【10】 侯爵令嬢、働く
「おはよう。ルクレツィア」
ルクレツィアの瞼にとどいた朝の光に目を覚ます。
いつの間にかリゲルは部屋にもどっていた。
「昨夜はすみません。私がいなくて寂しい思いをさせてしまいましたね」
カーテンを開けた窓から差し込む朝陽を浴びて、出窓に腰をおろしている。蜂蜜色の髪や瞳は透明な光を受けて、美しく澄んで輝いていた。
寝台から起き上がり髪を整えるルクレツィアは、朝陽の眩しさに目を細める。
「おはよう。魔界に帰ったのかと思ったわ」
「まさか! やっと貴女を手に入れたのです。諦めるわけがないでしょう?」
「やめて。手に入れたなんて」
「おやおや。約束を忘れてはいけませんよ」
人差し指を唇に充てて首をかしげるリゲル。やわらかな所作はとても優雅だ。悪魔とはいえ、さすがは魔界の公爵だと納得してしまう。
眩しいのはカーテンを開けた窓から差し込んだ朝陽だけのせいではない。ルクレツィアはそのことに気がつくと、この危険な考えを頭から追い払おうとした。
(リゲルは悪魔よ。魔界の公爵になった堕天使なの。城に連れていかれたら……どうなるかわからないのよ? ルクレツィア、しっかりして)
「どうかしました? 具合でも悪いのですか?」
出窓から降りたリゲルは、黙り込んでしまったルクレツィアの額に冷たい手をおいた。
「ふむ。熱はないようですが……」
「……大丈夫よ。なんでもないわ」
「そうですか……」
リゲルの手を振り払おうとして、ふとその手がとまる。
リヘンツィアが亡くなってからこれまで。フローラたち以外には、ルクレツィアを心配してくれる者などいなかった。
宿でパンとスープの簡単な朝食を摂ったあと。
リゲルは「すこし仕事がありますので」と、どこかへと出掛ける準備を始めた。
リゲルの云う「仕事」とは、人間と取り引きをして魂を捕ることだろうか。
ルクレツィアは思わず眉をひそめる。
「私も忙しい身ですので。寂しいかとは思いますが、夜までは我慢してくださいね」
微笑みながら片目を瞑ったリゲル。
「魔界へ帰ってくださっても全然かまいませんけど」
ルクレツィアはつんと横を向いた。
✧・゜: *
「ルシアさん。教室で子どもたちに貴族相手の礼儀作法を教えてみませんか?」
朝食を済ませてから向かった職業紹介所から紹介されたのは、平民の子どもたちが通う手習い所の教師の仕事だった。先月に今まで教えていた教師が退職したらしい。歳のために引退をしたのだ。手習い所はその教師の代わりの人員を探していた。
(わたしが家庭教師に教わったように、所作や作法を教える……。それなら働いた経験のないわたしにもどんな仕事か想像がつく。……できるかもしれないわ)
ルクレツィアはそう考えると、二つ返事で引き受けた。
さっそく手習い所の教室へと案内される。
職業紹介所からはそう遠くない路地を入った建物に教室はあった。
教室に通ってくる子どもたちは、この王都で商売をしている商人の子どもたちがほとんどだ。やはり将来は家や親の跡を継いで、商人として身を立てる者が多い。そのために必要な最低限度の知識は読み書き計算と、貴族を相手にしたときの礼儀作法だ。
そこでルシアに白羽の矢が立った。
貴族出身で読み書き計算ができ、作法も教えられる。周辺諸国の言葉も話すことができるルシアは適材だと判断されたようだった。
「ルシア・アスティです。よろしくお願いします」
職員に紹介されて挨拶を終えると、隣の机に座っていた女性がルシアに手を差し出した。
「私はフィール。なにか分からないことがあれば訊いてね。まぁ、最初は分からないことだらけでしょうけど。これからよろしくね、ルシア」
ルシアの先輩で同僚にもなるフィールは、そう言って片目を瞑った。
焦げ茶色の髪を後頭部で高く結っている。大きな瞳は髪色と同じ焦げ茶色だった。快活な雰囲気を持ち、歳はルシアよりもいくつか上のようだ。
フィールの目の前の机に座っているのは、白髪の混じった髪を短く刈り込み、よく陽に焼けた褐色の肌に額の皺も深い大柄の男性。
「俺はレジーだ。これからよろしく!」
豪快に笑う低い声は声量もある。
レジーの隣の机にいるのは、片眼鏡をかけた細身の青年だった。神経質そうな仕草で肩までの黒髪を耳にかける。
「よろしく。私はサイラスです」
手習い所の教室に通うことができるのは十三歳まで。
教師はルシアを含めて、フィールとレジーとサイラスの四人。
フィールは外国語、サイラスは計算、レジーは読み書きなど。それぞれに教える担当を持っていた。ルシアは作法や所作を教えることになる。
初日の今日はまずはフィールについて、教室の雰囲気と子どもたちに慣れてほしいとのこと。
しばらくの間はフィールの補助として、教えること以外の手習い所の仕事も覚えることになった。
手習い所の授業は正午には終わる。
子どもたちは午後にはそれぞれに、家業の仕事を手伝っているからだ。
授業が終わると数人の子どもたちが「ルシア先生!」と周りに集まってきた。
「ルシア先生の髪と瞳の色ってルミリアじゃ珍しいよね!」
「カイゼリアの人ってみんなそうなの?」
「先生って貴族の出身って本当?」
好奇心いっぱいの瞳をキラキラとさせて、口々にルシアに質問を浴びせる。
「ええと……」
カイゼリア王国の侯爵邸に暮らしていたときには、できるだけ感情と表情を抑えることを常としていたルシア。だが、ここ数日はどうだろう。
カイン第二王子に婚約を破棄されて国を追放され、国境の砦では騎士たちの温情に救われ、わけもわからずに憑かれた悪魔のリゲルには振り回されて、たどり着いた場所はルミリア王国の王都ミリアッシュ。追放も案外と悪いことばかりではないと思えたり、手習い所で礼儀作法や所作を教えることになったり。今は子どもたちの笑顔に囲まれている。
子どもたちの表情にはルシアのような翳りはなく、真っ直ぐな力強さを感じる。
(わたしも……こんなふうに変われるのかしら?)
冷たく固い氷に包まれて、ルシアの心の奥にそっと仕舞われていた感情。この数日間の思いもかけなかった体験に、その氷の表面がパキっと音を立てて、ひび割れたような気がした。




