2話「海の声と最初の願い」
次の日の朝、こはるは少しだけ寝不足のまま目を覚ました。
障子の隙間から差し込む光はもうすっかり夏の色をしていて、遠くで鳴く蝉の声が、昨日より少しだけ近く感じられる。
見慣れない天井、知らない町の朝の匂い。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
目が覚めた瞬間から、昨日のことを思い出してしまったからだ。
白い服の少女。
黒に近い髪。
名前のない子。
境が降りる、という奇妙な言葉。
そして、自分がつけた名前――すず。
あれは夢ではなかったはずだ。
けれど、昼の光の中で思い返すと、あまりにも現実味が薄い。
「起きてるなら、顔洗っておいで」
襖の向こうから祖母の声がした。
「はーい」
返事をして立ち上がる。
それだけで、胸の奥のざわざわが少し現実に引き戻された。
午前中の「おか野」は、今日も忙しかった。
かき氷を頼む家族連れ、あんみつを写真に撮る観光客、涼みに入ってくる年配の夫婦。
こはるは昨日より少しだけ慣れた手つきで、水を出し、器を運び、祖母の指示に動いていく。
「こはるちゃん、こっちお願い」
「はい」
返事をしながら、ふと自分でも思う。
昨日まではただの夏休みの手伝いだったのに、今日はその合間の時間がまるで別の意味を持っている。
昼過ぎ、最後の客が帰ったあと、祖母が暖簾を下ろした。
「今日は昨日よりいい顔してるね」
「え?」
「少しこの町に慣れてきた顔」
祖母はそう言いながら、冷たい麦茶を注いでくれた。
こはるはそれを受け取り、少し迷ってから聞いた。
「ねえ、おばあちゃん。このへんの海って、夕方きれい?」
「きれいだよ」
祖母はあっさり答える。
「由比ヶ浜も、材木座も、夕方になると色が変わるし、昼の海と夜の海の間の短い時間がいちばんきれい」
「ふうん」
「見に行くのかい」
「ちょっとだけ」
「そう」
祖母はそれ以上は聞かなかった。
けれど湯呑みを重ねながら、ぽつりと言う。
「海はね、昔からいろんなものを寄せるし、持っていく場所だから」
「急に怖いこと言うね」
「怖い話じゃないよ。海ってそういうものだってだけ」
その口調は軽いのに、どこか本気だった。
こはるは麦茶を飲みながら、昨日の神社で聞いたすずの声を思い出していた。
こはるには、あわのうたが聞こえたから。
あの言葉が、ずっと頭のどこかに残っている。
夕方、こはるは昨日の神社へ向かった。
小町通りは昼より人が少し和らいでいたけれど、それでもまだ賑やかだった。
食べ歩きをする人たち、土産物を選ぶ観光客、笑い声。現実の鎌倉は相変わらず明るくて、昨日の境内で起きたことだけが、まるで別の層にあるみたいだった。
坂道を上り、石段の前に立つ。
胸の奥が少しだけ鳴る。
一段、また一段。
町の音が遠くなる。
境内に入ると、昨日と同じように空気の質が変わった。木陰の匂い、湿った土の気配、葉の間を抜ける風。
人の声が消えたわけじゃないのに、遠い場所に押しやられたような静けさがある。
「遅かったね」
声がして、こはるははっと顔を上げた。
すずは昨日と同じ、小さな社の前にいた。
白い服。
肩に触れるくらいの黒に近い髪。
木漏れ日の下では、その毛先だけが少しやわらかな茶色に見える。
昨日と変わらないはずなのに、今日はもう“知らない誰か”には見えなかった。
「待ってたの?」
「待ってたよ」
すずは当たり前みたいに言う。
「来るって言ったもの」
「行けたらって言っただけだけど」
「来たでしょう」
その言い方が少しだけ得意げで、こはるは思わず眉を寄せた。
「……なんか、そういうとこちょっとずるい」
するとすずは、小さく笑った。
昨日より表情がやわらかい。
名前をつけたせいなのか、それとも、こはるが少し慣れただけなのかは分からなかった。
「眠れなかった?」
「何で分かるの」
「顔に出てる」
「またそれ」
「歌がまだ残ってるから」
すずはそう言って、こはるの顔をじっと見た。
「こはるの中に、あわのうたの響きが少しだけ残ってるの、だからたぶん……しばらくは夜にも聞こえるよ」
「しばらくって、いつまで」
「分からない」
「怖いこと言わないで」
「本当のことだもの」
さらりと返されて、こはるはため息をついた。
「……で、今日は何なの」
「海へ行く」
「海?」
「うん。急がないといけないから」
すずはそう言うと、社の横を通って石段の方へ歩き出した。
こはるは慌てて追いかける。
「ちょっと待って。急に言われても」
「説明しながら行くから」
「毎回そうやって話を進めるつもり?」
するとすずは少しだけ振り向いた。
「だめ?」
「だめじゃないけど……」
言い返しかけて、こはるは口をつぐんだ。
だめではない。
たぶん、本当に。
海へ向かう道は、昨日より少しだけ短く感じた。
町の中を歩いているあいだ、すずはほとんど目立たなかった。
白い服のせいで本来なら人目を引きそうなのに、不思議と誰も気に留めない。
通り過ぎる観光客も、食べ歩きの学生も、まるですずが最初から景色の一部であるみたいに素通りしていく。
「ねえ」
こはるは歩きながら小声で言った。
「みんな、すずのこと見えてるの?」
「見えてる人もいるし、気づかない人もいる」
「それどういうこと」
「ちゃんと見ようとしてない人の目は、通り過ぎるから」
「便利なのか不便なのか分かんないね」
「こはるには見えてるから、それでいいよ」
それを聞いて、なぜだか少しだけ落ち着かなかった。
やがて潮の匂いが濃くなり、空がぱっと開ける。
由比ヶ浜だった。
夕方の海は、思っていたよりずっとやわらかい色をしていた。
まだ遊んでいる人たちは多い。
子どもたちが波打ち際を走り、学生らしい集団が写真を撮り、犬を散歩させる人もいる。
空は青から薄い金色へ変わり始めていて波が寄せては返すたび、その光を砕いていた。
「……きれい」
思わずこはるがこぼすと、すずは少しだけ目を細めた。
「うん。でも今日は、見に来たんじゃない」
「じゃあ何しに?」
すずは少し先を見た。
波打ち際で、小さな兄妹らしい二人が遊んでいた。
兄の方は小学校低学年くらい。
妹はまだ幼く、膝のあたりまで波が来るたびにきゃっきゃと笑っている。
少し離れたところに母親らしい女性がいて、スマートフォンを向けていた。
「あの子たち」
「え?」
「海が、あの子の名前を持っていこうとしてる」
こはるはすずの横顔を見た。
「……何それ」
「時々あるの。海は返してほしいものがあると、人の大事な呼び名をさらっていく」
「呼び名?」
「名前とか、約束とか、ちゃんと結ばれてないもの」
訳が分からない。
けれど、すずは真剣だった。
「見てて」
そのとき、兄の子が妹に向かって何か叫んだ。
たぶん名前を呼んだのだろう。
けれどその口の動きが、途中で不自然に止まる。
子どもは少しだけ困った顔をして、もう一度呼ぼうとする。
けれどやっぱり、言えない。
「……あれ?」
こはるがつぶやく。
兄の子は明らかに戸惑っていた。
妹の方も首をかしげている。
なのに、少し離れた母親はその違和感に気づいていない。
笑いながら二人に手を振っている。
「どうして……」
「まだ浅いから。他の人には分かりにくい」
すずはそう言って、砂浜へ足を踏み出した。
「ちょっと、待って。どうするの」
「戻してもらう」
「そんな簡単に言うけど」
こはるが言い終わる前に、風が止んだ。
ぴたり……と。
あれだけ賑やかだった浜辺の音が、一瞬で薄くなる。
こはるは息をのんだ。
さっきまで近くにいたはずの人影が、気づけばどこにも見当たらない。
海水浴客も、子どもの笑い声も、犬を連れた人も、みんな消えている。
残っているのは夕方の海と、寄せて返す波音だけだった。
「……また」
「うん」
すずは波打ち際を見つめたまま言う。
「境が降りた」
夕焼けの色だけが、やけに濃い。
海はさっきより暗く見えた。
青というより、深い群青に近い色をしている。
兄妹の姿だけが、波打ち際にぽつんと残されていた。
兄の子は泣きそうな顔で妹を見ている。
名前が言えないのだ。
妹も、何かがおかしいと分かっているのか、不安そうに兄の服をつかんでいる。
「早くしないと、もっと深くなる」
すずはそう言って、海へ向かって声を投げた。
「あわのうたに触れたものを返して」
返事はなかった。
ただ、ひときわ大きい波が寄せてきて、二人の足元を洗った。
その波の音の奥に、こはるは何かを聞いた。
歌みたいな泣き声みたいな長い吐息みたいな声。
海そのものが喋っているような響きだった。
「……何、これ」
「海の神さまじゃない。もっと小さいもの。けど、古いもの」
すずは目を閉じて、低く歌い始めた。
昨日聞いた旋律だった。
あわのうたの、断片。
波の音に溶けるような静かな節回し。
けれど、途中でふっと途切れる。
足りないのだ、とこはるは分かった。
「すず」
「まだ……足りない」
すずの顔色が少し悪い。
白い服の袖が風もないのに揺れている。
そのとき、こはるの耳の奥で、昨夜聞いた歌がよみがえった。
夢の中で聞いたような、遠い旋律。
意味は分からない。
けれど、不思議と続きを知っている気がした。
「――え」
気づけば、こはるは口を開いていた。
すずが歌った断片の、その先を。
自分でも知らない節を。
声は震えていた。
上手くもなかった。
けれど、たしかにその旋律は海の上を渡った。
波が止まる。
正確には、寄せる動きがほんの一瞬だけ、呼吸を忘れたみたいに緩んだ。
兄の子が、はっと顔を上げる。
「みお!」
今度はちゃんと言えた。
妹の名前が、夕方の海に響く。
それと同時に、風が戻った。
笑い声も、遠くの話し声も、犬の鳴き声も、急に世界へ流れ込んでくる。
母親が二人に向かって何か呼びかけていた。
兄妹は何事もなかったみたいに、また波打ち際を走り始める。
けれど、こはるだけはしばらく動けなかった。
「……今の、私?」
「うん」
すずが静かに言う。
「こはるがつないだの」
「つないだって」
「足りなかった歌を」
こはるは自分の喉に手を当てた。
たしかに自分が歌った。なのに、どうして歌えたのかが分からない。
「なんで私、知ってたんだろ」
「たぶん、聞いたから」
「昨日の……?」
「それだけじゃない」
すずは海を見たまま言う。
「あわのうたは、誰か一人のものじゃないの、ずっと前から、いろんな場所に散ってる、風に波に鈴の音に、人の呼ぶ声に」
こはるは黙っていた。
「こはるはそれを拾えるんだと思う」
「そんな急に言われても困るんだけど」
するとすずは、少しだけ笑った。
「うん。困るよね」
「そこで素直なんだ……」
こはるは大きく息をついて、海を見た。
夕日はだいぶ傾いていた。
波打ち際では兄妹が笑っている。
母親がそれを見ている。
さっきまで何かがおかしかったなんて、誰にも分からない。
「……あの子、ほんとに名前を取られかけてたの」
「うん」
「戻らなかったら、どうなってた?」
「たぶん、呼べないままだった」
「それって結構ひどくない?」
「海はときどき、ひどいよ」
すずの言葉は静かだった。
「でも、返してくれることもある。ちゃんと結び直せば」
こはるはその横顔を見た。
古風で、不思議で、でも今は少しだけ疲れて見える。
「すず」
「なに」
「……私、まだよく分かってない」
「うん」
「けど、放っておくのはなんか嫌だ」
すずがこはるを見る。
「名前を取られるとか、そういうの。見たあとで知らないふりするの、たぶん無理」
少し照れくさくて、こはるは視線を逸らした。
「だから、もう少しだけ手伝う」
言ってから、これではまるで本当に巻き込まれに行くみたいだと気づいた。
でも、すずは否定しなかった。
そのかわり、ほんの少しだけ目をやわらかくする。
「ありがとう、こはる」
その言い方がまっすぐで、こはるは急に落ち着かなくなった。
「別に、まだ全部信じたわけじゃないし」
「うん」
「あと、毎回急に海とか山とか言われても困るから、次からはもう少し説明して」
「善処する」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃだめでしょ」
こはるが言うと、すずは少しだけ声を立てずに笑った。
その笑い方が、昨日よりずっと自然だった。
帰り道、海から町へ戻るころには、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
人の多い通りへ戻ってくると、さっきまでの静けさが嘘みたいだ。
観光客の声、店の灯り、潮の匂いに混じる甘い匂い。現実はこんなにも簡単に元の顔へ戻る。
「また明日?」
こはるが歩きながら聞くと、すずは少し考えてから言った。
「明日は川の方へ行くかもしれない」
「もう次が決まってるんだ」
「流れが滞ってるから」
「そういう言い方、毎回ずるいよね」
「そう?」
「そうだよ」
すずはまた小さく笑った。
そのあと、別れ際にふと立ち止まる。
「こはる」
「なに」
「最後まで来るなら、たぶん引き返せなくなるよ」
夕方の光の中で、その言葉だけが妙に冷たく聞こえた。
「……最後までって?」
「まだ言えない」
「またそれ」
「でも覚えていて」
すずはまっすぐにこはるを見た。
「この町の歌は、最後には一つの場所へ戻るから」
それだけ言うと、すずは人波の向こうへ溶けるみたいに去っていった。
こはるはしばらくその背中を見ていたけれど、やがて小さく息をついて歩き出す。
最後には一つの場所へ戻る。
その言葉が、なぜだか胸の奥に引っかかったままだった。
「おか野」に戻ると、祖母が店先の提灯に灯りを入れていた。
「おかえり」
「ただいま」
「海、どうだった」
こはるは少し迷ってから答えた。
「……きれいだった」
「そう」
「でも、ちょっと変だった」
祖母の手が止まる。
「変?」
「うまく言えないんだけど」
それ以上は言わなかった。
言ったところで、うまく説明できる気がしなかったからだ。
祖母は追及せず、ただ頷いた。
「鎌倉の海はね、夕方になると昔の顔を見せることがある」
「昔の顔」
「人が知らないだけで、土地にはそういう時間があるんだよ」
その言葉を聞いて、こはるは少しだけ背筋が寒くなった。
祖母は、どこまで知っているのだろう。
夜、布団に入ってからも、こはるの耳には波の音が残っていた。
そして、その奥で、かすかに歌が鳴る。
昨日より少しだけ近い。
昨日より少しだけ、自分のものに近い響きで。
こはるは目を閉じたまま、夕方の海と、名前を取り戻した兄妹の声を思い出していた。
もう知らないふりはできない。
たぶん、自分はもうその場所まで来てしまったのだ。
夏の奥へ。




