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あわのうた  作者: ナオ
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1/8

1話「夏の始まり」

 鎌倉に着いた朝、こはるは駅を出たところで思わず立ち止まった。

 

 まぶしい、と思ったのは日差しのせいだけじゃなかったのは、空が広い。

 駅前を抜けていく人の流れも、土産物の旗も、遠くから混じってくる潮の匂いも、東京で過ごす夏とは何もかも少しずつ違っている。

 

「こはる、ぼんやりしてると置いてくよ」

 

 祖母の声に、こはるは慌ててキャリーケースの持ち手を握り直した。

 

「待ってってば」

 

 祖母は小柄なのに歩くのが早い。

 背中は小さいのに不思議と見失いにくくて、人混みの中でもすいすい進んでいく。

 

 この夏、こはるは鎌倉で過ごすことになった。

 母方の祖母が営む甘味処を手伝うためだ。

 

 きっかけは単純だった。

 

 祖母が「夏は忙しいから、少し手伝いに来ないかい」と言い、母が「どうせ予定もないんでしょ」と言い、気づけば話が決まっていた。

 

 最初は少し面倒だった。

 けれど、十七歳の夏休みが始まってみると、何も決まっていない1か月は思ったより広かった。

 学校もない。

 特別な約束もない。

 家にいても、毎日がぼんやりと同じ形で過ぎていきそうだった。

 だから来た。

 

 何かを変えたいわけじゃなかった。

 ただ、少しだけ違う風の吹く場所に行きたかった。

 

 小町通りに入ると、賑わいはさらに濃くなった。

 焼きたてのせんべいの匂い、甘いわらび餅の匂い、カメラを構える観光客の声、日傘の色、風鈴の音も、通りそのものが夏祭りの続きみたいにきらきらして見える。

 

「すごい人……」

 

「このくらいで驚いてたら、夏の鎌倉じゃ働けないよ」

 

 祖母はそう言って、暖簾(のれん)のかかった一軒の店の前で止まった。

 

 木の引き戸に、深い藍色の暖簾。

 店先には朝顔の鉢が並び、古い硝子戸の向こうに、落ち着いた木の机と椅子が見える。

 

 看板には、【甘味処おか野】と書かれていた。

 

「ふふ、名前そのまんま」

 

「おじいちゃんがつけたの」

 

 祖母はそう言って、店の戸を開けた。

 中は外よりずっと涼しかった。

 木の床は丁寧に磨かれ、壁の柱時計が静かに時を刻んでいる。

 奥からは小豆を炊いた甘い匂いがして、胸の奥がゆっくりほどけていくみたいだった。

 

「今日からよろしくお願いします」

 

 こはるが少しだけ背筋を伸ばして言うと、祖母は笑った。

 

「そんなに固くならなくていいよ。お盆を落とさず運べれば、初日は合格」

 

「それ、最初から失敗する前提で言ってる?」

 

「高校生なんて大体そういうもん」

 

 そう言われて、こはるは思わず笑った。

     

 お店の午前中は、思っていたよりずっと忙しかった。

 

 白玉あんみつ、抹茶パフェ、ところてん、かき氷。

 

 祖母が作る甘味は見た目にもきれいで、観光客にも地元の常連にも人気らしく、こはるは言われるままに水を出し、注文を取り、お茶を運び、空いた器を下げた。

 

 慣れないことばかりで、最初は足がもつれそうになったけれど祖母は怒鳴ることもなく、「次はそっち」「そのお客さんには黒蜜も」と手短に指示するだけだった。

 

「お姉さん、これすごくおいしい」

 

 かき氷を前にした小さな女の子がそう言って笑う。

 

 その顔に、こはるは自然に笑い返していた。

 

 昼を少し過ぎた頃、最後の客が帰った。

 祖母が暖簾を下ろし、ようやく店に静けさが戻る。

 

「お疲れさま」

 

「つ、疲れた……」

 

 こはるがカウンターに手をつくと、祖母が氷の入った麦茶を差し出した。冷たいコップが気持ちいい。

 

「初日にしては上出来だよ」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとほんと」

 

 こはるは麦茶を飲み干して、大きく息をついた。

 昼過ぎに店を閉める。午後は片づけや仕込みにあてるため、客は取らないのだという。

 

「午後はどうすればいい?」

 

「好きに散歩でもしておいで。海でもいいし、八幡さまのほうへ行ってもいい。暗くなる前には戻ること」

 

「子どもじゃないんだけど」

 

「夏の土地は年齢に関係なく人を迷わせるの」

 

 祖母は湯呑みを拭きながら、さらりと言った。

 

「何それ」

 

「何でもないよ。行っておいで」

 

 意味ありげだったけれど、それ以上は聞かなかった。

     

 午後の鎌倉は、午前よりも光が濃い。

 

 こはるは店を出て、小町通りをのんびり歩いた。

 食べ歩きの列を避けながら雑貨屋をのぞき、涼しげな風鈴に足を止める。

 風が吹くたび、ちりん、と澄んだ音が鳴った。

 

 人は多くてどこまでも賑やかだ。

 

 けれど、そのすぐ脇に古い石段や木立の影が口を開けているのが、鎌倉という町なのだろう。

 

 こはるは気づけば大通りを外れ、少し静かな坂道を歩いていた。

 

 商店の声は遠ざかり、蝉の声が近くなる。

 

 石垣の上に伸びた木々が、陽の光を細かく揺らしていた。

 

 そのとき、小さな石段が目に入った。

 

 上には古びた鳥居がひとつ。

 

 観光ガイドに載るような大きな神社ではなさそうだった。

 ……人の気配もない。

 

 少しだけ迷ったあと、こはるは石段を上った。

 

 一段、また一段。

 

 上るほど、町の音が遠のいていく。

 

 境内に入ると、空気が変わった。

 

 暑さはあるのに、熱の質が違う。

 木陰の匂い、湿った土の匂い、どこかで落ちる水の音。


 さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。

 

 そして、その静けさの中に、歌があった。

 

 こはるは足を止める。

 

 最初は風の音かと思った。

 けれど違う。

 誰かが歌っている。

 言葉になりそうでならない、けれど耳の奥にひっかかる不思議な節回し。

 懐かしいようで、知らないはずの旋律だった。

 

 引かれるように、こはるは拝殿の裏手へ回った。

 

 少女がいた。

 白い服を着ていた。

 巫女装束にも少し似ているけれど、もっとやわらかくて、昔の衣のようでもある。

 

 袖は広く、風を含んで静かに揺れていた。

 

 髪は黒に近い。

 ただ真っ黒ではなく、木漏れ日の当たるところだけ、少し薄い茶を帯びて見える。


 長さは肩に触れるくらいで、すっきりと短めだった。


 白い服の印象は強いのに、髪の色のせいか幽霊じみた感じはしない。

 

 ちゃんとそこに立っている、人の輪郭がある。

 けれど、今の景色の中で彼女だけが少し古い時間から来たみたいに見えた。

 

 少女は小さな社の前で歌っていた。

 こはるは息をのんだまま、その声を聞く。

 やがて歌がやみ、静けさが落ちた。

 

 少女が振り向く。

 

 目が合った。

 

 その目は黒にも焦げ茶にも見える、深い色だった。


 海ではなく、水底に近い静けさを宿している。

 

「……聞こえたの?」

 

 先に口を開いたのは少女の方だった。

 

「え?」

 

「いまの歌」

 

「う、うん……聞こえたけど」

 

 その答えに、少女はほんの少し目を見開いた。

 

 それから、安堵したように小さく息をつく。

 

「そう」

 

「何、その反応」

 

「聞こえる人、あまりいないから」

 

 声は静かだった。年はこはると同じくらいか、少し下に見えるのに、言葉の選び方は妙に落ち着いていて古風だ。

 

「ここで何してたの?」

 

「歌ってた」

 

「それは見れば分かるよ。あの歌、何?」

 

 少女は社の方へ目を向ける。

 

「あわのうた」

 

 初めて聞くのに、その響きはなぜかすんなり胸に落ちた。

 

「あわのうた?」

 

「忘れられていく歌」

 

「神社の歌みたいなもの?」

 

「少し違う」

 

 そう言って、少女はわずかに首をかしげた。

 

「あなた、この町に来たばかりでしょう」

 

「なんで分かるの」

 

「海の風になじんでないもの」

 

 変なことを言う子だと思った。

 けれど馬鹿にされている感じはしない。

 ただ本当にそう見えているのだろう、と不思議と思えた。

 

「名前は?」

 

 聞かれて、こはるは答える。

 

「こはる」

 

「……こはる」

 

 その呼び方が妙にやさしくて、こはるは少しだけ息を詰めた。

 

「あなたは?」

 

 聞き返すと、少女は少し黙った。

 

「まだ、ない」

 

「ないって、名前が?」

 

 少女はうなずく。

 

「そんなことある?」

 

「今はそれで足りてるから」

 

 冗談を言っているようには見えなかった。

 

 けれど本気とも思えない返事で、こはるは眉を寄せた。

 

 そのときだった。

 

 拝殿の方から聞こえていたはずの、誰かの足音や話し声が、ふっと消えた。

 

 こはるははっとして振り向く。

 

 さっき石段を上るとき、下の方にはたしかに何人かいたはずの、参拝客らしい人影も、境内を横切る人も見えた。


 なのに今は、どこにも誰もいない。

 蝉の声まで遠のいていた。

 風の音だけが、やけに近い。

 

「……人、いなくなった」

 

 こはるの声が小さく震える。

 

 少女は騒がず、ただ境内の奥を見たまま言った。

 

「境が降りたの」

 

「さかい……?」

 

「人のいる場所と、神さまの気配が濃い場所。そのあいだにある見えない境目が、いまだけ近くなるの」

 

 こはるは黙って少女を見る。

 

「そうすると人はそこにいても触れられなくなるしこっちからも、向こうからも、見えなくなったみたいに思うけど、ほんとうは少しだけ、重なる場所がずれただけ」

 

 何を言われているのか、すぐには理解できなかった。

 

 理解したくない、の方が近いかもしれない。

 

「じゃ、じゃあ、みんなどこかに消えたわけじゃないの?」

 

「消えてないよ。事が済めば戻る」

 

「怖いことを、さらっと言うね」

 

 こはるがそう言うと、少女はわずかにこっちを見て、かすかに笑った。

 

「でも今は、神さまの話を聞くにはちょうどいいでしょう」

 

 その直後、どこかで誰かが笑った。

 子どもでも大人でもない、曖昧な声。

 木々の奥から響いた気がしたのに、姿は見えない。

 

 ぞくりと背中が粟立つ。

 

「な、何いまの」

 

「見ないで」

 

 少女はそう言って、一歩だけこはるに近づいた。

 

「今日はもう帰って」

 

「え?」

 

「これ以上ここにいると、ほんとうに気づかれる」

 

「もう十分気づかれてる気がするんだけど」

 

「まだ浅いから大丈夫」

 

 浅いって何、と聞き返す前に、風が吹いた。

 その風に揺らされるように、拝殿の鈴が小さく鳴る。

 

 りん、と。

 

 澄んだ音だった。

 夕方の空気を一筋だけふるわせるような、細くてきれいな音。

 

 こはるはその音を聞いて、なぜかすぐに口をついて出た。

 

「……すず」

 

 少女が目を瞬く。

 

「え?」

 

「名前……ないんでしょ」

 

 こはるは自分でも少し驚きながら続けた。

 

「今……鈴の音がしたから、なんか……あなたに似てる気がして」

 

 少女はしばらく黙っていた。

 まるで、初めて自分のものになる言葉を受け取ったみたいに。

 

「すず……」

 

 小さく、確かめるように繰り返す。

 

「うん。嫌なら別のでもいいけど」

 

「ううん」

 

 少女――すずは、初めて少しはっきり笑った。

 

「すず……すずがいい」

 

 その笑い方は静かなのに、さっきまでよりずっと人らしかった。

 

「じゃあ、決まり」

 

「ありがとう、こはる」

 

 名前を言っただけなのに、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

「こはる、明日も来て」

 

「また急に」

 

「日が傾くころに。昼じゃなくて、夕方」

 

「なんで?」

 

「こはるには、あわのうたが聞こえたから」

 

「それ、どういう意味?」

 

「まだ全部は言えない」

 

 すずは首を横に振る。

 

「でも、この町で散ってしまったものを集めるには、あなたが必要」

 

 散ってしまったもの。

 歌のことだろうか、神さまのことだろうか、聞きたいことは山ほどあった。

 

 けれど、またどこかであの曖昧な笑い声がした。

 今度は少し近い。

 

 すずの表情がきゅっと引き締まる。

 

「帰って、石段で振り返らないで」

 

「え?」

 

「絶対に」

 

 その声だけが、急に冷たく真剣だった。

 

「……分かった」

 

「また明日、こはる」

 

「また明日、すず」

 

 自分でつけた名前を口にした瞬間、それが最初から彼女の名前だったみたいにしっくりきた。

 

 こはるは石段へ向かう。

 

 背中に視線の気配を感じても、振り返らない。

 

 一段、また一段。

 

 町の音が少しずつ戻ってくる。

 

 鳥居をくぐった瞬間、遠くで人の笑い声が聞こえた。

 

 続いて蝉の声、車の音、誰かの話し声。

 

 こはるは思わず振り返る。

 

 境内は、何事もなかったみたいに静かだった。

 

 ただ、さっきまで確かにそこにいたはずのすずの姿は、もう見えなかった。

     

 店に戻るころには、町は夕方の色に変わっていた。

 

 西日を受けた小町通りは、昼より少しやわらかい。浴衣姿の観光客や、アイスを食べる子どもたちが行き交っている。

 

 ほんの少し前まで、人の気配が丸ごと消えた場所にいたなんて信じられない。

 

「おかえり」

 

 祖母が店先で打ち水をしていた。

 

「うん」

 

「少しは町に慣れた?」

 

「……まだ分かんない」

 

 こはるは靴を脱ぎながら、何気ないふりで尋ねる。

 

「ねえ、この辺って小さい神社たくさんあるの?」

 

 祖母の手が、ほんの少し止まった。

 

「あるよ。鎌倉はそういう町だもの」

 

「今日、ひとつ見つけた」

 

「そう」

 

 それ以上、祖母は詳しく聞かなかった。

 

 けれど、桶を脇に置いたあとでぽつりと言った。

 

「古い社はね、ときどき人を選ぶんだよ」

 

「人を選ぶ?」

 

「入っていい人と、あんまり深く入らない方がいい人」

 

 こはるは黙る。

 

「まあ、無事に帰ってきたなら、それでいいけどね」

 

 祖母は軽く笑って言ったが、その目は少しだけ本気だった。

     

 夜になっても、なかなか眠れなかった。

 

 障子の向こうで風が鳴る。

 

 知らない町の夜の音は、いつもの自分の部屋より少し広くて、少しだけ心細い。

 

 白い服。

 黒に近い髪。

 古めかしい話し方。

 あわのうた。

 境が降りる。

 

 どれも変だ。

 どれもおかしい。

 

 なのに、怖さより先に、明日も行きたいと思っている自分がいた。

 

 【すず】

 

 名前をつけたときの、あの子の顔を思い出す。

 

 うれしそうだった。

 少なくとも、そう見えた。

 そのとき。

 耳の奥で、かすかに歌がした。

 遠く、遠く。

 

 たしかに、昼に聞いたあの旋律だった。

 

 こはるは息をのむ。

 

 窓の外を見ても、もちろん誰もいない。

 

 ただ夏の夜があるだけだ。

 

 それでもその歌は、夢と現のあいだみたいな場所から、たしかに……こはるを呼んでいた。

 

 夏が、静かに動き出していた。

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