【20 最終話】 侯爵令嬢、歩きだす
「ルシア、おかえり。 待ってたよ!」
「大変だったな」
「やっともどりましたね」
「ルシア先生! おかえりなさい!」
「ただいま! みんな!」
ようやく帰ってくることができたルミリア王国の王都ミリアッシュ。
家の事情のために、突然に国へともどらなくてはならなかったと、リアラインから手紙を送ってはいた。だが、伝言ひとつを残して突然にいなくなったルシア。ミリアッシュに帰ってきても、もう受け入れてもらえないかもしれないという不安はあった。
それでもフィールやレジーにサイラス、手習い所の子どもたちは温かく笑顔で迎えてくれた。
しばらく離れていた彼らの明るい笑顔や笑い声は故郷のようにすでに懐かしく、ルシアの胸を温める。
「急に国へ帰らなければいけなくなってしまって……。迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい」
皆の顔を見てやっと謝ることができた。
「これからも、ここで働かせてください」
ルシアはお願いしますと頭を下げる。
「また『モリーシャの台所』に食べにいこうよ。ルシアのいない間に新しいメニューが増えてるんだよ」
「おう! ルシアの授業は親御さんたちにも評判がいいからな!」
「当たり前です。この数ヶ月間、ルシアがいなくて我々は忙しかったんですよ。その分も働いてもらわなくては」
「先生の授業わかりやすいよ!」
隣家の老夫婦に頼んだ伝言には「必ずもどります」と添えていたが、彼らはルシアを信じて本当に待っていてくれた。そのことはとても嬉しく、目頭に熱いものがこみ上げる。
「はい! たくさん働きます! わかりやすい授業もがんばります! これからもよろしくお願いします!」
ルシアとしてミリアッシュで暮らした日々。
それはカイゼリア王国の侯爵邸に閉じ籠っていたころとは、まったく違う毎日だった。
太陽の色も空の色も同じ。それでも同じ空の下とは思えないほどに、ルシアの見る世界は違っていた。
リゲルに抱えられて空を飛び、ミリアッシュまで連れてきてもらった。上空から眺めた世界は、空はどこまでも高く、大地はどこまでも続いていた。まるで果てのないように広がり、陽の光を受けて輝く空と大地。
ミリアッシュで出会った人々 ── 宿の女将さん、フィールたち、手習い所へ通ってくる子どもたち、『モリーシャの台所』の給仕や顔馴染み客など、通りを行き交う人々でさえ、それと同じ輝きを持っているようにルシアは感じていた。その輝きをルシアは美しいと思った。
彼らをきらきらと輝かせるものは、未来への希望と生活を楽しむ力強さ。それはルシアが持ってはいないものだった。
✧・゜: *
ルクレツィアがミリアッシュへともどる数日前 ──
「では、これにてすべての手続きを終了します」
カイゼリア王国の王城の一室。
最後の書類に羽ペンでルクレツィアが署名をすると、補佐に書類を渡しながら宰相は言った。
「本当にそれでよろしいのですか? 今ならまだ間に合いますが……」
心配そうにルクレツィアを見る。
「ご心配くださってありがとうございます。でも……これでいいのです」
ルクレツィアは宰相に曇りのない表情でにっこりと微笑った。
ルクレツィアの署名した書類には、ローライド侯爵家の財産相続権を、リヘンツィアの墓所を除いてすべて放棄する ── という内容が記されていた。
魔女裁判は迅速に行われた。
ティアの身体を検分したコーネリア聖女長は、頭髪に隠された頭皮に、悪魔との取り引きの証拠となる紋章が刻まれているのを見つけた。
ティアはルクレツィアへの暗殺首謀者として、教唆の罪も追加されていた。依頼した刺客はリゲルによって消されており、物的証拠はない。それでも重罪を犯した者に施される焼き印の刑もくわわった。ティアはその印を背負って生きていく。
ティアは最後まで認めなかった。散々に喚き散らし、泣いた。「わたしじゃない! 魔女はお姉さまよ! ぜんぶお姉さまが悪いのよ!」と、幼い子どもが癇癪を起こしているように無罪を叫んだ。
カイン第二王子にかけられた魅了の魔法は、リゲルによってすでに解かれていた。それでもティアへの恋情は、まだ心のなかに残っているらしかった。参考人としてティアの裁判に出廷したカイン第二王子は「ティアは違う。魔女じゃない」と、力なく項垂れながらもティアを庇っていた。
この裁判は正式な記録のためだけのものだ。先に行われた予備審問会において、すでにティアの罪は確定している。
速やかに有罪が言い渡さると、ティアは国外追放となった。
カイン第二王子は王位継承権を剥奪されていたものの、ルクレツィアに対して独裁的に解釈し、勝手な制裁を下した罪は重い。多少なりともティアの召還だした悪魔からの魔法の影響を受けているとはいえ、王家への信頼を損なう重大な過失だった。他貴族やほかの王族への戒めの意味もあり、再教育を受けながらの地下牢への幽閉処置となった。これから先、地下牢を出ることができるかどうかはわからない。
ローライド侯爵夫妻はティアと一緒に国を出た。ティアは貴族籍を剥奪され、元ローライド侯爵夫妻は貴族籍を返上した。
ルクレツィアはローライド侯爵家を継ぐことを拒否した。そのために、親戚筋から養子を迎えて侯爵家を存続させることとなる。
ローライド夫妻はルミリア王国への、ティアはカイゼリア王国とルミリア王国への入国がこれから先の生涯において禁止されている。
ルクレツィアの母リヘンツィアの生家であるアスティ伯爵家からは、当代のアスティ伯爵 ── リヘンツィアの兄からの書簡が届いた。ルクレツィアの祖父母となる先代のアスティ伯爵夫妻はすでに他界していた。、ルクレツィアのことを心配していたが、侯爵家に遠慮をしていたことを詫びていた。これからはなにかあればアスティ伯爵家を頼ってほしいと記されていた。
ルクレツィアはフローラにリゲルへの気持ちを正直に話した。
「だって相手は悪……堕天使なんですよ?」と、最初は驚いて困惑していたフローラ。
ルクレツィアはミリアッシュに向かうまでにリゲルに助けられたことを話した。「リゲルに出会わなければ、わたしはミリアッシュへもたどりつけなかったと思うの。もしかしたら、生きてさえいなかったかもしれない」
ミリアッシュでも力になってくれたこと、塔に侵入してきた暗殺者からも命を救われたことなども話す。
フローラは声を詰まらせた。「お嬢様……そんな大変な目にあっていたなんて……」
そして最後には「フローラはお嬢様を信じます。ですから絶対に幸せになってください」と、涙を流した。
「お嬢様を不幸にしたら、いくら魔界の大公爵でもフローラが許しませんからね!」
リゲルとカイゼリア王国を発つ日の朝に、コーネリア聖女長がルクレツィアに会いにきた。
少し話したいことがあると言われ、身構えたルクレツィア。コーネリア聖女長は「そんなに警戒しないで大丈夫ですよ」と苦笑する。
王城の庭園をふたりでゆっくりと歩きながら、コーネリア聖女長はルクレツィアに遠い遠い昔、まだ天使と人間の距離が近かった時代の物語を語って聞かせた。
それは一人の人間を愛した天使と、天使を愛した人間の哀しい物語。
「天使は一人だけを特別に愛してはならない。『愛欲』を知れば、天使は天から堕ちるのです」
「それを……どうしてわたしに?」
「どうしてでしょう? ……この歳まで生きていると、余計なお節介を焼きたくなってしまうのかもしれませんね」
コーネリア聖女長はルクレツィアの手を取り、優しい眼差しでみつめた。
「神殿はあなたの敵ではありません。いつでも扉は開かれています」
✧・゜: *
「さあ、ルクレツィア。我が城へと参りましょう」
ルクレツィアを抱きかかえると、リゲルは黒い翼を広げる。翼を大きくひと振りすると、カイゼリア王国の夕闇の空へと舞い上がった。濃いすみれ色に染まっていく宵空に、漆黒の翼はすぐに紛れてしまう。
高い天を縦断して流れる星々の大河は、きらきらと銀色に輝いている。
リアラインの都の灯りも眼下に広がっていた。
ルクレツィアはリゲルの首に腕を回して、ぎゅっとしがみつきながら、蜂蜜色の瞳をのぞいた。
「リゲル、あなたの城へはまだ行けないわ」
「まだ……というと?」
「わたし、この世界のことを好きになれそうなの。……ううん、たぶんもう、好きになってる」
ルクレツィアの紅い瞳からは昏い翳りは影をひそめていた。宝石のルビーのようにきらきらと輝く。
「……」
「だから、もう少し」
リゲルの瞳が近づき、弛く波を打った長い蜂蜜色の髪はルクレツィアの頬にかかる。続くルクレツィア言葉はリゲルの唇に遮られた。
ふっくらとしたやわらかな唇は、ルクレツィアの唇にゆっくりと重なる。
唇から伝わる体温と熱。頬をくすぐるリゲルのやわらかな髪。いつもよりも、もっと色濃い麝香の香り。
ルクレツィアは驚きに目を見開いていた。
リゲルはそっと唇を離す。
「ルクレツィア……。こういうときは目を閉じるものですよ」
蜂蜜色の瞳は天の星のように煌めいた。
「だって……! 突然だし……! そんなこと」
「ほら、もう一度」
顔を真っ赤に紅潮させたルクレツィアに、リゲルは再び顔を寄せた。
「リゲル、待って……ん」
リゲルの熱い唇は、戸惑うルクレツィアの唇に落ちる。
観念したルクレツィアは、ゆっくりと目蓋を閉じた。
「ここまで待ったのです。これくらいはご褒美としてもらってもいいでしょう?」
ひとつになった影はようやく離れる。リゲルは顔を寄せたまま、ルクレツィアの耳元で悪戯っぽく囁いた。
「貴女が望むのなら、もう少しこの世界を楽しみましょう」
「ありがとう……リゲル」
「それに……私は、もうずっと待っていた」
リゲルの呟きは風に消された。
「今……なんて言ったの? 聞こえなかったわ」
流される髪をルクレツィアは片手で押さえる。
「いいえ。なんでもありません。では、ミリアッシュへと帰りましょうか」
「ええ! 帰りましょう」
笑顔のルクレツィアにリゲルは目を細める。
「しっかりとつかまっていて下さい」
「絶対にふざけないでね」
「ふふっ。どうしましょうか」
「やめて! そんなことをしたら城へは行かないから!」
「それは困りますね」
リゲルはルクレツィアの額に唇を落とす。そして漆黒の翼を大きく羽ばたかせた。
✧・゜: *
「おはよう、リゲル」
「おはよう、ルクレツィア。早いですね」
「なんだか目が覚めちゃって。今朝はわたしが朝食を作ってみたのよ」
「ほう……」
厨房の浅い鍋の中には、焼いた卵が二つあった。
「ずいぶんと……カリカリとよく焼いてあるようですね」
「ちょっと焦がしちゃったかも」
「……芳ばしいのは嫌いじゃありませんよ」
リゲルはそれぞれの皿へと盛り付け、ルクレツィアはパンを焼く。
「ルクレツィア、パンの焼き加減はほどほどにお願いしますね」
「わかってます。あ、それと今日はね、フィールとお昼を食べてくるわ」
「『モリーシャの台所』ですか?」
「そうよ」
「私は帰りは夜になります。仕事がありますので」
人間と取り引きをするつもりなのかと、上目でみつめるルクレツィア。「魔界でも公爵は書類仕事が忙しいのですよ」と、リゲルは片目を瞑った。
耳の横で、深い緑色と紺色、薄い黄緑色の硝子ビーズで編まれた髪紐に纏められた髪が揺れた。
玄関の扉を開ける。
春の透明な朝の光にルクレツィアは目を細める。うららかな空気は、冬から溶けだした春の匂いがした。
「リゲルさん、ルシアさん、おはよう」
「おはようございます」
隣家の老婦人は庭で育てていた黄色い花を摘んでいた。一輪をルシアに渡す。
「どうぞ。教室にでも飾って」
「わあ。きれい!」
花を受け取ると「ありがとう」と手を振り、リゲルと歩きだす。
表通りまで出ると「ルシア先生! おはようございます」と、手習い所の子どもたちが走ってルシアを追い越していく。
「おはよう。道は走らないのよ! 人にぶつかっちゃうでしょ」
「はい!」
「はーい!」
わかっているのだか、いないのだか、クスクスと笑い合いながら早歩きで道を行く子どもたち。
(まったくもう……)
ルシアは呆れながらも、口元には笑みが浮かぶ。
一年前のルシアには想像もつかなかった毎日。
今はルミリア王国の王都ミリアッシュで、ルシア・アスティとして生きている。
なにもかもを諦めて感情を凍らせていた、昏く紅い瞳をしたルクレツィア・ローライドはもういない。
今のルシアの瞳は、光を受けたルビーのように生き生きと輝いている。
自分の足で歩き、生活していくということ。
それは自分で働き、自分で食べて、自分で笑って、自分で泣いて、自分で怒り、自分を赦すこと。
そんな当たり前のことだと、世界はルシアに教えてくれていた。
そして……誰かを、自分を愛するということ。
ルシアの歩幅に合わせて隣を歩いてくれる、蜂蜜色の堕天使。
ルシアはリゲルを見上げ、その瞳と目が合うと嬉しそうに微笑った。
ルシアとリゲルにお付き合いくださって、ありがとうございました。




