【07】 侯爵令嬢、王都に入る
「どうですか? 寒くはありませんか?」
「……大丈夫です」
「ほら、顔を上げてください。貴女からしがみついてくれるのはたいへん嬉しいのですが……。美しい森と湖が広がっていますよ」
「ちょっとムリ……です」
瞼をぎゅっと閉じたルクレツィアのか細い声を聞くと、大きな漆黒の翼を優雅に、それでも力強く羽ばたかせるリゲルは妖艶に口角を上げた。
「そんなことを言わないで。絶対に貴女を落としたりはしませんから」
ルクレツィアはリゲルの腕に抱かれて空を飛んでいた。片腕にルクレツィアを腰かけさせ、もう片方の腕はしっかりと細い腰を囲っていた。
王都ミリアッシュまでは歩いて三ヶ月以上はかかるという事実に絶句したルクレツィアに、リゲルが提案をしたのだった。「私なら今日中に王都へと運んでさしあげますよ」と。
地上よりもはるかに近い陽光を反射して、キラキラと輝いているルクレツィアの銀色の髪は風に乗って後方へと流されていく。
耳元では風が轟々と渦を巻き、絶え間なく、低く高くと唸っていた。帽子は飛ばされてしまわないように鞄の中にある。
ルクレツィアは高い場所が苦手だ。
必死にリゲルの首に腕を回してぎゅうぎゅうとしがみついている。今も、手のひらにはじわりと汗が滲んでいる。
それでもリゲルの言葉に興味を引かれて……恐る恐るうっすらと瞼を開けた。
その紅い瞳に映ったものは……眼下に広がる広大な深い緑色の森だった。その森の中央には大きな碧い湖がある。湖面は真っ青な空の色を切り取ったかのようにきらきらと光り、薄い青色の部分は宝石のアクアマリン、濃い部分はまるでサファイアのようで……。
「なんて素敵……」
思わずつぶやいた。
「ね、きれいでしょう?」
「ええ。それに……世界はとっても広いのね」
森は果てることがないように続いているにもかかわらず、その遥か向こうには連なる山々の影が灰色に霞んで聳えている。眼下の平原のなかに延びる街道沿いに、村や町の塊がまだ遠くではあるが点々と見えた。
リゲルはこんなに天高く飛んでいるのに、青い空はまだまだ高い。
顔を上げれば、甘く蕩けそうにしてルクレツィアを見つめている蜂蜜色の瞳。
「ちゃんと……前を見てください」
「大丈夫ですよ。目を瞑っていても飛べますから」
そう言って瞼を閉じたリゲルは、わざと左右にバランスを崩した。
「きゃあ!」
身体の中心が崩れ、中身がフワッと浮く感覚。ルクレツィアは堪らずにリゲルの首に回した腕にさらにぎゅっと力を入れた。必死につかまって抗議をする。
「お願いよ! ちゃんと飛んで!」
「ふふっ。……貴女からこんなにも熱く抱き締めてもらえるなんて……役得ですね」
なにやら不穏なものを感じたルクレツィア。こんな風にからかわれては身がもたない。
「それ以上やったら……絶対に城へは行かないから!」
そう叫ぶとさらに必死でリゲルにつかまった。
「それは困りますね。……では、きちんと飛んでいたら城へ来てくれるのですね?」
耳元で囁かれるのは甘い罠。
「……っ! それは……」
「約束しましたよ。ルクレツィア」
「……あなた、ずるいわ」
悪戯な眼差しで微笑んだリゲルだったが、ルクレツィアに有無は言わせなかった。
「さあ、少し飛ばしますよ。もっとしっかりつかまっていてくださいね」
✧・゜: *
徒歩では三ヶ月以上の距離を、リゲルは本当に一日もかからずに飛んでしまった。
夕闇に紛れながら、王都を取り囲む壁の陰に降り立つ。地面に足を着けると、感覚がもどらずにふらりとバランスを崩してしまった。
「大丈夫ですか?」
伸ばしたリゲルの腕に支えられる。
さすがにルクレツィアを抱き抱えての飛行では疲れたのではと、ちらりとリゲルを見上げるものの疲れた様子は微塵もない。
「どうかしましたか?」
やわらかく微笑む蜂蜜色の瞳。
「……なんでもないわ。あの……ありがとう……」
ルクレツィアは下を向いて、鞄から帽子を取り出した。
王都ミリアッシュへの入都審査を行う門の両脇には篝火が焚かれている。
その付近には審査を待つための旅人や、商人の列ができていた。
ルクレツィアとリゲルも最後尾と思しき場所に並ぶ。
(入都審査の際に尋ねられるのは名前と目的よね……)
名前は偽名を名乗ればいい。目的は鞄の中にある宝石や衣類を売るため……つまり商売のためと答えれば大丈夫だろう。
しばらく待つとルクレツィアたちに番が廻ってきた。
「どこから来た? 名前は? 目的は?」
いかにも屈強そうな、厳めしい面構えをした門番の兵が威圧的に質問をよこす。
ルクレツィアは銀の髪を隠した帽子の鍔を深く下げて声を低くし、平然を装いながら答えた。
「僕はルクレ。行商人です。カイゼリア王国から来ました」
「ふうん……」
門番は割れた顎に指を置いて、ルクレツィアを観察している。
「私は兄のリゲルです。王都へは商売をするためにきました」
「……」
じろりとリゲルを睨み、ルクレツィアとリゲルを交互に見比べる門番。
「……入都を許可する」
「ありがとうございます」
ルクレツィアが手早くお辞儀をして門の橋を渡ろうとしたときに「待て!」と、門番の鋭い声が飛んだ。
びくりと足を止めるルクレツィア。早くなった心臓の鼓動を抱えて恐る恐る振り返る……。
門番はリゲルに忠告した。
「おい、兄ちゃん。弟の身なりにもう少し気を使ってやれ」
✧・゜: *
なんとか潜り込んだ王都。
陽はとっぷりと暮れ落ちていたが、路地裏までも人で溢れた街は、夜はまだ始まったばかりだとでもいうように活気に満ちていた。
たくさんのランタンの燈は店先や路地を明るく照らしている。
路地には地面に敷いた布の上に所狭しと商品を広げ、露店を開いている旅装束の行商人たちがいる。
食堂と思しき看板を掲げた店の中からは、陽気な笑い声が聞こえてくる。
肉や魚、粉を焼いた芳ばしい匂いも漂っている。
侯爵邸に半ば閉じ込められていたルクレツィアにとっては、見るものもすべてが珍しい。
行き交う人々の表情も明るく力強い。
(なんだかとっても楽しそう……)
まずは今夜の宿を探さなくてはならないが、ルクレツィアは王都の喧騒に充てられていた。生まれ育った国を追放されたにもかかわらず、久しぶりに胸の高鳴りを覚えていた。




