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あわのうた  作者: ナオ
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2/8

2話「海の声と最初の願い」

 次の日の朝、こはるは少しだけ寝不足のまま目を覚ました。


 障子の隙間から差し込む光はもうすっかり夏の色をしていて、遠くで鳴く蝉の声が、昨日より少しだけ近く感じられる。

 

 見慣れない天井、知らない町の朝の匂い。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 ただ、胸の奥が落ち着かない。


 目が覚めた瞬間から、昨日のことを思い出してしまったからだ。


 白い服の少女。

 黒に近い髪。

 名前のない子。

 境が降りる、という奇妙な言葉。

 そして、自分がつけた名前――すず。


 あれは夢ではなかったはずだ。

 けれど、昼の光の中で思い返すと、あまりにも現実味が薄い。


「起きてるなら、顔洗っておいで」


 襖の向こうから祖母の声がした。


「はーい」


 返事をして立ち上がる。

 それだけで、胸の奥のざわざわが少し現実に引き戻された。



 午前中の「おか野」は、今日も忙しかった。


 かき氷を頼む家族連れ、あんみつを写真に撮る観光客、涼みに入ってくる年配の夫婦。


 こはるは昨日より少しだけ慣れた手つきで、水を出し、器を運び、祖母の指示に動いていく。


「こはるちゃん、こっちお願い」


「はい」


 返事をしながら、ふと自分でも思う。

 昨日まではただの夏休みの手伝いだったのに、今日はその合間の時間がまるで別の意味を持っている。


 昼過ぎ、最後の客が帰ったあと、祖母が暖簾を下ろした。


「今日は昨日よりいい顔してるね」


「え?」


「少しこの町に慣れてきた顔」


 祖母はそう言いながら、冷たい麦茶を注いでくれた。


 こはるはそれを受け取り、少し迷ってから聞いた。


「ねえ、おばあちゃん。このへんの海って、夕方きれい?」


「きれいだよ」


 祖母はあっさり答える。


「由比ヶ浜も、材木座も、夕方になると色が変わるし、昼の海と夜の海の間の短い時間がいちばんきれい」


「ふうん」


「見に行くのかい」


「ちょっとだけ」


「そう」


 祖母はそれ以上は聞かなかった。

 けれど湯呑みを重ねながら、ぽつりと言う。


「海はね、昔からいろんなものを寄せるし、持っていく場所だから」


「急に怖いこと言うね」


「怖い話じゃないよ。海ってそういうものだってだけ」


 その口調は軽いのに、どこか本気だった。


 こはるは麦茶を飲みながら、昨日の神社で聞いたすずの声を思い出していた。


こはるには、あわのうたが聞こえたから。


 あの言葉が、ずっと頭のどこかに残っている。



 夕方、こはるは昨日の神社へ向かった。


 小町通りは昼より人が少し和らいでいたけれど、それでもまだ賑やかだった。

 食べ歩きをする人たち、土産物を選ぶ観光客、笑い声。現実の鎌倉は相変わらず明るくて、昨日の境内で起きたことだけが、まるで別の層にあるみたいだった。


 坂道を上り、石段の前に立つ。


 胸の奥が少しだけ鳴る。


 一段、また一段。

 町の音が遠くなる。


 境内に入ると、昨日と同じように空気の質が変わった。木陰の匂い、湿った土の気配、葉の間を抜ける風。

 人の声が消えたわけじゃないのに、遠い場所に押しやられたような静けさがある。


「遅かったね」


 声がして、こはるははっと顔を上げた。


 すずは昨日と同じ、小さな社の前にいた。


 白い服。

 肩に触れるくらいの黒に近い髪。

 木漏れ日の下では、その毛先だけが少しやわらかな茶色に見える。


 昨日と変わらないはずなのに、今日はもう“知らない誰か”には見えなかった。


「待ってたの?」


「待ってたよ」


 すずは当たり前みたいに言う。


「来るって言ったもの」


「行けたらって言っただけだけど」


「来たでしょう」


 その言い方が少しだけ得意げで、こはるは思わず眉を寄せた。


「……なんか、そういうとこちょっとずるい」


 するとすずは、小さく笑った。

 昨日より表情がやわらかい。

 名前をつけたせいなのか、それとも、こはるが少し慣れただけなのかは分からなかった。


「眠れなかった?」


「何で分かるの」


「顔に出てる」


「またそれ」


「歌がまだ残ってるから」


 すずはそう言って、こはるの顔をじっと見た。


「こはるの中に、あわのうたの響きが少しだけ残ってるの、だからたぶん……しばらくは夜にも聞こえるよ」


「しばらくって、いつまで」


「分からない」


「怖いこと言わないで」


「本当のことだもの」


 さらりと返されて、こはるはため息をついた。


「……で、今日は何なの」


「海へ行く」


「海?」


「うん。急がないといけないから」


 すずはそう言うと、社の横を通って石段の方へ歩き出した。


 こはるは慌てて追いかける。


「ちょっと待って。急に言われても」


「説明しながら行くから」


「毎回そうやって話を進めるつもり?」


 するとすずは少しだけ振り向いた。


「だめ?」


「だめじゃないけど……」


 言い返しかけて、こはるは口をつぐんだ。

 

 だめではない。


 たぶん、本当に。


 海へ向かう道は、昨日より少しだけ短く感じた。


 町の中を歩いているあいだ、すずはほとんど目立たなかった。

 白い服のせいで本来なら人目を引きそうなのに、不思議と誰も気に留めない。

 通り過ぎる観光客も、食べ歩きの学生も、まるですずが最初から景色の一部であるみたいに素通りしていく。


「ねえ」


 こはるは歩きながら小声で言った。


「みんな、すずのこと見えてるの?」


「見えてる人もいるし、気づかない人もいる」


「それどういうこと」


「ちゃんと見ようとしてない人の目は、通り過ぎるから」


「便利なのか不便なのか分かんないね」


「こはるには見えてるから、それでいいよ」


 それを聞いて、なぜだか少しだけ落ち着かなかった。


 やがて潮の匂いが濃くなり、空がぱっと開ける。

 由比ヶ浜だった。


 夕方の海は、思っていたよりずっとやわらかい色をしていた。


 まだ遊んでいる人たちは多い。


 子どもたちが波打ち際を走り、学生らしい集団が写真を撮り、犬を散歩させる人もいる。

 空は青から薄い金色へ変わり始めていて波が寄せては返すたび、その光を砕いていた。


「……きれい」


 思わずこはるがこぼすと、すずは少しだけ目を細めた。


「うん。でも今日は、見に来たんじゃない」


「じゃあ何しに?」


 すずは少し先を見た。


 波打ち際で、小さな兄妹らしい二人が遊んでいた。

 

 兄の方は小学校低学年くらい。


 妹はまだ幼く、膝のあたりまで波が来るたびにきゃっきゃと笑っている。


 少し離れたところに母親らしい女性がいて、スマートフォンを向けていた。


「あの子たち」


「え?」


「海が、あの子の名前を持っていこうとしてる」


 こはるはすずの横顔を見た。


「……何それ」


「時々あるの。海は返してほしいものがあると、人の大事な呼び名をさらっていく」


「呼び名?」


「名前とか、約束とか、ちゃんと結ばれてないもの」


 訳が分からない。

 けれど、すずは真剣だった。


「見てて」


 そのとき、兄の子が妹に向かって何か叫んだ。

 

 たぶん名前を呼んだのだろう。

 けれどその口の動きが、途中で不自然に止まる。


 子どもは少しだけ困った顔をして、もう一度呼ぼうとする。


 けれどやっぱり、言えない。


「……あれ?」


 こはるがつぶやく。


 兄の子は明らかに戸惑っていた。


 妹の方も首をかしげている。


 なのに、少し離れた母親はその違和感に気づいていない。


 笑いながら二人に手を振っている。


「どうして……」


「まだ浅いから。他の人には分かりにくい」


 すずはそう言って、砂浜へ足を踏み出した。


「ちょっと、待って。どうするの」


「戻してもらう」


「そんな簡単に言うけど」


 こはるが言い終わる前に、風が止んだ。


 ぴたり……と。

 

 あれだけ賑やかだった浜辺の音が、一瞬で薄くなる。


 こはるは息をのんだ。


 さっきまで近くにいたはずの人影が、気づけばどこにも見当たらない。


 海水浴客も、子どもの笑い声も、犬を連れた人も、みんな消えている。


 残っているのは夕方の海と、寄せて返す波音だけだった。


「……また」


「うん」


 すずは波打ち際を見つめたまま言う。


「境が降りた」


 夕焼けの色だけが、やけに濃い。

 

 海はさっきより暗く見えた。

 

 青というより、深い群青に近い色をしている。


 兄妹の姿だけが、波打ち際にぽつんと残されていた。

 

 兄の子は泣きそうな顔で妹を見ている。

 名前が言えないのだ。


 妹も、何かがおかしいと分かっているのか、不安そうに兄の服をつかんでいる。


「早くしないと、もっと深くなる」


 すずはそう言って、海へ向かって声を投げた。


「あわのうたに触れたものを返して」


 返事はなかった。

 

 ただ、ひときわ大きい波が寄せてきて、二人の足元を洗った。


 その波の音の奥に、こはるは何かを聞いた。


 歌みたいな泣き声みたいな長い吐息みたいな声。

 

 海そのものが喋っているような響きだった。


「……何、これ」


「海の神さまじゃない。もっと小さいもの。けど、古いもの」


 すずは目を閉じて、低く歌い始めた。


 昨日聞いた旋律だった。

 あわのうたの、断片。


 波の音に溶けるような静かな節回し。

 けれど、途中でふっと途切れる。


 足りないのだ、とこはるは分かった。


「すず」


「まだ……足りない」


 すずの顔色が少し悪い。

 

 白い服の袖が風もないのに揺れている。


 そのとき、こはるの耳の奥で、昨夜聞いた歌がよみがえった。


 夢の中で聞いたような、遠い旋律。

 

 意味は分からない。


 けれど、不思議と続きを知っている気がした。


「――え」


 気づけば、こはるは口を開いていた。


 すずが歌った断片の、その先を。

 自分でも知らない節を。


 声は震えていた。


 上手くもなかった。

 

 けれど、たしかにその旋律は海の上を渡った。


 波が止まる。


 正確には、寄せる動きがほんの一瞬だけ、呼吸を忘れたみたいに緩んだ。


 兄の子が、はっと顔を上げる。


「みお!」


 今度はちゃんと言えた。

 妹の名前が、夕方の海に響く。


 それと同時に、風が戻った。

 笑い声も、遠くの話し声も、犬の鳴き声も、急に世界へ流れ込んでくる。


 母親が二人に向かって何か呼びかけていた。

 

 兄妹は何事もなかったみたいに、また波打ち際を走り始める。


 けれど、こはるだけはしばらく動けなかった。


「……今の、私?」


「うん」


 すずが静かに言う。


「こはるがつないだの」


「つないだって」


「足りなかった歌を」


 こはるは自分の喉に手を当てた。

 

 たしかに自分が歌った。なのに、どうして歌えたのかが分からない。


「なんで私、知ってたんだろ」


「たぶん、聞いたから」


「昨日の……?」


「それだけじゃない」


 すずは海を見たまま言う。


「あわのうたは、誰か一人のものじゃないの、ずっと前から、いろんな場所に散ってる、風に波に鈴の音に、人の呼ぶ声に」


 こはるは黙っていた。


「こはるはそれを拾えるんだと思う」


「そんな急に言われても困るんだけど」


 するとすずは、少しだけ笑った。


「うん。困るよね」


「そこで素直なんだ……」


 こはるは大きく息をついて、海を見た。


 夕日はだいぶ傾いていた。

 波打ち際では兄妹が笑っている。

 母親がそれを見ている。

 さっきまで何かがおかしかったなんて、誰にも分からない。


「……あの子、ほんとに名前を取られかけてたの」


「うん」


「戻らなかったら、どうなってた?」


「たぶん、呼べないままだった」


「それって結構ひどくない?」


「海はときどき、ひどいよ」


 すずの言葉は静かだった。


「でも、返してくれることもある。ちゃんと結び直せば」


 こはるはその横顔を見た。

 古風で、不思議で、でも今は少しだけ疲れて見える。


「すず」


「なに」


「……私、まだよく分かってない」


「うん」


「けど、放っておくのはなんか嫌だ」


 すずがこはるを見る。


「名前を取られるとか、そういうの。見たあとで知らないふりするの、たぶん無理」


 少し照れくさくて、こはるは視線を逸らした。


「だから、もう少しだけ手伝う」


 言ってから、これではまるで本当に巻き込まれに行くみたいだと気づいた。

 でも、すずは否定しなかった。


 そのかわり、ほんの少しだけ目をやわらかくする。


「ありがとう、こはる」


 その言い方がまっすぐで、こはるは急に落ち着かなくなった。


「別に、まだ全部信じたわけじゃないし」


「うん」


「あと、毎回急に海とか山とか言われても困るから、次からはもう少し説明して」


「善処する」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんじゃだめでしょ」


 こはるが言うと、すずは少しだけ声を立てずに笑った。


 その笑い方が、昨日よりずっと自然だった。



 帰り道、海から町へ戻るころには、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。


 人の多い通りへ戻ってくると、さっきまでの静けさが嘘みたいだ。


 観光客の声、店の灯り、潮の匂いに混じる甘い匂い。現実はこんなにも簡単に元の顔へ戻る。


「また明日?」


 こはるが歩きながら聞くと、すずは少し考えてから言った。


「明日は川の方へ行くかもしれない」


「もう次が決まってるんだ」


「流れが滞ってるから」


「そういう言い方、毎回ずるいよね」


「そう?」


「そうだよ」


 すずはまた小さく笑った。


 そのあと、別れ際にふと立ち止まる。


「こはる」


「なに」


「最後まで来るなら、たぶん引き返せなくなるよ」


 夕方の光の中で、その言葉だけが妙に冷たく聞こえた。


「……最後までって?」


「まだ言えない」


「またそれ」


「でも覚えていて」


 すずはまっすぐにこはるを見た。


「この町の歌は、最後には一つの場所へ戻るから」


 それだけ言うと、すずは人波の向こうへ溶けるみたいに去っていった。


 こはるはしばらくその背中を見ていたけれど、やがて小さく息をついて歩き出す。


 最後には一つの場所へ戻る。

 その言葉が、なぜだか胸の奥に引っかかったままだった。


 「おか野」に戻ると、祖母が店先の提灯に灯りを入れていた。


「おかえり」


「ただいま」


「海、どうだった」


 こはるは少し迷ってから答えた。


「……きれいだった」


「そう」


「でも、ちょっと変だった」


 祖母の手が止まる。


「変?」


「うまく言えないんだけど」


 それ以上は言わなかった。

 言ったところで、うまく説明できる気がしなかったからだ。


 祖母は追及せず、ただ頷いた。


「鎌倉の海はね、夕方になると昔の顔を見せることがある」


「昔の顔」


「人が知らないだけで、土地にはそういう時間があるんだよ」


 その言葉を聞いて、こはるは少しだけ背筋が寒くなった。


 祖母は、どこまで知っているのだろう。


 夜、布団に入ってからも、こはるの耳には波の音が残っていた。


 そして、その奥で、かすかに歌が鳴る。


 昨日より少しだけ近い。

 昨日より少しだけ、自分のものに近い響きで。


 こはるは目を閉じたまま、夕方の海と、名前を取り戻した兄妹の声を思い出していた。


 もう知らないふりはできない。

 たぶん、自分はもうその場所まで来てしまったのだ。


 夏の奥へ。

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