【06】 侯爵令嬢、驚愕する
「はい、どうぞ」
「……ありがとう」
リゲルから強引に押し付けられた銀の皿を受け取り、膝の上にのせたルクレツィアは逡巡していた。
芳ばしい焼き立てのパン、甘酸っぱい香りを振りまく青林檎と紅林檎。鮮度の良いぱりっとした葉物野菜と豆や櫛形に切られたトマトの上には、煎ってから細かく砕いたナッツが振りかけられている。きれいに巻いて焼かれた黄金色の玉子に、ほどよく脂のついた厚切りの鴨肉など。それらは皿からこぼれ落ちそうなほどに盛られていた。
どれもこれもまるでルクレツィアに「早く食べて! 美味しいよ!」とでもいうように、艶々と輝いている。
ルクレツィアのお腹と背中は、ぴたりとくっついてしまいそうなほどに空いていた。
(だけど……これは食べてもいいものなの?)
仮にも悪魔が用意した食事。見た目は人間界の食物と同じ物のように見える。
(……魔界の食べ物なのよね? それに、食べてしまったら……)
「大丈夫ですよ。安心して召し上がってください。魔界でも食べ物は一緒ですし、魅了の魔法も盛っていませんから」
まるでルクレツィアの心を読んだかのように、リゲルは甘く囁く。
(魅了……。さっきは媚薬とも言っていたわよね。とっても怪しいわ)
「これを食べたら……わたしは貴方と契約を交わしたことになるの?」
ルクレツィアは蜂蜜色の瞳を上目で見ながら、一番の懸念を口にする。
「契約……ですか?」
怪訝そうにリゲルは首をかしげた。
「そうよ。だって貴方はわたしに契約をさせて、魔界の城へと連れて行きたいから跡をついてくるのでしょう?」
きょとんとした表情をしたリゲル。それから慌てて、首と両手を激しく左右に振った。
「違いますよ! ルクレツィア、私は貴女に……純粋に一目惚れをしたのです」
「一目惚れ……?」
一瞬、なにを言われたのか理解することが出来なかった。
「貴女のその感情を押し殺し、抑圧した昏く紅い瞳。月のない夜空に浮かぶ星の輝きのようなきらきらしい銀の髪。くわえてすべてを諦めたような暗いオーラ。貴女のすべてが私の好みなのです!」
(……それは、褒められているの?)
リゲルの細くて長い指が、ルクレツィアの白い指を絡めとる。
「しかしながら、カイゼリア王国では聖女の結界の力が強くて。私でさえ召還されない限りはカイゼリア王国内に入ることは難しかった……。ですが……貴女のほうから国を出てきてくれるなんて……! 本当に夢のようです」
瞳の蜂蜜色が深くなり、潤んだように蕩けだす。ぐっと顔が近づいてくる。絡ませた指といい、いろいろと圧が強い。
(……悪魔は誘惑するために甘言を使うと聞いたわ)
「ちょっと、手を離して」
「いいえ。絶対に、二度と離しません」
瞳を閉じたリゲルの艶々とした唇がルクレツィアの指先に触れる。
ルクレツィアは反射的に手を引っ込めようとしたが、しっかりと握られていてそれはかなわない。
やわらかい唇のくすぐったい感触に、思わず頬を染めた。
(悪魔なのに……っ!)
婚約者だったカイン第二王子にさえ、ほかの男性にさえ、もちろんそんなことはされたことはない。
初めのころこそはルクレツィアに会いに、熱心に侯爵邸に通っていたカイン第二王子だった。
しかしそのうちに、ルクレツィアはカイン第二王子が侯爵邸に訪れていることさえ知らされなくなった。
侯爵の指図なのかティアの策略か。今となっては判るはずもない。
そんな状態でルクレツィアとカイン第二王子との親交が成り立つはずはない。その間にティアはカイン第二王子との仲を深めていったのだ。
瞳と同じに紅く染まったルクレツィアの頬。それを確認すると、リゲルは満足そうに妖艶に微笑んだ。
✧・゜: *
結局は空腹の誘惑に負けたルクレツィア。
皿に盛り付けられた食べものを半ば自棄気味にすべて食べきった。
口に入れた林檎は果汁たっぷりで驚くほど甘く、野菜はしゃきしゃきと瑞々しい。パンの外側はさっくりと芳ばしく、中はやわらかい。バターの香りも口の中に広がる。玉子は口の中でとろけ、鴨肉からは濃厚な旨味と風味が溢れだす。適度な歯応えと塩加減も絶妙だ。驚いたことに、魔界産の食べ物だというのに、どれもこれもが美味しかった。
侯爵邸の食事も味は良いことには違いなかったが、同じテーブルについていても、ルクレツィアはいないも同然の扱いになっていた。
ティアとその母親と侯爵。その輪の中にルクレツィアはいなかった。早くその場を去りたくて、食事は砂を噛んでいるようだった。
(忘れていたわ……。誰かと食事をするのって、ひとりのときよりも、もっと美味しく感じるものなのね。たとえそれが悪魔だったとしても)
リゲルは美味しそうにフォークを口に運ぶルクレツィアを嬉しそうに眺めていた。時折、餌付けをするようにルクレツィアの口元にトマトや鴨肉を載せたフォークを運ぶ。
「はい、あーんして」
「じ、自分で食べられます」
あまりの子ども扱いにルクレツィアはじとっと上目で睨むが、リゲルはにこにこと微笑みながらも、一向にフォークを引っ込めない。
「はい、あーん」
根負けしたルクレツィアは戸惑い、恥ずかしいながらも小さく口を開ける。フォークは桃色の唇の隙間に滑り込むと、ルクレツィアはもぐもぐとゆっくりと顎を上下させる。
リゲルはそんな様子を嬉しそうに眺めながら、ルクレツィアと一緒の食事を楽しんだ。
✧・゜: *
「ところで、どこへ向かっているのですか?」
「王都よ」
食事を終えるとまた、門番に教えてもらった方角 ── 南に歩きだす。
リゲルの持ってきた朝食入りのバスケットは、ルクレツィアが食べ終わると、飛んできた数羽のカラスがどこかへと運んでいった。
「なぜ王都に?」
「決まっているじゃない。宿をとって仕事を探すんです。野宿なんてできないですから」
「……そんなことをする必要はありませんよ。我が城に行きましょう」
「行きません」
「なぜです?」
「なぜって……だって、あなたは悪魔だし、城は魔界にあるのでしょう?」
そのような当たり前のことをなぜ訊くのか?
ルクレツィアは逆に問い返す。
「魔界とはいえ、人間界とさして変わったところはないですよ? それに貴女はもう、ここには未練もないでしょう?」
その言葉にはたと足を止めるルクレツィア。
(未練……)
リゲルにそう言われてみると、確かに自分がこの世界にいる理由はないように思えた。
もし、魔界へ行ったとしたら……。
こちらにある亡き母の墓に参ることはできなくなる。フローラたちにも会えなくなる。
しかし、追放されて国にもどれない身ならば……。それなら……魔界に行っても同じことではないのか?
母の墓の維持についての心配はないだろう。侯爵がいくらぞんざいに考えていようとも、管理は侯爵家付きの墓守がいる。気がかりなのは、フローラたちだけだ。
(わたしが魔界に行ったなら……フローラたちは悲しむかしら? だけど、もし……本当にリゲルがわたしを大切にしてくれるのなら……喜んでくれるのかもしれない)
ルクレツィアはじっとリゲルの蜂蜜色の瞳をみつめた。
「……城へ行く気になってくれましたか?」
手を差し出したリゲルは妖しく微笑む。
ルクレツィアの紅い瞳は、一瞬だけ迷うように揺れた。
(でも、やっぱり……。リゲルは悪魔なのよ)
「……いいえ。行かないわ。それよりも足が痛くなってきたから、少し休むわね」
ルクレツィアは周囲に大木を見つけると、木の幹に背中をもたせて座りこむ。
リゲルもついてきて隣に腰を下ろした。
かなりの距離を歩いたように思うが、周りには森と草原が延々と続いている。ほかの村や町も一向に見えてはこなかった。
「いつになったら着くのかしら……」
足元に広がって咲く、小さな黄色い花がそよ風に揺れる。
侯爵邸にいるときには、見たこともなかった可愛らしい小さな花。その花を眺めながら、ふと漏れたつぶやきにリゲルはしれっと答える。
「この地方はルミリア王国の末端ですからね。王都のミリアッシュまでなら馬車でも二十日はかかります。貴女の足なら……ゆうに三ヶ月以上はかかるでしょうね」




