1話「夏の始まり」
鎌倉に着いた朝、こはるは駅を出たところで思わず立ち止まった。
まぶしい、と思ったのは日差しのせいだけじゃなかったのは、空が広い。
駅前を抜けていく人の流れも、土産物の旗も、遠くから混じってくる潮の匂いも、東京で過ごす夏とは何もかも少しずつ違っている。
「こはる、ぼんやりしてると置いてくよ」
祖母の声に、こはるは慌ててキャリーケースの持ち手を握り直した。
「待ってってば」
祖母は小柄なのに歩くのが早い。
背中は小さいのに不思議と見失いにくくて、人混みの中でもすいすい進んでいく。
この夏、こはるは鎌倉で過ごすことになった。
母方の祖母が営む甘味処を手伝うためだ。
きっかけは単純だった。
祖母が「夏は忙しいから、少し手伝いに来ないかい」と言い、母が「どうせ予定もないんでしょ」と言い、気づけば話が決まっていた。
最初は少し面倒だった。
けれど、十七歳の夏休みが始まってみると、何も決まっていない1か月は思ったより広かった。
学校もない。
特別な約束もない。
家にいても、毎日がぼんやりと同じ形で過ぎていきそうだった。
だから来た。
何かを変えたいわけじゃなかった。
ただ、少しだけ違う風の吹く場所に行きたかった。
小町通りに入ると、賑わいはさらに濃くなった。
焼きたてのせんべいの匂い、甘いわらび餅の匂い、カメラを構える観光客の声、日傘の色、風鈴の音も、通りそのものが夏祭りの続きみたいにきらきらして見える。
「すごい人……」
「このくらいで驚いてたら、夏の鎌倉じゃ働けないよ」
祖母はそう言って、暖簾のかかった一軒の店の前で止まった。
木の引き戸に、深い藍色の暖簾。
店先には朝顔の鉢が並び、古い硝子戸の向こうに、落ち着いた木の机と椅子が見える。
看板には、【甘味処おか野】と書かれていた。
「ふふ、名前そのまんま」
「おじいちゃんがつけたの」
祖母はそう言って、店の戸を開けた。
中は外よりずっと涼しかった。
木の床は丁寧に磨かれ、壁の柱時計が静かに時を刻んでいる。
奥からは小豆を炊いた甘い匂いがして、胸の奥がゆっくりほどけていくみたいだった。
「今日からよろしくお願いします」
こはるが少しだけ背筋を伸ばして言うと、祖母は笑った。
「そんなに固くならなくていいよ。お盆を落とさず運べれば、初日は合格」
「それ、最初から失敗する前提で言ってる?」
「高校生なんて大体そういうもん」
そう言われて、こはるは思わず笑った。
お店の午前中は、思っていたよりずっと忙しかった。
白玉あんみつ、抹茶パフェ、ところてん、かき氷。
祖母が作る甘味は見た目にもきれいで、観光客にも地元の常連にも人気らしく、こはるは言われるままに水を出し、注文を取り、お茶を運び、空いた器を下げた。
慣れないことばかりで、最初は足がもつれそうになったけれど祖母は怒鳴ることもなく、「次はそっち」「そのお客さんには黒蜜も」と手短に指示するだけだった。
「お姉さん、これすごくおいしい」
かき氷を前にした小さな女の子がそう言って笑う。
その顔に、こはるは自然に笑い返していた。
昼を少し過ぎた頃、最後の客が帰った。
祖母が暖簾を下ろし、ようやく店に静けさが戻る。
「お疲れさま」
「つ、疲れた……」
こはるがカウンターに手をつくと、祖母が氷の入った麦茶を差し出した。冷たいコップが気持ちいい。
「初日にしては上出来だよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
こはるは麦茶を飲み干して、大きく息をついた。
昼過ぎに店を閉める。午後は片づけや仕込みにあてるため、客は取らないのだという。
「午後はどうすればいい?」
「好きに散歩でもしておいで。海でもいいし、八幡さまのほうへ行ってもいい。暗くなる前には戻ること」
「子どもじゃないんだけど」
「夏の土地は年齢に関係なく人を迷わせるの」
祖母は湯呑みを拭きながら、さらりと言った。
「何それ」
「何でもないよ。行っておいで」
意味ありげだったけれど、それ以上は聞かなかった。
午後の鎌倉は、午前よりも光が濃い。
こはるは店を出て、小町通りをのんびり歩いた。
食べ歩きの列を避けながら雑貨屋をのぞき、涼しげな風鈴に足を止める。
風が吹くたび、ちりん、と澄んだ音が鳴った。
人は多くてどこまでも賑やかだ。
けれど、そのすぐ脇に古い石段や木立の影が口を開けているのが、鎌倉という町なのだろう。
こはるは気づけば大通りを外れ、少し静かな坂道を歩いていた。
商店の声は遠ざかり、蝉の声が近くなる。
石垣の上に伸びた木々が、陽の光を細かく揺らしていた。
そのとき、小さな石段が目に入った。
上には古びた鳥居がひとつ。
観光ガイドに載るような大きな神社ではなさそうだった。
……人の気配もない。
少しだけ迷ったあと、こはるは石段を上った。
一段、また一段。
上るほど、町の音が遠のいていく。
境内に入ると、空気が変わった。
暑さはあるのに、熱の質が違う。
木陰の匂い、湿った土の匂い、どこかで落ちる水の音。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。
そして、その静けさの中に、歌があった。
こはるは足を止める。
最初は風の音かと思った。
けれど違う。
誰かが歌っている。
言葉になりそうでならない、けれど耳の奥にひっかかる不思議な節回し。
懐かしいようで、知らないはずの旋律だった。
引かれるように、こはるは拝殿の裏手へ回った。
少女がいた。
白い服を着ていた。
巫女装束にも少し似ているけれど、もっとやわらかくて、昔の衣のようでもある。
袖は広く、風を含んで静かに揺れていた。
髪は黒に近い。
ただ真っ黒ではなく、木漏れ日の当たるところだけ、少し薄い茶を帯びて見える。
長さは肩に触れるくらいで、すっきりと短めだった。
白い服の印象は強いのに、髪の色のせいか幽霊じみた感じはしない。
ちゃんとそこに立っている、人の輪郭がある。
けれど、今の景色の中で彼女だけが少し古い時間から来たみたいに見えた。
少女は小さな社の前で歌っていた。
こはるは息をのんだまま、その声を聞く。
やがて歌がやみ、静けさが落ちた。
少女が振り向く。
目が合った。
その目は黒にも焦げ茶にも見える、深い色だった。
海ではなく、水底に近い静けさを宿している。
「……聞こえたの?」
先に口を開いたのは少女の方だった。
「え?」
「いまの歌」
「う、うん……聞こえたけど」
その答えに、少女はほんの少し目を見開いた。
それから、安堵したように小さく息をつく。
「そう」
「何、その反応」
「聞こえる人、あまりいないから」
声は静かだった。年はこはると同じくらいか、少し下に見えるのに、言葉の選び方は妙に落ち着いていて古風だ。
「ここで何してたの?」
「歌ってた」
「それは見れば分かるよ。あの歌、何?」
少女は社の方へ目を向ける。
「あわのうた」
初めて聞くのに、その響きはなぜかすんなり胸に落ちた。
「あわのうた?」
「忘れられていく歌」
「神社の歌みたいなもの?」
「少し違う」
そう言って、少女はわずかに首をかしげた。
「あなた、この町に来たばかりでしょう」
「なんで分かるの」
「海の風になじんでないもの」
変なことを言う子だと思った。
けれど馬鹿にされている感じはしない。
ただ本当にそう見えているのだろう、と不思議と思えた。
「名前は?」
聞かれて、こはるは答える。
「こはる」
「……こはる」
その呼び方が妙にやさしくて、こはるは少しだけ息を詰めた。
「あなたは?」
聞き返すと、少女は少し黙った。
「まだ、ない」
「ないって、名前が?」
少女はうなずく。
「そんなことある?」
「今はそれで足りてるから」
冗談を言っているようには見えなかった。
けれど本気とも思えない返事で、こはるは眉を寄せた。
そのときだった。
拝殿の方から聞こえていたはずの、誰かの足音や話し声が、ふっと消えた。
こはるははっとして振り向く。
さっき石段を上るとき、下の方にはたしかに何人かいたはずの、参拝客らしい人影も、境内を横切る人も見えた。
なのに今は、どこにも誰もいない。
蝉の声まで遠のいていた。
風の音だけが、やけに近い。
「……人、いなくなった」
こはるの声が小さく震える。
少女は騒がず、ただ境内の奥を見たまま言った。
「境が降りたの」
「さかい……?」
「人のいる場所と、神さまの気配が濃い場所。そのあいだにある見えない境目が、いまだけ近くなるの」
こはるは黙って少女を見る。
「そうすると人はそこにいても触れられなくなるしこっちからも、向こうからも、見えなくなったみたいに思うけど、ほんとうは少しだけ、重なる場所がずれただけ」
何を言われているのか、すぐには理解できなかった。
理解したくない、の方が近いかもしれない。
「じゃ、じゃあ、みんなどこかに消えたわけじゃないの?」
「消えてないよ。事が済めば戻る」
「怖いことを、さらっと言うね」
こはるがそう言うと、少女はわずかにこっちを見て、かすかに笑った。
「でも今は、神さまの話を聞くにはちょうどいいでしょう」
その直後、どこかで誰かが笑った。
子どもでも大人でもない、曖昧な声。
木々の奥から響いた気がしたのに、姿は見えない。
ぞくりと背中が粟立つ。
「な、何いまの」
「見ないで」
少女はそう言って、一歩だけこはるに近づいた。
「今日はもう帰って」
「え?」
「これ以上ここにいると、ほんとうに気づかれる」
「もう十分気づかれてる気がするんだけど」
「まだ浅いから大丈夫」
浅いって何、と聞き返す前に、風が吹いた。
その風に揺らされるように、拝殿の鈴が小さく鳴る。
りん、と。
澄んだ音だった。
夕方の空気を一筋だけふるわせるような、細くてきれいな音。
こはるはその音を聞いて、なぜかすぐに口をついて出た。
「……すず」
少女が目を瞬く。
「え?」
「名前……ないんでしょ」
こはるは自分でも少し驚きながら続けた。
「今……鈴の音がしたから、なんか……あなたに似てる気がして」
少女はしばらく黙っていた。
まるで、初めて自分のものになる言葉を受け取ったみたいに。
「すず……」
小さく、確かめるように繰り返す。
「うん。嫌なら別のでもいいけど」
「ううん」
少女――すずは、初めて少しはっきり笑った。
「すず……すずがいい」
その笑い方は静かなのに、さっきまでよりずっと人らしかった。
「じゃあ、決まり」
「ありがとう、こはる」
名前を言っただけなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
「こはる、明日も来て」
「また急に」
「日が傾くころに。昼じゃなくて、夕方」
「なんで?」
「こはるには、あわのうたが聞こえたから」
「それ、どういう意味?」
「まだ全部は言えない」
すずは首を横に振る。
「でも、この町で散ってしまったものを集めるには、あなたが必要」
散ってしまったもの。
歌のことだろうか、神さまのことだろうか、聞きたいことは山ほどあった。
けれど、またどこかであの曖昧な笑い声がした。
今度は少し近い。
すずの表情がきゅっと引き締まる。
「帰って、石段で振り返らないで」
「え?」
「絶対に」
その声だけが、急に冷たく真剣だった。
「……分かった」
「また明日、こはる」
「また明日、すず」
自分でつけた名前を口にした瞬間、それが最初から彼女の名前だったみたいにしっくりきた。
こはるは石段へ向かう。
背中に視線の気配を感じても、振り返らない。
一段、また一段。
町の音が少しずつ戻ってくる。
鳥居をくぐった瞬間、遠くで人の笑い声が聞こえた。
続いて蝉の声、車の音、誰かの話し声。
こはるは思わず振り返る。
境内は、何事もなかったみたいに静かだった。
ただ、さっきまで確かにそこにいたはずのすずの姿は、もう見えなかった。
店に戻るころには、町は夕方の色に変わっていた。
西日を受けた小町通りは、昼より少しやわらかい。浴衣姿の観光客や、アイスを食べる子どもたちが行き交っている。
ほんの少し前まで、人の気配が丸ごと消えた場所にいたなんて信じられない。
「おかえり」
祖母が店先で打ち水をしていた。
「うん」
「少しは町に慣れた?」
「……まだ分かんない」
こはるは靴を脱ぎながら、何気ないふりで尋ねる。
「ねえ、この辺って小さい神社たくさんあるの?」
祖母の手が、ほんの少し止まった。
「あるよ。鎌倉はそういう町だもの」
「今日、ひとつ見つけた」
「そう」
それ以上、祖母は詳しく聞かなかった。
けれど、桶を脇に置いたあとでぽつりと言った。
「古い社はね、ときどき人を選ぶんだよ」
「人を選ぶ?」
「入っていい人と、あんまり深く入らない方がいい人」
こはるは黙る。
「まあ、無事に帰ってきたなら、それでいいけどね」
祖母は軽く笑って言ったが、その目は少しだけ本気だった。
夜になっても、なかなか眠れなかった。
障子の向こうで風が鳴る。
知らない町の夜の音は、いつもの自分の部屋より少し広くて、少しだけ心細い。
白い服。
黒に近い髪。
古めかしい話し方。
あわのうた。
境が降りる。
どれも変だ。
どれもおかしい。
なのに、怖さより先に、明日も行きたいと思っている自分がいた。
【すず】
名前をつけたときの、あの子の顔を思い出す。
うれしそうだった。
少なくとも、そう見えた。
そのとき。
耳の奥で、かすかに歌がした。
遠く、遠く。
たしかに、昼に聞いたあの旋律だった。
こはるは息をのむ。
窓の外を見ても、もちろん誰もいない。
ただ夏の夜があるだけだ。
それでもその歌は、夢と現のあいだみたいな場所から、たしかに……こはるを呼んでいた。
夏が、静かに動き出していた。




