【12】 侯爵令嬢、風邪をひく
手習い所からルシアに支給される賃金は、贅沢をしなければなんとかミリアッシュでも生活をしていけるくらいのもの。
ルシアはミリアッシュにやってきたときの宿代と服代、借りている家の家賃、食費などをリゲルに返そうとした。だが、頑としてリゲルは受け取らない。いつもの「私の花嫁ですので」というわけだ。
リゲルに借りをつくりたくはないが、受け取ってもらえなければどうしようもない。
(どうしたらいいのかしら?)
思案に暮れていると、手習い所の少女たちの間に流行しているあるものを、ふと思い出した。
通ってくる子どもたちのなかに、シシリーという少女がいる。彼女の家は絹糸を扱っている商家であり、砂漠を越えたはるか遠い国とも取り引きをしていた。
シシリーはあるときに、複雑で不思議な模様に編まれている紐を髪に巻いていた。
子どもたちは珍しがって「それ、きれいね。どうしたの?」と訊く。するとシシリーは「自分で編んだの」と答えた。それ以来、手習い所の少女たちの間では、シシリーに編み方を教えてもらった、不思議な模様の髪紐が流行していた。
サイラスによると不思議な模様は「幾何学模様」というらしい。
ルシアはシシリーと子どもたちに編み方を習うことにした。
シシリーたちは「わたしたちがルシア先生に教えるなんて、なんだか楽しい!」と、にこにことはしゃぎながら快く編み方を教えてくれた。
ルシアは深い緑色と紺色の絹糸を用意すると、糸を丁寧にくくって模様を編む。途中に薄い黄緑色をした硝子のビーズも織り込んでいく。とても手間と時間のかかる作業だった。ルシアはリゲルに見つからないように、毎日こつこつと丁寧に作業を進めていった。
灰色の空からは時おり湿り気のないさらりとした、ルシアの髪の色のような白銀の雪が石畳へと舞う。
季節はすでに冬へと移っていた。
ミリアッシュの冬はカイゼリア王国の冬よりも空気が乾燥している。
最近は手習い所でも体調を崩して欠席する子どもが多い。
ルシアも寒さのせいか乾燥した空気のせいか、喉の調子がおかしい。ここ数日は咳が出ることもあった。
(よし、できたわ!)
ルシアは毎晩眠る前に、寝台の横の机にランプを灯して髪紐を編んでいた。編むことに慣れていないうえに複雑な模様のために、二ヶ月ほどの時間がかかってしまった。
最後の糸をくくると、ほどけてしまわないように、すべての絹糸をまとめてしっかりと結んだ。
結び目のあとに伸びる余分な糸を切る。
ようやく今夜、リゲルに贈る髪紐が完成した。
ルシアはランプの灯りに髪紐をかざす。
リゲルのふんわりとした蜂蜜色の髪を引き立てるように、絹糸は深い緑色と藍色を選んだ。華やかな雰囲気に合わせて、黄緑色の硝子ビーズも織り込んだ。ランプの灯りが黄緑色のビーズをうっすらと透かすと、ビーズの中に淡い光が宿るようだ。
ルシアはこの髪紐で髪を結うリゲルの姿を思い浮かべた。
(気に入ってくれるかしら……?)
そんなことを考えてしまい、すぐに頭を振る。慌ててその考えを打ち消した。
(違う、そうじゃないわ。これはただのお礼なんだから……!)
ルシアはちいさなため息をついた。
丁寧に小箱へと髪紐をしまう。そして、小箱を机の引き出しの奥へと押しやった。
✧・゜: *
「ルシア? どうしました? 朝食はできていますよ?」
翌朝にルシアは起きてこなかった。
いつもならとっくに朝の準備も終わり、テーブルについている時間。
なかなか起きてこないことを心配したリゲルは、ルシアの部屋の扉を叩いた。
ルシアからの返事はない。
「ルシア? 開けますよ?」
不審に思って扉を開けると、ルシアは寝台の上で苦しそうに呼吸をしていた。
「ルシア!」
慌てたリゲルが寝台に駆け寄り、ルシアの額に手を載せた。頬は火照り、呼吸は荒い。
「……熱いですね」
リゲルの手のひらは冷たくて、熱い肌にしっとりと吸い付く。
うっすらと瞼を開けたルシアは「喉が痛いの」と、掠れた声で答えた。
「最近は人間たちの間で風邪が流行っているようですからね。あなたも咳が出ていましたし……。熱もあるようです。治るまでゆっくりと寝ていてください。手習い所には連絡をしておきますよ」
「ありがとう……リゲル」
「どういたしまして。あとで食べやすいやわらかなパン粥でもつくりますね。薬草茶も淹れましょう。今は少しお休みなさい」
リゲルは寝台の縁に腰をかけると、ルシアの銀色の髪を優しく撫でた。
自分のことを気にかけて、心配してくれるリゲル。その気持ちはくすぐったくも、危険な感情だということは解っている。それでも熱を発して辛い身体には、安らかな心の安寧をもたらした。
ルシアは母であるリヘンツィアに、幼いころは「わたしの可愛いルクレツィア」と呼ばれていた。髪を梳かすように撫でられて、ふんわりと抱きしめてくれた母。そのことをふと思い出す。
ルクレツィアと名前を呼ぶ愛情に満ちた声、温かくやわらかな母の腕、髪の香油の甘い香り、穏やかで優しい眼差しと微笑み。それらは永遠に失われてしまった母の面影たちだ。
もうあのころのように、「わたしの可愛いルクレツィア」と呼んでもらうことは叶わない。今となっては遠い、在りし日の幻の影になってしまった。
幼いルクレツィアは母の胸に抱かれて、たしかに幸福に包まれていた。
(懐かしい……お母様)
閉じた瞼の縁に涙が滲んだ。リゲルは親指の腹でそれを掬いながら囁く。
「大丈夫ですよ。あなたには私がいます。ずっとそばにいます」
ルシアの髪を撫でながら、リゲルの唇からは子守唄が紡がれる。その旋律はどこか懐かしくてもの哀しい。
(この唄……前にも歌ってくれた……)
リゲルの子守唄に導かれるように、ルシアは眠りの底へと落ちていった。




