろ、その方がよくない気もした。


「起きてるかい」


 祖母の声がして、こはるはようやく起き上がった。


「起きてる」


「今日は空が重いから、洗濯物は早めに出しとくれ」


「分かった」


 返事をしながら、こはるは思う。

 こういう何でもない朝の用事が、今は妙にありがたかった。


 「おか野」の午前中は、曇り空でも変わらず忙しかった。


 湿気のある日は、冷たい甘味がよく出る。

 

 祖母の言う通り、昼前にはかき氷の注文が続き、こはるは器を運ぶたびに袖口をぬぐった。


「こはるちゃん、そっちのお客さんにおしぼり」


「はい」


 動いている間は、考えずに済む。

 でも、ふっと手が空くたびに、頭の奥へ別のことが戻ってくる。


 すずは今日も来るのだろうか。

 

 また何事もない顔で待っていて、何事もないみたいに「山へ行く」とか言うのだろうか。


 昼過ぎ、客足が途切れたころ、祖母が冷たい麦茶を出してくれた。


「今日は曇ってるのに、顔が暑そうだね」


「そう?」


「考えごとしてるときの顔」


 こはるは麦茶のコップを見つめた。


「おばあちゃんって、ほんと何でも分かるよね」


「何でもは分からないよ。分かりやすいことしか分からない」


「それで十分すごいんだけど」


 祖母は小さく笑った。


「今日は山の気配が強いね」


 こはるは顔を上げる。


「……また急に」


「川の次は山が来る。昔からそういう流れもある」


「どういう流れ?」


「上から下へ落ちるものもあれば、下から上へ返すものもあるってこと」


 いつも通り、意味が分かりそうで分からない言い方だった。


「この町、ほんと何なの」


「鎌倉だよ」


「そういう意味じゃなくて」


「そういう意味でも、そうじゃない意味でも」


 祖母は湯呑みを重ねながら言う。


「山は気をつけな。海や川より、古いものが残りやすい」


「古いもの」


「約束とか、怒りとか、そういうの」


 こはるは黙った。


 約束。

 その言葉だけが、妙に胸に残った。


 夕方、こはるが神社の石段を上ると、すずはもういた。


 いつもの白い服。

 黒に近い髪。

 曇り空のせいで今日は茶色く透けず、深い色がそのまま静かに肩へ落ちている。


「今日も待ってたの?」


 こはるが言うと、すずはこくりとうなずいた。


「うん」


「毎回そうやって当たり前みたいにいるの、ちょっとずるい」


「こはるが来るから」


 すずは本当にそれだけの理由みたいな顔で言った。


 こはるは返事に詰まり、少しだけ視線をそらす。


「……今日はどこ」


「山の方」


「やっぱり」


「分かってた?」


「何となく」


 こはるはすずを見た。


「でも先に1つ聞いていい?」


「なに」


「昨日のこと」


 すずのまつげがわずかに揺れる。


「平気じゃなかったでしょ?」


「平気だったよ」


「嘘」


 間を置かずに返すと、すずは少しだけ黙った。


「平気って言うの、やめて」


 こはるは思ったより低い声で言っていた。


「見れば分かるときあるし、分かんなくても良くないことくらい分かるから」


 風が木の葉を鳴らす。


 すずはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ほんの少し目を伏せる。


「……分かった」


「ほんとに?」


「できるだけ」


「“できるだけ”って何」


「急には変えられないから」


 その言い方があまりにも正直で、こはるは少しだけ息を抜いた。


「じゃあ、それでいい」


 そう言うと、すずはかすかに笑った。


「こはるは、やっぱり変だね」


「それもう聞いた」


「でも、嫌じゃない」


 まっすぐ言われて、こはるは一瞬だけ黙る。

 曇り空の下なのに、耳のあたりだけ熱くなった気がした。


「……行くんでしょ」


「うん」


 すずは歩き出す。

 こはるはその隣に並んだ。


 山の方へ向かう道は、海や川へ行くときよりずっと静かだった。


 人通りのある道を少し外れるだけで、空気が変わる。

 古い石垣、傾いた塀、苔のついた階段。


 観光客の気配もまだあるにはあるけれど、それはもう遠い町のざわめきみたいに薄い。


「鎌倉って、ほんと急に静かになるね」


 こはるが言うと、すずは前を向いたまま答えた。


「山が近いから」


「それだけ?」


「それだけじゃないよ……古いものは、だいたい高い方に残るから」


「高い方?」


「見下ろせるところ」


 やっぱり、すずの言うことは時々ひどく古めかしい。


 坂を上りきると、細い山道が現れた。

 両脇に木々が茂り、夕方の光が葉の隙間から薄く落ちている。

 土の匂いが濃い。

 足元には小さな石がごろごろしていた。


 道の先に、古い社が見えた。


 最初に出会った神社よりもさらに小さい。

 屋根は少し傾き、前に立つ狛犬は片方の耳が欠けていた。

 誰かがきちんと世話をしている感じはない。

 けれど、打ち捨てられたとも違う、妙な静けさがある。


 社の前には、細い注連縄が張られていた。

 新しくはない。

 でも切れていない。


「ここ」


 すずが立ち止まる。


「約束が残ってる」


「またそういう言い方……」


 言いかけて、こはるは口を閉じた。


 社の前に、1人の男の子が立っていたからだ。


 年は10歳くらいに見えた。

 半袖短パンの、ごく普通の子どもだ。

 けれど様子が変だった。

 社を見上げたまま、ぴくりとも動かない。

 まるで誰かに「そこから動くな」と言われたまま時間が止まってしまったみたいに、じっと立っている。


「何あれ」


「呼ばれてる」


 すずの声は低かった。


「どこに」


「昔の約束に」


 こはるは眉を寄せた。


 男の子の足元には、赤いプラスチックの虫取りかごが転がっている。

 夏休みのどこにでもいそうな子どもなのに、その後ろ姿だけが妙に古い景色に見えた。


「声かければいいんじゃないの」


「待って」


 すずが言った、その直後だった。


 道の下の方から聞こえていた話し声が消えた。

 木の葉の揺れる音が急にはっきりする。

 蝉の声も、風の音も、何もかもがひとつ奥の層へ下がったような静けさ。


「……また」


「うん」


 すずは社の方を見たまま、小さく言う。


「境が降りた」


 こはるは喉を鳴らした。


 さっきまで遠くにいたはずの人の気配が、きれいに消えている。

 残っているのは、山の匂いと、薄暗い夕方の色と、その男の子だけだった。


 男の子が、ふっと口を開いた。


「まもるって、言ったのに」


 ぞくりとした。


 声が、子どものものじゃなかったからだ。


 高いのに古い。幼いのに、ひどく擦り切れている。


「――え」


 こはるが息をのむ。


「まもるって言ったのに」


 もう1度、男の子の口が動く。

 でもその声は、明らかに今のその子の声ではない。


 すずが一歩前に出た。


「それはこの子の声じゃない」


 静かな、でもはっきりした声だった。


「もう返して」


 社の奥で、何かが鳴った。


 鈴ではない。

 もっと乾いた、木が裂けるような小さな音。


 男の子の身体がびくりと震える。

 そのまま、ぎこちなく1歩、社へ近づいた。


「やばいじゃん!」


 こはるが駆け出そうとすると、すずが腕をつかんだ。


「まだだめ」


「まだって何、あのまま入ったら――」


「入るんじゃない。連れていかれる」


 その言い方に、こはるの背中が冷えた。


「何に」


「約束を違えたものに」


 社の前の空気が揺らぐ。


 最初は影かと思った。

 でも違う。

 社の扉の前に、黒い輪郭が立っている。

 人の形に近いのに、人とは言えない。

 背が高く、腕だけが妙に長い。

 頭のあたりは煙みたいに滲んでいて、目鼻は見えない。


 ただ、その存在だけが分かる。


 古くて、怒っているものだ。


 こはるの脚が止まる。


「……何、あれ」


「守れなかった約束」


「意味分かんない」


「昔、この山で、誰かが何かを誓ったの」


 すずは前を見たまま言う。


「きっと子どもを守るとか、帰すとか、そういうこと……でも果たされなかった、だから約束だけが残って似た声や似た年頃の子に触れる」


 男の子がまた1歩、社へ近づく。


 その横顔はもうぼんやりしていて、眠っているみたいだった。


「止めないと!」


「分かってる」


 すずは袖を握りしめる。


「でもこれは強い。海や川よりずっと古い」


「じゃあどうするの」


「ほどかないと」


「どうやって」


「約束の形を見つける」


「そんなの、今から!?」


 こはるの声が震える。


 その瞬間、黒い影がこちらを向いた。


 目はない。

 なのに、見られたと分かった。


 空気が急に重くなる。

 肺に入る息が冷たくて重い。

 足元の土さえ、少し沈んだような気がした。


 すずが歌い始める。


 あわのうた。

 これまでより低く、ゆっくりした節。

 山の空気に沿うような、沈まないための歌。


 黒い影が揺れる。

 男の子の足が一瞬だけ止まる。


 でも次の瞬間、すずの声がぶつりと切れた。


「っ……」


 身体が傾く。


「すず!」


 こはるが支えると、すずはひどく冷たかった。顔色も真っ白に近い。


「まだ……足りない」


「またそれ! もうやめて!」


「だめ、ここで止めたら」


 すずの声はかすれていた。


「この子が持っていかれる」


 その言葉が、こはるを引き戻す。


 男の子はもう社の目の前だ。

 黒い影の腕みたいなものが、すうっとその肩へ伸びかけている。


 そのとき、こはるの目に、社の足元に落ちているものが見えた。


 古い、小さな木札だった。

 泥に半分埋もれ、字はほとんど消えかけている。


 こはるはすずを支えたまま、それを引き抜いた。


 木は湿って脆く、触れただけで崩れそうだった。

 でも、かろうじて2つだけ文字が残っている。


 まもる

 かえる


 胸の奥で何かが鳴った。


「……帰す」


 こはるがつぶやくと、すずがかすかに顔を上げた。


「すず、これ……」


 木札を見せる。

 すずの目が細くなる。


「そうか……」


「守るって、帰すってこと?」


「たぶん」


 すずは苦しそうに息をしながら言う。


「昔、この山で、子どもを無事に下まで帰すって誓ったんだ、たぶん山の神に、だから帰れなかった子の約束だけがここに残った」


「じゃあ、あれは……」


「守れなかった誰かの“帰したい”が、怒りに変わってる」


 男の子の肩に黒い影が触れかける。


 こはるの身体が先に動いた。


「待って!」


 叫びながら、男の子の方へ走る。

 背後ですずが何か言った気がしたけれど、もう止まれなかった。


 男の子の腕をつかんで、思いきり引く。


 ひどく重い。

 まるで水の中から引き上げるみたいだった。


 黒い影が、すぐ目の前にある。

 顔のないはずのその奥から、暗い怒りだけが押し寄せてきた。


 怖い。

 喉が潰れそうになるほど怖かった。


 でも、そこで離したら終わると思った。


「帰るんでしょ!」


 こはるは叫んだ。


「この子を帰したかったんでしょ!なら連れていくんじゃなくて帰してよ!」


 言った瞬間、山の風が吹いた。


 木々が大きく揺れる。

 社の注連縄がきしんだ。


 黒い影がわずかに揺らぐ。


 そのとき、耳の奥に歌が来た。


 今までで1番はっきりと。

 夢の中ではなく、今ここで。

 山の奥から、古い女たちや子どもたちが何重にも重なる声で、あわのうたの断片を押し寄せるみたいに。


 こはるは息を吸った。


 歌う。

 迷う暇はなかった。


 すずが歌った節の、その先。

 山の風に沿って、下へ下へ流れるような旋律。

 抱え込んだ怒りをほどいて、留めた足を下へ返すための節。


 歌声は震えていた。

 それでも、確かに社の前へ届いた。


 黒い影が崩れる。


 怒りの形だったものが、風に削られる土みたいに少しずつほどけていく。

 その一瞬、こはるは見た。


 昔の山道。

 雨。

 ぬかるみ。

 若い男が幼い子を背負って走っている。

 必死で「もう少しだ」と言っている。

 でも足を滑らせる。

 子どもの手が離れる。

 叫び声。

 そこで景色が途切れた。


「……っ」


 胸がつぶれるみたいだった。


 守れなかったのだ。

 帰せなかったのだ。


 黒い影は、怒っていたんじゃない。

 ずっと、帰せなかったことに囚われていただけだった。


 こはるの歌が最後の音を落とした瞬間、風が強く吹いた。


 男の子の身体から力が抜ける。

 こはるはそのまま抱きとめた。


 同時に、町の気配が戻ってくる。


 遠くの車の音。

 蝉の声。

 下の道を歩く人の話し声。


 境が解けたのだ。


 男の子は数回まばたきをして、きょとんとした顔で周囲を見た。


「……あれ?」


 普通の、子どもの声だった。


「僕、何でここ……」


「転びそうだったから、ちょっとこっちに」


 こはるはとっさにそう言って、虫取りかごを拾って渡した。

 男の子は首をかしげながらも、礼を言って山道を下りていった。


 その背中が見えなくなるまで確認してから、こはるはようやく息をついた。


 そして、すぐに振り返る。


「すず!」


 すずは社の前に座り込んでいた。

 白い服が土に触れているのも気にしていない。

 呼吸は浅く、肩が小さく上下していた。


「大丈夫じゃないじゃん!」


 こはるは駆け寄って、膝をつく。


「だから言ったのに」


「……止まったら、間に合わなかったから」


「それでも!」


 声が強くなる。


「毎回毎回、自分が削れるの前提でやるのやめてよ!」


 すずは驚いたみたいにこはるを見た。

 深い色の目が、静かに揺れる。


「仕方な――」


「その言い方が嫌だって言ってるの!」


 山の空気の中で、こはるの声だけが妙に熱かった。


「仕方ないとか、平気とか、そういうふうに言われると余計むかつく!だって全然平気じゃないし、見れば分かるし、私がいるのに何で1人で終わらせる前提なの」


 言いながら、こはるは自分の喉が震えているのに気づいた。

 怒っている。確かに怒っている。

 でもその奥には、別のものも混じっていた。


 怖かったのだ。

 すずが本当に、そのまま壊れてしまうかもしれないと思った。


「……私がいなくなったら困るの?」


 すずが小さく言う。


 その声音が、あまりにも静かで、あまりにも無防備だった。


 こはるは言葉に詰まった。

 でも、詰まったままにしたくなかった。


「困るよ」


 はっきり言う。


「すごく困る」


 曇った夕方の光が、木々のあいだで揺れていた。

 すずの睫毛がわずかに震える。


「名前つけたの、私なんだから」


 こはるは続けた。


「勝手に消えられたら困る、すずはそういうの、もうちょっとちゃんと分かって」


 しばらく、すずは何も言わなかった。


 やがて、目を伏せる。


「……分からなかった」


「え」


「そんなふうに言われるの、初めてだから」


 その一言が、こはるの怒りを少しだけ別のものに変えた。


 すずは本当に知らないのだ。

 誰かに「いなくなったら困る」と言われることも、自分が無理をしたときに怒られることも、たぶんずっと知らなかった。


「じゃあ今、覚えて」


 こはるは言う。


「私は困るから」


 すずは顔を上げる。

 その目の奥に、今まで見たことのない揺らぎがあった。

 戸惑いと、痛みと、少しだけ救われたみたいな色が混ざっている。


「……うん」


 小さく、でも確かにうなずいた。


     *


 社の前に少しだけ水を撒き、崩れかけた木札を石の上へ戻す。


 こはるは山道の脇に落ちていた細い枝で、土の上に小さく矢印を描いた。

 下へ向かう印だ。


「何してるの」


 すずが聞く。


「帰る方、こっちだよって」


「……そんなので分かるかな」


「分かんなくても、何もしないよりいい」


 するとすずは、ほんの少しだけ笑った。


「こはるらしいね」


「どういう意味」


「強引」


「悪かったね」


「悪くないよ」


 その言い方が穏やかで、こはるは少しだけ肩の力を抜いた。


「今日は帰ろう」


 すずが立ち上がる。

 まだ少し危なっかしい。

 こはるは何も言わず、その腕を取った。


「こはる」


「何」


「子ども扱いしてる」


「いいから」


「……うん」


 素直にされると、それはそれで調子が狂う。


 2人で山道を下りる。

 木々の隙間から見える町には、もう灯りがつき始めていた。

 遠くに人の気配が戻っている。

 現実は変わらずそこにあるのに、さっきまでの時間だけが別の場所に沈んだみたいだった。


「ねえ」


 こはるが歩きながら言う。


「山の約束って、海や川よりずっと痛かった」


「うん」


「何で」


「古いものは、長く残るから」


 すずは夕暮れの方を見たまま続ける。


「それに山の神さまは、人より“誓ったこと”を重く見ることがある」


「破ったら終わり、みたいな?」


「終わりじゃなくて、残る」


 その答えが、この町そのものみたいだとこはるは思った。


 終わらない。

 残ってしまう。

 だから、いまの誰かがそれに触れてしまう。


「……あわのうたって、そういう“残ったもの”を返してるのかな」


 こはるの問いに、すずは少しだけ考えた。


「返すだけじゃない」


「じゃあ何」


「結び直す」


 その言葉が、静かに胸へ落ちた。




 町へ戻るころには、雲の切れ間から少しだけ夕焼けが見えていた。


 小町通りの灯りが1つずつ濃くなる。

 昼の賑やかさとは違う、夜へ向かう町の顔だ。

 浴衣姿の観光客が写真を撮り、店先には明かりがともり、風鈴だけがまだ夏のまま鳴っている。


「また明日?」


 こはるが聞くと、すずはこくりとうなずいた。


「たぶん」


「また“たぶん”」


「でも次は、人が多い場所になると思う」


「人が多い?」


「たくさん灯りが出るところ」


 こはるは眉を寄せる。


「祭り?」


「うん」


 すずは少しだけ、遠くを見るような目をした。


「歌が、そろそろ人の中でも鳴るから」


 その言い方に、こはるの胸が少しだけ高鳴る。


 祭り。

 灯り。

 人の多い夜。


 この数日、海や川や山で見てきたものとは、また違う何かが待っているのだと分かった。


「すず」


「なに」


「今度、無理しそうになったら先に言って」


「……善処する」


「もっとちゃんと」


 すずはほんの少し考えてから、静かに言った。


「言うようにする」


「うん」


「こはるが怒るから」


「そうだよ」


 するとすずは、小さく笑った。


 その笑い方は、最初に会った頃よりずっとやわらかくなっていた。


 「おか野」に戻ると、祖母は店じまいを終えたところだった。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は山の匂いだね」


 そのひと言に、こはるはもう驚かなかった。


「……おばあちゃん、ほんと何なの」


「甘味処のおばあちゃんだよ」


「絶対それだけじゃない」


「それだけで十分でしょう」


 祖母はそう言って、食卓の方を指す。


「ごはんできてるよ」


 台所から湯気の匂いがした。

 煮魚と味噌汁と、炊きたてのごはんの匂い。

 何でもない夜のはずなのに、今日はそれがやけに胸にしみた。


 席に着く前、こはるはふと思って聞いた。


「おばあちゃん。約束って、破ると残るのかな」


 祖母は少しだけ手を止めた。


「残るものもあるね」


「そういうものって、どうしたらいいの」


「忘れないことだよ」


 祖母はそれだけ言った。


「忘れたままにすると、残り方が悪くなる」


 こはるは返事をしなかった。

 でも、その言葉はどこかで聞いたあわのうたみたいに、静かに残った。


 夜、布団に入ると、耳の奥で風の音がした。


 海の波とも、川の流れとも違う。

 木々を渡る、山の風の音だ。


 その中に、かすかに歌が混じる。


 昨日までより近い。

 そして少しだけ、明るい。


 こはるは目を閉じたまま、山道の社と、黒い影がほどけた瞬間を思い出していた。

 守れなかった約束。

 帰せなかった子ども。

 残ってしまった怒り。


 でも最後に残ったのは、怒りそのものじゃなかった。

 帰したい、という願いだった。


 あわのうたは、それを結び直す歌なのかもしれない。


 そう思ったとき、ふと別のことが胸をよぎった。


 すずは、何を結び直そうとしているのだろう。


 海の名前。

 川の声。

 山の約束。


 それらを集めて、最後にどこへ行こうとしているのか。


 まだ答えはない。

 でも、祭りの夜が近づいている気がした。


 その夜、眠りに落ちる直前、こはるは確かに聞いた。


 遠くで、たくさんの灯りが揺れる音を。

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