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あわのうた  作者: ナオ
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3/8

3話「川に沈む声」

 3日目の朝、こはるは目を覚ました瞬間に、自分がもう元の夏には戻っていないことを知った。


 夢を見たのだ。


 暗い水の夢だった。

 

 川なのか海なのか分からない、黒くて静かな水、そこに、いくつもの声が沈んでいた。

 

 泣いているようにも、歌っているようにも聞こえる声だった。


 何を言っているのかは分からない。ただ、そのうちの1つが、自分を呼んでいた気がした。


 目が覚めても、その感触だけが喉の奥に残っていた。


 障子の向こうはもう朝で、蝉の声がしている。けれど夢の中の冷たさだけが、指先の内側にへばりついたままだった。


「こはるー、起きてるかい」


 祖母の声がして、ようやく現実に引き戻される。


「起きてる」


「なら朝ごはん食べな」


 そのいつも通りの声に、こはるは小さく息をついた。


 日常はまだここにある。

 

 おか野の朝も、祖母の味噌汁の匂いも、開け放した窓から入る風も、たしかに変わっていない。


 でも、その日常のすぐ裏側に、もう1つ別の流れがある。

 

 こはるはそれを、もう知ってしまっていた。




 午前中の「おか野」は、昨日よりさらに忙しかった。


 冷やし白玉、抹茶あんみつ、かき氷。

 夏の甘味は強い。次から次へと客が入り、こはるは麦茶を運び、皿を下げ、祖母の後ろで動き続けた。


「こはるちゃん、こっちに黒蜜お願い」


「はい」


 慣れてきたせいか、身体は昨日までより軽く動いているけれど頭のどこかはずっと別のことを考えている。

 

 海で聞いたすずの声。

 

 名前を失いかけた兄妹。

 自分の口からこぼれた、知らないはずの歌。


 客が引いた昼過ぎ、最後の器を洗い終えたところで、祖母がふとこはるを見た。


「今日は集中が散ってるね」


「え」


「手は動いてるけど、心ここにあらずって顔」


 図星で、こはるは気まずく眉を寄せた。


「そんなに分かる?」


「分かるよ。あんた、小さいころからそういう顔するときは大体、何か拾ってる」


「拾ってるって何」


「気になるものとか、目に見えないものとか」


 祖母はさらりと言って、濡れた手を布巾で拭いた。


「今日も出るのかい」


 こはるは少し迷ったあと、うなずいた。


「うん」


「じゃあ、川の方には気をつけな」


 こはるは顔を上げる。


「……なんで川?」


 祖母は一瞬だけ、しまったという顔をした。

 でもすぐ、いつもの調子で言う。


「この町の水は海につながってる、流れるものってのは、寄るより厄介なんだよ」


「何それ?昨日もそんなこと言ってた」


「年寄りの言うことは半分くらい聞いとけばいいの」


「残り半分は?」


「自分で確かめな」


 祖母はそう言って、小さく笑った。


 こはるはその笑い方を見ながら思う。

 

 たぶん祖母は、何かを知っている。

 全部じゃないかもしれない。

 

 でも、知らないふりをして通り過ぎられるほど何も知らない人ではない。


 ただ、教えるつもりもないのだ。


 こはる自身がその場所まで歩いていくなら止めない。

 

 けれど、自分から手を引いて導くこともしない。


 そういう距離だった。


 夕方、こはるは昨日より少し早く神社へ向かった。


 石段を上る足は、もう初日ほど重くない。

 

 怖くないわけじゃない。けれど、怖さだけではないものがある。


 境内に入ると、風が木の葉を揺らした。昨日と同じ、小さな社の前にすずがいる。


「今日は早いね」


「待たせるとうるさそうだから」


「うるさくないよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


 すずはいつもの静かな顔でそう言ったけれど、口元だけ少し笑っていた。


 白い服の袖が風に揺れる。黒に近い髪は、木漏れ日に触れるところだけ柔らかく茶色く見えた。


 最初に会ったときより、その姿が現実の中に馴染んで見えるのが不思議だった。


「今日は川なんでしょ」


 こはるが言うと、すずはうなずいた。


「うん、流れが止まりかけてる」


「またそういう言い方」


「本当にそうなんだもの」


「川そのものが止まるわけじゃないでしょ」


「水じゃなくて、願いの方」


 その答えに、こはるは一瞬黙った。


 すずは時々、とても自然におかしなことを言う。

 

 でも、前ほど簡単には否定できなくなっている自分がいた。


「行こう」


 すずが歩き出す。

 こはるはその横に並んだ。


「ねえ」


「なに」


「願いって、流れるものなの?」


 すずは少し考えてから答えた。


「結ばれたものは、流れるよ」


「結ばれたもの?」


「名前とか、約束とか、祈りとか人が誰かを思って渡したものは、本当はどこかへ届くものだから」


「届かなかったら?」


「どこかに澱む」


 その言葉の響きに、こはるは少しだけ背筋が寒くなった。


 川は、町のにぎわいから少し離れたところにあった。


 大きな流れではない。


 けれど鎌倉の中を静かに通って、やがて海へつながっていく水だ。

 

 小さな橋がかかり、両側の道には古い家並みや植木が続いている。夕方の光が水面に細かく割れていた。


 人はいた。

 

 散歩をしている夫婦。橋の欄干にもたれて話す学生に犬を連れた女性、どこにでもある夕方の町の景色だ。


 けれど、すずは橋の手前で足を止めた。


「あそこ」


 視線の先を見ると、橋のたもとに小さな石の祠があったが、気づかなければ見落としてしまいそうなほど小さい。


 脇には供えられた花が少ししおれていて、水の入っていない湯呑みが置かれている。


「あの祠がどうしたの」


「昔は、ちゃんと渡してた」


「何を?」


「流れを」


 また分からないことを言う。

 でも、すずの目は真剣だった。


 そのとき、橋の向こうから1人の女の子が歩いてきた。


 こはるたちと同じくらいの年に見える。


 制服ではなく私服で、肩からトートバッグを下げている。


 スマートフォンを見つめたまま橋を渡ってきて、祠の前を通り過ぎようとして――ふいに立ち止まった。


 画面を見たまま、動かない。


「……何?」


 こはるが小さく言う。


 女の子は何かを読んでいるみたいだった。

 

 けれどその顔色が目に見えて変わっていく。青ざめる、というより血の気が引いていくのと同時に、唇がわずかに震えていた。


 次の瞬間、彼女の手からスマートフォンが落ちた。


 乾いた音がして、橋の上を滑る。


 女の子はそれを拾おうともせず、ただ欄干(らんかん)の向こう――川の方を見つめた。


「まずい」


 すずの声が低くなる。


 女の子が1歩、欄干へ近づいた。


 2歩目。


 こはるの全身がぞっとした。


「ちょっと!」


 反射的に声を上げる。

 その瞬間、風が止まった。


 橋の上の人影が消える。

 犬を連れた女性も、学生も、遠くで話していた夫婦も、まるで最初からいなかったみたいに消えている。


 川の音だけが残った。


「……境が」


「降りた」


 すずは短く言って、橋へ駆けた。


 こはるもあとを追う。


 女の子は欄干に手をかけていた。目がどこも見ていない。

 水面の向こうの何かに呼ばれているような、空っぽの顔だった。


「だめ!」


 こはるが腕をつかむ。

 驚くほど冷たかった。


 女の子は振り向かない。ただ小さな声で何かつぶやいている。


「返して……」


 その言葉に、こはるは息をのんだ。


「返して、返して、返して……」


 壊れたみたいに同じ言葉を繰り返している。


 すずが祠の前に膝をついた。

 白い袖が石に触れる。


「何を取られたの」


 すずの問いに、女の子はようやくかすかに口を動かした。


「……こえ」


「声?」


「言え……なかった……」


 女の子の頬を涙が落ちる。

 その目は今この橋の上を見ていない。

 

 もっと前の、別の時間を見ているみたいだった。


 こはるはつかんだ腕に力を込める。


「何があったの」


 返事はない。

 そのかわり、川の水面がひときわ大きく揺れた。


 ザザッと音がして、夕方の川とは思えない黒さが覗く。

 

 そこに何かがいた。


 姿ははっきりしない。

 

 水のゆがみみたいな、影みたいな、長い髪みたいなものが流れに混ざっている。


 人の形に近いのに、人ではない。顔がある気がするのに、見ようとすると崩れる。


 こはるの喉がひゅっと鳴った。


「……あれ、何」


「流れに澱んだもの」


 すずは立ち上がる。

 けれどその声は、少しだけかすれていた。


「言えなかった声が、ここに引っかかってる」


「意味分かんないよ……!」


「人は、渡すはずのものを渡せなかったとき、それを自分の中だけで抱えるでしょう」


 すずは川を見たまま言う。


「でも抱えきれないものは流れの近くに落ちることがある、川は海へ運ぶはずなのに、古い結びが切れてると、そこで澱むの」


 女の子がまた欄干の方へ身体を傾ける。


 こはるは必死で引き戻した。


「すず!」


「分かってる」


 すずは祠に手を当てる。

 

 その瞬間、小さな鈴みたいな音がで鳴った。

 

 橋の上には何もないはずなのに、澄んだ音だけが響く。


 すずが歌い始めた。


 あわのうたの断片。

 

 海で聞いたものとは少し違う。

 流れるようで、でもほどけるような旋律だった。


 川の水面がざわめく。

 黒い影が揺れ、形を持ちかける。


 そして、すずの歌がまた途中で途切れた。


「っ……」


 息を詰まらせるような音が漏れる。


 こはるは振り向く。

 

 すずの顔色が悪い。


 唇から血の気が引いて、立っているのがやっとみたいに見えた。


「すず!」


「まだ……足りない」


 まただ。

 海のときと同じだ。

 でも今度は、前より危うい。


 橋の上の女の子が涙を流したままつぶやく。


「ごめんって……言いたかった……」


 その言葉を聞いた瞬間、こはるの胸の奥に何かが刺さった。


 言えなかったのだ。

 この子は誰かに、たぶんとても大事な相手に、謝ることができなかった。

 

 声にする前に失ってしまったのか、間に合わなかったのかは分からない。


 けれど、その言葉だけがここに引っかかっている。


 水面の影が、その言葉に反応するように大きく揺れた。


「返してって……」


 女の子がかすれる声で言う。


「私の声、返して……」


 こはるは唇をかんだ。


 怖い。

 

 分からない。

 

 でも、もう知ってしまった。

 見てしまった。


 ここで目をそらしたら、この子は本当に落ちるかもしれない。


 耳の奥で、歌がする。


 昨夜の夢の中で聞いた、あの水の底の声。

 それが今、はっきりと1つの旋律になって、こはるの喉元まで上がってきていた。


 こはるは女の子の腕をつかんだまま、息を吸う。


「……こはる」


 すずの声がする。

 止める声ではなかった。


 だから、こはるは歌った。


 意味は分からない。

 でも、声にしてはいけないとは思わなかった。


 すずが歌った断片の、その先。

 

 川の流れに沿うような節。

 

 何かを責めるのではなく、留まってしまったものを押し流すみたいな旋律。


 歌った瞬間、橋の上の空気が変わった。


 女の子の涙が、ぽろりと落ちる。

 

 川の影が揺れ、揺れ、形を崩しながら水の中へほどけていく。


 そのとき、こはるは見た。


 一瞬だけ、水面の向こうに別の景色が重なった。


 雨の日の駅前。

 

 傘をさした2人の女子高生。

 

 片方が泣いていて、もう片方は何か言おうとしている。


 けれど言葉が出ない。

 赤信号。

 濡れた道路。

 次の瞬間、ヘッドライトの白い光。


 ぶつり、と映像が切れた。


「――っ!」


 こはるは息をのむ。


 女の子が崩れ落ちる。

 

 こはるはとっさに抱きとめた。


「大丈夫!? ねえ!」


 女の子は数回まばたきをして、それからはじめて今ここに戻ってきたみたいに周囲を見た。


「……わた、し」


 唇が震える。


「私……言え……なかった……」


 嗚咽がこぼれた。


「親友に……ごめんって……言う前に……」


 こはるは黙ったまま、その背を支える。


 事故だったのだと、言葉にされなくても分かった。

 

 きっと彼女は喧嘩でもしていたのだろう。

 謝れないまま相手は死んだ。

 残された言葉だけが行き場を失って、この川に澱んでいた。


 女の子は泣きながら、何度も何度も言った。


「ごめん……ごめん……」


 その声は今度こそ、ちゃんと声になっていた。


 風が戻る。


 遠くの犬の鳴き声。

 誰かの話し声。

 橋のたもとを通る自転車の音。


 境が解けたのだと……こはるは分かった。


 気づけば、さっきまで消えていた人たちの気配も戻っている。

 

 けれどこの橋の真ん中だけは、まだ少しだけ現実から浮いているみたいに静かだった。


 すずがふらつく。

 

 こはるは女の子を座らせると、すぐに駆け寄った。


「すず!」


「……平気」


「平気に見えない」


 近くで見ると、すずの呼吸は浅かった。


 白い服の袖を握る指先も冷えている。


「歌うと、そんなになるの」


「全部は歌えないから」


「どういうこと」


 すずは橋の下の流れを見る。


「あわのうたは、本当は1つの歌だから欠けたままの節を無理に鳴らすと、器の方が削れる」


「器って」


「今のわたし」


 あまりにも静かに言うので、こはるは返事を失った。


 すずはまるで、そういうものだと最初から知っているみたいだった。

 

 自分が削れることを、大したことでもないみたいに受け止めている。


「何でそんな顔するの」


 すずがかすかに笑う。


「そんな顔って?」


「怒りそうな顔」


「怒るよ……そりゃ」


 こはるは思わず言った。


「平気みたいに言うのずるいでしょ……削れるとか、器とか全然よくない」


 すずは少しだけ目を見開いた。

 それから、困ったように視線を落とす。


「……でも、仕方ないもの」


「仕方なくても嫌だ」


 声が強くなる。

 自分でも驚くくらいに。


「すずが消耗して、終わったらはい終わり、みたいなの嫌なんだけど!」


 しばらく、すずは何も言わなかった。

 川の音だけがあいだを流れる。


 やがて、小さく言う。


「こはるは変だね」


「何それ」


「そこで怒る人、あまりいなかったから」


 その言い方があまりにも静かで、こはるは胸の奥を掴まれたみたいになった。


 あまりいなかった。

 

 それはたぶん、すずがこれまでずっと1人でそういうものを引き受けてきた、ということだ。


「……これからは、いるよ」


 こはるは言った。


「少なくとも私は怒る。そういうの、良くないときは良くないって言うから」


 すずはこはるを見た。

 深い色の目が、少しだけ揺れる。


 それから、ほんの小さくうなずいた。


 橋のたもとの女の子は、やがて泣き疲れたみたいに静かになった。


 自分がどうしてここにいたのか、少し曖昧な顔をしていたけれど、スマートフォンを拾い上げて、祠の前でしばらく立ち尽くしていた。

 

 そのあと、小さく頭を下げて帰っていった。


 きっと全部は覚えていない。

 でも何かは残る。そういうふうに見えた。


 すずは祠の前にしゃがみ、空になっていた湯呑みに水を注いだ。


 こはるも近くの手水鉢みたいな場所から水をび、花の茎を少し整えると、しおれていた色がわずかに戻った。


「これで少しは流れる」


 すずが言った。


「ここ、放っておかれてたの?」


「たぶんね。昔は誰かがちゃんと渡してた、水も言葉も」


「言葉も?」


「橋って、渡る場所でしょう」


 すずは祠を見つめたまま続ける。


「だから本当は言えなかったことを流す場所でもあったの、向こうからこっちへ、こっちから向こうへ、ちゃんと渡すために」


 こはるは川を見る。

 夕方の流れはもう静かだった。

 さっきまであった黒い澱みは消えて、水面には空の色だけが薄く映っている。


「……あの子、親友に謝れなかったんだよね」


「うん」


「そういうのって、どうしたらいいんだろ」


「全部は、どうにもならない」


 すずの答えはやさしくなかった。

 でも嘘もなかった。


「言えなかったことは、言えなかったままだよ……死んだ人には届かないこともある」


 こはるは唇を結ぶ。


「でも」


 すずが続けた。


「流れに返せれば、残った人は生きられる」


 それは慰めではなかった。

 救いと呼ぶには少し硬い、でも確かな言葉だった。


 こはるは長く息を吐いた。


「……あわのうたって、そういう歌なの」


「たぶん」


「たぶん?」


「まだ全部、戻ってないから」


 すずは立ち上がる。

 白い服の裾を払って、橋の向こうを見る。


「でも、結ぶ歌だよ……名前も、声も、渡せなかったものも」


 その言葉が、こはるの中に静かに落ちた。


 海では名前。

 川では声。


 じゃあ次は何だろう。

 どれだけのものが、この町の中で散っているのだろう。


 帰り道、空はもうかなり暗くなっていた。


 町の灯りが1つずつ浮かび始め、小町通りの賑わいも昼とは違う色になる。

 

 飲食店の灯り、土産物屋の明るさ、浴衣姿の観光客、風鈴の残り音。

 

 現実の鎌倉はちゃんとここにあるのに、そのすぐ裏に別の流れがあることを、こはるはもう忘れられなかった。


「すず」


「なに」


「今日の最後の言い方、気になってる」


「どれ」


「“まだ全部、戻ってない”ってやつ」


 すずは少しだけ黙った。


「あわのうたは、昔は1つだった」


「うん」


「でも今は、海にも川にも、たぶん山にも、人の祭りにも、少しずつ残ってる」


「……断片ってこと?」


「そう」


「それを集めたら、どうなるの」


 こはるの問いに、すずはすぐには答えなかった。


 ただ、前を向いたまま小さく言う。


「最後には、1つの場所へ戻る」


「その“最後”って何」


「まだ言えない」


「またそれ?」


「でも近づいてるよ」


 すずはほんの少しだけ、夜の空を見上げた。


「こはるが歌ったから。海も、川も、もう見てる」


 その言い方に、こはるはぞくりとした。


「見てるって、誰が」


 すずは答えなかった。

 ただ、そのまま人の流れの向こうを見ていた。


 「おか野」に戻ると、祖母は帳場で何かを書いていた。


「おかえり」


「ただいま」


「今日は遅かったね」


「ちょっと遠くまで行ってたから」


「川かい」


 またしても先に言い当てられて、こはるは祖母を見る。


「……何で分かるの」


 祖母は帳面を閉じた。


「あんた、水の匂いがする」


「そんなわけないでしょ」


「あるんだよ、そういうことも」


 さらりと言われてしまう。


 こはるは言い返しかけて、やめた。

 

 今の自分には、もう“そんなわけない”と言い切れる自信がなかった。


「お腹すいてるだろう。ごはんにしな」


「うん」


 台所から煮物の匂いがした。

 その匂いの中で、こはるはふと思う。


 今日、自分は1人の知らない女の子の“言えなかった声”に触れた。

 

 もう会うこともないかもしれない。


 名前も知らない。


 けれど、その痛みだけは少し分かった気がした。


 人は、渡せなかったものを抱えたまま、生きてしまう。

 そしてそれは、ときどきどこかで澱む。


 だったら、あわのうたは。

 すずが集めようとしているその歌は。

 そういうものをもう1度流すための歌なのだろうか。


 その夜、こはるはまた夢を見た。


 今度は橋だった。


 暗い川にかかる古い橋の上で、誰かが歌っている。

 

 白い服が揺れる。

 

 でも歌っているのはすずではなかった。

 もっと大勢いた。


 女の人も、子どもも、男の人も、顔のはっきりしない人影たちが橋の上に並んで、1つの歌を川へ流している。


 その歌の最後だけが、聞こえなかった。


 そこで目が覚める。


 喉が少し熱かった。

 耳の奥にはまだ、川の流れと歌の残響がある。


 布団の上で天井を見ながら、こはるは小さく息をついた。


 海で名前。

 川で声。


 次は何だろう。


 でも、その前に1つだけ分かっていることがある。

 すずは、自分が削れることに慣れすぎている。


 それが……たまらなく嫌だった。


 こはるは目を閉じる。


 夏の夜の向こうで、どこかの鈴がかすかに鳴った気がした。

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