【18】 侯爵令嬢、とける
「いいえ、ティア。そうじゃないわ。あなたは……かわいそうな人ね」
冷静なルクレツィアの態度と眼差しは、ティアをさらに刺激した。
「はあっ!? わたしがかわいそう? かわいそうなのはお姉さまのほうでしょう? お父様には疎まれて、侯爵家には居場所もなくて! 次期当主なんて世間への体面だけよ! 時がくればお父様はわたしを侯爵家の当主にすると仰っていたわ! お姉さまの元婚約者のカイン殿下だってわたしに夢中なのよ! いつもなにを考えてるのかわからない、辛気臭い顔をした侯爵家の邪魔者でしかないお姉さまよりもね! どうしてそうなったのかわかる? それもこれも全部お姉さまとその母親が悪いのよ! お母様とわたしからお父様を奪った罰よ! お父様とお母様は愛し合っていたわ! 侯爵夫人とその令嬢はお母様とわたしだけだったはずなのに! それなのに……! お姉さまの母親はみじめに死んだわ! お姉さまだって同じよ! 幸せになんかなれないの! なっちゃいけないのよ! それがお姉さまの報いと償いよ! せいぜいその悪魔に魂までむさぼり喰われてしまえばいいのよ!」
ティアはルクレツィアの隣に立つリゲルに指を突きつけた。激情からか、息を荒げて細い肩を大きく上下させている。
「ティア……? 落ち着いて……それに……悪魔? なにを言ってるの?」
ローライド侯爵夫人は激昂する娘を宥め、震える声でティアに尋ねた。その問いにティアはなんの躊躇もなく答える。
「いきなり出てきてお姉さまの隣で薄気味悪くニヤニヤと笑ってるじゃない! その悪魔よ!」
カイン第二王子はティアの指さす先 ── ルクレツィアの隣を確認するも、誰もいない。
「ティア……一体なにを……?」
宰相も宰相補佐と顔を見合わせる。
ローライド侯爵も茫然とした顔をティアに向けた。
「いるじゃない、ほら! そこよ! お姉さまの隣!」
水を打ったように異様な沈黙が大広間に落ちた。
「な、なに? どうしたの?」
ティアの視線は忙しなく大広間を巡る。コーネリア聖女長と目が合うと、ティアは背筋に冷たい水を流されたような感覚を覚えた。
「あっはははははははっ!」
リゲルはもう我慢ができないと、高らかに笑いだす。
「楽しすぎますね。語るに堕ちるとはまさにこのことですよ。お嬢さん」
静まり返った大広間には、耳当たりのよいリゲルの声がよく通った。
「なんなの、あなた!? どういう意味よっ!」
背筋の冷たい違和感を振り払うように、ティアは鋭くリゲルを睨む。
「私は今はね、姿を隠していたのです」
長い指をふっくらとした唇に充てたリゲルは周囲を ── 壇上に座する国王と、その両隣にそれぞれに立つ従者たちを、宰相、宰相補佐、書記官たちを、膝をつき、さらに青醒めてうちひしがれるローライド侯爵とカイン第二王子、怒りに我を忘れたティア、茫然としたローライド侯爵夫人を、コーネリア聖女長、取り巻く近衛騎士たち、最後に悠然と立つルクレツィアを ── 蜂蜜色の瞳に冷酷な微笑みを浮かべながら、ゆっくりと見回した。
「ふふふっ。皆さまはご存じないようですね。姿を隠していても、取り引きをした人間には、その姿は常に視えているのですよ」
リゲルは指をぱちんと鳴らす。
その音と同時に、リゲルの姿はルクレツィアの隣に現れた。傍からは、空中から突然に湧き出たようにも見える。
皆……ティアとルクレツィアとコーネリア聖女長を除いた全員が息を呑んだ。
「そうですよね? コーネリア聖女長?」
リゲルからの確認にも、コーネリア聖女長は驚いた様子はない。「ええ……そのとおりです」と、淡々と、少しの苦味を含めて答える。
「ルミリア王国国王アルネルド三世陛下、ならびに一堂にお集まりの皆さま。お初にお目にかかります。私はリゲル・フォン・アスタロト公爵。四十の軍団を束ねる魔界の大公爵です」
腕を広げて美しく腰を折るリゲル。優雅な礼を披露すると魅惑的に微笑む。丁寧で品のある所作はやはり魔界の高位貴族だ。
禍々しい堕天使の漆黒の翼は畳まれていても、水に濡れたようなしっとりとした光沢は隠せない。
「そこにいらっしゃるティア・ローライド嬢に召還れましてね。カイン第二王子殿下の心をティア嬢の虜にする……という、なんともつまらない取り引きをさせていただきました」
これに慌てたティアは口角をひきつらせた。
「う、嘘よ! わたしはあなたみたいな悪魔なんて知らないわ! カイン殿下! 国王陛下! お父様、お母様! お願いです! どうかわたしを信じてください!」
青色の瞳からは涙がこぼれ落ちた。
「ティアが……ティアがそんなことをするはずがない! この忌まわしい悪魔め! 嘘をつくな!」
カイン第二王子はリゲルの発言に動揺していた。だが、なけなしの気力を振り絞って立ち上がり、なんとかティアの前にかばい出る。
「近衛! 早くその悪魔と魔女を捕らえろ!」
それでもカイン王子の言葉には、近衛騎士長も近衛騎士も、誰も動こうとはしない。
「おやおや。往生際の悪さは私でさえ感嘆するほどに素晴らしいですねぇ。嫌いじゃありませんよ」
愉しそうにリゲルは微笑う。
「……悪魔は人を惑わします。ですが、嘘はつけません」
コーネリア聖女長は壇上の国王アルネルド三世を見上げた。
コーネリア聖女長のその言葉に、いっそう表情を厳しくするも国王は肯いた。宰相と近衛騎士長とに素早く目配せをする。
その合図で近衛騎士たちはティアとカイン第二王子を拘束した。
「きゃあ! ちょっと、なにするのよっ! 触らないでよ! わたしじゃなくて! お姉さまを捕まえてよ!」
「やめろ! なにをする!? お前たち、不敬罪だぞ!」
「カイン。目を醒ますのだ。むしろ……ティア・ローライドがお前のいう魔女なのだよ」
「畏れ多くも陛下……! それはまったくの誤解でございます……! きっとティアもルクレツィアに騙されているのです……!」
「そうです! これはなにかの間違いです! 魔女はルクレツィアです!」
ローライド侯爵夫妻の叫びに、国王は眉間を深く寄せた。
「まだ言うか……ローライド侯爵。私にはルクレツィア嬢は魔女には見えんよ。なぜ、実子であるルクレツィア嬢にそこまで辛く当たるのだ? そなたも人の親であろう?」
「そ、それは……」
ローライド侯爵は唇の端をぎゅっと結んだ。
自分と血は繋がっているのかと疑うほど、ルクレツィアの容姿も声も仕草も、亡き妻であるリヘンツィアに瓜二つだった。
一方のティアは、自分の瞳と愛しい女性の髪色を受け継いでいた。最愛の女性と愛しい娘。彼女たちには日陰者の生活を送らせていながら、家のために望まない結婚を強いられた名目上の妻とその子どもは、何不自由もなく大手を振って生活をしている……。
(犠牲になったのは、自分と最愛の彼女と娘だ)
いつしかローライド侯爵の心には、そんな歪な考えが蔓延っていった。
「過去には拭えぬ因縁があったかもしれぬ。しかし、それは受け入れた者たちの責である。子であるルクレツィア嬢やティア嬢には、本来ならば関係のないことであったはずだ。ローライド侯爵家が先代までに培った王家からの信頼を失墜させたその方たちの行為。……非常に残念だ。私には……そなたたちのほうが悪魔に見える」
国王は一度、言葉を切る。それから近衛騎士長に厳命した。
「ローライド公爵夫妻を連れて行け。カインとティア嬢は裁判まで別々の搭の地下牢に拘束しろ。ローライド侯爵家にも監視を置くのだ」
「陛下……! そんな! お待ちください……! 話を、話を聞いてください!」
「陛下! これはなにかの間違いです! ティア! ティア……!」
「待ってください! 待って……! 陛下! 父上! 父上! ティア……!」
「いやぁ! 離して! カイン殿下! お父様! お母様……!」
カイン第二王子とティア、ローライド公爵夫妻は必死に抵抗しながらも、近衛騎士たちに大広間から連れ出されていく。
その光景を目の当たりしてフローラの肩は震えていた。
ルクレツィアは紅い瞳でただ眺めていた。
泣き叫び連行される彼らを見ても、なんの感情も湧いてはこなかった。
(わたしは……冷たい人間なのかしら?)
「お嬢様……」
フローラの細かく震える手がルクレツィアの両手をそっと包んだ。
「お嬢様は……もうこれで、本当に自由ですね」
(自由……)
温かい手だった。
フローラの目尻からこぼれた涙の一滴だけ、ルクレツィアの手の甲に落ちる。
フローラの涙から伝わってくる温かな何か。それはルクレツィアの胸の奥へと沁みていく。
パキン ──
氷の割れる音がした。
(あ……)
今まで胸の奥に仕舞いこんでおくしかなかった、凍った冷たい塊。それを覆う厚い氷が今、完全に割れた音を聞いた。
氷の中に閉じ込められていたルクレツィアの感情は、激流となって、一気にルクレツィアの身体中に迸ってくる。
胸の奥から止めどなく、噴き上げる水のようにあふれてくる何か。
ルクレツィアの視界が歪んだ。
紅い瞳からはぽろぽろと涙があふれてくる。こぼれ落ちた涙の雫は次から次へと頬を伝う。
(わたし……?)
ルクレツィアは涙だけを流して泣いていた。声も上げずに。
何が悲しいのか、何が嬉しいのか、何が辛かったのか、何が許せなかったのか ── そのすべての感情に対して涙があふれた。
ルクレツィアの胸の奥に閉じ込めていたもの、そのすべて ── それが涙となって流されていった。




