【11】 侯爵令嬢、家を借りる
その夜に宿の部屋へともどってきたリゲル。
ルクレツィアはリゲルに、ルシアとして手習い所の教師の職を得たことを伝えた。
「だからこれからは、わたしのことは『ルシア』って呼んでほしいの」
「ルシア……ですか。それはそれで可愛らしい。まあ、名前などは個人の本質にはなんら影響はしませんからね。私はあなたがルクレツィアでもルシアでもどちらでもよいのです。この気持ちに変わりはありませんから」
「……そういう話じゃないのよ」
リゲルはルシアの呆れた視線を受け流した。
「ところで私もルシアに報告があるのです。手頃な部屋を探してきましたよ」
どうやらリゲルは「仕事」とやらの合間に、これからルシアが住む部屋を探してくれていたらしい。
候補は二つ。
今の宿屋からほど近い裏通りにある、煉瓦造りの建物の二階の部屋。
もうひとつは王都の端の壁に近く、小さな庭のある石造りの家。
「本当は王都で部屋などを探さずに、私の魔界の城へと来てほしいのですが……」
潤んだ蜂蜜色の瞳をルシアに向けるリゲルの呟きを、今度はルシアのほうが素知らぬ顔で聞こえていない振りをした。
翌日 ──
手習い所の仕事を正午に終えたルシア。リゲルに案内をされて、これから住むことになるかもしれない部屋を見てまわった。
まずは裏通りにある、煉瓦造りの建物の二階の部屋。
(ここなら手習い所からも近いわ。でも、少し陽当たりが悪いかしら?)
なかなかに風情のある建物だった。だが、裏通りに建てられているために、表通りの高い建物に陽を遮られてしまう。陰になってしまうことでこもる湿気が少し気になった。
「どうですか?」とリゲルに訊かれて、そのままを答える。するとリゲルは「その陰があるのがいい感じなんですけどね」と、残念そうに肯いた。
次は王都の端の壁に近く、小さな庭のある石造りの家。
庭と玄関は南側に面していて、明るい陽光が窓から室内へと差し込んでいる。
家が温かく迎え入れてくれたように感じて、ルシアは一目で気に入った。
平屋造りの家は、玄関から入るとすぐに食堂と厨房があり、奥には二部屋がある。食堂には使い込まれて木材の風合いが増したテーブルと椅子が残っている。手洗い場などは厨房の奥に設えてあった。それぞれの部屋は広くはないものの、一人で住むのには丁度よい広さと間取りだ。
(手習い所からは少し遠くなってしまうけど……でもここがいいわ!)
「わたし、ここに住みたいわ」
家の中を楽しそうにひととおり歩きまわり、跡をついてくるリゲルに振り返ってそう告げる。
「あなたならこちらを選ぶと思いました」
肩を竦めたリゲル。リゲルなりに、ルシアが気に入りそうな家を探してくれていたらしい。
「あの……ありがとう」
蜂蜜色の瞳から視線を逸らすと、照れくさそうに感謝を口にしたルシア。
リゲルは瞳を細めて「どういたしまして」と微笑んだ。
✧・゜: *
「……どうして?」
「なにがですか?」
食堂のテーブルを挟んでリゲルと向かい合って座るルシアは、戸惑いを飛び越えて、むしろ困惑していた。
ルシアはその日のうちに石造りの家に移ってきた。引っ越しとは云っても、大きな荷物などはなにもない。せいぜいが手荷物ひとつ。着替えの服くらいだ。生活に必要な雑貨などは、これから徐々に買い揃えればいいと考えていた。
それなのに一度宿に帰って部屋を引き払い、荷物を持ってもどってくると、厨房には鍋や料理道具が揃えられ、食器棚には二人分の皿や、カトラリー、ティーカップなどが並べられている。奥の部屋にはそれぞれに寝台が運び込まれていた。
(これは……まさか?)
嫌な予感にリゲルを振り向くと、満足そうに微笑んでいた。
「とぼけないで。どうしてあなたも一緒に住むの?」
ルシアの問いにリゲルは、質問の意味が分からないというように首をかしげる。
「どうしてとは? ……婚約者としては当たり前のことですよ。愛しいルシアを王都にひとりで住まわせるなんて、そんな危険なことはできません」
(リゲルと一緒のほうが危い気がするけど?)
涼しい表情のリゲルにルシアは心の中でため息をつく。
「それに……あなたは『これからはルシアと呼んで』と私に言いました」
内密の話をするように声をひそめて、テーブルに身を乗り出したリゲル。テーブルの上に揃えていたルシアの手に自分の手を重ねる。
絡めとるようにじっと紅い瞳を捕らえると、確かめるように囁く。
「それはつまり、これからも一緒にいるということです」
リゲルの瞳が艶を含んで流れると、ルシアの頬にかっと赤味が差す。
「そ、それは無意識で……!」
「それなら尚いいですねぇ。無意識にでも私を求めてくれているとは」
「求めていません!」
ルシアの手を握るリゲルの手にきゅっと力がこもる。ルシアがその手をはずそうとしても、握り込まれていてはずすことは出来なかった。
✧・゜: *
ルシアがミリアッシュに流れ着いてから、早くも半年ほどが過ぎた。
ルシアは手習い所で正午まで働き、子どもたちに貴族相手の礼儀作法や所作を教えている。ルシアの授業は評判がよかった。実際に貴族との商談に同席した手習い所に通う子どもの見事な作法や所作に、取り引き相手の貴族が驚いたらしい。
フィールとレジーとサイラスともうまくやっていた。
フィールは職場の先輩でもあり、善き友人でもある。仕事が終わったあとは、たまに『モリーシャの台所』で一緒に昼食を食べる。『もってのほかの山の茸載せスタミナ肉』『海の藻屑の波乗り焼き』などなどの名前からは、想像することすらできない料理名が並ぶメニュー表。それを二人であれやこれやと想像しながら頼むことも楽しかった。
初めて『モリーシャの台所』の扉をリゲルとくぐったときに案内してくれた給仕の娘とも、今ではすっかり顔馴染みとなっていた。
レジーは見たままの豪快な性格をしており、子どもたちに人気があった。昔は商隊に所属していて、ラクダで砂漠を渡ったり、商船に乗って海を駆け回っていたらしい。今は孫も生まれたことから、ミリアッシュに腰を据えていた。
サイラスは一見すると神経質で気難しいようにもみえる。もちろんそういった気質もあるのだが、細やかに周囲を観察している。誰かになにか困ったことや不具合が起こると真っ先に気がつき、子どもたちだけでなく、ルシアたちにも声をかけてくれた。
リゲルとの関係にもこの半年の間で変化があった。
結局はルシアの許可を得ないままに、リゲルは勝手に家に住み着いていた。
「だってあなたは料理はできないでしょう?」と、朝と晩にルシアの分の食事もつくってくれる。どこで習得したのか、ナイフや鍋の扱いも見事なものだった。ルシアはリゲルの隣で食材を洗ったり味見を手伝いながら、少しずつ手順を覚えていった。今では簡単な料理ならつくることができる。洗濯も家の掃除も庭の手入れも、カイゼリアの侯爵邸にいたころには考えられないことだった。
リゲルはいつも朝食後はルシアを手習い所にまで送ってから「仕事」とやらに出かけ、夕方にはもどってくる。
ルシアは隣人やフィールたちには、二人の関係は「兄妹」と説明していた。
外面と愛想のよいリゲルは、フィールには「理想の兄」と、レジーとサイラスには「溺愛がすぎる」と認定されている。
ルシアの手習い所の仕事が休みの日には、リゲルと一緒に市場をまわった。
ミリアッシュには近隣諸国の織物や工芸品、武具、装飾品、食材などの珍しい品が集まってくる。それらを眺めたり屋台の食事を楽しんだりした。フィールたちから教えてもらったミリアッシュの名所などを回ることもある。
気持ちのよい風がある新月の宵には、ミリアッシュを抜け出してリゲルと空の散歩をする。リゲルは空中の散歩が好きだった。相変わらずにルシアは高所は苦手なのだが、リゲルとの空中散歩は嫌いではなくなっていた。
「絶対に落としません。安心してくださいね」
リゲルはしっかりとルシアを抱く。ルシアは「絶対にふざけないでね」と何回も念を押す。
リゲルの首に腕を回し、ぎゅっとしがみつくルシア。
「行きますよ」
漆黒の翼を大きく羽ばたかせると、深い紫色の空に舞い上がる。
太陽を地平線に隠した夜空は、刻一刻とその輝きを星にゆずっていく。
眼下にはミリアッシュのランタンが灯り、王都の夜の喧騒を浮き上がらせている。空を見上げれば、星々は銀や青や赤色の輝きを放ち、まるで空を渡る大河のようにきらきらと静かに煌めいている。
「きれい……」
「ええ、本当に」
漆黒の翼は宵の闇に熔けていく。
リゲルは蜂蜜色の瞳を細めると、愛おしそうにルシアを見つめるのが常となっていた。




