【14】 侯爵令嬢、帰国する
王都リアラインに到着すると、王城の離れの塔に馬車は案内された。
この塔で数日ほど旅の疲れを癒してから、宰相との面会になるという。
(カイン第二王子殿下の下した処分を取り消すのかしら? それとも正式な裁判にかけられる?)
ルクレツィアはため息をつく。
国境の砦からの、生き延びられるのかどうかも定かではなかったルミリア王国への追放。リゲルと出逢い、ミリアッシュでは手習い所の教師という働き口もみつかった。フィールやレジー、サイラスという同僚にも恵まれて、子どもたちの「ルシア先生!」と慕ってくれる笑顔や笑い声もすでに恋しい。
ルクレツィアの心は、ミリアッシュに置いてきぼりにされたままだった。
そして……。
(リゲル……)
近衛騎士たちが訪ねてきた粉雪の降る朝。
玄関の扉を開けたはずのリゲルの姿は、気がついたときには消えていた。まるで日向の雪が跡形もなく溶けてしまうように。部屋のどこにもその姿はなかった。
あれから……ルクレツィアの前に姿を現さない。
(魔界へと還ってしまったのかしら……。なにも言わずに……)
ルクレツィアはまたひとつ、深いため息をついた。
✧・゜: *
ルクレツィアからも詳しい話を聴くために、カイゼリア王国宰相、リカルド・ガストン公爵は塔へとやってきた。
悪魔を召還だしたことも、取り引きをしたこともない。完全に「無実の罪」だと、ルクレツィアはそう宰相に話した。
宰相は「ふむ」と眉根を寄せる。
難しい表情を最後まで崩さずに「近日中に、双方の正式な陳述を記録するために、予備審問会を開くことになるだろう。裁判を開くか否かはそれ次第だが……」と、ルクレツィアに告げた。
ルクレツィアは「はい」と答える。
もともとルクレツィアには悪魔を召還だして取り引きをした、などという事実はない。すべてはティアの捏造したこと。裁判が開かれようがその身は潔白だ。なにも恐れることはない。
(だけど……)
気がかりなのはリゲルのこと。
ルクレツィアの心には堕天使の面影が宿る。
出逢ったときには思いもしないことだったが、今は……。
ルクレツィアは蜂蜜色の悪魔の迷宮に、知らず知らずのうちに迷い込んでしまった小鳥のようだった。
✧・゜: *
ルクレツィアはカイン第二王子に「魔女」と告発されていたために、被告発者という扱いになる。
塔での生活は事実上の軟禁だった。それは追放された事情が事情であるための、ルクレツィアに対する保護措置でもある。
塔に出入りすることができるのは、ルクレツィアの身の回りの世話をする二人のメイドだけ。ルミリア王国にもどってはきたものの、フローラたちにも会うことはできなかった。
塔の入り口には深夜でも早朝でも、常に二人の護衛騎士が歩哨に立っている。
塔の中でのルクレツィアは退屈な日々を過ごしていた。手慰みに刺繍を刺し、飽きると本を読む。天気のよい朝には塔を降りて、塔の周囲だけをメイドと護衛騎士と歩く。
侯爵邸にいたころと変わらない生活なのに、すでにそれは、ルクレツィアの求めるものではなくなっていることに気がついた。
予備審問会はいよいよ明日に迫っていた。
その日の深夜 ──
キィィ……
ルクレツィアの部屋は石階段をのぼりきった先の塔の最上階にある。その部屋の窓を開ける軋んだ音が微かに闇に混じった。
開け放たれた窓からは、冷たい冬の夜気が室内へと流れ込んでくる。暖炉の中の赤黒い小さな炎は、赤い舌を大きく空中へと伸ばした。
(うぅん……?)
ルクレツィアは頬を撫でる冷たい空気と炎の明るさに、ぼんやりと瞼を開く。
まだ意識の半分は眠っていた。だが、暖炉の炎に照らされて壁に映った影を認めると、紅い瞳を見開いた。
考えるよりも先に本能が身体を動かす。
掛けていたブランケットごと寝台を転がり落ちる。
その瞬間に ── 空を切る音とともに、寝台にナイフが振り下ろされた。
銀色の刃は炎を反射して冷たく光る。ナイフは枕を切り裂き、白い羽毛が宙に舞った。
まるで時が一秒一秒ゆっくりと流れるように、ルクレツィアはそれを見た。
「ちっ……!」
襲撃に失敗するとすぐさまにナイフを抜き、もう一度、ルクレツィアに向けて腕を振り上げる。
(暗殺者?!)
状況をはっきりと理解すると、ルクレツィアは混乱と怯えに身体が萎縮してしまった。ぶるぶると震える足には力が入らない。立つことができない。
(リゲル……!)
銀色の刃が迫る瞬間に瞼をきつく閉じた。
最期に浮かんだのは、蜂蜜色の瞳を細めて微笑むリゲルの姿。
そのときに ──
「お待たせいたしました。私のルクレツィア」
ルクレツィアの耳元に、ふわりと囁く声があった。
波を打った蜂蜜色の長い髪が目の前で大きく跳ねる。
「……!?」
突然にルクレツィアの前に現れた青年に、暗殺者はすぐさま後方に飛び退く。一瞬だけ動揺したようにみえたが、素早くナイフを構え直し、鋭く腕を振り下ろす。
「まったく……不粋ですね」
リゲルは慌てる様子もなかった。
振り下ろされたナイフの切っ先を易々と指で挟む。そしてそのまま、熟れた桃でも潰すようにして、グニャリと刃を折り曲げてしまった。
「お前……私のルクレツィアに手を出したらどうなるか……その身をもって知るがいい」
刃よりも鋭く、心臓まで凍りつかせるほどに冷たい声。
それと同時に「ぐぎゃっ!?」と、喉を潰されたような暗殺者の呻き声が交差する。
部屋の暗闇よりも昏い業火が一気に燃え上がり、暗殺者の身体を包み込んだ。
カシャン。
わずか瞬きほどの間の出来事。
主の腕を失った切っ先の歪んだナイフを、リゲルは興味を無くしたとばかりに無造作に床に放り棄てる。
(一体、なにが……?)
そこにはもう、暗殺者の姿は影も形もない。
「怪我はありませんか? ルクレツィア?」
振り向いたリゲル。
立ち上がることすらできずに、床に座り込んでいたルクレツィアに手を差し出した。
「リゲル……。本当にリゲルなの?」
ルクレツィアの声は細かく震える。
「はい」
蜂蜜色の瞳は妖艶に輝った。リゲルはルクレツィアの前に跪き、手を取る。
「リゲル・フォン・アスタロト公爵、聖女の結界をすり抜けて貴女の元に参りました。貴女が私を強く望んでくださいましたので」
ルクレツィアの手の甲に、リゲルのふっくらとした温かな唇が落ちた。ルクレツィアの指はぴくりと揺れる。
「もう……魔界に還ってしまったのかと思ったわ」
「まさか! 私があなたを残して還る理由がありません」
蜂蜜色は蕩けるように、深く濃い色を増していく。
「……リゲル」
命の危機を脱した緊張が解けた安心感と、リゲルに再び逢うことができた安堵感。ルクレツィアの紅い瞳からは、涙の雫がぽろりとこぼれた。
「ルクレツィア……」
リゲルはルクレツィアの肩に両腕を回すと、その胸にゆっくりと抱き寄せる。
リゲルの体温と、ほのかに香る麝香の懐かしい匂いがルクレツィアを包み込んだ。
「怖かった……怖かったの」
思わず口の端からこぼれてしまった言葉に、ルクレツィアの感情は堰を切ったように一気に溢れだした。
リゲルの胸に抱かれて嗚咽し、しゃくりあげながら、背中に必死にしがみつく。涙は止めどなく流れて、感情を抑えることはできなかった。
「もう大丈夫ですよ」
髪を撫でられ、背中をゆっくりと擦ってくれる大きな手。繰り返し囁かれる護りの言葉。
どのくらいの時間が過ぎたのか。
ルクレツィアは次第に落ち着きを取りもどしていった。
「ありがとう……リゲル」
ルクレツィアはリゲルの胸から顔を上げると、リゲルの頬がルクレツィアにそっと近づいた。
ルクレツィアの頬を伝う最後の涙を、リゲルは唇でぬぐった。
「ちょっ……!? なにするの?!」
慌てたルクレツィアはぐいっとリゲルの胸を押しもどす。
「ふふっ。ご期待に添えなくて申し訳ないですが、あとは婚礼のあと……初夜までのお楽しみにとっておきましょう」
「な、なに言ってるの!?」
真っ赤になってうつむいたルクレツィアに、リゲルは満足そうに微笑んだ。




