【04】 侯爵令嬢、魔界へと誘われる
『魔界へと誘われる』
(堕天使……! 魔界の公爵!?)
漆黒の翼は悪魔の印だ。
天から堕ちるときに、純白の翼は深淵の闇に染まる。
(悪魔と取り引きをしたと濡れ衣を着せられた次の日に、まさか本物の悪魔に出会うなんて……!)
ルクレツィアの心臓の鼓動が速くなる。ごくりと唾を飲み込んだ。
『一緒に参りましょう。わたしの城へ』
たった今、この悪魔 ── リゲルが言ったことはどういう意味なのか。このまま魔界に拐われてしまうのだろうか。
優雅に手を差し伸べたまま、リゲルはやわらかな眼差しをルクレツィアに向けて微笑んでいる。
その笑顔と、堕天の証拠の禍々しい漆黒の翼は……とても似つかわしくない。それがルクレツィアの背筋をさらに冷やした。
本能的にじりっと後退る。
(……悪魔とかかわってはいけない。逃げなくちゃ!)
ルクレツィアの出した答えはそれだけだった。
リゲルに背を向けて走り出そうとしたときに、素早く腕を捕まれる。
「どこへ行こうというのです?」
深い蜂蜜色の瞳がキラリと輝った。
✧・゜: *
「もう、ついてこないでください!」
「そんなことをいっても、夜は危険ですよ」
「貴方のほうが危険です!」
「ふむ……うまいことを言いますね」
リゲルのとぼけた言い種に苛立ち、思わず振り返る。
睨みつけたルクレツィアを、リゲルは蜂蜜色の瞳で優しく見つめ、ふわりと微笑む。
その笑顔は悪魔だとは思えないほど。明るくてやわらかくて……まるで尻尾を振ってついてくる仔犬のようだ。
(うっ……)
ルクレツィアはくるっと前を向き、怒りにまかせて早足で歩いた。
(もうっ! 信じられないっ! 悪魔に憑かれるなんて……!)
結局のところ、リゲルから逃げるのを失敗したあとは、こうやってずっと跡をついてこられている。無理矢理に魔界の城へ連れ去られるということもなかった。
朱の色から菫色に滲み始めた空は、もうすぐ深い紺色に変わろうとしている。月が昇りはじめているが、足元は暗い。
(とにかく完全に陽が落ちるまでに、なんとか村にたどりつかなくちゃ。野宿は危険すぎるわ)
「ルクレツィア。あまり急ぐと危ないですよ」
「余計なお世話です! ……きゃ!」
からまった草の葉に足をとられてしまう。
さっと腕を伸ばしたリゲルは、ルクレツィアの腰を支えた。
「ほら、ね?」
「……放してっ」
ルクレツィアはリゲルの手をパシッと振り払う。
「おやおや……。そんなに意地を張らずに。私の城へ一緒に参りましょうよ」
「嫌です!」
「頑固ですね。まあ、そんなところも可愛いですけど」
ルクレツィアはじろりとリゲルを一瞥する。
フローラたち以外には感情を表に出さないルクレツィアは、「可愛い」なんて言われることはない。
(この悪魔……なにを考えているの?)
無視して歩きだすが、リゲルはやはりぴたりと跡をついてくる。
「まったく、つれないですね」
森からは唸るような遠吠えが響いてくる。
狼なのか魔獣のものなのか。獣の遠吠えは、紺色の闇を不気味に縁取りはじめていた。
夜の世界が刻一刻と迫っている。
怖い ──
前方には獣。後方には悪魔だ。
ルクレツィアは痛む足を必死で、ただひたすらに前へと進めた。
もう陽はすっかりと暮れてしまった。
春先でも夜の風は冷たい。
月が天の半分まで昇ったころに、道の先に松明の炎が見えた。
(きっとあれが教えてもらった村だわ!)
歩き通した足の痛さは限界に近かったが、安堵と嬉しさのあまりに思わず走り出す。
近づくにつれて松明の炎は大きくなり、それが村を囲む石壁の上で燃やされていることがわかった。
村と外を分ける門は、頑丈そうな厚い木製の扉だった。蟻さえも一匹たりとも通ることができないほどに、隙間なくピタリと閉ざされている。
「すみません! 旅の者ですが、門を開けてもらえませんか!?」
石壁を見上げて声を上げる。
しかし、いくら待ってもなんの返事もない。
「すみません! どなたかいませんか!?」
扉をどんどんと叩くと、しばらくして石壁の上にランタンの明かりが二つ現れた。
「誰だ!?」
太い声が降ってくる。
翳されて揺れるランタンの明かりの下に見えたのは、ひとりは大柄な体格の人物だった。この村の門番だろうか。
「旅の者です! カイゼリアからきました。どうか門を開けて村へと入れてもらえないでしょうか?」
ルクレツィアを吟味するように、上方でランタンの明かりがゆっくりと回って揺れる。大柄な男は、もうひとつのランタンを持つ者となにかを話した。そのあとに。
「悪いが、夜は絶対に門は開けられねえ」
無慈悲な答えが返ってきた。
「そんな! 外では狼か魔獣に襲われるかもしれません! お願いします。どうか門を開けてください!」
「もしあんたが本当に人間なら気の毒だが。夜には門は開けねえ。この村の掟だ。……狼には気をつけるこったな」
ルクレツィアの必死の懇願も虚しく、二つのランタンの明かりはあっさりと消えてしまった。
「そんな……」
がっくりとうなだれたルクレツィア。あまりの疲労と徒労のためにその場に崩れるようにしてしゃがみこんでしまった。
その肩にリゲルは細く長い指を置くと、誘惑するかのように優しく囁いた。
「ここで一夜を過ごすのですか? 狼や……魔獣の餌食ですよ」




