【03】 侯爵令嬢、邂逅する
朝陽が昇ると ──
隣国ルミリア王国との国境となる砦の門が開かれた。
ダボダボのくたびれた男物のシャツを羽織り、ズボンの裾を幾重にもまくり上げ、新雪のようなきらびやかな銀髪を大きな鍔のある帽子の中へと隠したルクレツィア。
気の毒そうに彼女を見つめる騎士たちに見送られながら国境の門をくぐった。
肩にかけた古く汚れた鞄の中には、身に着けていたドレスと宝飾品が入っている。
護送を担当した騎士たちから事情を知らされた砦の騎士たちは、第二王子の独断により正式な裁判もなしに、即日少女ひとりで追放されることになったルクレツィアに同情を寄せていた。
ルクレツィアが悪魔と取り引きをしたかどうかは、彼らにはわからないことではあった。しかしながら、少なくとも裁判は開かれなければならない。法の平等性を守る気持ちは騎士らしく強かった。
騎士たちは、高価なドレスを着ていたらそれこそ盗賊の標的だからと、古くなったの男物の服と鞄をルクレツィアに与えた。
貴重品は肌身離さず持っているだとか、夜は火を織こして獣を近づけないように。知らない人にはついて行ってはいけない、むやみに人を信用してはいけないなど、まるで幼い子どもに諭して聴かせるような彼らに、ルクレツィアは感謝した。血のつながった身内ですらルクレツィアには関心がないのに、見ず知らずの自分を心配してくれることに胸が温かくなる。
騎士たちは持ち金を集めて、当座の資金としてルクレツィアに渡そうとしてくれた。だが、それは気持ちだけを受け取ることにして丁寧に断った。いざとなれば装飾品やドレスを売ればいいことだ。
砦から岩場の道を下り草原をぬける。右手側に現れる森を廻り込んだところに小さな村がある。そう教えてもらっていた。
長い距離を歩き慣れないルクレツィアの足では、半日以上はかかるかもしれないという。
(とりあえずは……そこを目指せばいいのね)
目印だった森が見えてくるころには、足は棒のように重くなり動かなくなった。
(これ以上はもう歩けない……)
ルクレツィアは近くの大木の下にふらふらと座り込むと、太い木の幹に背中を持たせた。
生い茂った緑の葉の隙間から空を仰ぐ。砦を出たときは東の低い位置にあった太陽は、すでに南天を回っていた。
季節は春。
暑過ぎず寒過ぎない、丁度よく気持ちのよい風は緑の枝を揺らして吹き抜けてゆく。長く歩いて汗ばんだ肌には心地よい。
水筒にわけてもらった水を飲み、包んでもらった固いパンをかじる。
(フローラたち、心配してる……わよね)
ルクレッツアは侯爵邸の侍女たちを想った。
しかし、今の自分の状況を伝える術はない。
パンで空腹が癒されると、張りつめていた気持ちはうららかな陽射しの中で弛んでしまった。
目に入っていたはずなのに、見えていなかった道ばたの春の草花たち。赤や白や桃色の可憐な小さな花びらは、そよ吹く風に揺れている。黄色や白色の蝶たちは、花から花へひらひらと渡っていた。
そんな穏やかな景色を眺めていたルクレツィアの唇がふっと微かに上がる。
木の幹に背中をあずけ、ルクレッツアは鞄を抱きかかえたまま、ゆっくりと瞼を閉じた。
✧・゜: *
「……お嬢さん。お嬢さん」
どこか遠いところから声が聞こえてくる。
ぼんやりと意識が浮上してきた途端に、両肩をゆっくりと軽く揺さぶられるような感覚を覚えた。
「こんなところで居眠りをしてると、身包みを剥がされてしまいますよ」
はっきりと耳に届いたその言葉に、はっとして目を開ける。
周囲はすっかり朱色に染まっていて、春のうららかな陽射しはとうに消えてなくなっていた。
寝不足のせいもあり、木の幹に寄り掛かったまま、つい、うとうとと眠り込んでしまったようだった。
(もう陽も暮れかかっている……! 夜までには村に辿りつかなくちゃいけなかったのに……!)
「お嬢さん……。大丈夫ですか?」
かけられた声にまたもやはっとして、ルクレツィアは目の前の者を凝視する。
片膝をついた美しい青年がこちらを心配そうに覗き込んでいた。
蜂蜜色の長い髪の毛はふわりと波を打っている。耳の横でひとつにまとめられたその髪は、胸の前に流されていた。髪と同じ蜂蜜色の瞳。きれいな二重の目尻は少し下がっていて、人懐こそうな印象を受ける。しゅっとした輪郭に磨かれた大理石のような肌。真っ直ぐな鼻梁と艶々とした柔らかそうな唇。細身だがしっかりとした体躯には、仕立ての良さそうな上着を羽織っていた。
その青年の穏やかな瞳は、ルクレツィアをじっと見つめている。
朱色を映した青年の瞳の蜂蜜色に、なんだか吸い込まれてしまいそうだ。
(まだ夢の続きを見ているのかしら? まるで王城に飾られている神々の彫像のような……)
「お嬢さん? じきに日が暮れますよ」
青年にかけられた言葉に現実に引きもどされる。
「……あ、声をかけてくださってありがとうございます。危うく寝過ごしてしまうところでした」
声を低く作り、帽子の鍔をさらに深く引き下げる。
立ち上がろうとすると、青年がふっと笑った。
「お遊びはここまでです。慣れない真似はおやめなさい。……ルクレツィア」
それと同時に、伸ばした手で帽子を取り上げられた。帽子の中に隠していた新雪のような銀色の髪がこぼれ落ちる。
「……なにをするっ!?」
突然のことに混乱するルクレッツア。
(なぜわたしの名前を知っているの!? そういえば、最初からお嬢さんと……)
茫然としたルクレツィアをよそにして青年は立ち上がった。
座り込んだままのルクレツィアに、優雅な仕草で手を差し出す。
「私はリゲル・フォン・アスタロト。魔界の公爵です。さあ、一緒に参りましょう。わたしの城へ」
帽子を取り上げられて視界の広がったルクレツィアの紅い瞳に映ったモノは……。
一面が朱く染まった夕焼けの中に立ち、にこやかに微笑む美しい青年。
そして、その背中にあるものは……一対の大きな美しい漆黒の翼だった。




